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平成31年2月 定例勉強会

 東海道五十七次にまつわるお話
 堀家 啓男氏
(宿場町枚方を考える会会長)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 27名(会員24名)の参加
2019.2.23(土)午前10時、2月定例勉強会に27名が参加されました。

 村田事務局長の挨拶で始まり、高尾部長より堀家会長の紹介の後、堀家啓男氏より「東海道五十七次にまつわるお話」で、東海道五十七次に関する興味深いお話を2時間たっぷり、詳しく解説いただきました。

 なお、今回、堀家先生のご厚意により、当日の勉強会でお話になった内容を講演メモという形で後刻頂戴し、講演概要補足説明という形で掲載させて頂きました。記して感謝申し上げます。
 大変面白い貴重なお話に感動いたしました。

  (講演会の概要)
 レジメに従い
   「東海道五十七次にまつわるお話」
    1.東海道枚方宿の誕生
       ① 四村で宿を構成した
       ② 枚方宿各村に領主がいた
       ③ 昔から東海道は五七次で枚方宿は五十六次目だった
       ④ なぜか文書では「牧方駅」と書いた
    2.寛政の頃の枚方宿の光景
       参考図 「とよ川の図」部分より
    3.幕末の鍵屋裏のあたりは見事な石垣が続いていた
       参考図 「澱川両岸一覧 上り船之部」
            「か阿智名所図会 牧方駅」
    4.枚方村がないのになぜ「枚方宿」
    
 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の堀家啓男先生のご厚意により
    当日配布された「レジメ」及び「講演メモ」などを参考にさせていただきました。
    また、枚方LocalWIkiを参照しました。記して感謝申し上げます。 
東海道五十七次にまつわるお話
講師 堀家 啓男氏(宿場町枚方を考える会会長) 

 講演会 レジメ 
堀家 啓男氏(宿場町枚方を考える会会長)

講演会 概要と補足説明要点
    東海道五十七次にまつわる話

              宿場町枚方を考える会会長  堀家啓男氏


はじめに>

 
京阪間の交通は早くから淀川舟運が中心でした。豊臣秀吉が文禄堤(のちに京街道)を淀川左岸の枚方北端から大坂まで築いた(1596)ことで近世、陸路による京阪間の交通が盛んになりました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを制した徳川家康が翌年、東海道五十三宿をまず京都まで設置したのはまだ豊臣家が大坂でがんばっていたからで、大坂夏の陣で豊臣家を滅ばした(1615)あと京街道の伏見、淀、枚方、守口の四宿(京街道四宿と通称する)を指定し、東海道五十七宿としました。
 ここに古代から続く淀川の舟運とあわせて陸路京街道が発展、旅客、輸送の交通の要所として
東海道五十六番目の枚方宿が誕生し大きな役割を果たすことになりました。

1.東海道枚方宿の誕生
(1)四村で宿を構成した
 枚方宿は大坂夏の陣の翌年、元和2年(1616)頃に京街道沿い四村の構成で誕生しました。淀川の津として早くから舟運の要所となってきた三矢村と、その隣村岡村が町場の中核となり、新たに発展して拡張してできた大坂側の泥町村と京都側の岡新町村を合わせた四村でした。

 枚方宿は東海道の各宿と同じ百人の人足と百疋の継ぎ馬を用意することとされ、公儀の宿駅業務を勤めました。三矢村に「本陣」や「問屋場」が置かれ、参勤交代の大名や幕府役人の通行の便宜をはかりました。特に御三家のひとつ紀州侯五十五万石徳川家の行列は人足を含むと約4千人近くになり壮大,かつ華麗で宿や周辺の村々から人足や馬が総動員されました。
 
宿行政を担当する宿役人は各村の役人から選ばれました。宿の東の出入り口、京都側は「東見附」、西の大坂側は『西見附」と呼ぶ茶店がありました。宿内は始め藁葺、後に瓦葺となる旅籠や煮売り屋、商店が軒を連ねました。宿場町は約1.5キロあり遠見遮断、蛇行、枡形など宿駅らしい特徴を有していました。その道筋はいまも鮮明です。


