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ふるさと発見

交野の祭り

  交野古文化同好会
第38回 交野市文化祭 展示総まとめ
 はじめに
 
 “祭り”とは、感謝や祈り、慰霊のために神仏及び先祖を祭る行為(儀式)です。
 小さな町の祭りから全国的な有名な祭りまで多数あります。日本の祭りは稲作儀礼を中心とし、その年の農耕を始めるに先立って行われる春の祈年祭、収穫を終えて田の神を再び山に送る秋の感謝祭が主な儀式として伝承されてきました。
 大阪においては日本三大祭の一つ天神祭りが有名ですが、「我がふるさと」交野でも毎年各地区で古くから伝わる“祭り”開催されています。
 渡御行列にだんじりの曳行、神輿、獅子舞・・・・。響き渡る太鼓や鉦の音に引き寄せられるように、神社の境内に並んだ露店で買って食べたり遊んだり、誰もが子供の頃の祭りを思い出すことでしょう。また、祭りには鯖すしや昆布巻き、くるみ餅をこしらえてお客さんをもてなすという習慣も今尚残っている地域もあります。こうした伝統的な祭りから、最近は、七夕祭りや市民祭りのように新しい取り組みが行われてきました。
 古文化同好会では、毎年開催される「市の文化祭」に向けてテーマを決めていますが、今年は【ふるさと彩発見~交野の祭り】と題して展示発表しました。
 各地区の役員を中心に10月中旬に行われている秋祭りを中心に現地取材をして、写真や神社の由緒などの資料を収集し、また、会員外の方々にもご協力いただいて多くの資料が集まりました。文化祭開催中は、多くの写真や資料を展示。また、DVDの放映も行いました。祭りは郷愁を誘う身近な行事であると同時に、自分の地域の祭りがどのようなものかといった関心の高さから多くの市民の来場をいただき熱心に観覧していただきました。    
                                          
                               交野古文化同好会
                                         会長 立花 昇

 資料及び参考図書   <交野彩発見 「交野の祭り」:交野古文化同好会編>

 交野市史民族編、星田歴史風土記、交野広報、北河内のお宮、住吉神社社誌その他WEB。
 交野古文化同好会の皆様と多くの市民の皆様に大変お世話になりました。
 記して感謝申し上げます。
 
 
 我が故郷の秋祭り
 秋祭りは、その年の収穫を感謝し、次の年の豊作を祈る大切な村の行事であり、十月中旬頃に行った。昔は、交野村と磐船村では祭りの日が違っていたが、大正の初めごろ、学校の都合(このころは秋祭りの日は学校は休みだったが、同じ学校で別々の日に子どもを休ませることを避けるため)で、宵宮が15日、本祭りが16日と決まった。しかし、1村で1校の星田では、宵宮が16日、本祭りが17日と一日遅れて行われた。
 娯楽の少なかった昔は、村人の大きな楽しみとして、祭りの期間中に親類の人たちを呼び、昆布巻き(中には焼鮒やにしんを入れる)、里いもの煮付、鯖ずし、鶏肉などの特別なご馳走をこしらえ、本祭りの朝はくるみ餅(大豆を煮て臼ですり、これに砂糖で味を付ける)をつくった。

 家々の軒下には氏神さんの提灯(ご神燈)を上げ、地域によっては、氏神さんへの道すじや境内に、各町や宮座の台提灯が美しく飾られた。本祭りには、神輿や地車を曳き出し、村中を練り歩いたり引き回したりした。威勢のいい若衆の祭りの装束と掛け声が村中に響き渡り、祭りを最高潮に盛り上げたものだ。

<郡津、郡津神社>
 今池の南に「神輿田」という地名がある。ここまで神様がお越しになるというので、明治20年ごろまでは、神輿を担いで出向いていた。また、酒を飲んだ勢いにまかせてコースを外し、天野川のたか橋まで水を飲みに行ったという話も聞いている。
 昭和23年までは地車があって、中島の辻(お宮の北側の十字路)まで曳いていたという。お宮の南側の石段の下に、南尾町・北尾町・西町の大きな提灯の灯がともっていたことを子供心に覚えており、なつかしい思いがする。

<倉治、機物神社>
 参道の提灯の列が美しく並び、鳥居の前の提灯は、たなばた姫と交野山の観音様に献燈されているかのようである。機物神社のご祭神は女の神様だからだろうか。倉治の秋祭りは他の村にくらべると地味である。

