<第124回>  令和4年12月定例勉強会
お釈迦様の教えに学ぶ
仏教の変化-大乗仏教の誕生
  講師 : 崎山 竜男氏
 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時〜12時
 31名(会員28名)の参加
2022.12.17(土)午前10時、12月定例勉強会に31名が参加されました。
コロナ禍の中、感染拡大予防措置を取って4月より活動を再開して沢山の方々に参加いただきました。

 村田会長の挨拶で「今年も残すところ僅かとなりました。令和4年度の事業も1月から3月まで、初歩きを始め、勉強会・ウォーク等予定しておりますので、ご参加下さる様お願いします。年末を迎えて何かと忙しなく気持ちも落ち着きませんが、本日の崎山さんのお話をお聞きになってどうぞ心安らかに新年をお迎え下さい」と始まりました。

 今回の勉強会は、50周年記念誌の原稿として、崎山竜男氏よりご投稿いただきました原稿「大乗仏教とは」の表題を「お釈迦様の教えに学ぶ」と改め「50周年記念特別セミナー」として、12月と来年1月の2回の勉強会に分け、第1回目が開催されたものです。

 当日のテキストとして使用された「お釈迦様の教えに学ぶ」は、講師の崎山氏が、膨大な資料と時間を使って読み解かれ、自分の言葉として著作されたもので、従来の同様の著作では味わえない、読みやすさと身近さを覚え、分かりやすい内容となっています。
 皆様、どうぞゆっくりと時間をかけてお読みください。
そして、「仏教の変化-大乗仏教の誕生」を読み取って下さい。

 次回の令和5年1月21日の勉強会で、第1回目の復習と総纏めのお話をして頂くようお願いしています。ご期待ください!

 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「テキスト」と「追加資料」を掲載させて頂きました。
 記して感謝申し上げます。
 
村田会長の挨拶
 
講師 崎山 竜男氏
 
 
 
 
 
お釈迦様の教えに学ぶ
仏教の変化-大乗仏教の誕生 
仏教の変化 - 大乗仏教の誕生

  1.大乗仏教とは
     大乗仏教は、お釈迦様の直伝ではない
    仏教には、釈迦の仏教(小乗仏教、原始仏教とも)と大乗仏教の二種類があります。
    小乗仏教は、いまでもスリランカ、タイ、カンボジア、ミャンマー、ラオスなどで信仰され
    ています。
    大乗仏教は、小乗仏教より五百年ほど後に誕生した新しいタイプの仏教で、中国や
    朝鮮半島、日本など東アジアを中心に信仰されています。この二つの大きな違いは、
    小乗仏教では出家して特別な修行に励んだ者だけが悟りを開くことが出来ると考え
    るのに対し、大乗仏教では、在家のままでも悟りに近づくことが出来ると考える点に
    あります。
       

  2.釈迦の仏教は自分が救いのよりどころである
    釈迦の仏教の最大の特徴は、何か外の力に救いを求めるのではなく、自分の力で
    道を切り開くという点にあります。救いのより所は自分自身にあるということです。

  3.大乗仏教は外部の不思議な力を拠り所と考えた
    大乗仏教ではすべての信者が悟りという同じ目標に向かって行こうとするのに対して、
    釈迦の仏教では、在家信者と出家者では、目指す目標にレベル差があると考えられます。

  4.お釈迦様の誕生と仏教誕生過程
    仏教の開祖はお釈迦様です。本名は、ゴータマ・シッダールタと言い、今から約二千五百年前にインド北部(現・ネパール)の釈迦族の王子として生まれました。幼い頃は何不自由のない生活を送っていましたが、成長するにつれて、人間は「老いと病と死」の苦しみに悶え続ける生き物であることを知り、二十九歳の時に新たな生き方を求めて出家します。
 三十五歳で悟りを開きます。その後、八十歳で亡くなるまで弟子たちとともに各地を旅しながら人々に教えを説いて回りました。この時の教えが、現在の仏教の基本となりました。

  5.仏教はなぜ拡大したか
    釈迦が亡くなって百〜二百年後の紀元前三世紀の中頃、インドの統一を果たしたマウリヤ朝第三代のアショーカ王が仏教に帰依したこと、これがインド全土に仏教を広めた最大の理由であると考えられています。
 アショーカ王時代に既に、多様化の道に踏み出していたと思われます。その根拠となるのは部派仏教という概念の成立です。

