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広報 かたの 特集シリーズ


歴史民俗資料展示室へようこそ かたの歴史探訪
ー交野の絵図ー
 江戸時代、幕府の命により、正保・元禄・天保のころに3回にわたって全国規模で国ごとの地図が作製され、あわせて村ごとの詳細な地図も作られました。
 今回は、「交野の絵図」をテーマに、その時に作られた星田村絵図や倉治村の絵図、江戸時代の暮らしについて紹介します。

星田村の絵図
 星田村の絵図は、「星田村大絵図」「元禄十年星田村絵図」「天保十四年星田村絵図」(元禄10年=1697年、天保14年=1843年)の3点があります。これらは昨年9月に市指定文化財に登録されました。
 絵図を見ると、方角がまちまちに描かれていることが分かります。「元禄十年星田村絵図」では、南の方角にある山並みが現在の地図とは逆に上(北)に描かれ、地図中の場所などを示す文字も上下左右に四方から見られるように書かれています。
 これは、絵図を広間に広げて自由に見やすいように書かれたものなのです。
 絵図は地図としては大まかなものですが、当時の絵師が山・川・道・集落・領地などを絵画的に描いていて、当時の景観や様子が分かる貴重なものです。

絵図から見る星田村
 「天保十四年星田村絵図」には、当時の小字名が書かれており、地名を知る手がかりになります。また、山の色から「はげ山」が広がっている様子が分ります。生活に欠かせない薪を作るために乱伐したのでしょうか。
 「元禄十年星田村絵図」と見比べると元禄10年から天保14年の約150年間に星田村から私市にかけて、はげ山がかなり増えているのが分ります。


元禄十年星田村絵図

天保十四年星田村絵図

星田村大絵図

 

徳川家康御殿屋敷 大坂の役で家康宿陣の地
 「元禄十年星田村絵図」に、善林寺から東へ行き、路地を北に入った所に数段の石積みと柵らしきものが描かれ「御殿屋敷」と書かれています。ここは徳川家康が大坂夏の陣のときに兵を引き連れて泊まったところです。
 村の言い伝えによると、慶長20年(1615年)5月5日、徳川家康は朝に京都二条城を出発し、東高野街道を進んで夕方に星田に着き、三河の出身で家康とゆかりの深い、村の長の平井清貞宅に1万5,000人の兵を引き連れて宿陣しました。
 平井家では早くから連絡を受けていたので、1町(約1万平方メートル)ある広大な屋敷の北にある奥書院を修繕して待っていました。
 また、後に星田村大部分の領主になる市橋氏の市橋長勝は、前もって兵を遣わして村の守りを固めたので、近隣の村は大坂方(豊臣方)に焼き払われましたが、星田は焼かれずに済み、家康は一夜をゆっくりと過ごすことができました。
 翌日、家康は四條畷の徳川秀忠軍と大阪城を攻め、豊臣氏を滅ぼしました。このとき、家康の旗印は、平井家が代々その別当職をつとめる、新宮山八幡宮の庭の松に高く掲げられました。後にこれを「旗掛け松」といい、星田名所記に書かれています。
 現在、平井家の北西に隣接して、大坂の役より190年後の文化3年(1806年)に、当時の領主・市橋長昭と平井家の当主・平井三郎右衛門 貞豊とで建てた記念石碑「神祖 営趾之碑」が立っています。
 

旗掛け松(星田名所記より)

神祖 営趾之碑
 

 


天保十四年倉治村絵図
 

天保十四年倉治村絵図
 この絵図は江戸時代の倉治村の絵図として現在分かっている唯一のものです。この絵図では、機物神社の南にも鳥居があり、大きな道が続いていました。その先には、江戸時代初期まで続いた有家集落があったことが発掘調査で分かっています。
 ほかにも、「神宮寺」「鶴ヶ峰」「南頭」といった倉治村の出郷が記されています。「濱の池」と「宮代之池」という池もありますが、現在は境がなくなり「源氏池」になっています。また、源氏の滝から機物神社までの道の両端に松の木が植えられています。地域のお年寄りの話では、雨のときも傘をささなくてもよかったそうですが、現在はその面影もありません。
 倉治村を洪水から守った免除川もすでに村の南に流れています。交野山を中心とした山の尾根には木々が描かれていますが、まばらな様子がうかがえます。

江戸時代の暮らし
 当時、交野市内には8つの村がありました。倉治・郡門(郡津)・私部・寺・森・傍示・私市・星田の村です。
 江戸幕府は太閤検地を引き継ぐかたちで検見(稲の出来具合を見て、生産高を予測する)を行い、村々の石高と年貢を決め、それぞれの村を幕府が直接支配したり、徳川家の家臣(旗本)や譜代大名に支配させ、村には代官、庄屋、年寄、百姓代などを置いて厳しく取り立てましたので、農民の暮らしは決して裕福なものではありませんでした。
 また、村の治安維持のために5人組の自治組合を組織させ、キリシタン、悪事をする者、逃亡者などを取り締まりました。

江戸時代後半の村の推定人口・石高・領主
倉治 約450人 約1,087石 旗本・久貝氏
郡津 約500人 約870石 旗本・片桐氏、小田原藩・大久保氏
私部 約950人 約1,590石 旗本・畠山氏、小田原藩・大久保氏
約300人 約341石 石清水八幡宮・幕府領
約300人 約334石 小田原藩・大久保氏
傍示 約40人 約39石 幕府領
私市 約300人 約578石 旗本・越智氏、幕府領
星田 約1,600人 約1,529石 仁正寺藩(のちの西大路藩)・市橋氏、
小田原藩・大久保氏、石清水八幡宮

 歴史民俗資料展示室のボランティア解説員が、資料室の展示品やその時代背景・暮らしなどを紹介する「かたの歴史探訪」コーナーも今回で最終回になります。このコーナーを機会に展示室にお越しいただき、交野の歴史を再発見してもらえれば幸いです。
 最後に、交野市史をはじめ、たくさんの文献書類などを参考にさせていただいたことを申し添え、関係各位に厚く感謝申し上げます。
 長い間お読みいただきまして、誠にありがとうございました。みなさんのご来訪を展示室でお待ちしています。

歴史民俗資料展示室ボランティア解説員 村田義朗

住 所 交野市倉治6−9−21(教育文化会館内)
▽JR津田駅から徒歩10分
▽交野市駅から、京阪バス「津田駅」行き、「南倉治」下車、徒歩1分
▽ゆうゆうバス、倉治コース、「南倉治バス停」下車、徒歩1分
開館時間 午前10時〜午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日・祝日・年末年始
問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)か、同展示室(TEL810・6667)

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