[ホームページ][名所案内]

9.八葉蓮華寺

交野市大字傍示111
八葉蓮華寺には、JR河内岩船駅・京阪電車河内森駅より、
「傍示の里」か「かいがけの道」を通って徒歩で約1時間。


阿弥陀如来立像

小さくてひっそりとしたお寺の中に、国の重要文化財に指定された阿弥陀如来立像がある。
名匠として知られる鎌倉時代の仏師・快慶の作で、檜(ひのき)を用いた82.4センチの半等身像。
来迎印を結び、わずかに左足を踏み出して、衆生に向かって来迎するありさまをあらわしています。
快慶の仏像は、奈良・京都を中心に30数例が知られている。快慶は、藤原彫刻の優美さを受継ぎながら、写実的な表現を踏まえて、日本人の心に強く訴える、独自の形式美を備えた仏像の美の形を創造し、後世に大きな影響を与えました。

なかでも、この像のような、彼の創り出した半等身の来迎印を結ぶ阿弥陀如来像は、その小作りで静かな優しさが人々に好まれたため、後世それにならって多くの模刻像がつくられることになった。その系統の像を安阿弥陀様と呼んでいる。
像は引き締まった頭部と、太作りの上体をそなえ、全体に自然な前傾の美しさを持っている。顔は、少し目じりの上がった青年のような若々しい相好に表わされ、その表情はおだやかで、静かな感情をたたえています。流れるような衣文は美しく整えられ、しかも自然な動きを失っていません。端正なその姿からは気品が漂うようです。

放射光形式の光背や、六重蓮華座も、造立当初のもので、仏像・台座・光背の三拍子がそろってセットで伝わっているのは貴重です。しかも全体に、後世補ったところや、欠けてなくなった部分はわずかで、驚くほど保存状態は良好です。用材はヒノキ材で、この時代に小ぶりの像によく用いられた割矧造りでつくられていると推定され、眼は玉眼としています。

像は、螺髪を群青彩とするほかは、肉身と衣を漆箔仕上げとし、光背と台座には、群青、録青および朱などで彩色を施し、一部に切金をおきます。快慶の署名は、左足の外側に墨で「巧匠 アン(梵字)阿弥陀仏」と謹直な書体ながら、必ずしも能書とはいえない筆致で書かれています。

流れるように美しい衣線や、青年のような若々しい表情など、快慶の意欲が伝わる造形美である。
建久3年(1192)から建仁3年(1203)ごろの作と推定されている。

山間のお寺らしい静けさがあり、心がひときわなごみます。
一度は訪れてみたい所です。


天長三年(826)交野、大和の一帯が日照り続きになり植えた苗がほとんど枯れてしまった。
村人達は困り果て、国司に訴えたところ、国司はこの状況を天皇に報告した。

天皇は直ちに弘法大師を呼び、交野地方に雨が降るように祈願する事を命じられた。
弘法大師は、早速傍示が嶽(竜王山)に登って八大竜王を祭り、大雲論晴雨経を読まれた。
すると龍神がこれをお聞きになったのか、四方数十里にわたって黒い雨雲が現れ、
まさに竜が雨雲に乗って天に上るような暗さになり雨が降ってきた。
これを見ていた村人達は、よみがえったように喜んだ。

「阿弥陀如来立像」が発見されたことを伝える当時の新聞 天皇はその効をおほめになり、八大竜王を祭る寺を八葉蓮華寺と号し、その下に八つの坊を建てられた。
その一部「山の坊、栴檀(せんだん)坊、向井坊、西の坊」の地名が残っている。
建暦年中(1211から1213)の僧戦の時、京都清水寺に協力した為延暦寺に敗れ、この時寺は廃絶した。

その後、元享元年(1321)法明上人が交野に御化道(ごけどう)の際、
八葉蓮華寺の跡に一小堂を建てられ、旧名の通り八葉蓮華寺とおつけになり、融通念仏宗の道場とされた。 (氷室山蓮華寺略史より)

上左の写真は昭和58年4月、
            「阿弥陀如来立像」が発見されたことを伝える当時の新聞


現在の蓮華寺はかっての位置から一段西に場所を変え、明治36年(1903)ごろ再建されたものである。


八葉蓮華寺 八葉蓮華寺 石畳が奇麗な八葉蓮華寺
石畳が奇麗な八葉蓮華寺

公開日  毎年 春・秋の一般公開日
     (問合せ先 交野市文化財事業団 072−893−8111)
拝観料:保存協力費300円

住吉神社(寺村)より峡崖越(かいがけごえ)の急坂を登って約30分。傍示(ほうじ)の里にあります。


傍示の里農作業に忙しい
傍示(ほうじ)の里
傍示は河内の国と大和の国との国境にあり、交野から高山を経て奈良へ通じる「峡崖(かいがけ)道」に当たっている。

奈良時代から平安時代以降、熊野参りの人々がこの道を利用した。平安時代から鎌倉時代にかけて、京都の天皇や貴族たちの熊野(和歌山県)参りがさかんになり、京都から鳥羽に出て淀川を船で下り、交野にあがって「峡崖(かいがけ)道」をのぼりつめると大和へ出る。
ここから王寺、五条を通って紀州へ行くのが一番近道だと、昔は随分通行人があったようです。

いまは、ハイキングコースとして良く利用されている。


交野市史、交野市制25周年記念誌、交野市文化財事業団の資料を参考

交野の名所案内に戻る