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<第130回> 令和5年7月定例勉強会

日本への仏教・仏像伝来と発展

  講師: 寺田 政信氏(歴史研究家)
青年の家・学びの館 午前10時~12時
 34名(会員32名)の参加
 2023.7.8(土)午前10時、7月定例勉強会に34名の沢山の方々が参加された。
 村田会長より、「本日は、寺田政信さんの講演会(日本への仏教・仏像の伝来と発展)に早朝から沢山の方に参加いただき誠に有難うございます。ご講演を頂戴します寺田さんは御年83歳で、これまで古文化同好会の勉強会で、飛鳥・奈良時代を舞台にした古代のお話を7~8回ほどご講演頂きました、古代の歴史に大変明るいお元気な方です。
 さて、令和5年度の古文化同好会の活動として、本日の勉強会を始め、9月まで勉強会・歴史ウォークなどが予定されておりますので、どうぞ引き続きの参加をお願いします。
 7月11日には、フェノロジーカレンダーを作成・提携している日本インシーク(株)主催の「日々のくらしと文化財」の講演会などが開催予定です、どうぞ沢山の皆さんの参加をお待ち申しております。・・・など」と挨拶があり、早速、寺田政信氏による「講演」が始まりました。
 
 寺田さんは、著書や沢山の資料を活用してレジメを作り画像も整理するために多くの時間を費やして準備して頂きました。約2時間の講演時間に合わせるように手際よく分かりやすくお話しいただきました。

 
「日本への仏教・仏像の伝来と発展」講演概要
  1.
はじめに  釈迦入滅と日本の重要な仏教行事
  2.釈迦の生涯と仏教の誕生と発展
  3.釈迦の涅槃と入滅
  4.仏教の分裂:大乗仏教と小乗仏教
  5.日本への仏教の伝来と定着
  6.仏像の出現と伝播
  7.仏像のランク付け
  8.如来とその特徴
  9.菩薩とその特徴
  10.明王・天・羅漢・仏弟子・高僧の実像
  11.有名な仏像の実例

 ※ホームページに掲載するにあたり、講師の寺田政信氏が研究・作成された
   画像・レジメ等を頂戴しましたこと、また、WEBの各種資料など参照させて
   いただきました。記して感謝申し上げます。
 6月の勉強会「東海道五十七次を知り尽くそう」後、或る会員の方から次のようなメールを頂戴しました。

 昨日も素晴らしいご講演の機会に恵まれ、感謝の気持ちでいっぱいです。
いつも古文化の勉強会のあと、帰宅してYou Tubeで調べるのですが、昨夜も観てみました。
そしたら、若者が一人で五十七次を高麗橋から歩いている映像があり、観ていると、昨日の村田先生のご説明とピタッと重なり面白すぎて夜更かししてしまいました。
 若い男性なのですが、高麗橋から守口〜枚方市でもうヘトヘトになられ、道も迷われる所もあり、村田先生に改めて敬服すると共にお人に道を尋ねられたこともよくわかりました。
今回の7月の勉強会の後も、You Tubeで調べられているかと思います。
私も、調べてみました。下記のYou Tubeは面白く参考になりましたので、
アドレスをお知らせします。
 興味のある方は、観て下さい。

 ① シルクロード 仏教伝来 シルクロード仏教伝来 - YouTube
 ② 仏像の種類  如来について  【仏像の種類】仏像の種類を知る 如来編
  日本への仏教・仏像伝来と発展

  講師: 寺田 政信氏(歴史研究家)
 
講師: 寺田 政信氏(歴史研究家)

村田会長の挨拶
 

レジメと解説
 日本への仏教・仏像伝来と発展

  講師: 寺田 政信氏(歴史研究家)

