平成24年 2月定例勉強会 「奈良東大寺二月堂 お水取りの謎に迫る」 〜若狭お水送りと二月堂修二会の謎〜 講師: 寺田 政信氏 (古文化同好会) 青年の家 学びの館 午前10時〜12時 29名の参加 |
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2012.2.25(土)午前10時より、2月定例勉強会に29名の方々が参加されました。参加された方の内訳は会員17名に加えて、「会報かたの」催しページなどを見られて参加された方が12名であった。 中会長の挨拶の後、高尾氏の司会で始まり、「奈良東大寺二月堂お水取りの謎に迫る」をテーマに寺田政信氏の熱弁であっという間に終了時間となりました。 寺田氏は講演で、平城遷都からその後の政情を検証し、大仏建立の発願と開眼に至る経過を詳細にたどり、そもそも、東大寺二月堂のお水取りの行事がどのような内容で行われ、なぜ若狭がお水送りの場所に選ばれ、修二会の行法が繰り返し繰り返し行われてきたかを見事に解き明かしていただきました。 聖武天皇念願の盛大な大仏開眼の裏の部分では、大きな犠牲が払われました。その最も大きな犠牲は水銀毒によるものです。どれだけの犠牲がでたか、歴史は伝えてくれません。 水銀毒以外にも、銅、金、水銀、材木などの材料の過酷な調達、過酷な労役による多くの犠牲が払われたものと想像します。そのことを一番分かっていたのは、大仏建立の事務局長的存在の良弁和尚だったと思います。そこで、高弟の実忠に命じて二月堂を建立させ、大仏開眼の2ケ月前に、大仏建立で犠牲になった人々に懺過する“修二会”の行法を確立させたのではないでしょうか。そして、実忠に命じて“修二会”本来の意味を隠蔽するため、お水取り、お水送りの行事をカモフラージュのため採用したものと推察します。お水送りは水銀輸送の隠蔽にも使われ一石二鳥だったのではないでしょうか。 大仏開眼が奈良時代の“明”とすれば、修二会は、“暗”であったのでしょう。大仏が存在する限り、修二会は粛々と毎年行われるわけです。 HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメや貴重な写真集の資料などを提供頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 |
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「奈良東大寺二月堂お水取りの謎に迫る」(レジメ) 1.はじめに 2.平城遷都 3.平城遷都後の政情 4.大仏建立発願 5.大仏開眼 6.二月堂お水取りの行事 7.若狭お水送りの行事 8.なぜ若狭がお水送りの場所に選ばれたのか? 9.なぜ修二会の行法が繰り返し行われたのか? 10.さいごに |
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奈良東大寺二月堂お水取りの謎に迫る 〜若狭お水送りと二月堂修二会の謎〜 寺田 政信氏 【はじめに】 2010年は平城遷都1300年にあたり、大極殿の復元公開、遣唐使展など賑わっています。 復元された大極殿には、当初予定よりも多くの人達が来ているとのことです。(写真参照) ここでは、そもそも平城遷都の意味を問うてみるとともに奈良時代の前半を検証してみたいと思っています。その中で、大仏開眼と同じ年に行なわれた東大寺二月堂の通称“お水取りと若狭のお水送り”についてその謎に迫ってみたいと思います。 【平城遷都】 なぜ、藤原京から平城京に遷都が行われたのかの考察から始めてみたいと思います。 藤原京は、大和三山(畝傍山、耳成山、香具山)に囲まれた所に日本で最初に条坊制の施行された本格的な都でした。