星のまち交野のTOPへ

文化財バス見学会 2014.3.20
私部城の歴史をたどる奈良の旅
 平成26年3月20日(木)、交野市教育委員会主催の文化財バス見学に参加してきました。
戦国時代、交野と奈良は磐船街道やかいがけ道によつて結ばれていました。私部城と戦国時代の交野に縁の深い鷹山弘頼、安見宗房、安見右近、松永久秀という4人の人物の足跡をたどり奈良を旅してきました。
行程
  8:30青年の家出発→ 168号線(磐船街道)を経由して、鷹山氏の里・高山へ車移動→
  高山八幡宮見学→車移動→高山竹林園抹茶体験と鷹山氏墓所(円楽寺跡)の見学
  →生駒市役所前日―タリーから徒歩移動(約6分)→生駒ミュージアム(旧生駒町役場)
  → 168号線・阪奈道路経由して車移動→12:10〜 13:10 昼食休憩(三笠観光会館)
  奈良公園を徒歩移動(約10分)→二月堂見学→徒歩移動(約20分)→
  春日大社・若宮神社(安見宗房寄進灯篭)見学→東大寺ミューゴアム見学→ 17:00青年の家到着
 交野市教育委員会作成の当日のレジメを参照させていただきました。
記して、感謝申し上げます。
戦国時代の交野・私部城と奈良を結ぶ4人の人物

(1)鷹山弘頼
鷹山氏は大和国鷹山(現在の生駒市高山)を拠点とした有力な領主でした。弘頼は、戦国期の動乱の中で畠山氏の家臣として、南山城から北河内で活躍しました。木沢長政が反乱をおこした天文11年(1542)の頃、弘頼は交野に着陣し、長政方のいる飯盛城に対して守りを固めています。交野に軍事拠点が置かれたことがわかり、この時に私部城が築かれていた可能性もあります(小谷2013)。
鷹山弘頼は安見宗房とともに山城国の守護代となりますが、次第に宗房と対立し、天文22年(1553)に、高屋城にて自刃に追い込まれました。その後の鷹山氏は、永禄11年(1569)に、三好三人衆方の篠原長房に安堵されて、私部郷内に領地を有しています。なお、松永久秀らの戦いにより焼失した東大寺大仏殿を再建した公慶上人は鷹山氏の出身です。


(2)安見宗房
鷹山弘頼とともに頭角をあらわした人物です。交野に領地を得ていた鷹山弘頼の亡きあと、宗房がその領地を引き継いでいる可能性が高く、安見宗房の段階で私部城があった可能性もあります(小谷2013)。宗房は河内国の守護代層の争いの中で勢力をのばし、畠山高政を紀伊に退け、飯盛城へと入ります。こののち、大和へ進出し、筒丼氏を従え、大和と河内を一時的ながらも手中におさめました。この頃、宗房が春日大社・若宮神社に寄進した石灯籠が現在も残されています。
全盛を迎えていた安見宗房でしたが、三好長慶との戦いに敗れ、永禄3年(1560)に飯盛城を追われました。その後も三好長慶や三好三人衆と争いますが勝利することはできませんでした。最終的に元亀元年(1570)に足利義昭のもと、幕府の奉公衆となっています。
茶道にも通じた文化人としても知られています。その死後、宗房の収集した名物を津田宗久らが鑑賞しています。

