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令和元年 5月 定例勉強会
交野市指定文化財
 河内国交野郡星田村地詰帳に
見る星田の農業と農家

 大屋 喜代治氏
(交野古文化同好会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 22名(会員18名)の参加
2019.5.25(土)午前10時、5月定例勉強会に22名が参加されました。

 高尾部長の挨拶と大屋喜代治氏の紹介の後、大屋喜代治氏より「河内国交野郡星田村地詰帳(交野市指定文化財)に見る星田の農業と農家」について、興味深いお話を2時間たっぷり、詳しく解説いただきました。

 なお、今回、大屋先生のご厚意により、当日の勉強会でパワーポイントでお話になった内容について、後刻頂戴し講演概要補足説明という形で掲載させて頂きました。記して感謝申し上げます。大変貴重なお話を有難うございました。

  (講演会の概要)
 レジメに従い
   「河内国交野郡星田村地詰帳(交野市指定文化財)に
           見る星田の農業と農家」
    1.河内国交野郡星田村地詰帳
       ① 地詰帳と名寄帳
       ② 河内国交野郡星田村地詰帳について
       ③ 地詰帳の総括文について
       ④ 八幡藩、大久保藩について
       ⑤ 八幡藩 大久保藩の領土の変遷
    2.地詰帳が描く星田村の豪農・中農
       ① 豪農・中農とは
       ② 村内の耕地の地域区分と地域の概要
       ③ 5反百姓出ず入らず
       ④ 明治期の田畑の耕地面積と米収穫高(石高)との比較
       ⑤ 地詰帳(文化3年)の描く御殿屋敷(小字とうとのかい)の請田畑

 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の大屋喜代治先生のご厚意により
    当日配布された「レジメ」及び「講演メモ」などを参考にさせていただきました。
    また、WEBより参照しました。記して感謝申し上げます。 
     交野市の指定文化財      星田村地詰帳(ほしだぢづめちょう)
      時代  延宝5年(1673)  構造等  堅帳 1冊
    指定年月日  平成18年9月1日
 地詰帳は、検地帳の元となるものです。星田村では、寛永14年に村中総掛かりによる新田畑の大開墾が行われ、星田村の領主である仁正寺藩の主導による検地が行われ、この時に作成されたのが元々の地詰帳でした。
 この地詰帳は、末尾に「寛永十四年丑ノ卯月廿二日」と書かれてあることから、寛永14年(1637)の地詰帳を写したものであることがわかります。これは星田村の庄屋文書に記されている年号の中では最も古い年号のものです。
 また後書きに「延宝五年霜月廿二日 写畢」とあることから、寛永14年から40年経過した延宝5年(1673)に書き写されたものであることがわかります。
 さらに、享和3年(1803)に作成された「星田村明細書」には、星田村にある星田寺、慈光寺、光林寺、光明寺、善林寺、円通院等の由緒書きの中に、「寛永十四年 殿様御地詰御帳面高〇〇〇〇上納仕来」とあり、寛永期の地詰帳は星田村にとって、後世まで貴重な基礎的史料となっていたことがうかがい知れます。
  (交野市の指定文化財を紹介する冊子を参照)
 
河内国交野郡星田村地詰帳に
見る星田の農業と農家

 大屋 喜代治氏
(交野古文化同好会) 