  6.部派仏教と仏教の多様性
    部派仏教とは、釈迦の教えの解釈の違いによって、仏教世界が一気に二十程のグル
    ープ(部派)分かれていった状況を言います。これは完全に分裂したのではなく、「○○
    部」とそれぞれグループ名を名乗りながら、お互いに認め合う分岐社会がアショーカ王
    の時代にできあがったのです。重要なのは、それぞれの部派が、自分たちの正統性
    を主張しながらも、自分達以外の部派の存在も承認していたという点です。
     現在、仏教はキリスト教やイスラム教とならぶ世界三大宗教の一つとされていますが、
    アショーカ王の時代に、破僧の定義変更が行われていなければ、仏教がここまで世界
    に広がることはなかったでしょう。

  7.論理的に正しければそれは釈迦の教え「理にかなってさえいれば、それは釈迦の教えと考えてよい」というアイデアの登場だったと思われます。パーリ語で書かれた古い経典にも、理屈に合っていれば、それは釈迦の教えと考えてもよいと書かれているそうです。
    

  8.大乗仏教の最終目標はブツダになること
  大乗仏教では、この世界には何人ものブッダが存在していて、努力すれば誰もがその一人になれると考えました。在家・出家を問わず、誰もがブッダという最高の存在に到達できるという新たな理想が現れてきました。

  9.世界には何人ものブツダがいる
 大乗仏教では、釈迦の場合は想像を絶する長い時間をかけてブッダとの出会いを実現出来ましたが、私たちが釈迦の道を追体験するとなると膨大な労力が必要となる。それはあまりにもきつい。
 ほかに道はないのか。愚かな私たちにも可能な、より効率的な成仏の道はないのか。
 この問題提起こそが大乗仏教を生み出す源泉となったのです。

  10.会えないブツダに会う方法を考える
   大乗仏教では、善行を積むことがブッダになるための修行だと考えました。これは
   「利他の気持ちを持って行動しなさい」ということです。釈迦の仏教にも利他の概念は
   存在しますが、そこでは「自利をベースにした利他」を基本構造にしています。
   自分が率先して厳しい修行に励む姿を見せることで苦しみを抱えながら暮らしている
   人たちに「そうかこういう救いの道もあるのか」と気づきを与えることが、釈迦の仏教の
   利他です。よき手本となってみんなを導くという形での利他なのです。
   大乗仏教の利他はもっと直接的で自分を犠牲にして誰かを救う事が基本となります。

  
※ 今回の第1回目のお話は、ここで終了しました。
 次回の令和5年1月21日の勉強会では、第1回目の復習と総纏めのお話をして頂くようお願いしています。ご期待ください!
 
<50周年記念特別セミナー>
「 お釈迦様の教えに学ぶ」PDF
PDF文書(テキスト)をダウンロードしてじっくりとお読みください!
 参考資料
釈迦が活動したころのインドの状況  (以下資料として)

 釈迦が誕生したのは、今から約二千五百年前の紀元前四百六十三年四月八日とされています。その前にインドでは、世界四大文明の一つであるインダス文明が栄えています。その担い手は、先住民族のドラビダ人だったとのことです。彼らは、メソポタミア文明を築いたシュメール人と深い関係を持っていたとのことです。
 ところが、紀元前千五百年頃、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人がこの地に侵入、パンジャブ地方に定住した。インド・アーリア人と呼ばれる人種となる。アーリア人は、先住民を駆逐し、インドを征服した。彼らは、被征服民を隷民と位置づけ、自らを最高位のバラモンとする身分階級制度をつくった。これを四姓(ししょう)制度といい、以下に示すとおりです。カースト制度とも言います。

  バラモン(司祭)  神聖な職業 アーリア人が自らを位置づけた
  クシャトリヤ(王侯武士)  政治力、武力などの権力を持つ
  ヴァイシャ(農工商庶民) 商業や製造業につく一般庶民
  シュードラ(隷民) 被征服民となった先住民族

 バラモンは彼らの宗教儀礼によって、神々と会話し、神々を操るといわれ、それはバラモン教といわれ権威を振るった。現在インドに根付いているヒンドゥー教は、バラモン教の変化発展したものである。カースト制度は、現在の憲法では否定されているが、今でも影響を残しているようです。

