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今月のテーマ:私市の条里制と天田の宮周辺
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ボランティア解説員 村田 義朗 |
明けましておめでとうございます。正月はこたつでのんびりという方も多いのではないでしょうか。 今回は私市地区のお話ですが、前月号の特集「交野郷土史かるた」をもとに訪ねます。 おせち料理やおもちで重くなった体の運動に、私市のお宮さんへ初詣でというのもお勧めです。 |
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河内森駅を東へしばらく歩くと天田の宮(天田神社)があります。 このあたりは土地が広く、水がよく行きわたり、稲作には申し分のない良田でした。3世紀終わりから4世紀にかけて、開墾が進んだと思われます。昭和35年(1960年)、社務所付近から土師器や須恵器の土器が多数出土し、弥生時代の後期ごろから人々が水田を作っていたことが裏付けられました。 奈良時代、郡津に郡衙(役所)が置かれたころ、天野川周辺は稲作の一等地として条里制が敷かれ、私市を一条通りとして北へ枚方市まで十条通りと区画整地されました。神社の西にある鳥居をくぐって左に100メートルも行くと、東西に伸びる道が現れますが、それが一条通りです。
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神社の前から、私市の山手へと通じる道を南に行くと、高くて立派な石垣が積み上げられた松宝寺に行き着きます。 春にはらんまんの桜が咲き乱れる松宝寺池の堤の上からは、きれいに整地された棚田の奥に、天田の宮と一条通りを見渡すことができ、緑色の京阪電車と桜のコントラストがすばらしい風景が広がります。 ときには、この風景を撮影するアマチュアカメラマンの姿が、群れをなします。 この付近は眺望もひらけ、昔から月見に最適といわれたため、月秀山の号をもち、もとは獅子窟寺の十二院の塔中の一つ、松宝院であったと思われます。 境内には、次に紹介する千手寺にあった南北朝時代(14世紀代)の十三重の塔が建っています。 |
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私市の田園風景。奥に見える鳥居が天田神社(上は昭和30年代、左は現在)
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河内森駅〜私市駅の京阪電車(左は昭和30年代、右は現在)
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大きなケヤキの木が目印の百重が原橋を渡り、すぐ右手にわだん坂を下り一条通りへ出ると、角地に「古代天野川地方条里区画一条通遺跡」の石標が建っています。 西念寺の前を通り過ぎ北へしばらく歩き、「此付近亀山上皇駐蹕私市観音寺」の石標が建っているところに千手寺がありました。 千手寺は、今は廃寺となりましたが、鎌倉時代には、亀山上皇が病気のとき、ここを行在所とし、獅子窟寺の薬師仏に祈願しました。上皇が回復した後、千手観音をまつって寺とされました。安置されている木造聖観音菩薩立像(平安時代)、木造如意輪観音坐像(室町時代)は、ともに市指定文化財に指定されています。
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若宮神社から天田神社へ、神様がお帰りになる行列(昭和30年代)
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旧磐船街道に出て、風情のある道を南にたどり四辻を過ぎ、しばらく歩くと左手に大きな自然石で作られた灯ろうが二つ現れます。そこを左に曲がり、鳥居をくぐると若宮神社に着きます。 私市は、昔から一村二社となっています。江戸時代、私市村は磐船神社を総社としていましたが、その分霊(住吉神)を持ち帰り、村の南の入口に鳥居を建ててこの宮をまつり、天田の宮に対してこの宮を若宮としました。
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私市駅(上は昭和30年代、下は現在)
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再び、旧磐船街道に出て南へ歩き、最初の四辻を左にとれば私市駅、まっすぐ歩くと天野川に出ます。 天野川は、険しい磐船渓谷を流れ、交野の平地を潤し稲作の一等地をなし、淀川へと注いでいます。 饒速日命が船に乗って哮ヶ峰に天降った話、また平安時代に入って、この地を訪れた貴族たちがこの川を天上の天の川にあてはめた七夕の話などいろんな伝説に富んでいます。 これらは、天野川流域の農耕文化の発展を意味していると思われます。 |
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四辻で腰を下ろす人と荷車(昭和30年代)
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現在、私たちが解説員を務める歴史民俗資料展示室では、1月18日まで交野郷土史かるたの原画展を開催しています。ぜひ、ご来館ください。 さて、今年もまた新たな1年が始まりました。みなさんにとっても、交野市にとっても良いことがたくさんありますように。 |
シリーズで学ぶ交野の歴史第8回講演会
交野の歴史を学ぶ連続10回の講座です。今回は、教育文化会館に展示している「民具」についての講演を行います。 と き 1月30日(金)午前10時〜正午 講 師 文化財事業団職員 定 員 30人 費 用 100円(資料代) ※当日、参考資料として「ちょっと昔の民具たち(600円)」も販売します。 申し込み・問い合わせ 歴史民俗資料展示室(TEL810・6667 月曜・火曜日は休室)
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