|
星田地区編 |
交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第10回は、星田地区を紹介します。 星田地区が昭和30年に交野町と合併する前は、星田村として独立した村でした。今でも市内でもっとも人口の多い地区で、さまざまな歴史や伝承が残っています。
|
|
|
|
|
|
星田の南側の山間部妙見川の谷をさかのぼり、菖蒲ヶ滝からさらに南へ600メートルほど谷あいを行くと、四條畷市田原と逢阪への分かれ道となります。 この付近の右側の台地状の高地に平安時代から江戸時代前半まで、小松寺という大きな寺院がありました。 これは現在、星田9丁目にある日蓮宗小松寺とは異なります。 江戸時代に作られた『続群書類従』にある「小松寺縁起」によると、小松寺は奈良時代に大地震で山崩れし、堂が谷底に転落して、星田郷の美しい青石で刻んだ石仏が地中に埋もれてしまった、と記されています。 小松寺は真言宗で、金堂の本尊は弥勒菩薩、根本草堂には十一面観音、建物は金堂と根本草堂のほかに講堂や食堂、僧侶の暮らす建物が67棟など、僧侶120人、児童38人という大規模な寺院でした。 「小松寺縁起」自体も江戸時代に編集されたもので、その記述を全面的には信じることはできません。 しかし、平安時代には小松寺が存在していたことは、京都の広隆寺にある資料で確認できます。 広隆寺の上宮王院の本尊である聖徳太子像の体内に納められている願文の「勝鬘経」奥書に小松寺の名が残されています。 現在、星田寺にある木造十一面観音立像(市指定文化財)と光明寺にある薬師如来立像はもともと小松寺にあった仏像で、元禄16年(1703年)に小松寺が廃寺になったときに、星田寺と光明寺に仏像が移されたと伝えられています。 実際に、2体の仏像は平安時代にさかのぼる、市内でも非常に古い仏像です。
|
|
|
|
一里塚跡の石碑(星田) |
京都の教王護国寺(東寺)と高野山金剛峰寺を結ぶ参詣の道を高野街道といいます。 その中で、河内国の東部を通る街道を東高野街道といいます。 平安貴族が高野山へ詣でるときは、南都(奈良)の諸大寺を巡ってから行くか、難波(大阪)の四天王寺や住吉大社に詣でてから高野山へ赴くことが多く、東高野街道を通ることはあまりなかったようですが、この街道は高野詣の始まる前から河内国では唯一の南北道で、通行や物資の輸送のために重要な道でした。 河内の荘園と京都を結ぶ道として、南北朝時代には南朝・北朝両勢力の軍事道路として使用されました。 江戸時代にできた地誌『河内志』では、東海道から続いて大阪まで下る京街道を「京道」として、東高野街道を「古道」といっており、古くからの道であったことを示しています。
一里塚とは、大きな道路のそばに、通行者の目印となるように、一里ごとに設置した土盛りの塚のことです。 元禄10年(1697年)の星田村絵図(市指定文化財)には高野街道沿いに「一里塚」があり、左の絵図のように、道の両側の盛り土の上に大きな松が1本ずつ描かれています。 現在は、星田駅から枚方市の高田に向かう道の途中に、一里塚跡の石碑が残されています。
|
|
|
|
|
|
|
広報紙での交野郷土史かるたの紹介とあわせて、かるた札にちなんだ史跡などへの見学会を行います。歴史解説ボランティアと一緒に、市内の歴史散策に出掛けてみませんか。 と き 2月25日(金)午前9時30分〜正午 コース 星田駅
→ 星田寺 → 小松神社(妙見宮) → 光林寺 →
一里塚 定 員 先着30人 参加費 100円(保険代) 申し込み・問い合せ 1月24日(月)午前9時から文化財事業団(TEL893・8111)
|
|
|
第31回小学生郷土史かるた大会
|
市内小学生大会、各学年上位者は表彰します。参加賞があります。ぜひご参加ください。
と き 1月15日(土)午後1時30分〜
ところ 武道館2階
参加費 無料
申し込み 直接会場
問い合わせ 交野市古文化同好会の中さん(TEL891・1409) |
|
|