苦しみの大本煩悩を断ち切るには
十二因縁とは  ゼロから出発

 物事は、無明から始まり、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしよ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)と十二段階で完成すると言うのです。こうした言葉をならべても、なかなか理解しにくいので、結婚という一例をもって見ていきたいと思います。

 ある所に男性、別の所に女性がおります。二人は出会うこともなく、全く無知の状態です。この二人が結婚するなんて、誰も考えられません。今の二人の間柄は「無明」と言えるでしょう。ところが、縁あって二人はお見合いをすることになりました。お見合いという行動が生じたので第二の「行」ということになりました。そこで二人共、どうも相手は自分には不似合いで、とても将来の相手とは考えられないと「識」れば、ふたりはもとの白紙に戻ります。
 ところが二人の間に、何かが働いてもう少し付き合ってみようかとの意「識」が働きました。そこで二人は、次の十二因縁の第四へと進むことができました。ここを「識」に縁があって{名色}に進むと言います。二〜三回交際してみて、それ以上縁がないと次の六処には進めません。

 しかし、二人は気が合ってお互いをもっと知りたい。家族の「名」前や友人の「色(存在)」などです。これが「名色」に進んだことになります。そこで、何んだ、そうだったのかと、がっくりくれば、結婚話は名色の段階で終わります。
 しかし、二人の間に、何かが働いて互に興味を示しました。男性は、相手の女性の目もと(眼)、美しい声(耳)、素敵な香水(鼻)、美味い料理(舌)、スタイル(身)、心配り(意)の六処(六入とも)に魅いられていきました。この段階が「六処」となります。
 そばにいるだけでは満足しません。そっと「触」れてみたくなりました。こうした男性の行動を女性が「受」けとめてくれれば、二人は益々因縁が実っていきます。
 しかし、女性が「受」け止めてくれなかったとしたら、二人の縁談は破れたことになるでしょう。女性が「受」け止めたとしたら、二人には「愛」が激しく燃え上がるでしょう。愛し合った2人が、すべて結婚するとは限りません。どうしても「愛」から、次の「取(どうしても自分のものに取ってしまいたい)」という因縁が結べない人がいます。このあたりを評して、甚深微妙(じんじんびみょう)で不可思量(ふかしりょう)、つまり思量することが不可能だということです。
 二人は、八番目の「愛」から縁あって九番目の「取」にまで愛を高められてきました。相手の全てを「取」ってしまいたい、そういう状態です。十二因縁の十番目は「有」です。自分の所「有」にしてしまったというところです。結婚しても、子供が「生」まれない夫婦もあります。どうしても赤ちゃんがほしい、医者にかかるなどいろいろ手をつくしても生まれない。
 これをどう説明するか。釈尊は、二人の間に赤ちゃんが「生」まれるという因縁が結ばれなかったと説明します。どういうわけか、二人の因縁は十番目の段階「有」でストップ。それがなぜストップしたのか。それも甚深微妙、推し量ることがむつかしいとします。十二因縁の最後が「老死」。「生」きるという因縁がほどけてしまったら、誰でも「老死」はまぬかれないということになります。釈尊と母マーヤーとの「生」きるという因縁は七日間しかありませんでした。

仏教考古学について

 二千五百年以上に及ぶ歴史の中で、仏教の過去を研究する学問として仏教考古学があります。これは仏教関係の遺跡や遺物を考古学的方法によって研究し、仏教が人間社会とどのような関わりを持ちながら展開してきたか、その過程を研究することが目的とされています。その対象極めて多いようですが、大別すると主なものは以下の通りです。

1.仏 像 金銅仏、木彫り物、石仏、塑像(塑像)など。
2.経 典 写経、版経、納経、仏画など。
3.仏 具 梵鐘、鰐口、香炉、花瓶、火舎、六器、錫杖など。
4.仏 塔 重層塔、五輪塔、多宝塔、宝塔、宝篋印塔(ほうきょういん塔)、
       宝珠塔など。
5.寺 院 伽藍配置、堂舎、瓦、礎石など。 
次回の令和5年1月21日の勉強会では、第1回目の復習と総纏めのお話を
して頂くようお願いしています。ご期待ください!
 

最後までご覧いただき有難うございました

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