奈良時代以降に属する展示遺物には、円面硯、巡方、鑿、錐、火打ち金、釘、常滑焼の甕があります。今までにご紹介した遺物もありますが、円面硯・釘・火打ち金・常滑焼の甕を紹介します。
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円面硯
奈良時代の円面硯を2点展示しています。これらは須恵器と同じ材質と作り方をしており、陶硯と呼ばれています。 円面硯は、中国では漢の時代以降の硯です。日本でもこれを模倣して、飛鳥時代・奈良時代には円面硯が多くを占めます。 使い方として、円面硯は複数の人が共同で使っていたと考えられます。円面硯は、真ん中の部分が墨をする陸部で、その周りの溝がすった墨汁を溜める海部です。しかし、よく見るとこの円面硯には墨で汚れた部分が無いことに気づきます。 同じ遺跡からは、土器に墨で字を書いた墨書土器と呼ばれるものも出土し、鮮やかな墨の色が残っているものがあります。しかし、墨をするこの硯に墨が残っていないのは不思議だと思いませんか。墨自体が貴重で、使う場合にも極少量しか使っていなかったのか、それとも、使い終わったら、墨の汚れが消えるまで洗ったのでしょうか。おそらくこの両方の理由だと考えられます。 当時は、墨を使って字を書く人も少なく、ごく限られた人が使っていたため、墨も硯も貴重だったのでしょう。 字を使う人がたくさん住んでいた平城京・宮では須恵器の甕や壷、杯などを硯として使っていたものがたくさん出土しています。これを転用硯と呼んでいます。硯として作られた円面硯などより多く出土していることから円面硯が貴重な物だったと考えられます。
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和 釘 |
展示している釘は鉄製で、断面は四角い形をしています。釘は飛鳥時代以降、明治時代になるまで、鍛冶で鍛えて作るため、四角い形をしています。 日本最古の木造建築といわれている法隆寺にも、同様に断面が四角い釘を使っています。これを一般に和釘と呼んでいます。 私たちが日常目にする断面が丸い釘は、洋釘と呼ばれ明治時代の初めごろに海外から輸入されたものです。やがて明治時代の終わりごろに国内でも洋釘が生産できるようになり一層洋釘が広まりました。その結果和釘はほとんど見られなくなりました。 洋釘は、溶かした鉄を引き伸ばし線状にしたものを、適当な長さに切断して使います。一方で和釘は、刃物のように鉄を折り曲げ、たたいて鍛えるので長持ちします。法隆寺の釘も、もし洋釘を使っていたら残らなかったかもしれません。
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火打ち金 |
火打ち金は、火をおこす道具の1つです。マッチが普及するまで、火打ち金と火打石で火をおこす方法が一般的でした。 火のおこし方は、硬い石である火打石を鉄の火打ち金で削るようにたたきます。この時、ごく細かく粉状になった鉄が摩擦熱で燃焼し、火花状に散るので、その火花を火口と呼ばれる細かな繊維に付けます。火口に火が移ったら、息を吹きかけて大きくし、薄い板などに火を付けて完了です。 展示している火打ち石は室町時代のものです。火打ちで火をおこす方法については、古くは「古事記」に倭建命が火打ち金を使った話があります。また、奈良時代のお墓から、火打ち金が副葬品として出土することもあります。 火は人間にとってなくてはならない大切なもの、神聖なものとして扱われ、その火をおこす火打ち金もまた大切な道具でした。
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常滑焼の甕 |
展示している甕は室町時代のもので、遠く常滑から運ばれてきたものです。割れてはいますが、このように完全な形のものはあまりありません。 常滑焼は、愛知県知多半島で生産された焼き物で、中世から現代まで続く陶器です。 常滑焼を作る常滑窯は平安時代にそれまでの中心であった、愛知県東部の猿投窯の技術を継承して成立・発展した窯で、甕・壺・すり鉢を中心に生産していました。これらは庶民の生活に欠かせない日用雑器として日本全国へ広がっていきます。 やがて室町時代から安土桃山時代になると、他の窯が茶器を生産するのに対して、常滑では実用品の生産を行っており、やがて他の窯に押されて徐々に衰退していきます。 1年間にわたって紹介してきました、第二京阪道路予定地内遺跡の調査成果と、交野市歴史民俗資料展示室での展示会の列品解説も今回で最後となりました。 一連の発掘調査によって、古墳時代や平安時代から鎌倉時代ごろの在地支配に関わる人々の集落や、私たちが子どものころ見た水田景観の礎となる田畑の開発の歴史など、多くのことが分かりました。それにより交野は昔からたくさんの人が暮らす、住みやすい土地であったと言えます。
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今回の連載で紹介した遺跡の詳しい報告書などは、倉治図書館2階の地域資料コーナーで閲覧できますので、ぜひお立寄りください。ご愛読ありがとうございました。
(財)大阪府文化財センター 佐伯 博光 |