<第138回> 令和6年9月定例勉強会 -法然上人浄土宗開宗850年- 「知恩院の天下和順と徳川家康」 講師 : 今堀 太逸氏 (仏教大学名誉教授) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 58名(会員43名)の参加 |
|
2024.9.14(土)午前10時、9月定例勉強会に58名の沢山の方々が参加されました。村田会長の挨拶で始まり、講演会は、今堀太逸氏をお招きして「知恩院の天下和順と徳川家康」の演題で2時間弱、知恩院の歴史と徳川家との関係について詳しく解説頂きました。 <講演概要> 「知恩院の天下和順と徳川家康」 1.総説 2.鎌倉時代 王法と仏法 〔一〕法然上人と「大谷寺」 〔二〕源智上人と「大谷寺」復興 3.戦国時代 勅願所と綸旨と勅願下賜 〔一〕天皇の法然上人・知恩院住職帰依 〔二〕織田信長と天皇・浄土宗・知恩院 3.徳川時代 三つの顔 ①天皇の勅願所 ②将軍家菩提所 ③浄土宗の総本山 ①国宝「三門」 勅願「華頂山」と下乗石 ②国宝「本堂」 三代将軍家光の再建 本堂西仏壇に家康母・家康。秀忠の三像安置 ③「大鐘」寛永13年(1636)鋳造 御忌の鐘 ※史料 知恩院と「天下和順の文」 4.徳川家康と伽藍造営 〔一〕戦国時代 勅願所知恩院と三河松平氏 〔二〕大伽藍造営と位牌・墓所 〔三〕知恩院に宮門跡を置く 〔四〕知恩院住職と家康息子・娘の葬儀 5.解説 史料を読む より深く理解したい方へ ※ 講師:今堀 太逸(いまほり たいつ)氏の略歴のご紹介 1950(昭和25)年、大阪府交野市生まれ。仏教大学大学院文学研究科 博士後期課程満期退学。博士(文学)。1980年から仏教大学文学部で 教壇に立ち、歴史学部教授を経て、2021年、仏教大学名誉教授。1983年、 総本山知恩院史料編纂所編纂員を経て、2019年から同編纂所主任。 著書に「神祇信仰の展開と仏教」「本地垂迹信仰と念仏」「知恩院と家康」ほか ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」を 頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。 ※ 写真は、毛利さんより提供頂きました。 |
|
※ 今堀先生のお話をお聞きして、「知恩院」へ行きたくなりましたとのご意見があり、来年には歴史健康ウォークにて企画立案したいと思います。企画事業部でよろしくお願いします。 | |
・『祝聖文(しゅくしょうもん)」世の中が平和で、人民は安穏であるようにと願い唱える偈文. 天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起 (てんげわしゆん にちがつしようみょう ふうういじ さいれいふき ) 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲 (こくぷみんあん ひようがむよう すとくこうにん むしゆらいしゆう) 天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も 起きず、国は豊に人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳 を崇め仁を尊び、努めて礼儀と謙譲の道を修めます。 ・浄土宗『法要集』 修正会 勅謐記念会 地鎮式 起工式 立柱式 上棟式 落慶式(塔婆回 向)撞染式で唱える回向文。 棟札にも書く。 ・和順大師 昭和36年 法然上人 750年御遠忌 加謐大師号「和順」 昭和36年2月27日 (旧暦の1月25日)皇居、宮内庁長官を通じて皇居で加賜。→和順会館 |
|
講師 : 今堀 太逸氏 (仏教大学名誉教授) |
|
村田会長の挨拶 |
|
巽副会長より、今堀先生と中司衆議院議員の紹介 |
|
中司 宏衆議院議員のご挨拶 |
|
「知恩院の天下和順と徳川家康」レジメ 講師 : 今堀 太逸氏 (仏教大学名誉教授) 知恩院の天下和順と徳川家康(PDF) |
浄土宗総本山 知恩院 (chion-in.or.jp) |
京都・東山三十六峰のひとつである華頂山のふもとに、大小数多くの伽藍がひろがる、浄土宗総本山知恩院。 その壮大な佇まいは厳粛な中にもおおらかな雰囲気をたたえ、お念仏のみ教え発祥の地にふさわしく、人々を迎え入れてきました。 国宝・重要文化財などの指定を受けた、知恩院の建造物をご紹介いたします。 |