<私部、住吉神社>
 祭りが近づくと、各町の道筋に提灯台が立つ。16日の本祭り午後からは神輿(昔は21歳の者が担いだ)が出て、渡御の列が西崎のお旅所までを往復する。神輿が戻ってくると、お宮から郷倉の前まで地車を曳き下ろした(現在は、お宮の境内だけ)。

 晩になって地車が宮入りすると、祭りはクライマックスを迎える。地車に乗る子は赤い鉢巻き、それを曳く青年たちは白いネルの腰巻きに白足袋という格好で、赤い色の提灯に灯が付くと、「サーヤレ、サーヤレ」と曳き始め、動き出すと、「オエ、オエ」と掛け声を合せて曳き回った。私部の地車曳きは、なかなか勇壮だが、昔から喧嘩がつきものだったといわれている。

 <森、川東神社>
今はお宮さんの北側に地車庫があるが、もとは現在の集会所の南にあり、この付近から宮入りをしていたが、現在は地車庫から曳きだし、天田の宮の正面で献燈し私市と交互に宮入りしている。

<寺、住吉神社>
 この宮には、正座・畠山座・山添座という三つの宮座が健在である。正座は23軒あって、秋祭りになると祝儀袋に金壱円を入れて座中に配っていた。座田その他からの収入を還元していたのだろう。しかし、昭和30年ごろから中止された。壱円という金の値打ちがなくなり、祝儀袋代の方が高くつくからだという。この座は年長者から8人の神主を作っていた。また、畠山座は2升どりの重ね餅を二つ神前に上げ、この餅を切って座の家々に分配した。
かって、寺の地車は天田宮まで曳いていったが、明治18年、龍王山にほらがふいた(地下水が大量に湧き出た)ため、四辻付近にあった地車が流され壊れてしまったので、明治20年ごろからは行かなくなった。
 なお、住吉神社の拝殿の両側には板間があるが、西側の方には弧もが敷かれており、その中央に、昭和初期の角火鉢が据え付けられている。この角火鉢の周りには、祭りの折、お宮の代表(役員)だけが座れることになっていて、ここでさまざまなことが相談される。

<私市、天田神社・若宮神社>   天田宮は、もともと磐船村(今の私市・森・寺)全体のお宮さんであり、森や寺からも地車が運ばれていたが、今は私市と森だけになっている。かっては、若宮に地車庫があり、そこから13日の朝、天田宮に宮入をし、14日の式が終わると曳き下ろされていた。しかし、昭和4年信貴生駒電鉄(現在の京阪交野線)が開通して後は、天田宮に地車庫が移されたので、最近は4年に一度、天田宮から若宮に還って宮入りしている。

 昭和52年、秋祭りなどの祭具を収める収蔵庫が天田宮に完成した。このおり、たまたま西村泰治郎氏宅で見つかった獅子頭がきっかけとなり、翌53年の秋祭りより太神楽(獅子舞)が、14日は若宮、15日は天田宮で奉納されるようになった。

<星田、星田神社>
 昔は、祭りの当日、各座の提灯の下に茣蓙を敷いて、座の人たちが集まってお酒を飲んでいたというが、今はもうそのような光景は見られない。

 昔から星田は、「津田の提灯祭・私部のお渡り祭・星田の地車祭」と並び称されるほど、立派な地車を東西各一基ずつ持っていた。2基の地車が曳き回されるさまは、常に興奮を呼ぶ秋祭りの花形であった。祭りの前には、地車の飾りや改造が外へ洩れないように考えたのだろう。東からもらった嫁は東に、西からもらった嫁は西に、それぞれ里帰りさせたという。

 現在の秋祭りは、宵宮では、午前零時になると「今から祭りが始める」という触れ太鼓をたたいて、村中にしらせる。そして、昼には樽神輿を担いで、練り歩いたという。夜になると宮入りし、地車を宮庭に出して交互に曳き回している。

      <交野市史 民族編より参照>
 平成26年の秋祭り

 祭りの日は各地区別に10月の何日という風に昔から決められていたわけですが、地車曳きや神輿、獅子舞、笛・太鼓の参加者が仕事や学校などの関係で平日では集まりが悪いため、最近では土・日に実施するところが増えてきました。
 26年の秋祭りの実施日を地区別にみますと、星田は16日(木)~17日(金)、私市・森地区は11日(土)~12日(日)、私部地区は18日(土)~19日(日)、寺地区は12日(日)と祭礼のみが16日(木)、郡津地区と倉治地区は15日(水)~16日(木)となっています。

