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今月のテーマ:森の須弥寺かいわい
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ボランティア解説員 中 光司 |
黄金色に実った稲穂が刈り取られ、見渡しが良くなる一方で、野山で紅葉が始まる季節になりました。
この時期、交野でこれらの景色が見られる森の里を散策されてはいかがでしょうか。 |
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河内森駅から、森の集落へ入る道を映した古い写真があります。
道は二又になっていて左が森へ、右が傍示の里へと続いています。
地道に古い型の自動車が停まり、後ろに袋をつけた自転車は、なんと洗濯屋さんです。昔ののどかな雰囲気がよく出ています。この自転車の進む先に駐在所がありました。今は、河内森駅の横に移されています。
もう一つの写真は、天田の宮北側の森新池です。写真の真ん中を走る片町線の向こうには、一軒の家もなく、一面に田畑が広がっています。田んぼには、わらを束ねて家形に積み上げた「すすき」が点在しており、田は冬作の麦畑に変わっています。現在からはちょっと想像しがたい景観です。 |
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河内森駅から、森の集落を臨む(左は昭和30年代、右は現在)
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森新池から北を臨む(左は昭和30年代、右は現在)
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河内森から傍示への道を上がっていくと、2基の大きな貯水タンクがあります。その前で小さな川が深い谷に落ち込んでいくのですが、落ち込む手前で水の流れが分岐し、道際を流れている用水路があります。それは、やがて道とも別れて、山すそを西や北へ1.3キロほど流れ、須弥寺の横の堂池にたどり着きます。
この用水路を新川と言い、江戸時代の終わりごろ、森村出身の漢学者と村人が協力してつくったそうです。現在、消防署のある高堤から、水路の予定地に立つ村人の提灯の明かりを見て、水路の高低を見極めたといわれています。この新川のお陰で、堂池の水をかんがい用水として利用できるようになり、その下の田畑は豊かなものになりました。山の水を利用するため先人の苦労がしのばれる新川です。
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用水路「新川」
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現在、森南にある大門酒造の前、市道森南神宮寺線は道幅が狭く、人も車も頻繁に通り過ぎる交通量の多い道です。
この道を整備するとき、崖面から弥生時代から中世にかけての土器や石器などが、多数出土しました。教育文化会館で展示している石包丁などもここから出土しました。
写真は、昭和31年ごろに行われた森遺跡の発掘調査です。当時、土器が出土した崖面は今、石垣になっています。 |
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昭和31年ごろ行われた森遺跡の発掘(左)、真ん中に見える崖面は、現在、石垣となっている(右)
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森南神宮寺線を北東へ行くと、須弥寺に着きます。市道から境内に登る石段の傍らに「石清水八幡宮警固観音菩薩」と刻まれた石碑と「古代人陽石崇拝遺跡」と刻まれた石碑が前後に立っています。
本堂の東の石段を上がった所に観音堂があり、中には貞観元年(859年)奈良大安寺の僧、行教が京の都を鎮護するため宇佐から八幡神を分霊したときに、警護して来られたとされる観音様が祀られています。
そこから、もう一つ上がったところには、鐘楼が建っていて、その側には大きな石があります。
この石は、自然石ですが、その形が男根を連想させるため、当時の人々は石神と崇めました。子孫繁栄を祈る古代人の間で信仰対象となったもので、後世これを陽石と称しています。
こういった石を祭る場所はたいてい村の最上位で、村中の聖地とされていました。ここは古代の森村を見下ろす丘陵の先端で、森村発祥の地というべき場所です。
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須弥寺の石段の傍らに立つ「石清水八幡宮警固観音菩薩」と「古代人陽石崇拝遺跡」と刻まれた石碑
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須弥寺の陽石
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森村の山の根道から山麓にかけては、緑豊かな交野の原風景を見る景観です。一方で豊かな田園風景には、都市化の波が押し寄せてきています。
新旧の写真を見比べていきますと余計にそんなことが思われ、保存と発展の狭間にあることがわかります。 |