最近の発掘でその大きさは平城京を上回るとも言われています。日本書紀の最終の編纂に携わった持統天皇と藤原不比等によって造営されたというのも面白い取り合わせです。藤原京の造営完成が694年であり、たった16年後に平城京に遷都されてしまいました。その理由には、いくつかの説がありますが、京大名誉教授の上田正昭先生の説明に説得力があります。巷間言われているように宮殿が都の中央にあり、水の流れがスムーズに北から南へとなっていなくて、汚水が宮殿にも流れ込み疫病が流行したと言われています。さらに、物資を運搬できる河が都近辺になく、遠く離れた木津川に依存せざるを得なかったことなどが早い遷都になったといわれています。 しかし、最大の原因に上田正昭先生は遣唐使の問題を指摘しています。百済一本を支援した中大兄皇子(後の天智天皇)は、663年の白村江の戦いで唐と新羅連合軍に倭の船隊を全滅させられ大敗します。唐と新羅連合軍が倭国を襲うことを恐れた中大兄皇子は各所に水城や山城を造り、自らは近江に宮を設けます。新羅は、高句麗も征伐し韓半島を統一します。韓半島の利権を得られなかった唐は、お得意の遠交近攻の戦略で倭国との交流、具体的には、遣唐使を受け入れます。最初の6回までの遣唐使は、新羅の牽制、唐を敵に回さない政治的なものでした。第7回 702年の遣唐使は、栗田真人を執節使、高橋笠間を大使とした初めて本格的なものでした。山上憶良も随行しています。この遣唐使節が長安の都に入り、都の方位、建物の配置などを調査し綿密な調査結果を持ち帰り、持統天皇に報告したと推察します。直ちに、都の適地を探し、平城の地に都を造営したものと思われます。大極殿を北側に北高南低の都(天子は南面す)としたわけです。 【平城遷都後の政情】 奈良時代最大のヒーローである聖武天皇の生い立ちについて考察してみます。 701年聖武天皇は、幼くは、首(おびと)皇子といい、この年、藤原京で文武天皇と藤原不比等の娘宮子夫人のとの間に第一子として誕生します。母宮子夫人は、心的障害で、27歳まで会うことが出来ませんでした。 707年文武天皇は、25歳の若さで崩御しましたが、首(おびと)皇子は、当時7歳で幼少であったので、文武天皇の母、首(おびと)皇子の祖母にあたる元明天皇が即位します。 710年元明天皇の時代に藤原京から平城京へ遷都します。 715年元明天皇の健康問題で、文武天皇の姉である元正天皇が即位します。 716年首(おびと)皇子16才のときに、藤原不比等の娘(後の光明皇后)を夫人とします。このように、天皇家のごたごたにも関わらず、平城遷都という大事業が行われたのは、藤原不比等の力によるものと考えられます。律令制も着々と施行されていきます。 そして、首(おびと)皇子が24歳のとき、元正天皇から皇位を譲られて、即位します。 聖武天皇の誕生です。 さらに、新しい問題が生じます。当時、皇族勢力を代表していた、長屋王は、民間人である藤原不比等の娘を皇后にするのに反対します。藤原一族は、長屋王の変を起こし、長屋王を自殺に追い込みます。そして、藤原不比等の娘は非皇族の民間最初の皇后として即位します、光明皇后の誕生です。 後の、平安時代 文徳天皇の時代、藤原良房は、自分の娘を文徳天皇の后に入れ、子供(惟仁親王)が生まれると、既に、文徳天皇の長子で立派な青年の惟僑親王がいるのにかかわらず、生まれて間もない惟仁親王を、立太子(第一天皇継承者)とします。そして、文徳天皇が亡くなると、当時、9歳の惟仁親王を天皇(清和天皇)に即位させ、藤原良房は民間最初の摂政になります。このように、藤原一族は、司さ司さで力をつけ、中でも藤原北家が栄え今日に至っているわけです。 光明皇后が民間出身の初めての皇后とすれば、平成天皇の美智子皇后も民間出身ですし、雅子妃殿下も同じです。