 
交野の地車 
 河内の地車には大別して、大阪型、岸和田型、南河内型、北河内型とに分かれ、北河内型にも交野方面と四條畷・大東方面型と型式の違いがある。俗説に交野方面を交野型地車としています。
交野型地車は、寺、私市、私部、星田、枚方市の茄子作、高田、寝屋川市の寝屋地区に保存されています。
特徴としては、屋根の折タタミガでき、泥幕に飾り板がなく、布幕を付け、竜頭は小さく、彫物は精巧で担ぎ棒(台棒)は固定してある。なお、担ぎ棒の固定は大阪型地車等も同じです。

 全体のシルエットは、幅が狭く女性的な印象を受け屋根の厚みは薄く、折屋根仕様虹梁は二段で構成されまた勾欄下には北河内型のような枡組を施されていないのがおおまかな「交野型」の特徴です。
 制作年代においても江戸末期のものが多く、当時の各村々が競って地車を新調し京都の山車文化の影響からか、豪華さを強調する金具や刺繍幕等は他に類をみないものであり地車が各村の象徴であったことが非常にうかがえます。
    (星田風土記より参照)

私部神社の地車 
 交野市内の各地区の祭り
 星 田 地 区
 星田神社・星田妙見宮
 星田神社 由緒  祭神 神宮皇后・表筒男命・中筒男命・底筒男命
 当神社の創建の年月は詳らかではありませんが、伝えるところによると、住吉四神を祀ったより遥か以前に当地方の交野物部氏の祖である饒速日命(交野大明神)をお祀りされていました。
 
 その後、宝永年間総社である磐船神社の分霊をお迎えしてお祀りするに及び当初のお社より大きな神殿がたてられることとなりそれ以降交野大明神のお社は古宮と呼ばれるようになりました。また、新宮山にあった八幡社を明治の神仏習合によってこちらに移され、末社としてお祀りされています。
 また明治39年に星田妙見宮が星田神社境外社となりました。
 星田神社の地車(だんじり)  地車2台  東・西 ・・・ 交野型

 神輿=渡御は樽神輿使用。子供会は手作り神輿。以前に地車が夜に境内で曳いていた時代に子供が担いでいたやや小型だが本格的な神輿2基。現在、星田会館に展示。
 星田の現在の地車は、東地車は天保4年(1834)に、西地車は天保5年(1835)に作られたようである。昭和57年(1982)兵庫県津名町の梶内だんじり株式会社で大修理を行った際、飾り金具の裏側に天保4年の刻印が打たれていたと言う。
 金具師は大野嘉七で、彫刻は相藤こと相野藤七である。相藤については、拝懸魚の裏側に「せんば藤七彫」と筆墨されており、勾欄金具には「大坂かなぐ師大野藤七」とあり、「大」の字の中心に釘が打ち込まれていたため完読できないが、「大」であろうと言われている。当時、天満の大工町には「だんじり吉兵衛」と仰がれた名工の柳吉兵衛がおり、天満の吉兵衛が細工した地車の彫物は全てと言ってよいほどに「相藤」一門が手掛けており、また、星田の古くからの口伝によると、大坂で新調されたものであると言われているので、東地車の大工棟梁は「だんじり吉兵衛」こと柳吉兵衛の可能性が強い。
 また、西地車も、屋形の細工・金具・彫物が東地車と良く似ているので、1年遅れで同一人が細工したと考えられる。違いは東地車が火燈窓焚式の見送彫物であるのに西地車は幕で少し大きくなっている。2台とも屋根が折り畳み式に細工されている。この二基の天保地車は、金具工芸の粋を極めた相藤の技と大野藤七の木彫工芸の技、さらに柳吉兵衛によるとみられる屋型の均整のとれた技が結集されて、星田の郷に残っているのである。当時の地車に掛けた意気込みを今に伝えている。 
   (若松均著 摂河泉だんじり談義 より)星田だんじり保存会
  星田の東西地車
 

西地車 
 

東地車
 

星田の地車
 星田神社の秋祭り 
 〇 宵宮 10月16日
     ・触れ太鼓(午前0時~午前3時過ぎ)
       太鼓と鉦を叩いて宵宮を村中に知らせる星田独自の伝承祭礼
     ・宮入(午後7時~8時)
       午後7時に星田会館を出発し、約70名が提灯片手に伊勢音頭を威勢よく歌いながら
       宮入りコースを経て星田神社に宮入りする
     ・地車の宮入り(午後8時過ぎ)星田神社境内
       重厚な太鼓と鉦の音を響かせて東西二基の地車の宮入りを保存会により執り行う。
       威風堂々たる星田の誇りである。
 〇本宮 10月17日
     地車の運行(午後8時過ぎ)   星田神社境内で地車の曳きまわしが行われる。
   
