<第125回>  令和5年1月定例勉強会
お釈迦様の教えに学ぶ
最初の経典 - 般若経とは?
  講師 : 崎山 竜男氏
 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時〜12時
 28名(会員26名)の参加
2023.1.21(土)午前10時、1月定例勉強会に28名が参加されました。
コロナ禍の中、感染拡大予防措置を取って4月より活動を再開して沢山の方々に参加いただきました。

 村田会長の挨拶で「令和4年度も残すところ2ヶ月余となりました。令和4年度の事業も2月から3月まで、勉強会・ウォーク等予定しておりますので、ご参加下さる様お願いします。
 このたび、交野市文化財保存活用地域計画が文化庁の認可を得て、記念行事として記念講演会が企画されております。広報交野1月号の4〜5頁を参照して、2月15日から社会教育課文化財係(?893-8111)まで申し込みください。多くの方の参加を期待しています。」と始まりました。

 今回の勉強会は、50周年記念誌の原稿として、崎山竜男氏よりご投稿いただきました原稿「大乗仏教とは」の表題を「お釈迦様の教えに学ぶ」と改め「50周年記念特別セミナー」として、12月と今回の1月の2回の勉強会に分け、第2回目が開催されたものです。

 当日のテキストとして使用された「お釈迦様の教えに学ぶ」は、講師の崎山氏が、膨大な資料と時間を使って読み解かれ、自分の言葉として著作されたもので、従来の同様の著作では味わえない、読みやすさと身近さを覚え、分かりやすい内容となっています。
 皆様、どうぞゆっくりと時間をかけてお読みください。
そして、「最初の経典-般若経とは?」を読み取って下さい。

 今回のテーマは、前回の令和4年12月17日の勉強会の第1回目の復習と「最初の経典-般若経」とは?など総纏めのお話をして頂きました。
 一度聞いても即座には理解しがたいことが多いですが、皆様、どうぞこれを機会に身近な日常の生活習慣などを振り返りながら「ブツダの教え」を勉強しましょう。

 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「テキスト」と「追加資料」を掲載させて頂きました。
 記して感謝申し上げます。
 
村田会長の挨拶
 
講師 崎山 竜男氏
 
 
お釈迦様の教えに学ぶ
 最初の経典-般若経とは?
最初の経典-般若経とは?

  大乗仏教最初の教典 般若経について

 般若経が誕生したのは紀元前後と言われています。以後、数百年にわたり、様々な般若経が編纂されて、アジアを中心に広まっていき、日本に入ってきたのは、六、七世紀頃。聖徳太子の時代と言われています。
 般若経は、大乗仏教系の様々な宗派で広く唱えられていますが、禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗など)と密教系の宗派(天台宗、真言宗など)が、特に般若経を大切に扱っています。逆に浄土真宗では唱えません。また、日蓮宗、法華宗も法華経だけを基本の教義としているので、般若経をとなえることはほとんどないようです。

    

私達は前世ですでにブッダと出会っている

 釈迦の仏教では、出家修行の中で煩悩を断ち切ることこそが、悟りに至たるための唯一の方法と考えられていました。それが般若経では、日常生活で善行を積み重ねていけば、悟りに近づくことができると変わってしまったのです。これは明らかに釈迦の考え方とは異なります。本来は善行を積んだところでブッダになれるはずはないのです。

善行で輪廻は止められるのか?
 過去でブッダと出会い、誓願を立てて菩薩となり、その後の長い生まれ変わり死に変りの中、ひたすら日常的な善行を積むことによって、自分自身がブッダとなり、最後には涅槃に入るというのですから、本来の業の定則が壊れているのです。 般若経の特徴は、本来は輪廻を繰り返すことにしか役立たないはずの業のエネルギーを、悟りを開いてブッダになり、涅槃を実現するために転用することができると、とらえ直した点にあります。

お釈迦様が説いた「空」

 業のエネルギーを輪廻とは別の方向に向けることを、大乗仏教では回向(えこう)と呼んでいます。
 因果則の裏側に隠されていたシステムのことを般若経では「空」(くう)と呼びます。空の論理を学び、それを理解した人だけが、日常的な善行のエネルギーをすべて悟りの方に向けることが可能になると、般若経では考えたのです。
。般若経の空は、釈迦の仏教がいう空とはまったく別物です。

世界の構成要素すらも実在しない

 釈迦の空は、私達がそこに存在すると信じていたものは、私を含めて実体はなく、確実に存在するのは構成要素だけであるということです。この釈迦の空と般若経の空とはどこが違うのでしょうか。
 般若経では、この世はそうした理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いていると、とらえました。この人智を超えた神秘の力、超越的な法則こそが般若経でいう空なのです。

