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〜古墳時代の新しい暮らし〜 |
今回は古墳時代の集落や生産遺跡などを紹介します。 古墳時代初め(3世紀中ごろ)の交野では、古墳という巨大なモニュメントが出現する一方、人々の生活は竪穴式住居が一般的な住居で、弥生時代とあまり変わらなかったとみられています。 しかし、5世紀ごろになると、日本列島と中国・朝鮮半島の間で、国際交流が活発になり、海外の文化・技術が日本に伝わります。 交野にも新たな生産技術が伝わり、人々の生活が変わっていきました。 |
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土師器と須恵器 |
交野では、古墳時代の初期は、弥生式土器に似た赤っぽい色の土師器という土器が作られていましたが、中期には日本に伝わってきた須恵器という新しい焼き物も作られるようになりました。 須恵器は、下の図のような「あな窯」という長く大きな窯を使い、1,000℃以上の高温で硬く焼き上げ青灰色に仕上げた焼きものです。 上の山遺跡と茄子作遺跡(枚方市)の調査で、遺跡近くから伝来して間もないころの須恵器の窯があった可能性が高くなりました。 また、寺地区の大谷北窯跡では、古墳時代の終わりごろの須恵器窯から出た灰や失敗品を捨てた場所が見つかっています。 須恵器は市内の集落で数多く発見されており、日常的に使われていたようです。 また、土師器にも「こしき」という煮炊きに使う新しい種類の土器が加わるなど、土器文化全体に大きな変化がありました。 |
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交野は日本屈指の鍛冶集落 |
新たな生産技術の中で、重要だったのが、鉄を加工して道具を作りだす鍛冶の技術でした。 もともと日本で行われていた鍛冶に朝鮮半島から伝わった鍛冶技術が加わり、鍛冶生産は急速に発展します。 また、交野は古墳時代、鍛冶生産発展の中心地のひとつだったことがわかっています。 森遺跡の発掘調査で、羽口という鍛冶の道具や鍛冶炉、鉄滓(鉄製品をつくるときに出た鉄くず)など鍛冶に関するものがたくさん見つかりました。 その量の多さから、交野で行われていた鍛冶生産は、当時の日本で五本の指に入る規模だったと考えられています。 鉄は農具・工具などの生産道具から刀剣・甲冑などの武具まで、道具を作るために欠かせない素材であり、古墳時代の交野の鍛冶は、当時の日本全体で重要な役割を果たしていたと考えられます。
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ロマンあふれる謎の織機 |
先月号で紹介した倉治古墳群で見つかった紡錘車という糸紡ぎの道具は、森遺跡でも見つかっていて、集落の中で機織りに関わる作業が行われていたと見られます。 さらに、最近では上の山遺跡のすぐ隣にある茄子作遺跡から、とても珍しい古墳時代の織機(機織りに使われた道具)の一部が見つかりました。 発見された部材が、なぜ織機の一部だとわかるのかというと、細かい糸の痕跡が部材の表面に奇跡的に残っていたおかげで、織機の部材であることがわかりました。 木製品は、土中で腐ってしまいやすいため、発掘されること自体も貴重なことです。 また、この織機の部材は、古墳時代のものとしては、日本中でこの一例しか確認されていないとても重要な文化財です。 しかし、この部材と組み合わさるような織機の部品の発見例がほとんどないため、織機の構造や特徴については謎のままです。 ただ、古墳時代以前の日本の織機にはない部材の形をしており、古墳時代以降に新たに伝わった織機であることははっきりしています。 おそらく、須恵器や鍛冶などの技術とともに交野に伝わってきたのでしょう。 この織機の部材は、交野で千年以上昔に機織りが行われた証拠であるとともに、日本の機織りの歴史を変える可能性を秘めた出土品なのです。 この織機の部材は、企画展示「七夕伝説と星の信仰」で展示しています。
 出土した織機の部材(大阪府文化財センター) |
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古墳時代を考古学してみよう |
鍛冶や須恵器などの当時の最先端の技術が導入された古墳時代の中ごろから、交野の集落にも大きな変化が起きます。 集落の規模の拡大に伴って、それまで人が住んでいなかった土地にも開発の手が及んでいたことが、最近の発掘調査で分かりました。 青山にある上私部遺跡では、当時の土中に含まれた花粉の成分を調べた結果、周辺の森林を減少させるなど、集落の発展が自然環境に大きな影響を及ぼしていたことも分かっています。 また、集落が広がっただけでなく、高床式の建物も多く建てられるようになります。 弥生時代ののどかな田園風景は一変し、古墳時代の終わりごろには立派な建物が立ち並び、鍛冶や須恵器づくりの煙が立ちのぼっていたことでしょう。 こうして開発が行われていった様子は、交野が急速に住宅都市化していった昭和の大規模な開発に匹敵するものかもしれません。 |
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企画展示「七夕伝説と星の信仰」
七夕伝説の起源から、庶民の祭りへの変化や現代の七夕祭りについて、資料と写真パネルで解説します。 と き 8月14日(日)まで。午前10時〜午後5時(入室は午後4時30分まで) ところ 歴史民俗資料展示室 問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)
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歴史クイズ
問題 先月号で紹介した、古墳の周りに立てて並べられた埴輪は、一部が交野でも作られていた可能性があります。 この埴輪はなぜ作られるようになったのでしょうか? @いけにえや殉死の代わりに、人や動物の形をした埴輪を置くようになった。 A弥生時代のお祭り用のつぼなどの土器が埴輪になった。 B中国や朝鮮半島の風習を取り入れた。 |
歴史クイズの正解者の中から抽選で1名様に「ジュニア文化財ガイドブック」をプレゼントします。当選者の発表はガイドブックの発送に替えさせていただきます。 応募方法 8月31日(水)までに@答えA名前B住所C電話番号Dあれば感想・質問を書いて文化財事業団広報プレゼント係(〒576−0052 交野市私部2−29−5 e-mail:bunkazai@city.katano.osaka.jp) 問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)
7月号歴史クイズ 答え 正解は、1でした。 解説:弥生時代の円形や四角形のお墓に入るための通路が発達して前方後円墳などの形ができたと考えられています。
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