私部城跡の発掘調査速報 2020 PDF | |
私部城跡 歴史上に初めて私部城(交野城)が登場するのは、元亀元年(1570)です。 河内国で敵対勢力と戦う織田信長軍に味方した勢力の一つとして、安見右近という人物が私部城主であったと伝えられています。 戦国時代末期の城である私部城は、丘陵と谷が入り混じる地形を巧みに利用して平地に築かれた平地城郭で、直線的に郭(曲輪)を連ねる「連郭式」と呼ばれる構造になります。また、この時期の平地城郭は大阪府内でも大変希少な例と言えます。『日本城郭体系』で城の「縄張り図」が紹介され、城郭研究者のみならず、市民の間にも広く周知されるようになりました。 現在は2018年度に本郭、二郭の一部が交野市指定文化財(史跡私部城跡)に指定され、保存・活用されています。 |
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調査の概要 交野市教育委員会は、交野市私部3丁目所在の私部城跡の発掘調査を実施しました。今回の調査面積は約170uです。 私部城跡は、16世紀後半(戦国時代末期)頃の城跡で、平地に築かれていることから「平地城郭」と呼ばれています。この時期の平地城郭は、羽曳野市の高屋城、東大阪市の若江城が有名です。私部城は現在のところ、本郭、二郭、三郭、四郭とその周辺の小ぶりな郭の存在が明らかとなつています。これらの郭が、東西の尾根上に連なつていることから「連郭式」と呼ばれています。 今回新たに確認された郭は、尾根の先端で私部街道に面しており、城の玄関口ともいえる場所にあります。また、郭の構築方法や土塁・堀などの防御施設も備えていたことが明らかになりました。さらに、堀の中の土層の堆積状況から落城時の様子も窺うことができました。 今回の調査成果は、私部城のみならず戦国時代の城郭の構造研究にも大きな影響を与えることになると思われます。 発掘調査 私部城の発掘調査は、古くは1960年代から郷土史家である奥野平次氏の指導により交野古文化同好会によって実施されました。調査は市道敷設に伴うもので、三郭付近で断面図などの記録が残され、貴重な報告となつています。 今回の調査地は、交野市私部3丁目の私部街道の東側に隣接した所で、城の玄関口とも言える場所にあたります。昭和36年に大阪府が作成した地形図によれば、今回の調査地から北に標高26mの等高線が巡る台地の広がりが認められます。現在はその台地状の高まりの大部分は『交野郵便局』となつています。 今回の調査地は『交野郵便局』南隣の台地の南端から、南側の斜面及び谷部分までです。調査前の様子としては、調査地の北部の竹藪に台地状の高まりが見られ、古い地形が良く残つていることをあらわしていました。 調査はまず幅1m、長さ21mの南北方向の確認調査トレンチを設定し、土層の堆積状況や遺構の残存状況を確認したところ、台地の上部には盛土を施していることが判明し、郭の存在が明らかになりました。また、その南には谷地形となる旧地形が存在し、現在は埋没しているものの、18世紀頃までは開口していたこともわかりました。 調査の成果(遺構模式図・断面模式図・郭の築造模式図) 今回の発掘調査では、昭和36年作成の地形図や昭和23年撮影の航空写真で見られた台地状の高まりが、郭(曲輪)であることが確認できました。 また、その郭の南側には土塁が存在し、郭の南側の斜面と土塁に挟まれた部分が堀になることも明らかになりました。 新たに確認された私部城の郭は私部街道に隣接しており、私部城の玄関口の位置にあたるといえます。 以下、郭や土塁の構造そして、堀の埋没状況について述べることにします。郭の構造を知るために、南側斜面の層序を観察すると、下層より黄茶色粘土、その上部に茶褐色粘質土と暗褐色粘質土(共に瓦、土器含む)、さらにその上部は灰褐色粘質土(自色粘土ブロック多量に含む)の順に堆積しています。 下層の黄茶色粘土は丘陵を形成する基盤層で、一般的には地山とよばれる土壌です。その南側斜面に小さく砕いた瓦を大量に含む茶褐色粘質土及び暗褐色粘質土を、丘陵斜面に積んで郭のベースを拡張しています。また、小さく砕いた瓦を大量に混ぜ込んでいるのは、土を締め固めるためと考えられます。 今回の調査で出土した瓦や陶器類は、大半が郭の盛土下層の茶褐色粘質土・暗褐色粘質土から出土したものです。したがつて私部城の郭の構築に使われたもので、私部城に使用されたものではありません。 そして、その拡張したベースの上に盛土をのせて、郭を構築しています。盛土には版築や締め固めの様相は認められません。郭の南側斜面には、写真に見える様に石垣等の土留めの細工も見られません。 |
