<第133回> 令和5年12月定例勉強会 講師 : 吉田 知史氏 (交野市教育委員会) 青年の家・学びの館 午前10時〜12時 33名(会員30名)の参加 |
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2023.12.16(土)午前10時、12月定例勉強会に33名が参加されました。 村田会長の挨拶で始まり、講演会は、交野市教育委員会の吉田知史氏をお招きして、「交野の歴史文化の魅力」について、最近の新しい話題も含みながら約2時間、熱く語って頂きました。 令和4年12月、「交野市文化財保存活用地域計画」が文化庁長官の認定を得た。本計画は「交野の文化財」+「周辺環境」=「交野の歴史文化」が対象。計画策定の過程で交野の歴史文化を6つの特色に整理して、6つの関連文化財群・物語の説明を通じて、「交野の歴史文化」の魅力を余すことなく詳細に解説頂きました。 参加された皆さんより、「交野の歴史が全て網羅されており、分かりやすく説明頂き大変参考になりました。特に、頂いた「レジメ」の内容は良く出来ていて、もう一度読み直したいと思います。」と大好評でした。 講演概要 参考文献 「交野の歴史文化・6つの特色と関連文化財群」(PDF) 1.はじめに 2.交野の王墓と鉄器生産 〜古墳時代に活躍した鉄の王の物語〜 3.天野川と七夕伝承 〜七夕にまつわる平安貴族の物語〜 4.巨石信仰と社寺伝承 〜巨石にまつわる超人たちの物語〜 5.交野の城と安見氏の記憶 〜砲術家として活躍した戦国武将の物語〜 6.徳川支配と伝統的な街並みの成立 〜徳川の世に村々を治めた代官と庄屋の物語〜 7.近代産業と鉄道の発展 〜二人の偉人が交野の産業を興した物語〜 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」とパワーポイントの スライドを掲載させて頂きました。 記して感謝申し上げます。 【参考文献】 交野市教育委員会2022『交野市文化財保存活用地域計画』 ※市ホームページで公開 (URL:https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2022120600036/) |
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村田会長のご挨拶 |
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講師 吉田 知史氏 |
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講師 吉田 知史氏 |
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はじめに ・令和4年12月、「交野市文化財保存活用地域計画」が文化庁長官の認定を得た。 ・「交野の文化財」十「周辺環境」=「交野の歴史文化」が本計画の対象。 ・「交野の歴史文化」の現状を把握し(序〜 3章)、基本理念「残して、活かそう交野の歴史文化、つなごう未来、次世代へ」にもとづき(4章)、課題を整理した上で(5章)、今後の保存活用のための方針・措置及び推進体制を定めた(6〜 8章)。 本日の内容 計画策定の過程で交野の歴史文化の6つの特色を整理し、「関連文化財群」(テーマによつて個別の文化財を関連付けるストーリー)を設定した。この6つの「関連文化財群」の説明を通じて、「交野の歴史文化」の魅力を伝えたい。最近の話題もあわせて。 |
