[ホームページ] へ戻る

5.交野郷土史かるた

こちらでは、一部だけを紹介しております。
全ての交野郷土史かるたは、こちらをクリックして下さい。

清少納言 枕の草子に野はかた野
平安時代の歌人で一条天皇の中宮に仕えた清少納言はその随筆枕草子で、 野はかた野が一番だと交野の自然の素晴らしさを鋭い感覚で簡潔に言い切っています。

秀吉の 力もおよばぬ 舟形巨岩

天の川の上流の磐船峡は、数多くの岩が露出している。中でも磐船神社の御神体といわれる船形の巨岩は、かってこの地に勢力を張っていた肩野物部氏(かたのもののべし)が「饒速日命(にぎはやひのみこと)が渡来したときに用いた磐樟船」として崇拝したといわれています。
磐船神社の御神体

こうした降臨伝説を物語るように、平安時代から交野の村々では、海の守護神である住吉三神を祭神とする氏神信仰が盛んであった。
巨岩は横18M、高さ12Mもあり、神殿に覆い被さるように大船の舳先(へさき)を南に向けて座しています。

時代は下り、豊臣秀吉が大阪城を築くにあたって、諸侯を督励して巨岩を運ばせたことはよく知られている。
その際、加藤清正が石屋に命じて岩を割ろうとしたのですが、石から血が流れ出した為、思いとどまったといわれている。
神の宿る巨岩にまつわる説話としても、よくできたストーリーではないでしょうか。
(かたの広報より)


京へ五里 大阪へも五里
京へ五里  大阪へも五里

いまは、あらゆる情報があふれ、世界のどこからでもリアルタイムに最新情報をキャッチすることができます。
しかし、我が国では、19世紀まで生活必需品の多くは船や牛馬によって運ばれ、耳寄りな話は人の口から口へ伝えられていたのです。
だから、交通の便の善し悪しで情報伝達の遅速が生じたのです。

京都と大阪の中間に位置した交野地方は、人の往来がひんぱんでしたから、必然的に各地の話題がもたらされ、珍しいものが伝達されました。

交野は京都と大阪へ夫々20キロ離れ、中間点に位置していたことが、かえっていずれの文化圏にも偏ることなく、独特の文化を醸成させたのではないかと見られています。

古くは、宮廷人の遊猟の場や和歌作りの吟行の地として脚光を浴びていました。
また、星を崇めた都人の思いが伝承されていることも周知の事実です。
稲作文化の伝来や天の川沿岸の条里制などは、交野市が誇ることが出来る文化遺産です


北田家 門長屋 大きな構えは 代官屋敷
代官屋敷といわれる北田家

私部(きさべ)1丁目に(交野市役所より南に5分) 江戸時代の代官屋敷といわれる北田家がある。
約4000平方メートルの広い敷地に、長さ56メートルの白壁作りで大きな構えの門長屋が続くおもむきは豪壮です。

母屋の玄関が上手に突き出た形式は全国にも数少なく、約300年前の貴重な建物として国指定重要文化財になっています。
北田家所蔵の系譜をたどると、南北朝時代の武将・北畠顕家につながります。 代官屋敷といわれる北田家

南朝没落後、足利家の世となったのを機に民間に下り、その姓をはばかって「北畠」の白を除き、「北田」と称したといわれます。

関ケ原の戦いの後、徳川家康が天下を統一し、幕藩体制をしいたのに伴い、元和5年(1619)、畠山の子孫・旗本畠山修理太夫が、私部の3分の2を所領します。
地検高は、1077石2斗7升、田畑合わせて96町2反9背10歩とありましたが、実際は17町5反が荒地で、米の収穫はできず、代官所の台所は苦しかったようです。

先年、NHKテレビで放送しました「毛利元就」は、室町時代末期の中国地方での戦乱ですが、そのころ畿内でも群雄割拠し戦が絶えませんでした。


交野市史、交野市制25周年記念誌、交野広報の資料を参考

[ホームページ] へ戻る