   
   
   
 
 
星田妙見宮 創建1200年祭    地車の試験曳き
 星田妙見宮創建1200年奉祝祭に伴う地車体験曳きが10月12日(日)晴れやかに執り行われました。

 星田妙見宮は816年弘法大師空海上人が獅子窟寺の岩屋で修行の折り七曜星が降臨し、大師自ら「三光青岩正身の妙見」と称され北辰妙見大菩薩の霊岳、神仏の霊場として祭られて以来、平成28年7月23日に創建1200年を迎える。この1200年奉祝祭を地域一体となってお祝いする記念行事として地車曳行が計画され、西の地車が星田神社から星田小学校まで太鼓と鉦の音高らかに曳行されました。  
      (星田区・星田だんじり保存会)
   
   
   
   
   
   
   
 
 星田妙見宮の祭神と由緒
 神道では天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、仏教では妙見大菩薩、道教では太上神仙鎮宅霊符神(たいじょうしんせんちんたくれいふしん)として崇拝される珍しい霊場である。又ご神体は星が降ったとされる二つの大岩で神と仏がこの岩に姿を現したという影向石であります。伝承によれば平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(816)、弘法大師が獅子窟寺で修法された時、天上より七曜の星が降りその内の二つが妙見宮に舞い降り御神体になったとされています。
 江戸時代(元禄の頃)貝原益軒がこの地を訪れた時「此の谷の奥に星の森有り、星の社あり、其の神は牽牛、織姫也」と記述しており、当時すでに七夕伝説がこの神社にも伝わっていたようであります。
 
 
 
 
 私 市 地 区
 天田神社・若宮神社
天田神社 由緒    祭神・住吉大神四神
 天田神社は私市、森の氏神社で住吉四神を祀る。古代この地方は土地が良く肥えて、作物が豊かな野であったので、甘野といわれ、川は甘野川、田は甘田であった。この甘田に田の神を祀って建てた甘田宮が当天田神社の起源と言われている。
 交野地方は、肩野物部氏(かたのもののべし)の所領でその先祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)が天の磐船に乗って河内の哮が峰(たけるがみね)に天降ったと「先代旧事本紀(せんだいくじほんき)」に記され、長く交野の祭神となっていた。
 その肩野物部氏が西暦577年敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫(とよみけかしやひめ)(後の推古天皇)にこの地を献じて、ここが私部(きさいべ)、私市部(きさいちべ)となったのである。「きさい」は皇后、「べ」はその部民のことである。平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
 その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。大木が繁る天田神社 境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、又物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、当地の歴史の古さを偲ばせるものがあります。
 
 
若宮神社 由緒   
  祭神 底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后(息長帯姫命)
 若宮神社は私市の南、磐船街道附近に参道を正南面した私市の氏神である。の四神である。本殿及び拝殿があり、拝殿の西側に秋葉社がある。
 若宮神社の由来であるが、昔は磐船神社を中心に上田原・下田原両住吉神社・天田神社・星田神社・若宮神社の前身五社で祭祀をおこなっていたが宝永(1704~1710)の頃、宮座の争いが起こって、解決せず、とうとう別れ話になって村々は磐船明神の分霊を持ち帰って、それぞれの村に住吉神を祀った。
 ところが私市では以前から天田神社があったが、田原から来る人に良く見えるようにと、村の南の入口に鳥居をたてこの宮を祀り、天田の宮に対して、こちらを若宮としたといわれる。
 当社には別に本社の西に秋葉社という社がある。この社は明治維新まで獅子窟寺境内にあったものを当時神仏混交が許されなくなって当社境内に移されたという。この社の祭神は第98代長慶天皇であるといわれている。
   (交野市教育委員会編)
 
 私市の地車(だんじり)
 地車一台 交野型 ・子供みこし 獅子舞
 かつては若宮神社に地車小屋があったが、昭和4年に信貴生駒電鉄(現・京阪交野線)が開通して、天田宮に地車小屋が移された。4年に一度ほどは若宮神社まで曳行。
天保2年(1831)制作。大工は不詳。彫師は松尾半兵衛か。子供みこし=若宮神社に安置し、その後各地区を練る。昭和60年頃制作。以前は手作り花みこし。
 獅子舞=西村泰治郎宅で獅子頭が見つかったのがきっかけとなり、翌昭和53年より宵宮は若宮、本宮は天田神社で奉納されるようになった。
 