 交野古文化同好会勉強会資料 
2019年5月25日 

大屋 喜代治氏 (交野古文化同好会)
 河内国交野郡星田村地詰帳
 地詰帳とは、検地帳のことで、検地は文禄三年(一五九四年)に行われたいわゆる太閤検地が有名であるが、江戸時代はその約四十年後の寛永十四年(一六三七年)に検地が行われた。その頃は星田村では、村中総がかりの新田畑の大開墾が行われたとされている。さらに四十年後の延宝三年(一六七五年)当時天候不順などで慢性的な不作が続いていた悪条件の中で年貢の増収と小農経営の自立安定を目指し、畿内などの幕府直轄領で六尺一歩を一間、三百歩を一反とする新検といわれた縄で測量が行われたとされている。
 星田村では、領主としては大久保藩は、先に貞享四年に永井藩に知行が行われその後大久保藩に移されたものであるが、直轄藩ともいわれていてこの地詰帳の末尾の文章で、延宝五年写畢と記載されているから実施されたのであろう。当時の検地制度は、公6民4といはれ年貢の取立てが厳しいため、庄屋などが地詰帳など検地にかかる資料を全て処分したのではないかといわれていて近隣の村では見当たらず、星田村では、たまたま庄屋の引き継ぎ文書で残っていたもので、農業の実情がよくわかる貴重な資料である。
 星田村では延宝の検地以後幕末まで検地は行われていないため、延宝の検地の際つくられた延宝の地詰帳が最後でまた最新のものであるが、この地詰帳は、そのものではない。この地詰帳は、表紙が虫食いされていて年号がわからないが、月の記載は、辰ノ霜月とされていて、これに合う年号は3つの年号があるが他の2つの年号は、いずれも5年に至らず、従って該当する年次は、文化五年しかないようであるが地詰帳の内容から見ると正に文化年間にふさわしいと思われる。つまり延宝の地詰帳からはじまって、文化五年に至る百三十年間の請田の売買、相続などの承継や新田開発などの徴税台帳としての諸条件を記録整理してきたもので、最終的には文化年間の請田や請受農家の実態を示しているものであろう。従って三藩の村役人、あるいは市橋藩が主導で作成されたものともいわれているが、いずれにしても年貢の徴収事務のため村役人が作成する名寄帳の一種ではなかろうか。
 地詰帳と名寄帳
  地詰帳は、領主が庄屋や村役人に検地を命じて検地が実施されそれによって作成されるのが検地帳であるが、上述のように検地は、幕末まで寛永と延宝の検地の二回とすると検地帳は、二冊に限られることになるが、別に名寄帳というものがあり、これは、庄屋や村役人が、年貢の徴収上作成する徴税事務文書であって、これについては、領主でも閲覧命令が出せないともいわれていて、その事務の代表的なものは、地詰帳は、請田の土地主体で作成されているのに対して名寄帳は、農家の人主体の納税台帳で、数件の請田を保有する農家などに合わせた請受農家単位に徴収されることなどが代表事務としてあげられている。
 星田村では、350軒位に対して田畠は、2138筆で一軒の農家当たり平均筆数5以上ありまた豪農、中農ということで後述するように15筆以上の耕地を持つ農家は51軒あり、地域をまたがり、あるいは複数藩の領域を耕作している農家も多く単なる計数処理上の作業などが例としてあげられているが、ほかにも耕地の分割、承継、新規開拓地の発生などが起こった場合には、年貢の徴収の上からは庄屋や村役人はそれなりの事務対応を迫られたことが想定される。
 現在法では、税は、法律で、手続きは、政省令でというような思考方法があるが、当時は当然そんなものはなく、庄屋や村役人がすべてきめてきたのであろう。従ってその後の請田、請受人などの経過を記載してきたものであろう。
 しかしこれは名寄帳として年貢の徴収台帳とするとこのとおり徴収しても各藩の藩高には八幡藩はほぼ一致するが市橋・大久保藩は一割程度不足し、その分は各藩の税札で徴収していたであろう。
 元禄三年の星田の三領家と庄屋の覚え書きと本地詰帳
 
 星田村は、近江仁正藩(市橋家)、相模小田原藩、と石清水八幡領の三藩による相給村であるが、星田村で一番古い古文書といわれる元禄三年の「星田の三領家と庄屋の覚書」がある。この古文書は延宝の地詰帳が作られた延宝検地の一五年前であり、延宝検地の状況は織り込んでいると同時に両資料はほぼ同時代とみなしてよいだろう。
 この覚書とこの地詰帳の内容を比較すると覚書では、請受農家と無役家を含めて、村中総数で、332軒、八幡藩で同じく9軒、大久保藩で10軒であるが、地詰帳では、単位が農家の軒数と農地の耕地筆数の違いがあるが、村中の田、畠で2138筆、八幡藩で141筆、大久保藩で108筆となっており、覚書に比べて、地詰帳はかなり分散分筆化が進んでいる。
 あるいは、新田開発が進んでいて耕地数が増えるとともに内容的にも水田化率が高まっていることも考えられる。特にろくろ、玉江など東高野街道周辺や北星田地区などの水田化の状況を見るとかなり進んでいて、星田大池の築造と灌漑施設の敷設がかなり進んだ幕末寄りの時期に近い時期の水田の状況に見える。
 河内国交野郡星田村地詰帳について
 本地詰帳は印刷物として一冊の本につくられているが、その原本では、2138筆の請田畑が18枚の紙に書かれている。この記載事項は、延宝の検地の地詰帳(これは後述するように市橋藩では183枚の紙に書かれていたと考えられる。)に請受農家が農地の相続、移転など承継された場合あるいは請田を新田開発により新に取得した場合また、三藩の中で領主の移動があった場合などは、年貢の徴収事務台帳の原本として記録されていったものであろう。
 18枚の紙面には最初に記載農家氏名、最終農家氏名とその間の全農家の合計石高をウワ書きしているものである。(以下「ウワ書き紙面、あるいは文書」という。)各18枚のウワ書き紙面では平均して100筆あまりの請田について小字地名、耕地の田あるいは畠の区別、と耕地の上中下ランクづけ、耕地面積、請受農家名や、生産石高(年貢の額)など太閤検知の地詰帳に使われている書式が大半で一部異なった書式で書かれている。
 また星田地区は、木綿の栽培が盛んで、年貢は当初は米納であったが、商品経済の発達とともに銀納もできるようになったとされるが、年貢の支払いのための米の調達など複雑にからんで請田が交錯したことも考えられる。名寄帳の作成は各藩の領主単位に村役人がつくることになっているが、本地詰帳は、三藩が一本にまとめられており、市橋藩でつくられたともいわれている。村高の確保のため、三藩合同あるいは、主力藩である市橋藩主導で作られた名寄帳であろう。
 2136筆の田、畠、の面積、生産石高を集計したものが、次表の小字別田・畠・やしきの石高の表、記載のとおりである。生産石高の集計では、田が1、149石、4斗6升4合、畠が195石、2斗1升5合、やしきが27石1斗7升7合で合計で1371石7斗6升7合でこれでは、星田村高1535石八斗に対して164石ほど不足している。