(2)枚方宿各村にも領主がいた
 枚方宿四村の領主は各時代の幕府政策に影響を受けた配置でした。近世初めの寛永10年(1633)には豊臣系や西国大名を警戒した対策のため軍事力のある徳川家の信頼厚い譜代大名の淀藩永井家領(寛永期 1633~ )となりました。
 しかし早くも正保期(1644~)には幕府の財政力充実方針により幕府の直轄領(天領)に替わり、そして後期、天保11年(1840)には天領のまま反幕勢力の長州、尊攘派対策のため、淀川対岸に位置する譜代大名、高槻藩永井家の預所(あずかりどころ)とされ、京阪間の要衝としてその軍事力による京街道、枚方宿の治安維持に期待しました。奇しくも淀、高槻の永井家の藩祖は徳川家の重臣であつた実の兄弟でした。


(3)昔から東海道は五十七次で枚方宿は五十六次目だつた
 幕府官僚のマニュアル「道中方覚書」には「東海道は江戸より大坂迄馬継五十六ケ宿外人足役壱宿(注 守口宿は人足役のみでした)」の五十七宿と「東海道は江戸より京都迄馬継五十三ケ宿」の五十三宿を併記しています。
 東海道五十七次、五十三次とも公式のものでした。(参考)「近世交通史資料集巻10」吉川弘文館 「枚方市史第3巻 枚方市」 枚方宿は東海道の宿場町で品川宿から五十六次目でした。


(4)なぜか文書では「牧方駅」と書いた
 枚方宿が受発する公用文ではなぜか「牧方宿」や「東海道牧方宿」と慣用し、「牧」と書きながら「ひら」と読み、当時の旅案内でも「牧方」とされ、明治初めまで使われました。明治9年(1877)の枚方小学校の前身の卒業証書でもまだ「牧方小学」となつています。

2.寛政の頃の枚方宿の光景
 18世紀末、寛政の頃と推定される淀川沿岸の風景を描いた『よと川の図」は最近発見された折本形式の肉筆景色絵です。枚方宿も詳しく描かれ、淀川堤を枚方宿に向かう大名行列や、西見附に行列を迎える本陣当主の姿、通行する大名の関札、宿入口の防壁もあります。
 宿場町の旅籠や淨念寺前の枡形の光景、枚方におかれ淀川の船を監視した伏見、過書両船番所の建物、三矢村にあつた本陣池尻家の建物も描かれ、近世後半の枚方宿の光景をよく表しています。
 (参考図1)「よと川の図」部分より 大阪市立住まいのミュージアム蔵


3.幕末の鍵屋裏のあたりは見事な石垣が続いていた
 18世紀末まで鍵屋浦一帯、堤町の旅籠は高床でした。しかし長年にわたる淀川流域の新田開発や山林土砂の流入で川底が極度に浅くなり、淀川の氾濫、浸水が多発し、その対策で19世紀初めから宿場裏の淀川沿いの石垣化が一挙に進みました。明治初め淀川は水深わずか50センチだったそうです。
(参考図2)「澱川両岸一覧 上り船之部」文久元年(1861) 市立枚方宿鍵屋資料館展示案内(以下 鍵屋資料館)より 「河内名所図会 牧方駅」享和元年(1801)


4.枚方村がないのに「枚方宿」
 構成する四村に「枚方村」がないのになぜ「枚方宿」と名付けられたのかは不思議です。戦国末期、本願寺8世蓮如上人の後継者実如が枚方村の蔵谷(くらのたに)に枚方御坊を建立(永正11年 1514)し、枚方寺内をつくり、賑やかな町場として繁栄していたことに由来するようです。
 その後枚方寺内に蓮如上人の二十七番目の子、実従(じつじゆう)が住職に就任します。有能な実従は「順興寺」と改名し、寺内を整備、東南と西に堀と堤を築き、防備を固めました。寺内には周辺の町や村々から農民や商工業者が移り住み、賑やかな町場を形成しました。「枚方寺内」は淀川沿岸の真宗系寺内町の情報、流通ネットワークの拠点として重きをなしました。
 しかし元亀元年(1570)の織田信長の本願寺攻めのとき、信長の枚方陣取りに際し、抵抗むなしく寺内は終焉を迎えます。このとき寺内の油屋が焼き討ちされたと思われる甕倉(かめぐら)の跡(現在の大隆寺の境内)が最近、発掘されました。
 寺内終焉後、寺内の多くの商工業者ら町衆は共に栄えた隣村の湊町三矢村に移り、町場の発展に寄与、枚方宿が誕生することにつながりました。一方、商工業者が抜けた枚方村は農民の村に戻り近世を迎えますが、宿の名前にその名を残し、現在の「枚方市」名に至ります。