女系天皇が議論を呼びましたが、光明皇后まで遡って考える必要があるかもしれません。 737年藤原四兄弟が疫病で亡くなり、長屋王の祟りと噂されます。ここで藤原一族の勢力が一旦衰えます。そして、橘諸兄が右大臣に任命され権力を掌握します。 740年大宰府左遷を不満とした藤原広嗣が乱を起こしますが、平定されます。 このように、平城遷都後は、いろいろな事件が発生し、とても、天平時代(天下平和の時代)といえる状況には、ありませんでした。 【大仏建立発願】 聖武天皇は、いろいろな事件に嫌気がさしたのか、藤原一族との距離を置きたかったのか、あちこちに行幸します。 740年2月、難波宮行幸の祭、河内国で白鳳時代創建と言われる智識寺で大きな盧舎那 仏を拝します。これがきっかけとなって大仏建立を決意します。智識寺は現在柏原市の石神社に礎石のみ残しています。聖武天皇が拝した盧舎那仏がどのくらい大きかったかは、分かりませんが、飛鳥仏ぐらいの大きさはあったのではと想像します。 東大寺大仏建立と関係して大きい出来事は、741年に出された国分寺、国分尼寺の建立の 詔です。その範囲は、北は出羽、陸奥、南は大隈、薩摩にいたる100寺以上になります。国司には大きな負担のため従わないものも多く建立には時間を要したようです。行基が活躍したのもこの頃です。 そして、東大寺は、建立の位置からしても、平城京の護り寺ではなく、全国国分寺、国分尼寺の総本山の位置付けになったのです。このことは、桓武天皇が、90年余続いた平城京を捨てる事ができた理由にもなります。 聖武天皇は、山背の恭仁京に遷都します。山背は橘諸兄の支配する地域であり、政略的な意味があったと思われます。続いて紫香楽宮に遷都します。聖武天皇は紫香楽宮に大仏建立を試みます。しかし、相次ぐ山火事で紫香楽宮をあきらめ最終的に平城京に戻ります。いよいよ、東大寺大仏建立に力を入れます。 大仏建立には、次ぎの材料と人力が必要とされます。 銅・・・500トン 金・・・440kg 水銀・・・2.5トン 炭・・・7,120石 人力・・延べ250万人 銅の入手先については、はっきりしませんが、青丹よしの奈良県、生野鉱山、他の国からも献上があったようですが実態は不明です。 金については、陸奥に配属された百済王 敬福が算出した金を大量に献上したという記録があります。大層喜んだ聖武天皇は、百済王族を現在の枚方市に住まうことを許したようです。炭と材木については、紫香楽宮周辺の地方豪族から寄進があったようです。 まず、水銀がなぜ必要か説明します。銅の表面に金を塗布するには、金を水銀で溶かしてアマルガム状(どろどろした状態)にします。これを銅像の表面に塗布します。アマルガム状の状態では、金に液体状の水銀が残っています。液状の水銀を蒸発させるためには、 200度C近い加熱が必要です。バーナーがあるわけでもないので、百匁ろうそくで蒸発させたと思われます。そのときの水銀の蒸気は、水銀毒として、いわゆる「水俣病」「いたいいたい病」を発生し多くの人達が発病死亡したことと思われます。聖武天皇自身がこの水銀毒に冒されていたという説もあります。 行基は全国を行脚して、勧請の役目をします。行基は、745年大僧正に推挙されます。しかし748年に大仏開眼の前に亡くなります。 良弁は、大仏建立の事務局長のような役割で大仏開眼の企画・運営を担っていたようです。大仏開眼の直後、東大寺の第一代別当に任命されることからも、その業績は評価されていたと思われます。 良弁和尚については、いろいろな伝説があります。若狭のお水送りの神事を行う鵜の瀬の白石神社の前に、良弁和尚生誕の地の碑があります。(写真参照)当地の伝承によれば、良弁和尚はこの地で生まれ赤ん坊の時に、フゴに乗せられ、東大寺二月堂まで運ばされ、杉の木にフゴを引っ掛けたという伝承があります。