唱えなさい、書きなさい、広めなさい
 般 若 経 で は 、 布 施 ( ふ せ )・ 持 戒 ( じ か い )・ 忍 辱 ( に ん に く )・ 精 進 ・禅定・智慧という六つの行為を六波羅蜜と呼び、回向へと向かうためのたいせつな修行と定めています。この中で最も重要なのが般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)と呼ばれる智慧の修行を極めることによって生まれる「完璧な智慧の体得」です。つまり、これこそが空を理解できる智慧を身につけるということです。
 般若経ではブッダとなるために最も効果のある修行として、般若経を讃えることを挙げています。その理由は、般若経ではお経そのものをブッダと捉えたからです。人間の姿をしたものではなく「教えそのもの」がブッダと考えて、般若経ではそれを「法身<ほっしん>」と呼びました。つまり、お経を讃えるという行為が、ブッダ自身を崇め、供養していることになるのです。
 般若経には、唱えなさい、書きなさい、広めなさいという自己増殖のためのプログラムのようなものが、最初から仕込まれていたのです。

多くの人を救う「神秘」という力

 般若経の全ての教えの基礎、根拠となっているのが神秘の力です。極端な言い方を許してくださるなら、般若経自体が不思議な力をもった呪文(マントラ)であるとも言えます。
 釈迦の仏教だけでは救われない人がどうしても出て来てしまうのです。そういう人のために般若経が作られたのだと考えれば、釈迦の仏教を否定しているからこそ、そこに存在意義があると考えることも出来るのです。
 紀元二世起から三世紀にかけてインドに登場した学僧たち、龍樹、無著、世親らによる大乗経思想の確立によって大乗経が誕生し、般若経や法華経が西域出身の鳩摩羅什による優れた漢訳を経て、中国に浸透し、我が国に導入されました。従って、我が国の仏教はすべて中国経由で導入された大乗仏教と見なされています。
 
 また、「般若経の現代語訳と語句について」の詳しいお話も頂戴しましたが、ここで纏めきれません。
 テキストの後段に、「参考資料」として講師の先生のご厚意で添えて
 おりますので、是非とも参考にして下さい。
   
@ 「般若経の現代語訳」
  A 「般若経の語句を究める」


※ 今回の第2回目のお話は、ここで終了しました。
 また、機会がありましたら崎山先生のお話をお聞きする「勉強会」を企画したいと考えています。ご期待ください!
 
 

 
<50周年記念特別セミナー>
「 お釈迦様の教えに学ぶ」PDF
PDF文書(テキスト)をダウンロードしてじっくりとお読みください!
 参考資料
般若心経現代語訳
 
釈迦牟尼仏が説きたまえる
  すばらしい般若波羅蜜多の精髄を示したお経

 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)(別名、観自在菩薩、つまり、観音さま)が、その昔、深(じん)・般若波羅蜜多を実践された時、物質も精神も、すべてが空であることを照見されて、一切の苦厄を克服された。

 舎利弗(または舎利子 サーリプッタ)よ、あらゆる物質的存在は空にほかならず、空がそのまま物質的存在にほかならない。物質的存在がすなわち空、空がすなわち物質的存在なのだ。知ったり、感じたり、判断したり、意欲したりする我々の精神作用も、これまた同じく空である。

 舎利弗よ、全ての存在が空である――全ての存在に実体がない――ところから生滅もなく、浄不浄もなく、また増減もない。従って、実体がないのだから、物資的存在も精神作用もなく、感覚器官もなければ対象世界もない。そして、感覚器官とその対象との接触によって生じる認識だってない。人間の根源的な無知迷妄がなく、また無知迷妄が消滅するわけでもない。そして、老死という苦しみもなく、老死という苦しみが消滅するわけでもない、仏教で説かれてきた「四つの真理」もなく、智もなければ得もない。もともと得るということがないからである。

 菩薩(求道者)たちは、般若波羅蜜多も実践しているので、その心は何ものにも執着せず、またわだかまりがない。わだかまりがないから、恐怖もないし、事物をさかさまに捉えることもなくなく、妄想に悩まされることもなく、心は徹底して平安である。過去・現在・未来の三世にまします諸仏たちも、般若波羅蜜多を実践されて、この上ない正しい完全な悟りを得られたのだ。
 だから、このように言うことができよう。般若波羅蜜多というのは、すばらしい霊力のある言葉、すなわち真言であり、すぐれた真言、無上の真言、無比の真言である、と。それはあらゆる苦しみを消滅させてくれる。実に真実にして虚ならざるものである。そこで、般若波羅蜜多の真言を説く。すなわち、これが真言である。
往。