 参考図
1.「よと川の図」大阪市立住まいのミュージアム蔵より(年代は18世紀末頃)
  枚方宿の光景  出口と枚方宿の間を行く大名行列

2.「河内名所図会 牧方駅」享和元年(1801)
 「澱川両岸一覧 上り船之部 其二 牧方駅泥町」文久元年(1861)

  「牧方」と書き、「ひらかた」と読む。高床から石垣の建物へ。(鍵屋資料館より)
 枚方宿と寺内町
 枚方寺内町は、招提地区には敬応寺を中心とする寺内村が、枚方元町周辺には順興寺 (現在は場所を変え願生坊に)を中心とした枚方寺内町が形成されていました。
 招提の町並みは、周囲に土塁を巡らした当時の面影が伺えます。枚方寺内は、後の枚方宿の中心となる三矢を入口とする古道が残り、万年寺山へと繋がっています。
 ①.寺内町  枚方の宿場町は、元々は順興寺の寺内町として、中世期末に形成された『連如』ゆかりの地だと云われている。 蓮如上人は、文明7年(1475)に、『光善寺(出口御坊)』を建て、この地での布教活動を始めた。
 連如が建てた『光善寺(出口御坊)』と、その子『実従』が建てた順興寺は、摂河泉における浄土真宗の、布教活動の中心となり、当地では浄土真宗への改宗が、非常に多かった。
②.石山合戦で順興寺を始め寺内町の多くは焼失したが、徳川時代に入り、枚方は宿場町として蘇った。
③.踏切前の石碑    「蓮如上人御舊蹟舊名順興寺 谷御坊」
④.谷御坊と言ったのは、蔵の谷にあるからで、浄念寺は表御坊と呼ばれている。
⑤.願生坊は枚方小学校の創立地 。
 順興寺実従(ジツジュウ)は、浄土真宗中興の祖といわれる蓮如(本願寺8世)の末子で、明応7年(1498)に生まれ、永禄7年(1564)に没し、ここ御坊山(ゴボウヤマ)に葬られたと伝えられます。 実従は、兄の実如(ジツニョ)(本願寺9世)や実如の孫である証如(ショウニョ)(本願寺10世)を助けて教化につとめ、天文19年(1550)には証如から順興寺の寺号が与えられました。

 永禄2年(1559)には枚方坊に入り、なくなるまでの約5年間を過ごしました。実従の日記「私心記(シシンキ)」は、天文元年(1532)から永禄4年(1562)までの30年間にわたって綴られた日録で、そのうち永禄3年と4年の記録は枚方寺内町(ジナイマチ)の様子を今に伝える貴重な史料となっています。
 
 
   
実従上人の墓 
 
願生坊の山門
 
願生坊の墓
講演会 概要と補足説明要点
 近世交通
 大坂 ――― 京都   文禄堤 文禄5年(1596)できる
 ・京街道  主要道路である東海道
 ・淀川舟運
 ・西国街道  脇街道

東海道
 〇 関ヶ原の戦い(1600)慶長5年
  ・宿駅の設置  東海道<江戸 - 京都(1601)>
            五街道の整備はじめる
 〇 江戸幕府の開幕(1603)慶長8年
 ・五街道を定める(1604)慶長9年
 〇 大坂夏の陣(1615) 元和元年(慶長20年)
 ・枚方宿設置 東海道 → 江戸 ― 大坂
  (1616)元和2年(守口宿) が設置されたことが古文書にのこっている
 ・東海道五七次へ  東海道は 百人 百疋

・陸路として、
 江戸時代の京都と大坂の間には、主要道路である東海道と西国街道が(西宮まで)東西に貫いていました。 東海道は、江戸日本橋から京都三条大橋に至る五十三次が定説でした。
 しかし今日では、江戸日本橋から大坂京橋(大坂城京橋口)に至る東海道五十七次が有力になっています。
 西国街道は脇街道ではあるが大きな役割を果たしていました。西宮まで通じ途中から大坂にいたる街道がありました。

・水運として、
 淀川水運が大きな働きをもつ、伏見から大坂八軒屋まで
 ・枚方宿は陸路の東海道筋と水路の淀川水運の要であり、交通の要衝として大きな役割を果たしました。

