郡津神社は京阪電車・郡津駅より東へ徒歩15分。
祭神は、本殿が素盞嗚命(すさのおのみこと)・住吉明神・天照大神、末社には金刀比羅大神・天神地祀・稲荷大神・貴船明神が祭られている。
今の郡津神社は、郡津神社として現在の地に祭られているが、明治以前は、一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮と、別々の土地に祭られていた。今の郡津神社が一ノ宮で、祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)、二ノ宮は住吉明神で東高野街道の上茶屋の西の台地にあった。また、三ノ宮は天照大神で大塚の地に祭られていた。
明治6年3月、神社の統合がなされ、二ノ宮・三ノ宮が一ノ宮に合祀されて名前も郡津神社となった。 よく言う「牛頭(ごおず)天王」とは素盞嗚命のことであり、疫病除けの神であり、農
業の神でもある。
神社の裏手には明治の初めまで官寺の長宝寺(奈良時代創建)があったと伝えられ、白鳳
時代の瓦が出土している。
交野郡衙(かたのぐんが)
郡津神社の西の地は、「くらやま」といわれ、古代律令時代に栄えた
交野郡衙(かたのぐんが)の跡地と推定されている。
(右の交野郡衙(かたのぐんが)跡地推定略図を参照下さい。)
郡衙(ぐんが)とは、大化の新制により、これまであった旧制の地方支配者の臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやっこ)・国造(くにのみやっこ)・村首(むらのおびと)等を廃し、これにかわり国には国司(こくし)・郡には郡司(ぐんじ)をおいて、天皇のもとに集中する権力機構の支配系統が樹立した。
河内では南に国府ができて、その下に多くの郡が設けられたが、北部には茨田(まった)(淀川付近)、讃良(さら)(四条畷方面)、交野(交野丘陵)=交野郡衙の三郡が置かれ、それぞれ要衝には郡衙ができた。
国司は中央から派遣されたが、郡司はその地方の有力豪族が支配することが多かった。郡司がその地方の民を統率し、年貢米を徴収した。その中心地が郡衙であり、役所があって、米蔵が林立した。
「ち」 長宝寺 瓦は語る その威容 「交野郷土史かるた」より
郡津の「くらやま」は、
明遍時から郡津神社にかけて一段高くなった台地を形成しており、この台地に
郡司が住み、蔵が建ち、郡司の一族の力で郡衙の東隣の今の郡津神社の場所に長宝寺が建てられていたことが確認されている。
長宝寺址の遺跡の中央には 郡津神社の社殿が建てられているが、その周辺から、多くの白鳳時代の瓦片が出土している。
明遍寺(みょうへんじ)は、浄土宗の宗祖法然の弟子明遍がもとを開いた。
浄土宗。
藤原時代の終わり、平家の没落に近い治承年間(1177〜1180) 高野山にいた僧明遍(みょうへん)は、浄土宗の祖法然が京都比叡山延暦寺で法を説いているのを聞き、大いにこれに帰依し、度々、この東高野街道を往復した。
途中、休憩所をこの東高野街道の郡津の茶屋付近に設けた。ここで、休むごとに、集まる農民に法然直伝の念仏往生の教えを伝えた。
その後、休憩所であった小庵が明遍寺となって、現在に続いている。
明遍僧都は平治の乱(1159)で源義朝に殺された小納言藤原信西の子で、東大寺にて出家し華厳三論を学ぶ、後、高野山蓮華谷に入りて修行を重ね、真言の奥儀を究め、世にその知識ぶりを知られて高野聖開祖と仰がれた。