   
   
   
 地詰帳の総括文について
 
 この地詰帳の18枚のウワ書文書の末尾に総括文を載せている。この文章は、年次の記載が二カ所で一カ所目は寛永の検地の際の記載事項で1行目の九百六拾弐石三斗九升九合 田方分から始まり、21行目(13行~14行を除く。)の木野吉右衛門までが寛永検地の際の記載事項であり、22行目の紙数壱百八拾三枚から末尾の写畢までは延宝五年の延宝検地で記載されたものであろう。
 13行目 百弐拾石 内壱斗六升六合は不足 八幡分と14行目の百九石八斗 内拾四石六斗弐升三合出来分は文化五年記載されたものであろう。
 従って結果として寛永、延宝と文化五年(本地詰帳作成時)の3年次にまたがる文書である。

 この総括文は、市橋藩に対する延宝五年の地詰帳を原本として作られたものであって従って1行目から12行目の惣合千参百六石までは、市橋藩のことで、最初の3行の田、畠、屋敷方分の数字を合算すると、毛付〆の千壱百六拾五石九斗弐升九合になりこれに続く百参拾石八斗三升三合 永荒砂入と弐石八斗六升弐合の荒の内にいるの2行は荒れ地(洪水等の被害地)で免税措置が受けられた地、さらに続く、四石九斗八升四合、と壱石三斗九升弐合は、新規開拓地か内容がわからないが、この4行を加算すると千三百六石となり、市橋藩の石高となり、これは寛永の検地の際の市橋藩に対する地詰帳の原本の写しであろう。
 八幡藩、大久保藩について
 
 この地詰帳では、2136筆の請田・畠について太閤検知で使われていた書式でほとんどが描かれているが、一部で全く別の書式で描かれているものがある。一つは、各請田の記載の書式のうち、田畠の種別、上中下のランク、田畠の面積の記載がなく、石高と請受農民の名前だけのものがある。二つ目は書式は太閤検地の書式と同じであるが、小字地名の後に出マークが付されているものである。
   
   
 以上の2つの異なった書式のものを抽出したものが上記の表である。上記の一つ目は、13の小字の中で141筆の請地があり、その生産石高の合計は118石であるが、八幡藩の石高が120石で2石不足するが、先の地詰帳末尾の総括文の13行目の八幡分の記載の内壱斗六升六合は不足の近似数字であり、また二つ目の出マークが付いたものは、同様に、24の小字をまたいで、109の筆の請地があって、生産石高の合計は、85.3石であるが、大久保藩の石高は、109.8石であり14.5石少ない。しかし同様に地詰帳の総括文の14行目を見ると 百九拾八斗 内拾四石六斗八升三合出来高の記載がある。1斗6合齟齬するがこれも同様にほぼ一致し、関連する数字で、出マークがついたものは大久保藩、また生産石高だけのものは、八幡藩請受地と見てよいだろう。
 星田村では星田山の頂上から見下ろすと米づくりよりも綿花栽培が目立ったという記述もあり、従来の田畠の種別や上・中・下などの田畠のランクや石高の書式は、綿花栽培の畠ではなじまないことが考えられ、交野町史では、郡津村では綿花栽培地はそれなりの書式が使われているとされているが、米作と綿花づくりとは条件が異なり、また、綿花づくりの場合、綿布や、星田縞などの綿製品の家内工業的なことも行われていたともされており、八幡藩では、藩の名寄帳の中で従来の米作中心の書式の不合理性を修正していたのかも知れない。