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土塁の構造(遺構模式図・断面模式図) 調査地の東壁の断面模式図(写真)を見ると、郭南部の地山上に約2mの盛土が確認できます。これを土塁と考えています。 土塁はほぼ郭と同じ高さまで盛り上げています。土質も郭と同じ灰褐色粘質土です。土塁も郭の盛土と同様、版築や締め固めの痕跡は認められません。 堀の構造と埋没状況(遺構模式図・断面模式図) 郭の南斜面と土塁の北斜面の間が堀となります。堀の断面は『V字』状で、このような堀を「薬研堀」(やげんぼり)と呼ばれています。 堀の埋没状況は、基本的には城が存続した期間は堀としての機能を果たすために、堆積物は認められないはずですから断面の観察によつて確認できる土層の堆積状況は、堀としての機能を失つて以降、すなわち城から見れば落城以降ということになります。 堆積物を古い順に説明すると、まず郭の南斜面沿いにみられる焼土や炭の入つた土が流入しています。その後、堀の底付近の埋土3が堆積し、その上部に郭側から盛土の一部が流入します。そして埋土2、土塁の崩落土、埋土1が堆積して堀は完全に埋没します。埋土 1〜 3は灰色系の砂層で、風雨など自然の環境下での堆積物と考えられます。 堀が完全に埋没すると、郭と堀と土塁が一体化してその上を表土が覆っています。 |
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下記は、 2020.11.29 講演会で解説された画像です 参考にご覧ください! |
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等高線25m以上をピンク色で表示 丘陵地形の西端に私部城が築城されていることが分かります。 北側は百々川、免除川に、南は湿地谷に囲まれている。 |
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ピンク色で等高線25m以上を拡大表示 |
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左端の調査地点が今回発掘調査された「五郭」 |
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平成30年10月1日付 交野市指定文化財に指定 | |
2018.10.1 産経新聞 |
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新規指定文化財・私部城跡の概要説明資料(PDF) | |
平成27年10月 交野古文化同好会の勉強会 「発掘調査からみた私部城」 |
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平成26年3月20日(木) 交野市教育委員会主催 文化財バス見学会 〜私部城の歴史をたどる奈良の旅〜 |
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平成26年2月11日(祝) (於)星の里いわふね 歴史シンポジウム 「河内の堅城 私部城ー国史跡を目指してー」 |
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「私部城跡の歴史と現状」 (2012.10月、交野古文化同好会の勉強会) 私部城跡の最近の調査報告について |
第1回 午前10時30分 50人余の沢山の方が参加されました! 2013.1.6 「私部城の見学会」と「かたの城市」 |
昨年、発掘調査がされて弥生時代の竪穴住居跡が見つかった所です。 |
私部城跡のニ郭(字天守)では、かたの城市が開催されていた |
三郭上には宅地造成が進み住宅が建てられている |
私部城跡(本郭)の石仏 |
私部城 堀跡 |
この小高い山は、交野に残る戦国時代の「土の城」のあとです。大阪の平地に残る城は珍しく、貴重なものです。 北河内の雄・安見氏の城であり、織田信長は河内平定への拠点とし、松永久秀に執拗に攻め狙われました。 安見氏の居城・私部城 河内国守護をつとめた畠山氏の配下として、戦国時代に北河内を中心にして力を伸ばした一族です。特に守護代にとって代わって活躍した宗房が有名です。歴史上で城主として登場するのは安見右近と新七郎です。「私部城」は江戸時代以降に定着する呼び方で、戦国時代の資料には「交野城Jとして登場します。 信長の河内進出と安見右近 右近は畠山氏配下として北河内や大和で活動し、一時期は悪名高い松永久秀の配下ともなったようです。右近の居城として私部城のことが記されるのは、織田信長が河内へ進出した時のことです。