 東海道はまさに三都(江戸・京都・大坂)を結び五十七次となっていました。
 枚方宿は江戸から数えて五十六番目の宿駅だったのです。
 ・五十七次って本当?
 ・宝暦8年(1758) → 江戸中期のこと、幕府(江戸伝馬役)が回答した。
  公文書で大目付に対し発した文書、「東海道は品川より守口まで」とすると回答しています。
 ・寛政元年(1799) → 江戸後期ころ
  幕府道中奉行が土佐藩の質問に対して回答した文書
    「伏見、淀、枚方、守口」のコースのほかに、コースは無い。
  道中奉行の「廻状」も品川より守口までと記す。

 ・文政3年(1806)→ 江戸後期のはじめころ
  幕府道中奉行が作成した「東海道分間延絵図」で、東海道を品川宿から守口宿まで
  としている。公式にも五十七次だったことが明らかです。
  
五十三次が有名になったのは、理由があったのです。
 五十三次 江戸日本橋―京都三条大橋
 歌川広重(安藤広重) 本名 安藤重右衛門 寛政9年(1797)
 「東海道五十三次」- 安政5年(1858)61歳
  江戸の定火消同心安藤源右衛門の子
 13歳で同心職を継ぐ、35歳の時、天保3年(1832)同心職を譲り絵師に専念し61歳で没するまで浮世絵師として活躍。役者絵から出発し美人画、風景画を制作、天保4年(1833)「東海道五十三次」(55枚の風景が描かれている)を製作、生涯で2万点を作成した。


 東海道の設置 慶長8年(1603)徳川幕府ひらく
 慶長5年9月(1600)天下分け目の関ヶ原の戦いの年です。その翌年、
 慶長6年(1601)正月 宿駅をおく
  江戸から京都まで当初は45宿 だんだん増えて大坂夏の陣までに48宿となる
  その後次第に増えて57宿となる。
 次 = 継 継ぎ送ること
   岡部・大津  慶長7年(1602)
   戸塚        9年(1604)
   袋井     元和2年(1616)
   箱根       4年(1618)
   川崎       9年(1623)
   庄野     寛永元年((1624)
  ※一里ごとに一里塚(約4キロ)5間四方 榎木・松などが植えられる
    街道筋に松並木を植える  

 慶長10年(1605) 秀忠の将軍宣下の上洛 16万人の人数
  御殿 - 宿泊  御茶屋 - 休憩

 寛永11年(1634)  家光の上洛 随行30万人
    近江水口城は家光宿泊の為
 寛永12年(1635)の武家諸法度を設定し参勤交代を義務化
 五街道
 江戸を起点とした五つの主要街道
 東海道 中山道 日光街道(道中) 奥州街道(道中) 甲州街道(道中)
 道中奉行の管轄
・慶長9年(1604) 五街道整備
 日本橋を起点に五街道とする
 万治2年(1659)道中奉行をおく
 中山道 67次  甲州 43次 奥州 27次 日光 21次
 宿場をおき 各宿に人足と伝馬 幕府役人の荷物を運ぶ
 参勤交代の制度化
  御参府 ・・・ 江戸へ  御暇 ・・・ 帰国
・外様大名  在府、在国を毎年4月に交代
・譜代大名  毎年6月
・御三家   毎年3月 他藩と分けた
  本陣の整備が進み 箱根・浜松は6軒 だいたい2、3軒
  上段の間が設けられた
・寛永年間に整う(東海道)
  常備 人馬 100人 100疋 (当初 36人 36疋)
・寛永14年(1637) 助郷制度の整備 助郷令
・享保9年(1724)  30疋
・享保10年(1725) 50疋を確保せよ 実際は32疋
  吉宗 参府 4回 帰国 3回
 吉宗の時から枚方宿を通るようになり、その後紀州藩は枚方宿を通るようになる。
 助郷制は、幕府の宿駅制の補完制度である。
幕府は百人百疋を超える分の人馬数を周辺の村々に負担させた。
村高のほかに助郷高を定めた。
助郷村はこの高に応じた人馬役を勤める。
枚方宿では人足、馬とも助郷村を指定
元禄7年(1694)助郷村が周辺の村々からその外側へ拡大して指定
元禄の大助郷=29カ村指定
枚方宿から50町以内の村が対象(一里14町)
元禄8年(1695)村野村だけはずされる。枚方宿助郷の最大の不思議といわれている。
助郷村に指定されなかった村も川越人足に動員される
   淀川通行時の船曳人足に動員された。

