<第127回> 令和5年3月定例勉強会 講師:企画事業部(古文化同好会) 基調講演「物部氏と饒速日命と交野」 巽 憲次郎氏 司会 梶健治氏 パネラー 山本秀雄氏 青山洋二氏 特別ゲスト 西角明彦氏(磐船神社 宮司) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 36名(会員31名)の参加 |
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2023.3.25(土)午前10時、3月定例勉強会に36名が参加されました。広報交野などを見て参加された5人の内、1名が新しく古文化同好会に入会され会員数は164名となりました。 司会進行役の梶さんより、「只今より、物部氏と饒速日命と交野のテーマで討論会を開催させていただきます」との開会の宣言に続き、村田会長より、まず最初に、「令和4年度の古文化同好会の活動としましては、本日の勉強会が最後の事業となっています。50周年記念事業も滞りなく終わりましたこと重ねて御礼申し上げます。 ご案内しております通り、来月15日には、古文化同好会の定例の総会が開かれます。どうぞ沢山の皆さんの参加をお待ち申しております。・・・など」と挨拶があり、早速、巽副会長による「基調講演」が始まりました。 また、大変お忙しい中、磐船神社の西角宮司様が特別ゲストとして参加下さいました。 今回の勉強会は、従来とは少し趣向を変えて「出演者による討論形式」で開催されました。初めての事でしたが、出演者全員が夫々の持ち味を発揮され、まずまずの出来栄えだったと思います。到らない所があれば、今後の課題として取り組んで行きたいと思います。 特に、基調講演の巽副会長は、パワーポイント(画像数78枚)を駆使して、先ず最初に、最近発掘調査され大きな話題を呼んだ「日本最大の円墳 富雄丸山古墳」を取り上げて、金属工芸の最高傑作-国宝級の大発見!!と命題、被葬者は個人的には当然「ナガスネヒコ」と決定!と・・・打ち出し、本題の「物部氏と饒速日命と交野」について、長年の研究成果を発表され詳細に解き明かされました。 特別ゲストの西角宮司様は、磐船神社の祭神「饒速日命」と「住吉大神」の歴史について詳しくご説明を頂きました。交野古文化同好会60周年記念誌・調査研究編(127~128頁)の原稿として頂戴しました「不屈の饒速日尊」(後述)をご参照ください。 ホームページに掲載するにあたり、講師の巽さんが研究・作成された膨大なレジメ等を頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。 |
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皆様、お早うございます。 本日は、足下の悪い中、早朝より沢山の皆さんにお集まりいただき誠に有難うございます。 このところ、野球、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)準決勝では劇的なサヨナラ逆転勝利、決勝でアメリカに3−2で勝利し、日本が14年ぶりの優勝を決めました。大いに盛り上がりました。皆さんも心の奥から応援され感動されたことと思います。 盛り上がりと言えば、交野市の組織を挙げて、NHKの大河ドラマ「どうする家康」に因んで、家康にゆかりのある星田の旗掛け松で有名な新宮山を中心に、星田駅や平井さん宅にある「神祖営趾之碑」や「ひそみの藪」などに、400年前の1615年「夏の陣 家康公出陣の星田」という幟を100本くらい立てて盛り上げようとされています。NHKを呼び込もうと奮戦中です。 交野広報の4月号をどうぞ良く読んでください。表紙は新宮山、裏表紙には家康の伊賀越えの話などが毎月12回連載される予定です。 令和4年度の古文化同好会の活動としましては、本日の勉強会が最後の事業となっています。50周年記念事業も滞りなく終わりましたこと重ねて御礼申し上げます。 ご案内しております通り、来月15日には、古文化同好会の定例の総会が開かれます。どうぞ沢山の皆さんの参加をお待ち申しております。 さて、話が長くなって申し訳ありませんが、本日の勉強会「物部氏と饒速日命と交野」古文化同好会の企画事業部の皆さんが独自に研究・調査されたお話を、分かりやすく披露して頂くべく準備されてこられました。 これまでも、昨年の50周年記念特別展や秋の文化祭の展示にもいろいろと披露してきましたが、本日は、前半はは巽副会長により「交野物部氏物語」の基調講演をお願いし、後半の部では、司会に梶さん、パネラーとして巽さん、山本さん、青山さんに登場いただきシンポジューム形式でいろいろと討論をお願いすることとなっています。 また、本日は、大変お忙しい中、磐船神社の西角宮司様が特別ゲストとして、参加下さいましたで、どうぞよろしくお願いいたします。 それでは、まず、巽副会長の基調講演をお聞きください。よろしくお願いします。 |
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村田会長 |
基調講演 巽憲次郎氏 |
(左より) 巽さん、西角宮司、山本さん、青山さん |
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山本さん、 青山さん、 司会の梶さん |
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巽さんと西角宮司 |
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特別ゲスト 西角明彦氏 (磐船神社 宮司) |
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磐船神社 宮司 西角明彦氏 (交野古文化同好会 50周年記念誌 調査研究編より) |