  般若心経の語句を究める 
                      崎山竜男 (2023.1.30)

1.空の思想を基本とする般若心経
には、
 漢字など色々な言葉がでてきます。語句によっては理解しにくいものもあります。全体の流れが理解しやすいようにと思い、幾つかの語句を取り上げて解説致します。

 摩訶般若波羅蜜多心経について。摩訶(まか)とは偉大なるという意味です。
 般若とは智慧、智慧とは知識ではなく、物事を正しく認識し、正しく判断する力のこと。
 波羅蜜多とは、波羅は向こう岸、蜜多は渡るという意味です。合わせて、向こう岸に渡るということです。私達が暮らしているこちら側の岸、此岸は苦しみに満ちた世界です。苦しみに満ちた現世から、苦しみのない彼岸に渡りたいと願っています。でも、彼岸と此岸の間には煩悩や欲望の大河があってなかなか渡ることができない。その大河を渡るために必要なチケットが必要です。
 そのチケットとなるのが六波羅蜜です。布施(ふせ)、持戎(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)。この六つの行を行いなさいと。六波羅蜜の行です。
布施とは、惜しみなくプレゼントする。金や物だけでなく、優しい言葉と笑顔でもよい。見返りは期待しない。
持戒とは、悪い事はしない。殺したり、盗んだり、?をついたり、不倫をしないことなど 忍辱とは、耐え忍ぶこと、我慢する。
 精進とは、努力を続けること
禅定とは、心を穏やかに、静かにする。煩悩の炎、欲望の洪水に満ちている、荒れ狂う心を静
める。写経や座禅などを行ってみましょう。
智慧とは、以上五つの行を行うことで智慧が授かります。心がおだやかになれば、正しく物事
を見ることができ、的確な判断が出来るようになる。これが智慧です。
 摩訶般若波羅蜜多とは、彼岸に渡るための偉大なる智慧のことである。

2.五蘊皆空   観音様は、五蘊はみな、空なりと認識した。
 五蘊とは、人間を作っている五つの要素のことである。五つとは、色、受、想、行、識である。
色は身体を表し、残る四つは心の働きです。色は、色気のことではなく、仏教では肉体とか物質のことです。広げて言えば世界で起きている現象を呼ぶ場合あり。
 人間は肉体をもった存在で、物質で出来ている。五蘊の筆頭に色が入ります。人間には心もある。しかし、心といってもその働きは様々です。明るいとか厚いとか感じるのも心(受)、さらに進んで風が吹いて気持ちいいという感想を持つのも心(想)、そして何々をしたいという意志を持つのもこころ(行)といいます。
 最後の識は認識のことです。心の基本的な働きが結びついて、種々考えたり、認識することが識です。わたしたちにとっては、この区別は難しいので後の四つ全体で、心や精神のことを意味していると思っても良いでしょう。

 この世は心が作り出したもの
 観音様は六波羅蜜の行をなさった結果、五蘊は、「皆 空」、すなわち、肉体も精神もみな空であるということを認識したと言われています。
 空こそが、般若心経の最も重要なキーワードです。
 私達は、この世界には初めから物質があると考えています。
 机は机として、コップはコップとして最初から存在している。それを人間が見たり、触ったりしたと思っている。でも、本当は違うのではないかというのが仏教の考え方。まず物質が存在して、それを私達が認識しているのではなく、それとは逆に、私達が「ある」と感じるから、物質が存在しているのではないかと言うのが仏教の考え方です。
 私達は、何かに熱中していた時、周りの音が聞こえなかった経験をしたことがあると思います。また家で恋人と夢中になってキスしていたら、家族の誰かが帰ってきたのに気付かなかったとか、読書に夢中になっていて、お茶を持って来て置いてくれたのに、全く気づかなかったことなどいろいろな経験をしたことがあったと思います。
 少し喉が乾いたので、お茶を持ってきて言わんとした時、横にお茶があるのにハット気づく。目の前に湯?みがある。 このようなとき、私が気付くまで湯?は存在していなかったと同じだし、またお茶を運んでくれた人も存在していなかったと同じです。読書に夢中の私の前に存在しているのは本だけで、他のものは存在していない。つまり、物質は心の働きが生み出しているものだと考える事ができます。私たちの心が感じているから、この世界は存在しているというわけです。
  この考えをさらに広げていくと、どうなるでしょう。 仏教では、この世は苦に満ちていると考えます。人生は苦の連続です。でもこの苦しみは最初から存在していたわけではない。私達の心が苦しい、辛いと感じるから、苦がある。心の働きが、苦しみを作っていることになります。隣の車を見て、貧乏に悩むのも車を見たからですね。見ていなければ悩みは存在していなかったわけです。苦を作っているのは、心の働きである受、想、行、識が作っていたわけです。
 ということは、無心になれば、この世の中には物質もなくなるし、また煩悩が作り出す苦しみもなくなるというわけです