 以上のように河内国交野郡星田村地詰帳は、各藩の領土単位でなく、小字地名順に請田、請受農家を並べ、すなわち農地順、農地本位に全村の農地を並べてその中で遺漏なく年貢をとりたてようとするもので、前述のように農家の平均筆数が多く、また領主が数藩にまたがる請受農家も多く年貢の徴収納付は、綿花栽培の米納、銀納などもからんで便宜的な方法が取られたであろう。
 また星田村のように数藩による相給村の場合一般的には領主との関係は石高の年貢の納付中心で、領主の領土意識が希薄になるといわれていて、年貢が納められている土地に対する領土感覚がうすく、決められた年貢の石高が確保されればよいということであろう。
 八幡藩・大久保藩の領土の変遷
 八幡藩大久保藩の領土については元禄十年星田村絵図で領地を絵図で示して表示されている。これによると八幡藩の領地は、二ケ所で描かれていて一カ所目は、西の村の本通りと東高野街道が一里塚の少し西側で交差している付近で現在のJR星田駅付近を中心に描かれている。二ケ所目は中川の西で光林寺の東、川尻の池の南側で、川尻の池とは、現在府道線の交通慰霊塔付近にあった池であり、現在JRが鉄橋で中川をまたいでいるあたり付近が中心に見える。
 大久保藩の領土については、現在の北星田地区でJR星田駅北側から西側は寝屋村との境界に近いところ、北側は茄子作村に近い北西部のはずれに描かれている。現在はこの付近は、第二京阪道路ができている。星田駅周辺から大久保藩の領地になった北星田地区は、地盤が高く、東に流れている天の川に向かって、西高東低で扇状に高低図を描いている。江戸時代の初期から中期にかけて造られた星田大池ができなければ、水量の確保が困難な地区で古くから星田牧の牧場に使われていたところである。
 八幡藩の領土は古く、石清水八幡宮は、平安以降に星田をはじめ、現在の交野、茄子作など一帯を荘園としていたことがあるが、豊臣秀吉がその経緯を踏まえて太閤検知の際120石の領地を御供料として与えたのがはじまりで、印字山地区(現在の妙見坂付近)は、このときの朱印状が由来の地名であり、小字の防領は、新宮山八幡宮にあった愛染律院の領地からきた名称であり、 これらの領土は、星田村の古くからの水田地帯であった中川以西の地であり、元禄絵図が描く八幡藩の領土とは異なた地域である。
 大久保藩の領地は、徳川五代将軍の時代で比較的新しく、知行されたものであるが、星田村では3代将軍家光の時代から星田大池の築造がはじまり、その頃から新田開発を進めてきたとされるが、現在のJR星田駅周辺や、大久保藩の領地付近まで通水するようになり、水田可能になり、その時期に八幡藩の領地が移された結果、元禄絵図が新領地をえがいているのであろう。元禄絵図が描いている領土に対してこの地詰帳では文化五年の星田村三藩の年間の領地の分布の推移を比べることができる

 
元禄十年星田村絵図
     
 八幡藩
 次の地図は地詰帳による文化年間の八藩藩の104の請田の配置を示す地図で赤字は各小字の請田の八幡藩の筆数で黒字はその小字にある土地の全筆数の数である。従って東高野街道に沿って上からたまこ、ろくろ、またそ(四馬塚)という小字が続いている。ろくろ地区は現在の星田小学校の敷地をさらに東側の市役所の星田出張所の地域を含めて北村から一里塚に通づる古くからの道があるがこれが東の境界であるが、このろくろ地区は全域が八幡藩の敷地であり、またその西側のたまこ地区は、現在の旭小学校の敷地と東高野街道にはさまった地域であるが34の耕地のうち六割が八幡藩である。かんでらの36の耕地にはかうけだ、かけひの18耕地を含んでいる。
       