 釈迦の入滅は紀元前500年頃とされます。日本は、まだ縄文時代です。仏教が中国にもたされるのは紀元400年頃ですから900年近いギャップがあります。
 釈迦の弟子たちは釈迦の教えをサンスクリット語で仏典として書き残したと思われますが、それにしても語り継ぐにしても900年は長い年月です。はっきりわかっていないのが実情です。すこし探ってみたいと思います。
 まず、釈迦入滅の年を紀元前448年に設定すると日本の重要な仏教行事が切れのいい年になります。これは、寺田独自の発想で他の人から聞いたことありません。そのつもりでお聞きください。
 *重要な仏教行事その1・・・・・・仏教日本に伝来・・・552年
  仏教伝来は、欽明天皇時代の552年とされます。最も、538年という説もあるので
  要注意ですが。448年説をとると釈迦入滅後 1000年となる。
 *重要な仏教行事その2・・・・・・・大仏開眼・・・・・752年
                  釈迦入滅後1200年となる。
 *重要な仏教行事その3・・・・・未法に入る・・・・1152年
                  釈迦入滅後 1600年となる。

【釈迦の生涯と佛教の誕生と発展】
 * 釈迦はインドの小さな王国の王子として生まれる。誕生したのは、紀元前530年頃である。生母のマーヤー夫人は出産後7日で亡くなり夫人の妹が養母となる。生まれるとすぐ立ち上がって7歩あゆみ、右手で天を、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」(この世で最も尊いのは私ひとり)と宣言したとされている。
 * 20歳ごろまで宮殿の中で何不自由なく暮らすが、ある時宮殿を出ると、そこには、老、病、死があり衝撃を受ける。また、老、病、死に立ち向かう修行者にも出会い、29歳の時、地位も家庭もすてて家を出る(出家する)決意をする。
 * 仲間の修行者と共に苦行に入るが、苦行が真理の道ではないことを悟り、菩提樹の下で瞑想に入った。瞑想に入って7日後の満月の日の朝、ジッタールタ(釈迦の幼名)は、ついに万物を貫く真理、全ての苦しみから解放される法則に到達した。お釈迦さまのことを「ブッダ」と呼ぶが、サンスクリット語で「目覚めた者」という意味である。35歳の時のことである。ブッダは中国で仏陀となり日本で仏になったのである。釈迦はその後も冥想を続け悟りを得るが、最高神の梵天に勧められ広めることになる。仏教の始まりである。

 * 最初は昔の仲間の5人の修行者に教えるが、次第に弟子も増え教団もできて仏教が栄える。
   いわゆる三宝が整うことになった。三宝とは
     仏・・・・・・・お釈迦様本人
     法・・・・・・・お釈迦様の教え
     僧・・・・・・・僧侶 教団   のことである。
 * 釈迦は故郷に戻り、父親は信者に養母は女性最初の出家者の比丘尼になった。
 * 釈迦は10大弟子を大切にして仏教を広めてゆく。

【釈迦の涅槃と入滅】
 * 波乱の生涯を送った釈迦にも死期がおとずれる。涅槃の状態でも弟子たちに悟りを教える。
   最後の教えは、自分でよく考えて仏法に従いなさいとのことでした。
 * 釈迦入滅後も弟子たちは釈迦の教えをサンスクリット語の経典にまとめていきます。
  それを広めていきますが、弟子の代替わりもあり釈迦の教えの解釈にも微炒に異論がでて
  きます。出家のありかたにも疑問がでてきます。
  そこで次の段階に入っていきます。
【仏教の分裂:大乗仏教と小乗仏教】
 紀元前200年頃になると、弟子たちも代替わりし釈迦の教えについても、広げ方にもついて
 も異論が生じ仏教が大乗仏教と小乗仏教に大分裂します。
 小乗仏教・・・ 釈迦の教えを忠実に守り出家者で修行者のみが悟りを得る。悟りの人は少な
         い。インドから南部の国に広がり南部仏教ともいう。
 大乗仏教・・・ 釈迦の教えを柔軟に解釈し、出家者だけでなく一般の人々も悟りを得ること
         ができる。北部仏教ともいう。
         柔軟な解釈:釈迦の「因果」と弟子たちの「因果応報」
         中国にも伝達し韓国経由で日本にも伝逹する。図①、図②参照