とらわれない心
 心は存在しているのだろうか。無心という言葉が出ましたが、これは心がないということです。つまり、心も常に存在するわけではない。心には実体がないということです。心もなければ物質もない・・・観音様が六波羅蜜を行っているときに発見されたのは、このことです。「五蘊は皆、空なり」、つまり物質も心も全て存在しない。人生の苦しみさえも空である。これが仏教の「空」、の思想です
 物質や心がなければ、苦しみもなくなるし、災厄も存在しない。その真実を発見されたので、観音様は人間をあらゆる苦しみからすくい上げて下さったということです。 度とは救うということです。度し難い奴だ。
 人間は生きている限り、苦しみや悲しみから離れることはできない。これは心が生み出したものであり、その心さえ存在しないならば、私達は、苦しみから解き放たれることは出来ないだろうか。生きていることが、ずっと楽になるのに。苦しい心を解放して、バラバラにすれば、苦は消滅して私達は、救われるのに。
 仏教の空や無は、数字のゼロとは違う。全てが幻想だから人生はむなしいなどといっているのではない。何ものにもとらわれない心を持ちなさい、真に自由な心になりなさいというのが「空」、の教えです
 人間は、本能に縛られている獣とは違い、自由な心、自由な意思を持っていると思われている。それは違う。
 普段は気がつかないが、私達はいろんなものには縛られている。日常的には男はこうでなきゃいけない、妻はかくあるべしというイメージに縛られている。あるいは、自動車や家を持っていないと格好悪いというイメージに縛られている。こんなイメージなんて全て幻である。
 本質的なことで言えば、人間は煩悩に縛り付けられているのです。相手のことが、本当に好きならば、相手の幸せを願うべきなのに、なかなかそうは思えない。相手が自分を見つめてくれないと不幸な気持ちになる。これは、心の中の煩悩が、そう思わせているからです。
 人間の心や意志というのは、決して自由ではない。煩悩に縛られ、決して自由ではない。煩悩に縛られ、がんじがらめにされているのです。それが不幸の根本です。しかし、そういった不幸や苦しみも全て空なのです。
 人間の苦しみは、みんな心が生みだした幻のようなもの。そして、その心もまた空なのです。心が作り出した幻にとらわれずに、もっと自由な心を持ちなさい・・それが般若心経の教えなのです
 心のとらわれがなくなれば、私達は真の自由を得ることができます。苦も災難もない人生を送ることができるということです。ニヒリズム的な思想などではありません。
 これが「般若心経」の教えの、最も中心的な部分、メイン・テーマなのです。

六 根(ろっこん) 眼 耳 鼻 舌 身 意
眼(げん)下界の現象や物体を眼で見る      耳(に) 耳で聴く
鼻(び) 鼻で嗅ぐ                   舌(ぜつ)舌で味わう
身(しん)身体で触る                 意(い)心の中で、思量を働かせる
 この六根こそが心の働きということになります。

六 境(ろっきょう)色 声 香 味 触 法
 六根が働いた結果、起きる感覚です・
色(しき) 眼で見る          声(しょう)耳で聴く
香(こう) 鼻で嗅ぐ          味(み)  舌で感じる
触(そく) 身体で感じる       法(ほう) 意識の働きでうまれる 法は思想のこと。
これらの六つを六根に対して「六境」と言います。
眼界ないし意識界というのは、六根が六境を感じて認識する行為を意味します。

六 識 (ろくしき)見 聞 嗅 味 触 知
 見(けん)聞(もん)嗅(きゅう)味(み)触(そく)知(ち)
 この六根、六境、六識を合わせて「十八界」と言います。この世の現象のすべては、五蘊と十八界が網の目のように絡み合って存在しています。しかし、それを認識する心がなければ、すべて存在しないのと同前です。
 そのことを空の中に色はなく、受想行識もない。眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もない。眼界から意識界もないと表しています。ここのないとか無というのは数字のゼロではありません。無も空と同じで「とらわれない心」のことです。感覚作用が産み出す、様々な認識や思想にとらわれてはいけない。真の自由を持ちなさいという教えです。
 そうすれば、無限の可能性を得ることができるということです。空や無の世界は死の世界でない。正反対の無尽蔵で豊かな世界ということです。

 また、機会がありましたら崎山先生のお話をお聞きする「勉強会」を
 企画したいと考えています。ご期待ください!
 

最後までご覧いただき有難うございました

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