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平成30年11月 定例勉強会

 郡津丸山古墳の測量調査について
 若林 邦彦氏
(同志社大学教授)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 26名(会員20名)の参加
2018.11.24(土)午前10時、11月定例勉強会に26名が参加されました。

 村田事務局長の挨拶で始まり、高尾部長より若林先生の紹介の後、若林邦彦氏より
「郡津丸山古墳の測量調査について」をテーマで、「丸山古墳と交野地方周辺の古墳と集落」について詳しく解説いただきました。

 若林先生には、大変お忙しい中、交野古文化同好会の講演を引き受けて頂き、
 貴重なお話をお聞かせくださり有難うございました。
 丸山古墳の測量調査結果と淀川周辺の古墳と集落の変遷状況など解説頂き、
 大変興味深いお話でした。

 身近な郡津丸山古墳のこと、古墳と集落の関係など大変面白いお話に、参加の皆さん、
 時間の経過も忘れて、次から次へと質問が集中しました。
 

  (講演会の概要)

   「郡津丸山古墳の測量調査について」
    1.郡津丸山古墳とは
    2.淀川流域の古墳動態の中での位置
       ・周囲の前期古墳
       ・その間の地域の集団の古墳が4世紀代(古墳前期)にないのか?
       ・弥生時代~古墳時代の集落立地の変化とあわせて
    3.丸山古墳の測量調査の成果
    4.淀川流域の弥生~古墳時代の変化
    
 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の若林邦彦先生のご厚意により
    当日配布された「レジメ」及びWEB資料・写真などを参考にさせていただきました。
    記して感謝申し上げます。 
     ※WEB参照 (PDF) 
    若林邦彦先生著 「集落と墳墓の立地からみた
弥生~古墳時代の社会変化~ 淀川・木津川の流域を中心として ~ 」


講師 若林 邦彦氏(同志社大学教授) 
 
 
 
 


・弥生時代は低湿地で水田脇に集落
・古墳時代中期に集落域 分離傾向
 
 
 
 
講演会 レジメ 
若林 邦彦氏(同志社大学教授)

・ 淀川左岸の古墳形成と集落動態
  
 淀川左岸においては、弥生時代中期には集落に近接して、もしくは集落立地の主要地形である低湿地もしくは段丘縁辺に方形周溝群(招堤中町遺跡・交北城ノ山遺跡・星ヶ丘西遺跡・大尾遺跡など)が形成され、弥生後期には墓域は殆どみられなくなり、古墳時代初頭になると淀川望丘陵上に副葬品を伴う墳墓(中宮ドンバ遺跡)が確認される。

 古墳時代に入ると、同地域の各所に古墳が造営される。それらは主に、穂谷川流域・天野川中下流域・天野川上流域(交野山地西麓)のグループに分けられる。古墳時代前期には、この3地域でそれぞれに中~大規模の前期古墳が形成されている。しかし、古墳時代中期には中・大規模古墳の形成に偏りがみられるようになる。
 注目されるのは、天野川上流域において古墳時代前期に丘陵部に森古墳群が形成されたのち、中期には扇状地中下部を中心に車塚古墳群が形成されることである。特に前者では古墳時代前期初頭に鍋塚古墳などがあり定型的前方後円墳成立期の動きとして注目されている。このように、天野川上流域は古墳時代前中期に一貫して淀川左岸地域の大規模古墳造営の中心であった。
 この地域の集団が、淀川左岸古墳時代社会において中心的な存在であったことがわかる。ただ、前期の森古墳群から中期の車塚古墳群への立地変化には留意しておきたい。

 この天野川上流域における近距離での古墳群形成領域の移動は、近年行われている集落調査にも表れている。扇状地下部に相当する上私部遺跡では古墳時代中期に径300mを超える集落が成立していて、大型掘立柱建物などもみられるようになる。また、車塚古墳群に近接する森遺跡では鍛冶炉や鉄滓が多量に確認され、鉄製品生産の拠点として機能しているようである。

 古墳時代中期に主体となる中大規模古墳形成領域の傍らに、専業生産を含む大規模集落群が形成される現象は、淀川右岸の郡家川西遺跡周辺の現象に酷似しているといえよう。同時に、村野遺跡周辺に天野川中流域の集落形成が集中する現象も看取される。扇状地中下部や段丘上、特に主要古墳群の形成領域近くへの集住は、淀川右岸と共通する現象ともいえよう。

 また、古墳時代に入ると、船橋川流域では集落遺跡数も減少するとともに古墳群の形成も確認できない。このように、古墳時代に入ると小地域間の遺跡形成に差異がみられはじめ、前期においては一定の均等性はみられるものの、中期には特定領域への集落や古墳形成の集中傾向が高まるように思われる。弥生時代にみられなかった遺跡群間の差異が古墳時代にみられはじめ、古墳中期に決定的となるともいえよう。

 また、こういった遺跡群間の差異は、古墳時代後期になるとやや変化をみせる。穂谷川流域・天野川中下流域・天野川上流域に加え淀川低地周辺にも小規模な古墳(群集墳を含む)が形成され始める。古墳時代中期にくらべ後期には特定地域での集落・造墓活動の集中現象が確認できる。この点も淀川右岸と共通する傾向といえよう。 
 丸山古墳測量の成果
   ・隆起全体の比高差は概ね8~9m。
  ・平面の形状は、現状ではほぼ円形。
  ・現況から前方部の基部などの位置を想定することは難しい。
  ・盛土に堆積が断面でうかがえる墳丘部分は、直径35m程度の平面規模と類推できる。

 
中規模の円墳か
  しかし、明確に一定規模の古墳を形成している。
  天野川中流域の中心的古墳。
    ・問題は時期
    ・これは発掘しないとわからない⇒今後に期待
 
 
 
 
 
 

2014年 丸山古墳の測量調査風景
 2014.3.6
 交野市郡津の丸山古墳の測量調査が、同志社大学歴史資料館の若林邦彦教授の指導により2月25日から3月7日まで実施されており、3月6日、交野市教育委員会の真鍋成史氏のご厚意で見学会が実施されました。
 測量調査により、古墳全体の図面が作成されることにより、築造時期、天野川周辺の前期・中期古墳などとの関連などが解明されることが期待されています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
登り口の石仏
 
古墳の頂上に「椿様」が祀られている
 
<言い伝え>   丸山古墳の周りに池があった! 
鏡池(かがみいけ):郡津西ノ町の北に丸山古墳がある。
半分が土砂が採られてつぶれているが、東半分は残っている。円墳であるらしい,交野市史によれば禁野車塚、星ケ丘古墳等と同列の古墳で、4世紀のものと椎定されている。交野地方の豪族か郡司あたりの古墳であろうと推察される。
 この丸山古墳のすぐ東側に細長い池があった(今は埋め立てられ住宅に変わっている)この池を鏡池と呼んでいる。言い伝えによれば、この地に住んでいたお姫様が池を水鏡として顔を写し出していたことから、この名が付けられている。


駒が池(こまがいけ):丸山古墳の西側に鏡池と同様な池があった。
この池を「駒が池」と呼んでいた。昔、高貴な人の馬を洗った池であるとか、馬の足を洗った池であったとかで付けられたと言われている。
 いずれにしろ、鏡池、駒が池とも丸山古墳の墳丘を造るため掘り下げた所が池となったか、古墳の濠であったかで、その―部が残ったものである。  

最後までご覧いただきまして有難うございます。

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