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〜 古墳時代に活躍した鉄の王の物語〜 (1)交野の王の伝説 @片山長三編『交野町史』より 古墳等の遺跡や地名、伝承と、文献史料に記載される古代氏族の活動を関連付けた。 ・『先代旧事本紀』(平安時代初期成立か)記載の、物部氏の祖先とされる饒速日命の哮ヶ峰(いかるがみね、たけるがみね)降臨伝承に注目する。饒速日命を祭神とし、天の磐船という巨岩をご神体とする私市地区磐船神社及びその背後に立地する哮ヶ峰の存在から、交野が物部氏と関連が深い土地ととらえる。 ・平安時代編纂の『新撰姓氏録』(図録29頁表)記載氏族と、遺跡等の関連を指摘した。 肩野物部他…交野郡(肩野郡とも表記した)を拠点とする物部氏関連の氏族が多いことに注目し、『先代旧事本紀』、磐船神社伝承もふまえ、交野・枚方の古墳と関連付けた。 交野忌寸…渡来系氏族で「漢人庄員」を祖とする。→倉治古墳群や機物神社との関連。 A真鍋成史(交野市教委)の研究 ・発掘調査によつて明らかになった森遺跡(後述)や、岡山津山市域の鍛冶・製鉄遺跡と、物部氏等の氏族の活動を関連付ける。 ・岡山県津山市に残る肩野部、肩野物部伝承と鍛冶・製鉄遺跡に注目。出土鉄滓等の分析を行つた結果、森遺跡の鍛冶生産と共通点が認められることを明らかにし、伝承が考古学からも裏付けられるものとした。 |
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(2)鉄器生産を掌握した交野の王 @古墳時代の一大鉄器生産地・森遺跡 現在の河内磐船駅付近に所在し、交野市教委の発掘調査により、倭系と韓系の鍛冶工人による鉄器生産の痕跡(鍛冶炉・フイゴの羽口(送風管)・鉄滓(鍛冶で生じる鉄くず))が確認されてきた。当時の日本列島では専業的な鍛冶を行っており、ヤマト王権の関与が想定される。 A交野の王墓と「鉄の王」 ・古墳時代前期の王墓…森古墳群、妙見山古墳など、森遺跡の鉄器生産開始以前の王墓。 ・古墳時代中期の王墓(鉄の王) 交野車塚古墳群 森古墳群の眼下、森遺跡北東に位置する中期古墳群。交野高校建設時に発掘調査された。 東車塚古墳(第1号古墳) 前期末中期初頭の65mの前方後方墳。8mを超える長大な割竹形木棺内で、2人の被葬者(中央部と北側)が確認されている。 ・北側の被葬者 帯金式甲冑や鉄刀を副葬し、武装の国産化がなされつつあつた時期の、最新の武器。武具を保有する王の姿がうかがえる。また、巴形銅器(盾などの飾り金具)と筒形銅器(杖、槍などの柄の飾り金具)から対外的な活動に携わった姿も想定される。 ・中央部の被葬者 腕輪形石製品の配置から女性首長と推定される。初期の日本列島製とみられる鉄刀を含む複数の刀剣類を副葬する。鑷子(じょうし)(毛抜き)状鉄器、簪(かんざし)状鉄器や棒状鉄器など渡来系の遺物も認められる。 →東車塚の王の活動が、森遺跡で鉄器生産が導入されるきっかけとなったか。 大畑古墳(第6号古墳) ・墳長85m、古墳時代中期中葉から後半の北河内最大級の前方後円墳。 ・後円部調査にて鉄滓出土(供献されたものか)。 →森遺跡の鉄器生産開始に関与した「鉄の王」の墓と考えられる。 ・古墳時代後期の古墳 小規模な群集墳(清水谷古墳・倉治古墳群・寺古墳群)が続くが、明確な王墓は未確認。 (3)交野の王たちのその後 @ 「官営鍛冶工房」の祖型となったとみられる森遺跡の鍛冶 古墳時代後期(6世紀代)に入ると、技術上の画期と鍛冶工房の変化が認められる。 ・「倭韓折衷」の鍛冶が行われ、炉の高温化し、鉄滓出土量が増加する。 ・鍛冶炉5基をL字状に配置し、周囲に区画溝を巡らせる工房があらわれる(森2012-3次)。 →飛鳥時代以後の大和盆地の都城における「官営鍛冶工房」の祖型となるものとみられる。 ※森遺跡の鍛冶工人の痕跡は古墳時代の終わりとともにみられなくなつており、都城における鍛冶生産に従事するようになったと推定されている。 A平安時代の交野郡司・守部氏 郡司とは郡を管理する役職で地域の豪族が交代で担った。守部氏は鍛冶造から改姓した一族であることから、森遺跡の鉄器生産に関わった氏族の子孫と推定される。 → 「鉄の王」の子孫は交野で豪族として活躍し続けたとみられる。 |