【日本への仏教の伝来と定着】
 釈迦入滅後1000年の552年(538年説もある。)百済の聖明王から欽明天皇に仏像や経典を遣わされたのが日本への仏教の伝来の始まりとされている。異国の宗教を受け入れるべきかで物部氏(廃仏派)と蘇我氏(崇仏派)の争いがあったが聖徳太子が蘇我氏につき物部氏は敗退した。

摂政となった聖徳太子は、仏教を柱とした国つくりをめざした。
 「篤く三宝を敬うべし」というわけである。
 その後、仏教は仏像と共に発展していくが、仏教としては、奈良時代の南都六宗がある。
 華厳宗の東大寺大仏が有名である。
 平安京に遷都した桓武天皇は最澄を採用し天台宗を起こす。同時期に空海の真言宗も
 生まれる。
 鎌倉時代になると次々と新しい仏教が誕生する。
  浄土宗・・・・・・・・法然
  浄土真宗・・・・・・・親鸞(布教 蓮如)
  融通念仏宗・・・・・・良忍
  日蓮宗・・・・・・・・日蓮
  曹道宗・・・・・・・・道元
  臨済宗・・・・・・・・栄西

【仏像の出現と伝播】
 仏像が出現するのは、紀元200年頃で地域はシルクロード近辺である。石材の仏像である。バーミヤンの石仏は偶像崇拝を認めないイスラム教徒に破壊されたことは有名である。これらの石仏は中国にもたらされ、いろいろな材料を使った中国式仏像が作られ、その一部が日本に伝来する。
 飛島時代の中国式仏像の特徴と中国式仏像を紹介する。図③ 図④参照
 飛島時代(白鳳文化)には中国の影響を受けていたが、奈良時代(天平文化)になると日本独自の様式と材料の仏像が作られる。
 仏像の製作技法・材質と時代性を図⑤に示す。

【仏様のランク付け】
 仏像が盛んに作られるようになると仏様にランク付けがなされる。
 ランクは次の通りである。
   如来・菩薩・明王・天・羅漢・仏弟子・高僧

【如来とその特徴】
 如来とは、「如(真理)から来た者」のこと。悟りを開き私達を救うためにこの世に現われた仏たちのこと。いろいろなところから集まってきている。如来=仏である。衣服は質素で飾りもなく何も持っていないのが特徴である。薬師如来は例外で薬壷を持つ。 大日如来も例外で王冠をして着飾っている。 如来像 の主な特徴は図⑥参照。


【菩薩とその特徴】
 菩薩は悟りを開いて如来になるために修行している仏様(狭い意味)といえる。如来の補佐役ともいえる。種類と数が多いのが特徴である。それぞれ役割りをもつ20種の観音様がいる。
【弥勒菩薩の実像】 図⑦参照
【弥勒菩薩の実像】
 お釈迦様が亡くなって56億7千万年後に弥勒菩薩が現れて悟りを開くまで私逹の世界には仏がいない。この谷間の世界に私逹を救ってくれるのが地蔵菩薩である。
 その立ち位置は図③参照。

【明王・天・羅漢・仏弟子・高僧の実像】 図⑨参照

【有名な仏像の実例】
 (1)中宮寺 菩薩  半迦思推像  図⑩参照
   中宮寺は聖徳太子の母親が建立。仏像は弥勒菩薩に見えるが寺では、如意輪観音として
   いる。学芸員に確認したところ、かっては衣服にも頭にも飾りがあったとのこと。長い
   年月で無くなったとのこと。肌も金色だったとのこと。
 (2)奈良 聖林寺  十一面観音立像  図⑪ 参照
   十一面観音の中でも最も美しく日本のビーナスとも呼ばれる。
   出張が多いので拝観するときは聖林寺に確認が必要。
 (3)東大寺大仏  図⑫参照
   エビソードを紹介
   * 大仏は聖武天皇の詔、743年でスタート。国家鎮護を願う。当時流行の天然痘にも
    配慮か。
   * 大仏開眼は752年であるが聖武天皇は749年に天皇を娘に譲位(孝謙天皇)し
    上皇となる。
   * 貢献者の一人行基は全国の村々を巡り、池を掘り、橋を架け稲作を増産し、一部を
    天皇に寄進する。仏像で百姓を説得し大仏建立の人足とする。
    聖武天皇が大変喜び行基菩薩と呼んで持てはやしたとのこと。
    百済敬福は当時奥州に国司として赴任していたが奥州で産出した金を大量に寄進し
    天皇を喜ばしたという。
   * 良弁和尚は大仏建立と大仏開眼の事務局長役を勤めたが案外知られていない。大仏
    開眼後、東大寺の初代別当となつている。
    二月堂の「お水取り]の創設者でもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 仏像とは?    