(3)安見右近
安見右近は、最初に私部城の主として記される人物です。当初は交野の星田での活動が目立っており、その後、遊佐氏から預けられ、松永久秀の配下となっています。松永久秀と三好三人衆の争いにより永禄10年(1567)、東大寺大仏殿・戒壇院が焼失したことが知られますが、まさにその頃安見右近は松永久秀の配下として奈良の合戦で活躍していました。
永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を擁立して上洛します。この時、畠山高政や松永久秀は信長に服従の姿勢を示しました。これとともに、安見右近も織田方の勢力に入ることになったようです。この後、信長は摂津・河内・和泉へと進出し、三好三人衆や大坂本願寺と争うことになります。『信長公記』には、元亀元年(1570)の織田方の城として、「片野(交野)の安見右近」の名が記されています。これが交野城(私部城)と、城主としての右近の初出です。
交野城主となった安見右近の運命は、将軍足利義昭による「織田包囲網」が形成される中で大きく動きました。織田信長の上洛当初は友好的な関係にあった将軍義昭と織田信長は次第に不和となっていきます。将軍は密かに全国の武将に呼びかけ、対織田勢力をまとめようとしており、松永久秀もこの呼びかけに密かに応じていました。こうしたなか、松永久秀の多聞城のひざ元・奈良へ呼び出された右近は、元亀2年(1571)5月11日に切腹へと追い込まれました。詳細は不明ですが、織田を裏切ろうとした松永久秀の誘いに従わなかったためとみられています。

(4)松永久秀
松永久秀は、飯盛城から畿内一円を手中にした三好長慶の右腕として活躍しました。将軍足利義輝の殺害や、東大寺大仏殿の焼失に関与し、戦国の梟雄(きょうゆう)として知られます。久秀は、織田信長の上洛以前に、奈良の多聞城や交野の津田城を拠点に大和から北河内の大半を手中におさめています。この時に、松永の配下であった安見右近がすでに私部城を築いていた可能性も指摘されています。
織田信長の上洛後、一時はその軍門に下った久秀でしたが、将軍足利義昭による「織田包囲網」の中で、織田を裏切りました。元亀2年(1571)5月30日、松永久秀は安見右近の死に乗じて私部城を攻め取ろうとし挙兵します。城主不在の好機にも関わらず、久秀は私部城を落とせませんでした。右近の後を守った安見新七郎や、家中を取り仕切っ右近の後室の活躍があったようです。また、私部城の守りの固さもうかがえます。
元亀3年(1572)4月にも、私部に相城=あいじろ=(城を攻め落とすための城、砦)を築き、用意周到に攻め込んでいます。これに対して織田軍は佐久間信盛や柴田勝家といった援軍を私部城に送り、鹿垣=ししがき=(簡易の柵か)によって松永軍の相城を包囲しました(中丼2011)。
松永軍はこれを覆せず、風雨にまぎれて逃れ、元亀4年(1573)|こ、佐久間信盛に本拠の多聞城を包囲され久秀は降伏しました。一度は織田方に戻りましたが、天正5年(1577)に再び織田を裏切り、久秀は信貴山城の戦いで敗死しました。もし、久秀が私部城をおさえていたら、本願寺などの対抗勢力と戦っていた織田軍にとって大きな障害となっていたかもしれません。安見氏の動向と私部城をめぐる攻防によって、織田信長と松永久秀の命運が大きく分かれたようにも思えます。


(参考文献)
生駒市教育委員会2008『ハンドブック生駒の歴史と文化』
小谷利明2013「天下再興の戦いと私部城 発表レジュメ」、交野市文化財事業団
正木榮2008『生駒・高山風土記』
高田照世2013「高山人幡官の官座行事について」『高山文化研究会第2回例会資料』
中井均2011「私部城の歴史と構造」『シンポジウム「私部城」資料集』
高山八幡宮
祭神 足仲彦命(あしなかつひこのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと) 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
本殿 三間社流造(元亀三年(1572)銘)(重要文化財)

奈良時代平城に宇佐八幡官を移す途中、仮にまつられたのを機に始まつたとされます。中世に鷹山氏の信仰を集め、無足人座などの官座が結成されました。この官座は現在でも維持されています。
三間社流造の本殿は、棟札から元亀三年(1572)に再建されたことがわかっています。松永久秀が安見右近なきあとの私部城を攻めていたころの貴重な社殿であり、重要文化財となつています。
 
 
 
 
 
