平成23年度
交野古文化同好会総会
 青年の家 206号室 午後1時30分〜
  22年度実施報告及び会計報告・監査及び23年度行事予定・ほか

2011.4.9 総会・講演会、48名の参加でした!
 総会は、黒田幸男さんの総合司会で始まり、冒頭、東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りして黙祷を捧げました。引き続き22年度の古文化同好会の実施報告は吉岡さん、会計報告は立花さん、会計監査は中角さんから、また、23年度の行事予定と予算案は吉岡さんより、それぞれ提案され承認されました。

 中会長より、先ず交野市体育文化協会との連携で進めている、東日本大震災の義援金をお願いしたいと挨拶された後、昨年度数回に亘って「交野古文化同好会の進むべき道は」とのテーマで皆さんに熱心にご検討いただいた結果、その中で、交野古文化同好会のシンボルの旗を新しく作ったこと、また、これまで世話人会を中心に活動されていた抽象的な組織を、具体的に活動できる部会組織にして、それぞれ役員・幹事・世話人をおいて活動して行くこと、それに伴って会則を大幅に見直したことなどが報告された。続いて、新しく選任された役員の紹介がなされ、今年度も勉強会と歴史健康ウォークの二大事業を中心に皆さんと楽しみながら活動して行きたい、特に6月と9月にはバスツアーを計画しているので沢山の方に参加いただきたいなど、23年度も皆さんと共々交野古文化同好会をより発展させるよう頑張りたいと決意を述べられた。

 最後に、平田副会長より「これまで先輩たちが築き上げられた功績と伝統を大事にしながら、これからも新しい事業に果敢に挑戦して行きたいので、皆さんのお力をぜひともお願いしたい」と結ばれた。

 今年度より、会員の増強・活動の活性化に向けて「広報かたの」を活用することが決まり、4月号に「会員募集」と「催し」を掲載しましたところ、10数件の問い合わせなど次ぎから次へと嬉しい反響があり、今回新しく14名の会員が加入されました。

 なお、会長より冒頭、お願いしました、東日本大震災の義援金につきましては、3月26日の勉強会と今回の総会で、沢山の方々のご協力により、集まりました義援金は、交野市体育文化協会にお納めさせていただいたことをご報告させていただきます。 ご協力誠に有難うございました!心より感謝申し上げます。(中会長より)

総会 風景


総会は、黒田さんの名司会でスムーズに進み、全議案了承されました。
特 別 講 演

 「肩野物部氏と鉄・鉄生産ー岡山と交野のつながりー」
講師 : 真鍋 成史氏(交野市教育員会)

 引き続き、特別講演 「肩野物部氏と鉄・鉄生産ー岡山と交野の結びつきー」、真鍋成史氏(交野市教育委員会)より、岡山地方に伝わる肩野物部氏の伝承と考古資料を基に、沢山の映像を交えながら詳しくお話しいただきました。
 真鍋先生、ご講演有難うございました。
当日配布された、講演のレジメ 
 クリック↓

「肩野物部氏と鉄・鉄生産ー岡山と交野のつながりー」
(PDF)
平成23年度交野古文化同好会・総会資料                     2011.4.9

        肩野物部氏と鉄・鉄器生産
            -岡山と交野の結びつき-

                                 交野市教育委員会  真鍋成史

1.はじめに

 岡山県下の肩野物部氏について取り上げたのは1970 年代、斉藤孝・八木意知男・真弓常忠氏らであり、いずれもが製鉄集団と位置づけている。その理由として、肩野物部氏の屋敷地のあった場所が、後に美作国一宮である中山神社となり、そこが『古今和歌集』「大歌所御歌一〇八二番」で「まがね吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」と呼ばれ、実際にこの神社周辺からは古墳時代から奈良時代にかけての製鉄遺跡が確認されたことによる。このほか、行田裕美氏らによる中山神社や仏教寺など肩野物部氏との縁の深い社寺に関する考古学資料からの考察など興味深い論考もある。
 この肩野物部氏とは、その名前が記すとおり河内国肩野郡(現在の交野市・枚方市)に由来する氏族である。それが、どのようにして離れた岡山県に点在するのか、興味深いところである。私はこれまでに津山市から岡山県北部(旧・建部町)の製鉄遺跡や肩野物部伝承のフィールド調査を行い、論考を発表してきた。本論では、これら研究を土台として、古代における製鉄集団の成立と中世における彼らの変容の過程について再度検討してみたい。

2.津山市から岡山市にかけての製鉄遺跡について(図参照)
 まずは、私がフィールド調査を行った津山市より以南の製鉄関連遺物の散布地や津山市教育委員会などが調査を行った製鉄遺跡について取り上げてみたい。
 津山市には多数の古墳時代から奈良時代までの製鉄遺跡が見つかっている。同市周辺の製鉄遺跡のうち、金属学的調査を次の13遺跡で実施されている 。

 1.緑山遺跡(砂鉄系製錬滓/飛鳥時代)、2.東蔵坊遺跡(鉱石系製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、3.ビシャコ谷遺跡(砂鉄系製錬滓/飛鳥時代)、4.押入西遺跡(砂鉄系製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、5.狐塚遺跡(鉱石系製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、6.一貫西遺跡(砂鉄系製錬滓/飛鳥〜奈良時代)、7.別所谷遺跡(鉱石系製錬滓/奈良時代)、8.大畑遺跡(砂鉄・鉱石製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、9.小原遺跡(鉱石系製錬滓/飛鳥〜奈良時代)、10.アモウラ遺跡(砂鉄・鉱石製錬滓/古墳後〜飛鳥時代)、11.二宮遺跡(砂鉄系製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、12.大蔵池南製鉄遺跡(砂鉄系製錬滓/古墳後〜飛鳥時代)、13.美咲町小原地区矢引田(鉱石系製錬滓/奈良時代)。