仏像「如来」は偏平足、腕が膝まで届く、歯が40本…悟った人たちの特徴「三十二相」とは?
   (参照 週刊朝日ムックより)
 仏像は、仏教が誕生してすぐに作られたわけではない。今から約2500年前のインドで、ゴータマ・シダールタという一国の王子が出家し、6年間修行して悟りを得た。その時の悟りを人々に説いて、共感した者が集まり、仏教が成立する。悟った人をブッダといい、目覚めた人という意味だ。一般には釈迦といわれる。仏教が広がり、仏教の信仰が盛んになった。しかし、釈迦も生身の人間なので当然亡くなる。これを涅槃といい、深い悟りという意味だ。その後、すぐに仏像が作られたわけではない。崇拝した人の姿をかたちにすることを畏怖したと考えられる。それから、約500年後にようやく仏像が誕生した。

 ところで仏像は何体あるのか。経典の中で仏像の数を数えると、おおよそ3000体といわれる。これには理由があり、仏教では三世という考え方がある。つまり、過去、現在、未来という時間の観念だ。この三世に各々1000体の仏像がいるとされる。しかし、それを全て覚える必要はない。

 仏像と向き合って、まず確認したいのが仏像の種類。数千体もある仏像だが、種類はたったの4つ。「如来」、「菩薩」、「明王」、「天」である 仏像を見て、装飾品を身に着けず、衣だけの素朴な姿をしていたら如来といえる。これは悟った姿なので欲がないためシンプルな表現というわけだ。次に冠をかぶったり、装飾品を身に着けていたら菩薩、これは現在修行している姿を表現し、一般的には釈迦が王子だった時の姿をイメージして作られている。

 如来は、修行して悟った人の姿。煩悩が消滅しているので、物質的なものに執着していない。そのため仏像の中で最もシンプルな姿をしている。

 インドでは、如来の衣(正確には袈裟)の着方が二つある。一つは「偏袒右肩」、これは衣を斜めに着て右肩を露出する着方だ。もう一つは両肩を覆うように着る「通肩」といわれるもの。この二つの着衣法でインドの仏像が制作された。そして仏像が中国に伝来した際、中国式(漢民族式)の衣の着方が成立する。この衣の着方は、当時の中国の貴族たちの服装だ。目印は、みぞおちにある結び紐。この結び紐があれば、中国で成立した仏像の着衣法だと判断できる。日本には、この三つの着衣法が伝来した。

 なお、インドの人たちは、悟った人は、普通の人とは違った身体的な特徴があると考えていた。それが「三十二相」というもの。具体的には、足は偏平足、腕が膝まで届く、顔を覆うほどの舌がある、歯が40本ある、眉間に白毫がある、身体から光が出ているなど。如来が金色で彩色されているのも三十二相の中に、悟った人は金色に輝いているという記載があるからだ。中には、何を食べてもおいしく感じる、声が綺麗で遠くまで聞こえるなど表現しにくいものもある。表現可能な特徴をもって、如来を表現していることが理解できる。

 如来は、どれもシンプルな姿なので見分け方が難しいが、ポイントを見れば、推測することはできる。例えば、手のかたち、印相という表現だ。釈迦如来の印相には、右腕を上げる施無畏印と、左腕を下げる与願印がある。また、坐禅する時の手を表わすこともあり、禅定印とか法界定印という。阿弥陀如来も似ている印相があるが、阿弥陀如来の場合は、指を付けて手を結んでいる。これが釈迦と阿弥陀の違いである。