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2 天野川と七夕伝承〜七夕にまつわる平安貴族の物語〜 (1)天野川 @下流部(交野〜枚方市域平野部) 現代の護岸によりわかりづらくなっているが、江戸時代には白砂が幅広く広がる直線的な河川で、天上の天野川に例えられた。 A上流部(交野〜四條畷、生駒市域山間部) 深い峡谷を刻みながら蛇行する荒々しい河川の姿。その合間には花岡岩の巨岩が多くみられ、「鮎返しの滝」などの景勝地もある。→府指定名勝の磐船峡 (2)古代の交野郡 @交野郡衙跡 天野川及び東高野街道沿いの郡津地区にある、古代の交野郡の役所跡とみられる遺跡。当時の都との往来の中心であったとみられる。 A私市滝が広遺跡出土の導仏 行基にも影響を与えた僧・道昭の活動との関連が指摘される遺物で、当時の高僧の往来を示す重要な資料といえる。 (3)天野川と平安貴族 @平安貴族遊興の地・交野郡 枚方市側に、身分の高い者のみに狩りが許される「禁野」や、文徳天皇の離宮(別荘)として置かれ、惟喬親王に譲られた「渚の院」などが置かれ、平安京の貴族が訪れる一種のリゾート地だった。多くの和歌が詠まれ、天野川|は「夜空の天の川」にたとえられた。 A物語と伝承 平安貴族の往来は、交野を舞台にした物語や伝承を残した。在原業平を主人公のモデルにしたといわれる『交野少将物語』には、平安時代の交野郡司の娘が、交野少将に失恋して天野川のよどみ(長渕)に飛び込んでしまったとする悲話が描かれる。この「長渕」の地名は交野の郡津に残る。郡津地区にはこのほかに、茶屋で惟喬親王が休息をしたとの伝承や、狩りで親王が弓を引いたという「ゆみのこ田」という地名が残る。 (4)七夕伝承の広がり @機物神社 室町時代には周辺郷の神社として成立している(十六善神図像裏書より)。 いつごろからかは判然としないが織姫を神格化して祭っている。 江戸時代・旧暦の七夕に清めの祭りを行う。 江戸時代の金丸又左衛門役絵地図では「織姫」と記載される。 A星田妙見宮(小松神社) 創建年代不詳。神道・仏教・道教が習合する。 織女石をご神体とする。これは江戸時代の古文書にて弘法大師が獅子窟寺で修業の際に、七曜の星(北斗七星)から降ったものと伝承される。 江戸時代の金丸又左衛門役絵地図では「牽牛」と記載される。 ※江戸時代にはこれらの神社が七夕伝承に関連付けられるようになったことはわかる。 →いずれも現代に七夕祭を復興し広く定着し、さらに市民の祭りとしても広がりを見せる。 最近の話題 室町時代の『蓮心院殿説古今集註』に、「実は河内国交野の天川に織女彦星のニ星を祝ふ社あり。此、岩舟明神也。」とあり、七夕伝承と磐船神社の関連が記される(横田愛子2023「七夕伝承と天野川―和歌。物語世界の心性史―」)。 |
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3 巨石信仰と社寺伝承〜巨石にまつわる超人たちの物語〜 (1)交野の巨岩群と信仰 ・花岡岩の山地に、風化過程で形成された巨岩群。それが信仰の対象となり、周辺にも信仰の場が生まれた。 ・鎌倉時代初頭成立とされる『諸山縁起』の葛城山北峯の17の宿のうち、「石船(現・磐船神社)、師子石屋(現・獅子窟寺)、金剛寺(現・傍示地区)、甲尾(現・交野山)」の4宿が交野市域に所在する。4宿の周辺には、古代以降に寺院や神社が置かれ信仰の対象となる。 (2)弘法大師(空海)の足跡 @獅子窟寺 役行者が金剛山から来て開山し、次に聖武天皇の勅命で、行基によって堂塔が建立されたと伝わる。平安時代に獅子石屋で弘法大師が修行した折に、天から北斗七星が星田地区の3か所に降りたと伝承される。 A廃千手寺 鎌倉時代、亀山上皇が獅子窟寺の薬師如来坐像へ病気回復祈願のために所在した地に建立したといわれる。現在は廃寺ですが収蔵庫が置かれ、弘法大師像も安置されている。 B星田寺 弘法大師と繋がりの深い京都の東寺の末寺。 