京都に上洛した信長は、天下の中枢の摂津・河内・和泉に進み、三好三人衆などの勢力と争いました。この時の織田方の勢力の一つとして私部城と右近があらわれます。京都から現在の大阪へと進出した信長にとって、交野は河内の玄関であり、重要な拠点であったようです。 松永久秀による私部城攻め 奈良を拠点とした松永久秀は信長の河内進出当初は友好的な関係を築いていましたが、途中から敵対していきます。この時に私部城を手に入れようと攻め込んでいます。奈良からみると、交野は街道を通じて京都・河内へ抜けることのできる位置にあり、松永久秀にとっても重要でした。久秀は城主の右近を奈良に誘い出し、切腹に追いやりました。そして城主不在の私部城をすかさず攻めますが、城に残された人々はこの危機を持ちこたえています。さらに翌年久秀は城攻めを行っていますが、信長から送られた佐久間信盛や柴田勝家といった強力な援軍によって退散させられています。 取次者・安見新七郎と城のその後 新七郎は右近の死後に、城を守った人物です。織田信長による1581年の京都馬揃に関する記録から「取次者」だったことがわかっています。取次者とは、各地の領主層と信長の間を取りつなぐ重要な役割でした。また、信長が京都へ向かう際に立ち寄って休息をとっていることからも信頼を得ていたことがわかります。こうした中で、いつ私部城が廃城になったのかははっきりしていません。本能寺の変で信長が亡くなり、豊臣秀吉の時代になると、交野の安見氏は突然歴史から姿を消しています。その経緯は今も歴史の間の中に包まれています。 上の図は城郭研究の第一人者である中井均先生が1981年に明らかにした私部城の形です。「郭Jという広い高台が少なくとも3つ東西に並びます。ここは戦いの陣地となる城の中心部分です。この郭のまわりに土塁や堀の跡がめぐらされている様子がわかります。現在は当時よりもさらに宅地化が進んでいますが、それでも城の姿を見て回ることのできる部分が残されています。大阪では近世の大坂城が有名ですが、こうした戦国期の平城跡が残されている例はきわめて貴重になっています。 本郭 大坂城のように高い石垣によって築かれる近世の城とは異なる、戦国期特有の土の平城の姿が良好に保たれています。このあたりには「城」という地名が残っています。@地点では、瓦や石造物が、多量の石とともに廃棄された穴が発見されています。こうした出土品は、私部城築城以前に私部で全盛期をほこっていた光通寺に関わるものである可能性が高いと考えられています。ただ、今後の調査の進展のなかで、この中に私部城時代のものが含まれていることがわかってくるかもしれません。なお、現在ここには本郭で耕作時に発見された石仏が大切にまつられています。 ニ郭 もっとも大きな郭です。道路で分断され宅地化されながらも大部分は残されています。発掘調査で南半分は自然地形を利用し、北半は大量の盛土でつくられたことがわかっています。「天守」という字名があることも面白いところです。大坂城のような天守ではないにしても、物見やぐらなどの高層建物があったことを語り継いでいるのかもしれません。 その他の郭 三郭は細長い郭で道路工事の時に発掘調査されました。この時にA地点付近の城の盛土から瓦や焼けた礎石片が発見されています。安見右近が破壊した光通寺に関わるものではないかといわれています。注意して歩くと、三郭の東や、二郭の西にも郭らしき高台の跡があることがわかります。 土塁と堀 交野郵便局の近くに郭をかこんだ土塁の跡が現在も残っています。その東には「本丸池」とよばれる池など、堀の跡が残っています。この堀跡の続きはまだはっきりしていませんが、昔池があった光通寺付近まで伸びていたようです。 光通寺(出郭) 現在の光通寺は江戸時代に再建されたものですが、境内のC地点で鬼瓦などの瓦が多量に出土し、室町時代の寺の姿を今に伝えています。この付近は、城域の南東隅に張り出した「出郭」として機能したとみられます。 私部城の北の守り 不自然な屈曲部があり堀跡とみられる百々川があり、その北の低地と免除川も城を守る要害となったとみられます。他にも小高い山があり、砦や土塁だったかもしれません。 私部城下層の弥生時代の遺跡 私部城は見晴らしのよい高台を利用して築かれました。この条件のよい土地は弥生時代にも盛んに利用されていたことがA地点の道路設置に伴う発掘調査で、弥生時代の石庖丁や、村を囲む溝らしきものが発見されたことによって明らかになりました。最近、@地点で 竪穴建物の跡が発見され、弥生時代の私部の村の姿が少しずつ明らかになりつつあります。 (平成24年12月 財団法人交野市文化財事業団 作成) |
2013.1.6 第2回かたの城市が開かれ大賑わい! かたの城市の実行委員会のホームページはこちら |