 薬師如来は、薬壺を持っているイメージがあるが、飛鳥・白鳳時代の薬師如来は、薬壺を持ってない。薬壺をもつ薬師如来が出てくるのは奈良末期になってからだ。

 また大日如来の場合、如来像なのに宝冠をかぶり、胸飾りまでつけている。大日如来は、宇宙そのものとされ、如来の中でも特別な存在「如来の中の如来」なので、荘厳された菩薩像姿として表現する。密教の二つの世界(金剛界・胎蔵界)の大日如来の違いは、印相で見分けることができる。 ちなみに東大寺の本尊、奈良の大仏は廬舎那仏という如来である。これは『華厳経』で説かれる如来、華厳世界の教主、広大な宇宙観そのものの姿といわれる。実は、密教の大日如来と廬舎那仏は、原語は同じバイローチャナで、「光り輝くもの」という意味である。経典の違いによって名称が変わった。

菩薩は、「菩提薩た(※「た」は土ヘンに垂)」の略語で悟りを求めて修行している人という意味がある。悟りを求めつつ、それぞれに応じた救いの手を差し伸べてくれる仏像で、菩薩は慈悲の具現化ともいう。その表現は、釈迦が出家する前の王子だったころの姿といわれる。そのため冠をかぶり装飾品を身に着けている姿となっている。

 仏像を見て、胸飾りを着けたり、手に何か物を持っていたら菩薩と判断できる。菩薩の中で最も多く制作されたのは観音菩薩だ。観音菩薩は、救ってほしい人が、救ってもらいたい人の姿に変身して現れるといわれる。その姿の数は33あるという。よく秘仏の観音像が33年ごとに開帳されたり、京都の三十三間堂の33も観音菩薩の変化数に由来している。

千手観音や十一面観音は
観音菩薩の変化した姿
 観音菩薩の基本形は、聖観音という姿だ。一般的に上半身は衣を着けず、天衣というショールのような布を肩からかけ、下半身には裙あるいは裳というスカート状の布を巻いている。頭部は、髪を結い上げ、冠などを着ける。この冠の正面に小さな仏像、化仏を表現するが、これは阿弥陀如来の化仏であると経典には記されている。そして、この姿を基調にして、千手観音、十一面観音、如意輪観音などが制作された。

 千手観音菩薩像は、初めは千本の腕を表現していたが、平安時代からは前の2本以外に左右に40本の腕、計42本で表現するようになる。これは1本の腕が25の世界を救うということから40×25で千という発想になり、前の合掌する腕と合わせて42本の腕で制作されることが通例となっていく。十一面観音は本面の上に11の面が表現される。前と左右の9面が憤怒の表情、真後ろの1面が大爆笑面、頭頂の面は如来の顔である。この如来の顔がポーカーフェイス、愛想のない顔なので、仏頂面の語源になったといわれる。

観音菩薩の他、日本で馴染み深い菩薩は、地蔵菩薩であろう。地蔵菩薩は、釈迦が亡くなった後、その後を守護してくれる弥勒菩薩が出現するまでの間(56億7000年間)、人々を導いでくれる菩薩とされる。地蔵菩薩の特徴は、経典に声聞形で衆生を助けてくれると記される点だ。声聞形とは、僧侶の姿である。仏像の中でも珍しく僧侶の姿をしている仏像を見つければ、地蔵菩薩であることが分かる。また中国では、地蔵菩薩が地獄に堕ちた人々を救済するという考え方が生まれた。

 弥勒菩薩は、釈迦の次に出現するとされる菩薩だ。厳密には、地上に出現する前は兜率天という天上界にいて、その時は菩薩の姿、地上に降りてくるときは如来の姿になる。日本では、飛鳥時代に半跏思惟の姿をした弥勒菩薩が制作された。これは朝鮮半島の弥勒菩薩を見ならったと思われる。頬に指をついた半跏思惟の菩薩に魅了される人も多いだろう。