C星田の廃小松寺と倉治の廃神尾寺(室町時代までの廃岩倉開元寺) いずれも東寺真言宗寺院。特に、現存する「高祖大師秘密縁起」(弘法大師の生涯を記した絵巻物語)のうち2点が室町時代に小松寺と神尾寺の所蔵品であったことから、弘法大師信仰の拠点だったことがうかがえる。 →最新の話題 文化庁所蔵開元釈経録(奈良時代)に神尾寺の僧による後世の奥書がある。 D傍示の八葉蓮華寺 現在は融通念仏宗の寺院。弘法大師による雨乞い儀式を寺院創建の契機と由緒に記す。 E星田地区の大師堂・祠 ※巨岩周辺の寺院には、国宝薬師如来坐像(獅子窟寺)、国重文で快慶作の阿弥陀如来立像(八葉蓮華寺)をはじめとして、重要な「交野の歴史文化」が伝えられる。 |
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4 交野の城と安見氏の記憶〜砲術家として活躍した戦国武将の物語〜 (1)交野の城と安見右近 @戦国期の要衝・交野に築かれた私部城(交野城) 東高野街道等の主要な道が交わる地で、当時の先進地の京都と河内国を結ぶ主要ルート上にある。大和国からみると河内国・京都へ至るルートの一つとして、戦国期の要衝となった。 ここに築かれたのが私部城(交野城)。現在は平野部に残る貴重な戦国期の城跡として、一部が市指定史跡になっている。 A私部城主安見右近 当初は星田を拠点に枚方寺内等に影響力をもち、石清水八幡宮と対立した。 最新の話題 星田の印地山付近が星田時代の安見氏の砦か。 松永久秀の配下に加わり、奈良県側の合戦に参加。その功績か、元亀元(1570)年頃、私部城の城主となる。織田軍にいち早く接近し、織田家重臣の佐久間信盛の娘を妻とした。 B私部城をめぐる戦い 元亀2(1571)年、織田軍から離れつつあつた松永久秀によつて右近は自刃に追い込まれ、私部城はこの年と翌年に攻められている。この戦いで久秀は近隣の枚方市津田城などの付城を置いた。森地区の須弥寺は久秀の砦と伝わる他、私部南遺跡で発見されたこの頃の薬研堀も砦の一部とみられる。 城主死去の危機ながら織田の援軍を得て私部城は城主代理の安見新七郎により守られた。この後も安見氏は織田政権下で北河内をおさえたが、本能寺の変以後に近畿地方から去った。 (2)安見氏の活躍 @戦国時代の下克上を達成した安見氏 戦国期に急速に勢力を伸ばしており、安見右近らより先に活躍した安見宗房は、四條畷市・大東市の飯盛城城主となっている。一方で、私部地区の光通寺。無量光寺は右近により迫害されたと伝えるなど悪人のイメージも強い。 A安見流砲術 私部城の右近と同一人物か不明ながら安見右近と名乗る人物が江戸時代の安見流砲術の始祖とされる。安見氏は優れた砲術によつて、愛媛県へ移り河後森城主となり、慶長の役への参戦を経て石川県に移り加賀藩前田家に仕える。右近の子孫にあたる安見隠岐は、荒々ししヽ性格で平穏の世になじめなかった。→小説『安見隠岐の罪状』のモデルに。 最新の話題 大坂夏の陣(岡山の戦い)で活躍した加賀藩の安見右近(隠岐) B『室町殿日記』などで語り継がれた城と安見氏 江戸時代初期の軍記物語で、宗房や右近らをモデルとした安見一族の活躍が記される。城主亡き後妻が「後家が城」(私部城とみられる)で、織田軍に対抗したと語られる。 |
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5 徳川支配と伝統的な町並みの成立 〜徳川の世に村々を治めた代官と庄屋の物言〜 (1)徳川家康と星田の平井家 @伊賀越えの際の「家康ひそみの藪」伝承(現・妙見坂小学校付近) ・詳細は不明ながら、大阪府内での伊賀越え伝承自体が珍しい。徳川家康と江戸時代市橋家領星田の庄屋を代々つとめた平井家には、何かしらの縁があったとみられる。 A大坂夏の陣における家康宿陣の地・星田 ・星田村の領主市橋長勝が、家康による大坂城攻めの陣地として星田を防衛した。 ・八幡神を祭る新宮山(現・星田公園)に家康の軍旗が立てられ、その軍勢が星田から打上に駐屯した。