今でも、二月堂前には、何代目かの良弁の杉があります。良弁和尚が鷹に運ばれたときお守りとして仏像を合わせの中に入れていたと伝えられています。この仏像は、東大寺に保存されているといわれます。当地には、お守りの仏像より少し大きい仏像が秘仏として保存されたと言われていますが、その仏像の実態は不明です。 【大仏開眼】 そして、いよいよ大仏開眼の法要が、752年4月9日に挙行されます。天皇は考謙に譲位されているので、聖武太上天皇、光明皇太后として出席します。なぜ、752年に挙行されたのか、いくつかの説があります。例えば、仏教が欽明天皇紀に百済の聖明王から伝えられますが、それから200年目が752年だと言うのですが、仏教伝来の年号には二説あり、 この時代の暦の観念からも無理があるように思います。むしろ、大仏建立に生涯を捧げた聖武太上天皇の生きている間にということで、大仏も完全ではなかったが取り急ぎ開眼供養が行われたのではと推察します。4年後の756年に聖武太上天皇は崩御します。光明皇太后が夫の使っていた日常品、宝物として大事にしていた御物を正倉院に格納します。その時、夫をいかに愛していたか、尊敬していたかの文書が残っています。この文書を読むかぎり、父親藤原不比等の操り人形でなく、夫を心から支えていた人物像がうかがわれます。 お釈迦さんの入滅の4月8日でなく9日に挙行されたのは、天候など何かの障害があったのでしょう。 大仏開眼の法要は中国や韓半島の高僧を招いて行われますが、これらを仕切ったのが、良弁和尚だったと思われます。そして、良弁和尚は、ある目的で、高弟の実忠和尚に二月堂を建立させ、若狭のお水送りと二月堂のお水取りの行事をさせたのではないでしょうか。 【二月堂お水取りの行事】 そもそも、東大寺二月堂のお水取りの行事とは、どういう内容なのか、検証してみます。お水取りとは、表面的な行事の名前で、本来は、十一面観音に懺過(悔い改める、懺悔するという意味)するのが修二会の行法です。誰に、何のために悔い改めるのか、謎の多い行法です。修二会は前年の12月から準備に入ります。修二会本番に参加する練行衆の発表などがあり、いろいろな予備行法が行われます。そして、3月1日から3月14日の本業に入るわけです。最初に全国の神様の名前の書いた神名帳を読み上げる行事があります。 その後、松明祭りと修二会が繰り返し繰り返し行われます。松明祭りは公開されますが、修二会は非公開で二月堂の中での行法がどのようなものか秘密です。走りの行法、達陀(だったん)、インドの行法で直立状態から前へそのまま倒れこむなど、過激なものだといわれています。なぜ、そのような過激な行法が行われるかは謎です。 3月12日、お水取りの行事が行われます。二月堂の前の若狭井からこんこんと神水が湧き出てきます。若狭の鵜の瀬から送られた水です。それを汲んで、十一面観音に奉納します。 12日の夜は大松明が焚かれます。松明竹は京田辺の講からの竹送りによる真竹です。 京田辺には、実忠和尚が創建されたとされる、国宝の十一面観音を祀る観音寺があります。どこか、因縁を感じます。松明木は、三重県名張市の伊賀一ノ井松明講から送られます。14日はフィナーレで最後の行事が行われ、お水取りの行事は終了します。 関西ではこのお水取りが済むと本当の春が告げられるといわれています。最近は気象異常で、このような実感は得られませんが、以前は、春の到来を実感できたものです。 【若狭お水送りの行事】 若狭では、3月2日にお水送りの行事が行われます。14日かけて行われる奈良のお水取りの行事を、1日に圧縮したようなものです。 そもそも、若狭がお水送りに選ばれたのは、次のような伝承によるものです。 実忠和尚は、大仏開眼の二ケ月前から、祈りの行法(修二会)を始めました。