大南馬 小南馬
 枚方宿が大きく依存していた南方の雇馬のことをいう。
大南馬は、 讃良郡、河内郡、若江軍の村々に散在する馬で
    松原宿の宿役も勤めていた=27疋
小南馬は、 枚方宿に近くの交野郡、茨田郡の村々に飼われる馬をいう
      17~18疋
 小南馬
  私部村 2疋 私市村 2疋 星田村 3疋 交野郡 7疋
  打上 2 岡山 1 中塚 1 中野 1
  太秦 1 堀溝 1 木田 1 三井 1 北 1
     〆 18疋

天保13年の枚方宿の馬
 田原馬 12疋  大南馬 14疋
 小南馬 17疋  宿馬 32疋 (内4疋 渚村)

助郷馬は代銀勤で実馬はなし
 馬 40疋 交野=郡津、倉治村  人足昼夜17人ずつ宿に置く
 天保12年(1841)の行列
 春の紀州様 家臣 1639人 人足2337人 計 3976人
 秋の大坂城大番衆 毎年8月に大番衆の交代
   着任は船便が殆ど 帰任は陸路
 江戸の出発日が決められていたが、しかし実状は伏見から船便を利用
 枚方宿からは帰任の番衆が通行  6日間連続で通行
・献上 備後畳表通行 毎年秋 夏の土用入り後の日
  備後福山藩が幕府へ献上
・長崎奉行帰府荷物
  長崎奉行は2人制で毎年一人ずつ交代、帰府はオランダ船が9月に出航した後交代となる。  枚方通行は10月・11月頃長崎交易により献上物進物などを江戸へ運ぶ。
  私用で買ったものを、京・大坂で売却することが多かった。
  長崎奉行は遠国奉行である 人員100人を出す
  宿泊 船便にするよう働きかける 負担を減らすため
    14棹 ちょうちん持ち → 70人の人員
・御金銀通行 季節を選ばず 馬動員 馬1疋が3箱程度
    金箱 1箱に2000両
・禁裏撫物使通行 大祓 夏越の祓い
  祈祷札などを運ぶ 正月と七月 4人ずつ宿泊
枚方宿は周辺の村々に多大な影響を及ぼした
 ・助郷村として労働力の提供
 ・枚方宿の問題として、片宿のため他宿と比べて収入が少なく、飯盛女が多く
  周辺の村々の青年に影響を及ぼした。

 ・三矢村、泥町の旅籠屋は、自家に飯盛女をおくだけでなく、料理屋に女を派遣した
  飯盛女 「子方呼屋方」= 妓楼のようなもの
  天明5年(1785) 旅籠 32軒 天保14年(1843)旅籠69軒

・寛政12年(1800) 
 河内 摂津両国の147村 (茨田郡 讃良郡 嶋上郡 嶋下郡)が訴願
 大坂町奉行所へ訴願 「隠売女躰并茶屋遊所同様之儀 御差留御願」
 枚方宿の旅籠屋は近来、大坂、京都から売女、芸子躰の者を数多く召し抱え
 「在郷ニ不似合諸事花美尽之」状態である。
 しかもますますこの風潮が増長する傾向である。目下200人を超える飯盛女が
 連日のように琴・三味線・太鼓を用いて酒宴遊興の接待をしている。
 幕府役人の通行の時は慎んでいるが、その他の時は茶屋や遊所と同じで
 遊女同様のふるまいであると訴える。
 近郷の農民特に若輩者にも影響が及び周辺農村の荒廃を招いている。
 風紀粛正をしてほしい、取り締まりを求めるものである。

・枚方宿役人、旅籠屋はこれを当然のように否定、飯盛女の規制を守っていると
 主張し、片宿の苦労を訴える。
・宿側の主張が認められ代官所は華美な不埒な渡世をするものもいないと結論する。
・大坂奉行所もこの報告を受け逆に各村で申し合わせて、若者が出入りしない
 ようにせよと沙汰。147か村に自己規制を求めた。
 宿駅制度の維持のために原則を押し通したのである。

・天保改革以前に作成された全国の遊所番付である「諸国遊所競」最下段に
 「カハチ ひら方」が顔を出すほどであった。(全五段中)
 河内では、ひら方と石川の二か所。

・文政末期に、旅籠の2階建てがあらわれる。「2階屋」「二階軒」などと
 2階をうりものにしては、集客効果をあげた。
 東海道五十七次に関連する参照図録 WEBより参照
 
 

最後までご覧いただきまして有難うございます。

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