高山八幡宮 本殿
 
高山竹林園(円楽寺跡)
 高山は、茶道に用いる茶筌の里として知られます。これは、鷹山氏がつくりはじめ、鷹山氏の衰退後に無足人となつた家臣に伝えられたものとされています。竹林公園では、この茶筅づくりや抹茶を体験することができます。
また、ここにはかつて鷹山氏の菩提寺である円楽寺がありました。現在も鷹山氏墓所が残されています。
   

茶筌のいろいろ
 円楽寺跡 鷹山氏墓地
 
 
 
 
   
↑  鷹山弘頼の墓 
 生駒ふるさとミュージアム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 東大寺と奈良市中
 奈良市中や、奈良時代より続く東大寺も、戦国時代の戦乱の舞台となりました。永禄10年(1567)には、松永久秀と三好三人衆の争いの中で放たれた火によって大仏殿と戒壇院が焼失しました。この事件によって松永久秀は悪名を轟かせました。この頃、鷹山氏の一部や後に私部城主となる安見右近は松永氏の配下となつており、こうした奈良市中の合戦に駆り出されていたようです。

 奈良に春の訪れを告げる修二会(お水取り)が行われる二月堂からは、松永久秀の本拠地である多聞城(現、若草中学校付近)や、合戦の舞台となった奈良市中が見渡せます。なお、焼失した大仏殿は江戸時代に入ってようやく鷹山氏の子孫である公慶上人によつて再建されました。
 
 
 若草山
二月堂(修二会)
 二月堂から北西の方向にみえる小高い山に現在若草中学校が建てられています。ここには、かつて多聞城が築かれ松永久秀の本拠でした。ここには安土城天主に先行して建てられた高層建物があったと「多聞院日記」などの同時代史料に記されています。安見右近は松永久秀の多聞城まで呼び出され、その後、奈良市中で切腹に追いやられました。

生憎の雨天の為、大仏殿も霞んで見えます。

かすかに、小高い山が見えますが、多門城跡です。
 
春日大社と若宮神社
 奈良時代に平城京の守護を願つて創建されました。現在、春日山原生林とともに世界遺産『古都奈良の文化財』に登録されています。
この境内に立ち並ぶ石灯籠は、2000以上ともいわれ、日本一の数を誇ります。春日大社に石灯籠を寄進すると、願いがかなうといわれて、平安時代に藤原忠道が寄進したものを最古として、現代までその数を増やしてきました。

 このうち、若宮神社の手前参道に、安見宗房の名が記された灯篭が二基並んでいます。安見宗房は鷹山弘頼とともに南山城から北河内で活躍し、永禄元年頃に一時期ながら奈良も手中におさめていました。石灯籠はこの頃に寄進されたもので、安見宗房の足跡を現代に記しています。
 
 
 
 
   
 
春日社奉寄進 河州安見宗房 石灯籠
 
 東大寺ミュージアム
 平成23年10月の開館以来2年を経過いたしました。このたび、新たに四月堂から重要文化財 木造千手観音立像(平安時代前期)をお迎えします。その両脇侍としては国宝 塑造日光・月光菩薩立像(奈良時代)、さらに平安時代後期の制作である重要文化財 木造持国天立像・同じく重要文化財 木造多聞天立像を配し、ミュージアム内に新たな礼拝空間を創造いたします。

 本展覧会では、「東大寺の歴史と美術」をテーマに展示を行います。奈良時代8世紀の聖武天皇による創建から、平安時代の塔頭の成立と学問の多様化、また、平安時代末から鎌倉時代初期の戦乱を経た後の鎌倉復興、室町時代末から江戸時代にかけての罹災と復興の歴史など、奈良天平の創建から江戸まで連綿と続く長い歴史と、時代ごとに生み出された彫刻・絵画・書跡・工芸等の寺宝の数々をご紹介いたします。  
 (東大寺ミュージアム公式ホームページより参照)
 
 
 
 
 
 撮影禁止の為、パンフレットより参照いたしました。


星のまち交野のTOPへ