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私が神職になって三十三年が過ぎ、平成十年に磐船神社の宮司を拝命してからでも間もなく四半世紀になろうとしている。生まれた時から神社に住み、親の後を継いでからこのかた、回りの人々氏子崇敬者のおかげでなんとか宮司の任にあたっている。私にとってご祭神饒速日尊は、勿論特別な存在である。それは神社の宮司ということのみならず、親から教えられた神様との絆みたいなものがあったからだ。 幼い頃、親に自分の名前の由来を聞いたことがある。すると「お前の名前はうちの神様の名前から字をいただいたんや」と言われた。神様のお名前ぐらいは 知っていたが饒速日尊の名前に私の名前の文字は入っていない。その時に正式な名前を教えてもらった。その名は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)という長い立派なものであった。その中の二字をいただいたそうだ。他の兄弟の名前には神様の文字は使われていない。運命的なものを感じてしまった。それ以来、饒速日尊のお名前を頭に浮かべる度に、自分とのつながりを感じる様になった。 ところでこの十四文字の長い御神名は記紀神話には登場しない。先代旧事本紀にのみ登場するお名前である。皇室の先祖である瓊瓊杵尊の正式な御神名は天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊とおっしゃるが、このように長い御神名はその神様の御神徳、御神威の高さを示している。饒速日尊は記紀では単に天津神として記されいるが、旧事本紀では天孫(天照大神の孫神)として瓊瓊杵尊の兄弟として記され、それにふさわしい御神名が記されている。 先代旧事本紀は長い間偽書とされてきたが、近年は物部氏独自の伝承を伝えていると再評価されている。この長い御神名もおそらく物部氏に伝えられてきた名前であり、奈良時代に淡海三船によって歴代天皇の諡が選進された事例のように、饒速日尊の事績の伝承を基に尊に贈られた名前では ないかと考えている。その意味するところは「天を照らし、国を照らす日神の御威光を受け継ぐ男神天火明命の奇魂(櫛玉)である饒速日尊」ということであろう。奇魂〈くしたま・くしみたま〉とは、神道の概念で特に優れた神の霊力がいろいろと分化し究極の状態となり、摩訶不思議な奇跡のような力を発揮する霊力のことをいう。 天火明命は日本書紀の中でも瓊瓊杵尊の兄などと記され、天照大神の血統であり、優れた神様とされたが、その方の霊力がさらに偉大に成ったとして、改めて饒速日尊と名付けたのである。饒速日とは天照大神の霊力を受け継いだ 恵み豊かで光り輝く日の神様を意味するお名前であり、物部氏の没落後、記紀神話や新撰姓氏録などでの祖先神や一族の扱いが自分たちの持つ伝承に比べ、不当に低いことに不満を抱えた物部氏の誇りを賭けた訴え が、この御神名なのだと思う。 私は毎日祝詞を上げ、その際に御神名も申し上げるが、その都度物部氏の誇りと、すでに述べた私的な饒速日尊とのつながりを強く感じながら、この物部氏の思いを宮司として受け継がなければ成らないと思っている。 また磐船神社自体の歴史に目を向けると神社の最も栄えた時代は西暦六世紀の頃、物部本宗が大連 として朝廷で活躍し、その一族として肩野物部氏が私たちの住む交野の地で活躍していた頃のことであったろう。一族の遠祖降臨の地として物部氏自身によって祭祀が営まれていた時代だ。それは物部守屋公が蘇我氏によって滅ぼされた西暦五八七年に終焉を迎える。交野の地から物部の勢力は一掃され、当社も存亡の危機を迎える。支配者層が変わって祭祀を司る有力者もなく、在地の民草の祀る神社として存続し、奈良時代には新興宗教である修験道に修行場として取り込まれ、平安の頃には主祭神が住吉大神に変わるという神社の本質に関わる大変化を遂げている 。 そして安土桃山時代に大坂城築城の石垣の資材として、有名な加藤清正がご神体の天の磐船を運び出そうとしたとの伝説がある。あまりに大きすぎるので割ってでも運ぼうとしたところ岩から血が噴き出したため、さすがの清正も諦めたと言うことである。また江戸時代、宝永年間には災害により社殿を失いそれが元となって私市・星田・河内の田原・大和の田原の四村宮座の間に争いがおき、各村御分霊を持ち帰りそれぞれ氏神を建立して当社の祭祀に壊滅的な影響を与えた。 時を経て、明治維新を迎え、我が国の体制の神武創業への回帰という機運の 高まりの中、その功労者として饒速日尊が再評価され、当神社でも、尊の主祭神への復帰が実現し、昭和初期の神社復興へと進むのである。 このように少しでも歯車が狂えば、廃社となるような危機的な状況を何度も経験しながらも、磐船神社は生き残って来たのである。そこにはご神体が巨石であると言う特殊さも大きな要因だと思うが、それだけでは無く神社に関わる歴史や神話を語り継ぎ、苦難の中で祭祀を守り、祈り続けた先人達の多くの努力があったことを忘れてはならないだろう。 最近はパワースポットブームや御朱印ブームと、神社界隈も賑やか しくたくさんの人々が各地の神社を訪れている。当社でも多くの人が神社参拝や岩窟拝観に訪れる。近隣だけでなく日本各地、遠くからわざわざ訪れる人も多い。饒速日尊を知り、その降臨の地を目指して参拝される方も増えており、ご祭神の知名度が年々上がっていることを実感している。「多くの人々に我が事と、この神社の由緒を知らしめ、お参りしてもらいたい」そのような御神慮が働いているのではないかと思えてくる。饒速日尊の御神徳とは、実は七転び八起き、不屈の精神なのではないだろうか。 |
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