伝統文化を継承するために 
       私市文化財保護推進委員会

 平成14年、私市小学校の高学年の有志を中心に私市文化財保護推進委員会を立ち上げて、中断していた奉納行事の伝統文化を守り・継承・推進して行くため、笛・太鼓・獅子舞・ひょっとこ踊りを復活して毎年、天田神社と若宮神社の秋祭りに五穀豊穣・家内安全を願って奉納披露している。

 併せて、私市小学校の5年生は南中ソーラン節を6年生は私市太鼓を運動会に併せて練習、秋祭りの本宮で若宮神社と天田神社に奉納披露している。 
 
 
 
   
   
 
 

天田神社へ宮入り 
 
 
 
 
 
 川東神社
 川東神社 由緒 祭神・品陀別命
当社の創建は明らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成12年区域内の河内磐船駅北側より平安時代の三宅荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続くことが確認された。
 また、森地区の氏子は岩清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払い神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。このようなことから氏神として八幡大神である品陀別命をお祭りしたものと思われる。
 地車一台 交野型
 森の地車小屋は神社北側にあり。元は集会所の南にあった。江戸末期作。大工は不詳。彫師は柳原清蔵(彫清)?。
 
 
 
 磐船神社
 磐船神社 由緒

祭神・饒速日命
 先代旧事本記・巻第五天孫本記によると、饒速日命は天神(あまつかみ)の御祖(みおや)の詔(みことのり)を受けて、天(あま)の磐船に乗りて天降(あま くだ)りて、河内の国の河上の哮が峰に座す、とあります。

 磐船神社のご神体は上に記した磐船であるとしております。大きさは高さ12m幅も12mもある巨岩で、神殿は無く拝殿だけがある古式形態の神社である。
例としては有名な大和桜井の大神神社、近くは機物神社(大古)、星田妙見宮などがある。いずれも巨岩、磐座(いわくら)に神が宿るとして崇拝されています


 古代には当社の祭祀は饒速日尊の子孫である物部氏によって行なわれていました。特に交野地方に居住した肩野物部氏はこの地一帯の開発経営をして
おり、交野市森で発見された「森古墳群」なかでも全長106mを測る前方後円墳(雷塚古墳)はこの一族の墳墓と考えられております。
 
 
 私部・住吉神社

住吉神社 由緒 

祭神・神功皇后・底筒男命・中筒男命・表筒男命

 当神社は住吉四神と末社八社が祭祀され、元郷社で近郷近在の崇敬特に篤い古社であるが、創建年代は詳らかでない。江戸時代末期まで境内に宮内現光寺があって、その住職がお守を兼ねていた。本殿は奈良春日神社の旧本殿を譲りうけたもので春日造りである。神社入り口の石の大鳥居は有名で、文政8年(1825)に建立されたが、その後安政2年の地震で倒れ万延元年(1860)高さ二丈四尺(7・27m)、柱の廻り六尺九寸(2・09m)の雄大なものが、氏子総出で私部山より運び再建されたものである。なお元の鳥居の柱の一部は本殿と拝殿の間に立っています。
 

住吉神社の地車(だんじり)

 毎年、私部住吉神社の秋祭りには綺麗に飾り付けられて2台の地車が本殿の前に並びます。2台の地車のうち、本殿に向って右(東)側の車は市場・馬場 浦・札の辻・出屋敷の地区の車で、左(西)側の車は谷畑中・西崎・中町の地区の車とされています。この私部の地車は明確な製作年代は不明ですが屋台 形式を交野型といい正面から見ると幅が狭く縦長で土呂幕(泥幕)は布張であることなどが特徴です。
 また、東の車は車板裏に「大坂北御堂門前通り大和屋 松尾吉右衛門」の墨書があり、江戸時代末期の製作と推定されています。

 西の車は、銘はありませんが彫刻の特徴から松尾半兵衛(私市の地車と同名で天保2年(1831)の墨書がある)の作とみられています。これとは別に「郷社 住吉神社社誌」によると、時期は不明ですが西の地車の方が古く、東の地車は大新(萩原)という宮大工によって享保9年(1720)に製作されたとの言い伝えがあるとのことです。また古い化粧幕の調査で2台の幕ともに織り・生地等から300年位前に中国で織られたものであることが判明しています。このことから、2台の地車とも江戸時代中頃から末にかけて製作されたと推定されています。  (私部だんじり保存会)より