  一方で大久保藩は、元禄一〇年絵図では領土としては小字の平池付近で大きく描かれているが文化年間の地詰帳では右の図で示してかなり広範に広がっている。元禄絵図の範囲を大きめに見積もって上平池、下平池、堀之内、小池の範囲としてみても三八筆で六五筆は他の地域に分散化している。
 星田村のように領主が三藩の相給村の場合、領土意識が希薄で、石高社会といわれるように石高が確保されれば、その産出地はこだわりがないといわれているが、八幡藩と大久保藩を比べてみると八幡藩の場合はある程度領土がまとまった形で広がっているように思える。
 星田村の土地利用については、その特色として一つは綿花栽培が盛んであるということであり、もう一つは東高野街道沿道の土地利用で江戸期には宿屋など農業以外の通行関連で栄えていたとされており、明治になって衰退したとされているが、このことからすると、八幡藩は、街道沿いや付加価値を生みだす地域などにまとまっているかに見える。小字のとうのかいとは、徳川家康が大坂攻めに宿陣した御殿屋敷の跡地であり七五%を領地に取り込んでいる。
 地詰帳が描く星田村の豪農・中農
  豪農・中農とは
 地詰帳に記載の星田の耕地の数は記述のように2136筆で名請農家の数は,355軒で名請農家一軒あたり耕作田畠(屋敷数も件数で加算。)の件数は、5.5筆であるが、15筆以上の保有者を豪農・中農家としている。名前はすべて同じ名前は同一人とした。今日の苗字と名前を使う中での名前は、重複して同名が多いが、当時は、ほとんどが、苗字なしの名前だけであるが、幼名と親の名前を併用して親の名前を継承する場合が多く、案外同名は 少ないのではないかと思える。
 また例えば、三郎右衛門氏(以下.敬称を略。)の場合 三郎右衛門、三郎右衛門(辻や)三郎右衛門(小北)と3種類の書き方があるが、屋敷で三郎右衛門(辻や)、三郎右衛門(小北)の両名の名で別々にやしきの年貢を納めている場合は、別人としたが特に別のやしきの年貢を納めていない場合は、同一人とした。
 「河内国交野郡星田村地詰帳」のページを追ってブロックをつくり区画番号をつけて作成した地図である。この原図は交野市史の交野市全図(昭和20年代頃まで星田村の土地登記などに使われていた小字の地図。)の上に天保一四年星田村絵図記載の小字名や道、池などを記載して作成した。当時の広域交通路として東高野街道と山の根の道(山根街道)の二道のみが描かれている。
 
  
 
  
  
 豪中農家の耕作地は、広域に及んでいて家族、使用人、無役農家など小作人によって支えられていたのであろう。
 市橋藩の庄屋東兵衛氏は、幼名を半五郎といい、地詰帳の半五郎のことであろう。これによると庄屋東兵衛家は、田、畠、屋敷すべてを含めて80筆の記載があり、すべて半五郎一本で、地名や屋号のついた別名はなく、石高42石で、1区、2区、3区、6区に集中していて4区、5区にはない。
 市橋家の同役庄屋三郎右衛門氏は、石高で47石で一番多いが、三郎右衛門 辻やと地名の辻屋がついたものが15石あまりあり、6区の屋敷の中で、三郎右衛門と辻や三郎右衛門の双方が存在しやしきの年貢を別々に支払っている。全区にわたるが、辻や三郎右衛門は、3,4,5区に集中し、地区別に使い分けしているようにも見える
 永井藩後に大久保藩となるが庄屋の半兵衛は、38石で領地は上平池、堀の内や尾道など6区であるが、個人の請受地も6区に多い。
 八幡藩の庄屋源左衛門氏については、地詰帳の源は領域は、3区が中心であるが、個人の請受地としては、3区もあるが、八幡藩は荘園時代から豊臣時代など最も古い歴史をもち、古い水田地である1区、2区が多いのであろう。
 5反百姓出ず入らず
 昔のことわざで五反歩の耕地をもっている百姓は、金が残りもせず、借金もせず、また他人の手も使わず内輪の手で足り、恰度とんとんの経営であると言うことです。ただし自作農の場合で、小作の場合は、半分は地主のもので自分の収入は収穫の半分で2反5畝になる。
1反の田から1石の米がとれる。
1石の米は人1人が1年間養うに必要な量である。5人家族を想定すると5石必要でそのためには5反の田が必要である。ざっとした計算である。
 年一石の米を食べようとすると、第2次大戦後に食糧配給制度があり、事情が少し改善して1人2合7斥まできたが、腹いっぱい食べるためには一人3合配給が目標という時代があった。1日3合を365日食べれば年に1石8升5合になり、1石を超える。そのためには毎日朝昼夕食とも3杯飯を食べることになる。人の1日取得カロリー1500カロリーを米食だけで取得しようとなるとこうなるが、今日副食が豊富であり、とてもこのように食べられない。
明治期の田畑の耕地面積と米収穫高(石高)との比較 
 この地詰帳記載の田畠の面積を集計すると、一部八幡藩の地区は石高だけで田畠の上中下ランクに加えて面積の記載がないので全量をとらえることはできないが、この分については石高からの推計地になる。
 田は、市橋藩、大久保藩で73町.9反、畠は同じく両藩で18町5反であり、これに八幡藩分120石の面積を仮に田の中クラスで推計換算すると1反あたり1.3石とすると120石の耕地面積は9町2反となる。合わせて田、畠と八幡分を加算すると全耕地面積合計は101町6反になる