家康は、平井家に宿陣し軍議を行い、翌日に戦況を見極め大坂城へ出陣した。 ・平井家敷地内の神祖営趾之碑(市指定文化財)は、こうした由緒を伝えるために領主市橋長昭が江戸時代後期に建立させたもの。 (2)代官や庄屋の活躍 @江戸幕府による統治と交野の代官・庄屋 現在の交野市域は8か村に分かれ、各村の領主のもと代官・庄屋が村の運営にあたった。 ・私部村畠山領の代官 北田家 特に豪壮な門構えが印象的な北田家住宅は、貴重な江戸時代の建造物であり国重要文化財。 ・寺村の庄屋 山添家 代々寺村の庄屋を努めた。その主屋は江戸時代の農村の庄屋建築をとどめる国重要文化財。 ・近世以来の建造物・町並み ※旧八か村の中心部には、むかしながらの町並みも残る。 A代官庄屋のもと発展した産業 ・酒造…山野酒造、大門酒造→山野酒造は国登録文化財「山野家住宅」としても重要 ・木綿…「河内木綿」の一地域であり、特に「星田縞」と呼ばれる製品が有名だつた。 →「交野木綿」の再現に取り組む「かたの機織り教室」を教育文化会館で継続している。 ・吉向松月窯…京の楽焼きに学んだ初代吉向が文化元(1801)年に大阪市淀川区十三で開窯し、昭和55年から私市で九世吉向松月が伝統的な技法を継承している。 最新の話題 令和6年1月31日から吉向松月窯及び市立教育文化会館で展示会開催。 B祭りの文化 ・地域に残る祭りとだんじり ・「交野節」の流れを汲む「私市おどり」 ※令和5年3月、「交野節」が大阪府の「記録作成等の措置を講ずるべき無形の民俗文化財」に選択され、交野から「私市・音頭保存会」がその保持団体として認定された。 C江戸時代の古文書群 ・星田村絵図及び星田村地詰帳(市指定文化財)をはじめとして、私部村庄屋文書など各地区の代官・庄屋家を中心に多くの古文書が残されている。 →市で把握しきれていない可能性があり、引き続き調査が必要。文化財審査委員会の村田路人副会長指導のもと、年1回の集中調査などを継続して実施している。 |
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6 近代産業と鉄道の発展 〜 二人の偉人が交野の産業を興した物語〜 (1)交野の近代化をリードした二人の偉人 @金澤泰治 ・金融の力で交野の発展を支えた。業績を伝える教育文化会館(旧・交野無尽金融本社屋)。 A原田元治郎 ・原田式織機を発明し、一大産業を興した。 (2)鉄道の発展 産業の発展とともに将来の展開を見通し、原田元治郎らが鉄道敷設を推進。 @明治31(1898)年、四條畷・長尾間が開通し、名古屋大阪を結ぶ関西鉄道として発展。 →明治40(1907)年に国有鉄道に編入され、木津・片町間は関西本線の支線片町線へ。戦時中には軍用線としても利用。現在のJR学研都市線。 A昭和3(1928)年(枚方東口・私市を結ぶ信貴生駒電鉄枚方線が開業。当初、奈良県まで延長する計画があったが実現しなかった、私市駅南側の細長い空き地は建設予定地の名残り。 →昭和14(1939)年に交野鉄道に名称変更。昭和19(1944)年に京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に合併。昭和20(1945)年の京阪電気鉄道の分離に伴い、京阪交野線になった。 ※鉄道利用による原田式織機の販路拡大。タオルや埜辺刷子工業の歯ブラシ、農産物なども出荷され、鉄道は交野の近代化と発展に貢献。源氏の滝などは観光地として活用された。 (3)治水の近代化 @淀川の砂防事業 明治期の治水事業を推進したヨハネス・デ・レーケによるもので、淀川支流の天野川砂防堰堤、尺治川砂防堰堤、尺治川床固工が施工された。いずれも国登録文化財で重要な土木遺産。 A加賀田用水 私市から私部に広がる用水で、西村忠逸が中心になり整備し地域の治水をさらに進めた。 |
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