 
 
 寺・住吉神社
 寺・住吉神社 由緒  祭神 神宮皇后・底筒男命・中筒男命・表筒男命。
 この宮の古い由緒は伝わっていないが明治5年(1872)6月神仏整理の際に私市村天田の宮に合祀せられた。
 しかし、同12年7月にはもと通り返って村社となった。現在境内には、社殿・拝殿・地車小屋があり、極めて簡素だが石材が近くで採れる為か、石垣、石の鳥居、石燈籠、石段など石ばかり豊富に使われている。なかには人名や年号(江戸時代)の入ったものもみられる。 
 また、この神社では昔、その年の秋の収穫を占う為に、お宮の前の田に、しめ縄を張って、的を掛け神主が弓で的を射て的に当たれば今年の豊作間違いなしとしていたと云われていたが明治になって行われなくなったようである。
 ☆寺の地車(だんじり)
 寺の住吉神社は寺の村はずれから田んぼの畦道が続く先の山裾野の森に鎮座し、地車小屋は神社境内の敷地に建てられています。
 保有する寺の地車は、江戸末期の製作でやや小振りの交野型であり彫刻は三国志や二十四孝等中国図柄で統一されていて人物の彫が非常に素晴らしく、味のある地車です。また平成14年には地元有力者の手により刺繍幕が寄贈されました。
 大工は不詳、彫師は池田八兵衛(生没年不詳)
 なお、昔は、地車が2台あったが、明治16年、龍王山にほらが吹いた(地下水が大量に湧き出た)ため、四辻付近にあった地車小屋が流され地車は1台となった。
 
 
 機物神社
 機物神社 由緒  祭神・たくはたちじひめの栲機千々比売 大神(七夕姫)
 倉治地区の氏神。 太古この神社は交野山を神として崇め、境内から崇拝していたといわれています。今でもこの拝所の後が残っています。(奈良桜井大神神社、星田妙見宮などがある。)
 その後、機織の技術を持った渡来人がこの地にやって来て住みつき、自分達の祖先である漢人庄員を氏神として祀ったとされます。平安時代になり、交野地方は桓武天皇、嵯峨天皇や朝廷人の遊猟の地となり、中国の天体崇拝思想や七夕伝説をこの地に伝え、神社の祭神も織姫星の棚機姫(たなばたひめ)に代わったとされています。戦国時代には織田信長、明智光秀、豊臣秀吉等の尊崇を得ていたといわれます。江戸時代中頃には毎年7月7日に身を清めた一人の男の子をたてて、清めの祭礼を行っていたと、河内名所図絵に載っています。
 ☆七夕祭り・秋祭り
 機物神社で、現在のような笹竹に願い事を書いた短冊を飾って七夕祭りを行うようになったのは昭和54年からで、近年マスコミなどで取り上げられるようになり非常に賑わって、交野の名物となっています。また、秋祭りには子供みこしが境内を巡行します。
 
 
 
 
 
 郡津神社
郡津神社 由緒   祭神 天照大神・住吉明神・素戔嗚命
 当社は郡津の氏神でもと「一の宮」といわれていました。
 神社の創建年代は詳らかではありませんが、白鳳時代(656~710)に交野地方で権力をふるっていた郡衙の郡司が此の地に大堂山長宝寺を建立し、奈良平安時代にかけて一の宮とともに神仏習合の形で栄えていたようであります。ところが鎌倉時代の初め長宝寺は焼失し、その後再建されることもなく長宝寺は廃寺となり、一の宮だけが氏神として残っておりました。
明治維新になり神社の統廃合が行われ、高野街道の西に住吉明神を祀った「二の宮」、大塚の丸山古墳の東に天照大神を祀った「三の宮」の神々をこの「一の宮」に合祀し、名も郡津神社と改めて今日に至っています。明治5年村社に列せられ、明治42年12月神饌幣帛供進神社に指定されました。

 ☆郡津神社の秋祭り
昭和23年までは地車(写真左)がありました。現在は町内で子供たちによる神輿巡行が行われています。
 
郡津神社の地車 
 
 
 
資料及び参考図書   <交野彩発見 「交野の祭り」:交野古文化同好会編>

 交野市史民族編、星田歴史風土記、交野広報、北河内のお宮、住吉神社社誌その他WEB。
 交野古文化同好会の皆様と多くの市民の皆様に大変お世話になりました。
 記して感謝申し上げます。
最後までご覧いただき有難うございました!

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