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番外編其之一 |
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交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」。第4回は、番外編として地域ではなく、山に関する札を紹介します。 交野市の約半分を占める山地は東部から南部に屏風のように広がり、緑豊かで市民の安らぎとなっています。この山地は奇岩巨岩が多く、それらを題材にした数々の神話や伝説が生まれ、また修験道の行場として利用されてきました。
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加藤肥後守拓本 |
私市の磐船神社には、高さ、幅とも12メートル以上もある巨岩があり、神社のご神体として祀られています。 この巨岩は、加藤清正が大阪城の石垣に利用しようとしたが、あまりの大きさに断念したという伝説があります。 しかし、近年この巨岩のてっぺんに、左の拓本のように、加藤肥後守と石工の名が刻まれていることが分かりました。 ここで登場する加藤肥後守は、秀吉の忠臣加藤清正ではなく、その息子のことと考えられます。 そのため、ご神体を運ぼうとしたのは、秀吉の時代より、少し後の時代だと思われます。
現在の大阪城の石垣も秀吉時代のものではなく、徳川家康が大坂夏の陣より後に諸国の大名から石を取り寄せ、築造したものということが分かっています。 加藤肥後守にしても、大阪城まで運び出すことができなかったことから、石に名前を刻むことしかできなかったのでしょう。 ちなみに大阪城の石垣に加工されながら使われなかった石を残念石と呼びます。
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白旗池は、交野山の北の谷をせき止め、湧水を蓄えて造った池で、市内で3番目の大きさを誇り、オシドリの飛来してくる池として知られています。 かつては、ふもとにある倉治村の人たちにとって生活していく上で、なくてはならない水源地でした。 かるたの読み札の免除とは、免除川のことです。 この川は、源氏の滝から機物神社の南を通り、郡津地区と私部地区の間を流れ、さらに長宝寺小学校の南側から松塚地区を抜けて、天野川へと注いでいます。 免除川は、もともと機物神社から倉治の集落に向けて流れていたといい、たび重なる土砂災害を防ぐために付け替えられたという話が残っています。 近年の有池遺跡や倉治遺跡の発掘調査により、古墳時代にさかのぼる旧河道の跡や集落跡が見つかっており、中世には灌漑システムを完備した水田域と溝で区画された屋敷地なども発見されています。 扇状地特有の自然災害と戦いながら生活を送っていた人々の苦労が偲ばれます。 |
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ご好評をいただいております「かるた歴史ウオーク」は、8月はお休みします。
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