 これらの津山市及び美咲町の製鉄遺跡は岡山県の東部を流れる吉井川水系に属しているが、鉄鉱石・砂鉄をとも使っているところに特徴がある。この付近には鉄滓を副葬した古墳も多数あり、そのことからも製鉄集団が多くいたことが分かる。

 次に誕生寺川流域は、岡山県中央部を流れる旭川水系に属しており、平成7〜9年に誕生寺川流域での製鉄遺跡の分布調査を行った結果、これまで分かっていた美咲町井の野元たたら、岡山市(旧・建部町)豊楽寺大池以外に、新たに5地点で製鉄遺跡を確認し、合わせて採取した資料の大澤正己氏や平井昭司氏の協力により分析調査を行った。

 14.久米南町北庄地区秋宗(砂鉄系製錬滓/平安時代)、15.久米南町松地区荒神池(砂鉄系製錬滓/平安時代)、16.久米南町上ニケ地区金屎池(砂鉄系製錬滓/平安時代)、17.下籾地区金山池(砂鉄系製錬滓/平安時代後[一〇六三年])、18.岡山市川口地区大正池(砂鉄系製錬滓/鎌倉〜室町時代)、19.岡山市豊楽寺地区大池(砂鉄系製錬滓/奈良〜平安時代)。

 新たに見つかった遺跡は、立地や採取した資料の形状からみて、平安時代から鎌倉時代にかけての製鉄遺跡である。これ以外の誕生寺川流域の製鉄炉は津山市の各遺跡よりも大型化している。津山市周辺の遺跡との違いは誕生寺川流域では製鉄原料には鉄鉱石でなく、すべて砂鉄に切り替わっていることや、滓の組織も銑鉄が生成された時の組織を持つものが多く、原料の変化と炉内温度の高温化がなされ、このことも中世期の製鉄であることを裏付けるものである。津山市あたりではあまり認められなかった鍛冶屋や鋳物師に関する地名もこの誕生寺川流域には多く存在していることも特徴である。

3.岡山県下の肩野物部氏伝承について(図・表参照)
 では肩野物部伝承を見ていきたい。私は文献などを調査し、斉藤孝らが調べたものと合わせて13箇所で、肩野物部伝承地を確認した。主要なものを取り上げると、まずは中山神社である。『中山神社縁由』や『作陽誌』によれば、肩野物部乙麿という人物が、元は中山神社創建前(707年)に、大穴持神をこの地に祭祀し、彼自身は社地の東南4町で大きな屋敷(方数里)に住んでいた。しかしある時、老人の姿をした中山神とサイコロによる賭け(双六)を行った結果、屋敷地ともども取り上げられ、屋敷地を移転するのである。
 その移転先の屋敷地は長者御前と呼ばれ、旧・嬉石神社(現存せず)の社地と伝えられる。
その後、自分の祀る大穴持神の神威が衰えることを妬んだため、家司や親族が死に絶えてしまいそうになったため、さらに人贄に代えて鹿を毎年2頭献ずることを約束して南部の弓削庄に移り住むこととなったと伝えている。
 そのほか、周辺では大蔵池南製鉄遺跡のすぐそばに、肩野物部氏のものと伝える長者屋敷地や、そこから西にある善福寺の成立として、肩野物部氏の妻の建立による尼寺であると伝えている。
それでは、次に親族ともに移り住んだ弓削庄(誕生寺川流域)についてみていきたい。『作陽誌』などによれば乙麿が移り住んだ弓削庄には彼の屋敷跡があり、「内田屋敷」と呼ばれていた。乙麿はこのほか仏教寺を建立したとも伝え、そこには肩野部塚と呼ばれる宝篋印塔も今も残っている。移住後、乙麿はある年鹿贄を怠ったため、再び祟りが起こり、そのため中山神の眷属である猿神(シロゴロウ)を勧請し志呂神社を建て、弓削庄の庖谷において鹿贄の祭りを行うようになったと伝える。

 肩野物部氏は伝承のほかにも古文書にその名前が記載されており、実在が確認されている(写真参照)。岡山県古文書集にみえる法然上人が生まれたとする誕生寺、そこにある鎌倉時代後期の阿弥陀如来立像の体内文書からはこの仏像を作ることに寄与した「かたのさたむね」や寛文十年(1670年)に記された古文書に豊楽寺の末寺を建立した「肩野部忠元」の名前が見える。鎌倉・室町期に実在したことが分かる。


4.まとめ
 津山市において大きな屋敷を持っていた肩野物部乙麿は、誕生寺川流域に移り住んだ後も屋敷を構えそして社寺を自ら建てるだけの財力があった。また中世期においても乙麿の末裔もなお仏像や寺を寄進するだけの有力者であった。その背景には乙麿以来の製鉄を生業としていたことによる蓄財が推定されよう。

 以上のように岡山県津山市周辺は交野市の歴史を考える上でも非常に興味深く、今後引き続き製鉄を中心とする発掘調査に関して注視しなければならない地域であろう。

講演後、数人の方から質問があり、其々先生から丁寧にお答えいただきました。
岡山へ肩野物部氏の伝承を訪ねるバスツアーの企画も良いなぁと感じました。
真鍋先生、ご講演有難うございました!


平成23年度 交野古文化同好会

総会・講演会 記念写真
沢山の方々にご参加いただきありがとうございました。
今年度、計画された様々な行事など、皆様のご協力をお願いいたします。


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