 税地  明治8年改正反別(大阪府地誌)
 田  191町5反2畝25歩
 畑   38町7畝10歩

  
 星田村大絵図
  星田名所記による文化3年に建てられた家康行営の記念碑と家康の座所であった奥書院の上段の間を模して造られた記念の建造物。
 当時の御殿屋敷一丁四方あったとされ、宿営地は、艮(うしとら)村と外殿垣内の両小字の間の堀と梅林が描かれている。
 星田村大絵図では、田三枚の屋敷地を描いている。
     
大屋先生が作成されたパワーポイント資料を
参考画像として掲載させていただきました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<参照事項>

 【検地帳】より
 …そのため検地帳は貴重な史料として研究者に利用されており,太閤検地論争は検地帳の研究の一つの成果である。地押帳,地詰帳,縄打帳などと表記された帳簿も,初期検地の研究では一括して検地帳と呼ばれることもあり,また初期検地では検地帳と表記された帳簿でも,それが実際に縄入れされた検地結果であることに疑義がもたれる検地帳もある。


けんち【検地】
 近世、年貢の徴収と農民支配を目的に、幕藩領主が行った土地の測量調査。検地帳に田畑の面積・等級・石高・名請人などを記載し、領主支配の基礎とした。豊臣秀吉の太閤検地以後、全国的規模で行われた。

【太閤検地】
 豊臣秀吉が行った全国的な検地。天正10年(1582)開始。1歩を6尺3寸四方、300歩を1反、田畑の等級を上・中・下・下々の四段階と定め、枡(ます)を京枡に一定して石高を算定し、耕地1筆ごとに耕作者を検地帳に記載して年貢負担者を確定した。これによって荘園制下の所有関係が整理され、近世封建制度の基礎が確立された。

【名寄帳(なよせちょう)】とは、ある人物が持っている不動産の一覧表のことである。一筆一棟ごとの「固定資産課税台帳」を所有者ごとにまとめたものである。

 名寄帳は中世から存在しており、検注帳・検地帳が土地ごとに所持者を記しているのに対して名寄帳は個々の人間ごとに所持地を一括して記している。ただし、検注帳・検地帳が領主の命令で作成されるのに対して、名寄帳は個々の村で年貢の割り当てなど事務上の必要から村役人が独自に作成されるもので、江戸時代の場合には検地帳と違って領主への提出義務はなかったものの、村の運営には欠かせないものであった。

【請田】うけた
田畑を小作すること。また、小作人。下男が主家の田畑を受けて小作することをいう場合が多い。
「写畢=写しおわんぬ」 しゃひつ

【相給(あいきゅう)】とは、村請制が確立した近世期における領知の一形態を表す言葉である。 一つの村落に対し複数の領主が割り当てられている状態を指す。 村(郷)が分割されたために分郷(ぶんごう)とも言った。

太閤検地は以下のような基準で行われた
結果は石高で計算する。(それまでの貫高から改めた)
数の単位 6尺3寸=1間(約191cm)
1間四方=1歩
30歩=1畝
10畝=1反
10反=1町


田畑は上・中・下・下々の4つに等級づけする。
升は京枡を使う。


これによって表示が全て石高になるなど(石高制)、日本国内で土地に用いる単位がおおまかに統一された。

ただし、この基準で行われたのは天正17年(1589年)の美濃検地が最初で、それ以前の検地がどういった基準で行われたのかは不明である。また、その後の検地でも例外は多数存在する。

最後までご覧いただきまして有難うございます。

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