全ての仏像が“悟っている”わけじゃない? 
 あなたの知らない仏像の世界
 あなたの知らない神社仏閣の世界


お彼岸である。この昼と夜の時間が全く同じになる日の前後、日本では仏事が行われ「おはぎ」が供えられる。彼岸の反対語は此岸(しがん)といい、この世のことを指す。ならば彼岸とは「あの世」を指すのかと言えば、そうではなく「悟りの境地」のことを意味し、言い換えればこの世は、煩悩だらけ、迷いだらけの世界と言う意味になるわけだ。

「悟りの境地」に達したのがすべての仏さま……と考えては実は間違い。それほど彼岸は遠い。日本には多くの仏像があるが、「真理を悟った者」という名前を持つ仏さまはわずか一部にすぎない。日頃見ている仏像の姿にはそういった情報が隠されているのである。

仏像は大きく分けて4つとその他に分類できる。仏さまの名前から説明すると理解しやすいのでここから始めよう。

(1)最上位の「如来」

「真理からやってきたもの」「真理から生まれたもの」という意味のある“如来”の名を持つ仏像は、最上位の仏さまで、悟りを得て最高の境地に達していることの表れである。釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来などが有名。奈良の国宝・東大寺盧舎那仏(びるしゃなぶつ)像も如来に属する。

 像の特徴は、螺髪(らほつ/丸く丸まった頭髪)と粗末な衣一枚をまとった質素な姿にある。悟りを開いた仏さまには華美な装飾は不要という意味だ。

 ただし、例外もある。密教の世界で最高仏に位置づけられている大日如来は、螺髪でなく、宝冠をつけ華美な装飾を身にまとっている。また、通常手には何も持たない如来であるが、薬師如来だけは薬つぼを持っている。

(2)修行中の身の「菩薩」

「悟りを求めるもの」という意味を持つ“菩薩”が、如来の下の位になる。菩薩の容姿は仏教の開祖であるシャカ(ゴータマ・シッダールタ)の修行中の姿を映したものだ。シャカの出家前の身分は王子であるため、豪華な着物や装飾品、王冠を身につけている。観音菩薩、文殊菩薩、日光菩薩、虚空蔵菩薩、地蔵菩薩などがあるが、日本では、菩薩さまの人気が高く、多くのお寺で本尊として祀られている。

 なお、お地蔵さまが他の菩薩の姿と違っているのは、日本では時代が下るにつれ辻に立つ道祖神と同化してしまっているためで、古い時代の絵画などでは他の菩薩と同様に装飾をまとって描かれている。

(3)如来の化身「明王」

 不動明王や愛染明王、金剛夜叉明王など、剣を持ち忿怒の表情をたたえる仏像は、なかなか言うことを聞かない人々を正しい道へと導くため、如来が怒りの姿に変化し現れたもの。不動明王の持つ縄は、縛ってでも正しい方向へ連れて行くという決意の姿である。

(4)人気の仏像「天」部

 これまでの如来、菩薩、明王は、言い換えればシャカのその時々にある変化形ともいえるが、“天”のつく仏像は、基本的にはインドの神々から生まれた仏である。たとえば、弁財天、大黒天、帝釈天、毘沙門天、韋駄天、摩利支天など。それぞれが特徴のある姿をしているため、独特のご利益があるとして信仰され、日本では特に人気が高い。また、四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天<毘沙門天>)のように上位の仏像を守護する役目も担っている。

●数えきれないほどの仏の種類

 上記の4分類以外を「その他」にまとめてしまうのもなんだが、仏像としてほかにも「羅漢(釈迦の弟子たち)」「高僧」「眷属」「権現」「地獄王」「荒神」などがある。その数、百万とも千万とも言われているがはっきり言って定かではない。

 仏像は、インドのガンダーラ地方やマトゥーラ地方で盛んに作られはじめたもので、日本に仏教が伝えられたのは飛鳥時代、同時に大陸文化の影響を受けた仏像が国内でも造られ始めた。やがて、南アジアやインドの影響を受けた姿のものや、石造り・漆塗りなどの技法を取り入れた仏像造りにも発展、平安時代には和様の姿も表現されるようになる。

最後までご覧いただきまして有難うございます。

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