知恩院は、1175年に浄土宗の開祖である法然が草庵を結び、念仏の布教をはじめた地です。 1212年に法然が入滅した後に、弟子たちにより廟が建てられました。
江戸時代に入ると、浄土宗の門徒であった徳川将軍家の菩提所として、徳川家康・秀忠・家光などにより、現在の本堂や三門などの壮大な伽藍が造営されました。 知恩院は、法然上人が開いた浄土宗を教化した場所であり、法然上人自身が亡くなった地でもあります。浄土宗の教学や歴史を専門に研究されている、知恩院浄土宗学研究所副主任の伊藤茂樹先生に、法然上人の住居として、またお墓として発展していった知恩院の歴史を振り返っていただきました。 法然上人が生涯にわたって大半の時間を過ごされたのは吉水の地になりますが、吉水の地以外にも、比叡山黒谷、広谷、小松谷、賀茂の河原屋、勝尾寺など、住居を移られました。最初に法然上人が比叡山を出て住居とされたのは西山の広谷というところで、現在の長岡京市にある粟生野光明寺というお寺の後方にあたります。 法然上人が広谷に移り住んだのは、遊連房円照と会うことが目的でした。円照は、法然上人よりも先に善導大師の「本願念仏」に非常に深い関心を持っておられた方でした。円照が亡くなられる時、まさに善導大師が称えられた本願念仏によって臨終往生を果たされたことから、法然上人は善導大師の教えに確信を持って浄土宗を開いたのです。 ただ、これらの場所に住まわれたのは少しの期間で、法然上人が住居とされたのは大半が吉水の地になります。知恩院の御影堂のあたりが吉水、勢至堂のあたりが大谷と言われていますが、実際のところはわかっていません。今の知恩院の光景と、800年前の吉水大谷とでは地形もかなり違っていたと思います。 法然上人が流罪から京都に戻る許可を得た時には、吉水の草庵は荒れ果てていました。そこで九条兼実の弟である青蓮院の慈円の配慮で、大谷の山上の南禅院(大谷の禅房)を住まいとしたといわれています。法然上人は大谷の禅房で亡くなられ、その地に埋葬され、廟堂が建てられました。 |
国宝 「三門」 |
知恩院の始まり 大谷の廟堂には、法然上人の遺徳を偲ぶ人たちがたくさんお参りされました。特に、法然上人が往生された1月25日と月命日である25日には法然上人の遺徳を偲ぶ法要が行われていました。最初は別時念仏が行われていたようですが、それから4、5年経つと、法然上人の生前の5つの徳をたたえる「知恩講」と呼ばれる儀式が行われるようになりました。 その五徳とは、①「諸宗通達の徳」②「本願興行の徳」③「専修念仏の徳」④「決定往生の徳」⑤「滅後利物の徳」といわれています。この知恩講は非常に盛んに行われ、「知恩院」という呼称は、法然上人の廟堂で「知恩講」が行われていたことが由来と言われています。 ただ、法然上人の廟堂は安泰ではありませんでした。法然上人が多くの信仰を集めていたことや、法然上人についてよく思っていなかった比叡山延暦寺の衆徒たちが、法然上人の廟堂を暴いて鴨川に遺骸を流そうとしました。弟子たちは事前にその情報を聞きつけ、遺骸を掘り起こして移動させ、粟生野の地で荼毘に付しました。 遺骸を移した後の廟堂は荒廃しましたが、法然上人の側近である勢観房源智上人が中心となって復興し、1234年、法然上人の二十三回忌に再建されました。この時に初めて知恩院は「知恩教院大谷寺」という名称になります。 |
現代に伝えていく 知恩院は、まさに法然上人からはじまります。法然上人はこの地を住まいとされ、臨終を迎え往生されました。そしてお弟子さんが集まった聖地でもあります。現在の知恩院の伽藍が完成するのは江戸時代ということになりますが、それ以前から専修念仏の聖地として多くの人に信仰されていたのです。浄土宗を信仰するものとして、知恩院と法然上人を知ることは非常に大事なことであります。 さて、平成27年より、私は、月刊『知恩』で「今に生きる浄土宗の教え」という連載を担当しました。そこでは、浄土宗の教え、知恩院について、また法然上人の生涯をテーマとして執筆してまいりました。このたび、『法然上人と知恩院』というタイトルで、おてつぎ叢書を発刊いたしました。法然上人の生涯と教え。そして知恩院の歴史をわかりやすくまとめています。是非お読みいただきたいです。 法然上人は、まさに称名念仏という一行によりだれもが救われるという平等救済の教えを説くことに生涯を賭けました。それは、現在に至るまで色褪せることなく伝わっています。 ぜひ知恩院に参拝して、法然上人の足跡にふれていただきたいです。 |
最後までご覧いただき有難うございました |