修二会の最初のところで、実中和尚は、全国の神々の名前が書いてある「神名帳」を読み上げました。 その時、若狭の遠敷明神だけが、魚を捕るのにかまけて遅刻しました。そこで、お詫びとして若狭の聖水を奈良二月堂に送る神約を交しました。そして、毎年3月2日に若狭の鵜の瀬の川淵に注いだ神宮寺の聖水が、12日に奈良の二月堂前の若狭井に送られることになったというわけです。 若狭のお水送りは、次のような手順で行われます。 午前11時 山八神事(見学不可)・・神宮寺別当が行う祈祷神事 意味不明 午後1時 修二会(見学不可)・・・・・神宮寺堂内で行われる。二月堂と同じ行法 午後1時半 弓打ち神事、奉納弓射(見学可)・・ 午後6時頃 修二会(見学不可)・・・・・薬師如来(遠敷明神)への懺過の行法 午後6時半 修二会(見学可)・・・・・・達陀の行法 午後7時頃 神宮寺大護摩法要(見学可)・・・・神宮寺境内の護摩壇で行われる 午後7時半過ぎ 松明牛列(参加、見学可)・・神宮寺の聖水を護り2km 離れた鵜の 瀬へと松明行列が続く 鵜の白装束の神官も行列に加わる。 午後8時過ぎ 鵜の瀬大護摩法要(見学可)・・鵜の瀬に到着した松明群は、ここの護摩壇で炊き上げられます。 午後9時頃 送水神事・・・・・・・・・行衆は鵜の瀬の深遠に至り、聖水を瀬の淵の流れに注がれます。そこから鵜が地底の洞窟を通じて二月堂へと運ばれると言うわけです。 《写真:目の部分だけ開けた鵜の装束の神官が淵から水を注いでいる》 以上、大仏開眼からお水取り。お水送りについて紹介してきましたが、次ぎの二つの謎の解明について挑戦してみます。 【なぜ若狭がお水送りの場所に選ばれたのか?】 遠敷明神の遅刻の話は、愛嬌として、この地がお水送りの場所に選ばれた理由があるはずです。鵜の瀬は遠敷川の上流ですが、「遠敷」は、「丹生」と読み替えることができます。 「丹生」は朱(べんがら)と辰砂(水銀を含む)の意味をもつとされます。朱(べんがら)も古墳時代には石室、石棺の魔よけに大事な材料で多く用いられています。大仏建立に当たって辰砂(水銀を含む)が大変重要になってきます。銅の上に金を塗布するときに水銀が必要だからです。 若狭の大部分はかって遠敷郡と呼ばれていました。水銀を含む辰砂が大量に算出した可能性があります。福井県では、越前にも現在の越前市の範囲は丹生郡と呼ばれていました。 越前、若狭では、水銀の含有量は不明として、多くの丹生が産出していたことは確かなようです。そこに、実忠和尚が目をつけたとしても不思議ではありません。 先に述べたように大仏建立には、大量の水銀が必要です。その水銀を若狭の遠敷川近辺から入手していた可能性があります。水銀は貴重な資源ですから、これを大量に若狭から運んでいたことは秘密にしたかったに相違ありません。そのカモフラージュのためにお水取り、お水ス送りの行事が設定されたのではないでしょうか。実行者は実忠和尚ですが、全体を企画したのは、良弁和尚であることは間違いないでしょう。良弁杉の伝承も、カモフラージュを演出するための道具立てだったのではないでしょうか。 【なぜ修二会の行法が繰り返し行われたのか?】 お水取り、お水送りの行事は、単なるイベントであって、修二会の行法が実態であることはこれまでの論証で明らかです。 それでは、十一面観音に懺過(悔い改める、懺悔するという意味)する修二会の行法は誰に、何のために悔い改めるのか? この謎に挑戦してみます。 聖武天皇念願の盛大な大仏開眼の裏の部分では、大きな犠牲が払われました。その最も大きな犠牲は水銀毒によるものです。どれだけの犠牲がでたか、歴史は伝えてくれません。 水銀毒以外にも、銅、金、水銀、材木などの材料の過酷な調達、過酷な労役による多くの犠牲が払われたものと想像します。そのことを一番分かっていたのは、大仏建立の事務局長的存在の良弁和尚だったと思います。そこで、高弟の実忠に命じて二月堂を建立させ、大仏開眼の2ケ月前に、大仏建立で犠牲になった人々に懺過する“修二会”の行法を確立させたのではないでしょうか。そして、実忠に命じて“修二会”本来の意味を隠蔽するため、お水取り、お水送りの行事をカモフラージュのため採用したものと推察します。お水送りは水銀輸送の隠蔽にも使われ一石二鳥だったのではないでしょうか。 大仏開眼が奈良時代の“明”とすれば、修二会は、“暗”であったのでしょう。大仏が存在する限り、修二会は粛々と毎年行われるわけです。 【さいごに】 一昨年(平成22年7月に若狭の神宮寺を訪ね黒河住職に会っていろいろ話を聞きました。住職は、私達はしらずしらずの間にいろいろな枠にはめられていて、真実が見失ってしまっていると法話のような話でした。お水送りの謎、修二会の謎を示唆しているような気がしました。 日本書紀を読み解くときも知らず知らず枠に囚われているのではないでしょうか。 お水送りの場面の鵜を意味する目元だけ穴のあいた、白装束を見て、おもわずイランの拝火教(ゾロアスター教)を思い出しました。大松明による火祭りも不気味です。 正倉院の御物をみても当時、シルクロードを通じてペルシャの文化が伝わってもおかしくありません。最近、唐の時代にゾロアスター教の寺院があったことがわかりました。 注記: 神宮寺は、もともと氏神の若狭一宮 若狭彦・姫神社の護り寺として奈良時代に創建されました。若狭彦・姫神社の祭神は、海彦、山彦の山彦と海神の娘豊玉姫です。子供は、鵜葺草萱不合命(ウガヤフキアエズノミコト)で鵜が出てきます。鵜は、弟に鳥と書きますが、山彦は、海彦の弟、神武天皇も、4人の兄弟の一番下の弟です。 鵜葺草萱不合命と叔母の玉依姫の子どもが初代天皇の神武天皇です。 【若狭地方の繁栄と畿内への道】 『縄文時代の繁栄』 美浜五湖の根元にある縄文博物館(鳥浜遺跡)は数千年にわたって縄文人がこの地に住んで縄文文化を育んだことが分かります。湿地帯なので舟の遺跡が出土したことでも有名です。渡来系の人達が多く若狭に来たことから縄文人とどのように融和したのか興味あるところです。 『弥生時代』 稲作文化を持った渡来人が多く若狭にきたことと思われます。若狭は中継地点の役割を果たしたと思われます。 『古墳時代』 膳の臣が活躍した時代です。天皇家の食膳に深く関わりました。膳の臣の古墳群は3段築製で天皇家に深く関わったことを意味します。聖徳太子の后の膳の君の持つ意味も重要な符号だと思われます。 『継体大王即位の道』 某氏によれば、継体大王が越前から樟葉の宮で天皇に即位した時の道筋にこの若狭道が使われたとします。日本書記によれば2月に越前三国から樟葉に移動しているので大雪の陸路より三国から海路で若狭に渡り陸路で近江に出て舟で琵琶湖から宇治川に出て淀川から樟葉に来たという経路にはそれなりに説得力があります。 冬の日本海はいつも大荒れと思いがちですが凪ぐ日もあります。大雪の陸路より海路の可能性が高いといえるかもしれません。 『織田信長敗走の道』 織田信長が朝倉家を攻めて敦賀に迫ったとき、妹のお市の方を后に送り込んだ浅井長政が妻より盟友の朝倉に加勢し謀反を起こします。織田信長は少ない手勢とともに栃木の衆の援助を得て大原から京へ戻ります。このとき敗走の一番難しい殿をつとめたのが羽柴秀吉で信長の信頼を得たとされます。 『鯖街道』 江戸時代になると若狭から畿内への道は鯖街道として栄えます。 |
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中会長の挨拶 |
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