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平成25年9月定例勉強会

車塚古墳群の造営時期と  被葬者の性格について

  講師:奥野 和夫氏 (交野古文化同好会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 26名の参加
 2013.9.28(土)午前10時、9月定例勉強会に26名(会員21名)の方々が参加されました。

 高尾秀司副部長の司会で始まり、9月26日、中 光司会長が急逝され一分間の黙祷を捧げ講義に入りました。
  (中会長の葬儀告別式は当日午後一時から枚方玉泉院にて厳かに執り行われました)

 講師の奥野和夫氏の実経験や知識から当日の資料に基づいたお話をお聞きしました。
参加者は熱心にメモを取るなどして聴講されていました。

話の内容としては、配布資料に基づき概略次の通りです。
1、はじめに
交野市域には古墳出現期から終末期至る数多くの古墳が存在、又は存在していた。
一般的に古墳は、前期、中期、後期の三つの時期に区分されること。
交野市域では森古墳群(前期)、車塚古墳群(中期)、寺古墳群や倉治古墳群(後期)が時期に位置づけされている。
今回の勉強会では中期古墳群である車塚古墳群についてその造営時期と被葬者の性格についてお話をお聞きしました。
☆古墳の概要と造営時期
(1)中期古墳の特徴
(2)古墳の概要
  第1号古墳(車塚古墳)
  第3号古墳(東車塚南古墳・日の丸古墳)
  第4号古墳(西車塚南古墳)
  第5号古墳
  第6号古墳(大畑古墳)について、図1などで説明された。
(3)交野の古墳の造営時期について
  表1などで説明があった
   *出土した埴輪の特徴から造営期が推定されるとのことであった。
(4)車塚古墳群の造営期間について
 表1の造営編年から第1号から第6号の造営期間は上限が4世紀から5世紀初頭の390~410年頃下限が6世紀前葉となる。未調査の古墳造営年代が明らかになればもう少しその期間は拡大すると見られる。

☆車塚古墳造営期と国内外の情勢
(1)朝鮮半島の情勢
高句麗・百済・新羅などが台頭するなか伽耶国は倭国との関係を深めていったことなど3世紀後半から5世紀にかけての朝鮮半島の情勢について資料に基づき話をされた。
(2)国内の情勢
4世紀末葉以降一貫して奈良盆地に営まれてきた倭国の王墓が大阪平野の百舌鳥・古市に造営されるようになった。このことにより大阪平野南部に王権勢力が移動したとの説(河内王朝説)が生まれた。
(3)北河内の情勢
北河内地域の出現期の古墳は天野川流域に集中して造営される。
3世紀後葉に森古墳群の築造が始まって以降4世紀初めには禁野車塚古墳、万年寺山古墳(いづれも枚方市)が出現する。4世紀中葉になると穂谷川流域に牧野車塚古墳や四條畷にも忍ヶ丘古墳が造営される。

5世紀を前後して築造された車塚古墳の副葬品の特徴としては朝鮮半島の影響が色濃く見られることである。また、5世紀後半以降、数多く造られる小型の帆立貝古墳や円墳の被葬者は渡来系の技術集団の長が含まれるとみられる。

☆車塚古墳の被葬者の性格
交野地域に関係する有力な氏族(豪族)としては中央の物部氏、息長氏や地域の茨田連、交野連が想定されるが、奥野氏の考えでは、北河内に於ける前期・中期古墳の墳形や副葬品の特徴、当時の倭政権の支配制度並びに技術革新をもたらした渡来人の動向と彼らを管掌したであろう豪族を概観すると森古墳群・車塚古墳群の被葬者は後の交野連(肩野連)の祖の可能性が高いこととなる。

 講師の奥野氏は考古学の専門家であり長年交野市の教育行政を担当されました。
当日は専門的な立場から主題である「車塚古墳群の造営時期と被葬者の性格について」と題して最近の一部の学者がとなえるかなり時代が遡る年代観に影響されず従来の年代観で話をされました。
 又韓国の歴史にも詳しく国際的立場から国内の歴史も語って頂きました。車塚古墳群については自身の発掘調査の一員として一般的にはあまり知られていない古墳の存在なども披露していただきました。
被葬者については交野では物部氏説が多い中、息長氏、茨田氏についても関連を語ってくれました。
本日はこの身近な古墳が大和政権とどのような関係にあるのか、またこの地でどのような立場にあったのか再考させてくれる一助になれば大いに意義のある一日であったのではないかと思います。

 ※今回の勉強会の報告に当たって、当日配布された資料関係を掲載させていただきました。
 記して感謝申し上げます。
 
司会は高尾秀司氏
 
講師:奥野 和夫氏
 
講師:奥野 和夫氏
 
 講演のレジメ集
車塚古墳群の造営時期と  被葬者の性格について
講師  :  奥野 和夫氏
はじめに
 交野市域には出現期から終末期に至る数多くの古墳が存在、又は存在していた。これらの古墳は一般的には前期、中期、後期の三つの時期に区分される。市域においては森古墳群(前期)、車塚古墳群(中期)、寺古墳群や倉治古墳群(後期)がそれらの時期に位置づけられる。

 ここでは、中期古墳群である車塚古墳群について、その造営時期と被葬者の性格について考察する。
車塚古墳群は1972年の府立交野高校建設に先立つ事前調査にて発見された古墳群で、それ以前は第1号古墳(東車塚古墳)の台地状の畑が車塚と呼ばれていたが古墳との認識は薄かった。また、第6号古墳(大畑古墳)についても、その墳丘を分断する形で道路が建設された際、古墳の副葬品と推定される遺物が出土したが、その所在については今もつて未確認のままである。
 現在、この古墳群には少なくとも7基の古墳の存在が認められる。その内5基については調査が行われているが、残り2基(第2・仮称7号墳)については未調査となつている。




1 古墳の概要と造営時期
(1)中期古墳の特徴
 中期古墳の時期になると前方後円墳の造営は特定の大型古墳に限られ、その他の古墳は円墳・方墳・帆立貝形古墳の造営が顕著になる。また、古墳に納められる棺も木製から石製のものに変化していき、副葬品も呪術的(祭祀的)なものから甲冑や馬具といつた鉄製品が多く副葬され、軍事的な様相が濃くなる。

(2)古墳の概要
第1号古墳(東車塚古墳)
 墳長58m以上を測る前方後方墳。埋葬施設は木棺直葬で8m以上を測る割竹形木棺からは鏡、筒形銅器等の銅器、鉄刀や甲冑などの鉄製品、それに勾玉や管玉などの玉類が多数出土した。墳丘は上部が削平されていたが、円筒埴輪の他、家形埴輪等の形象埴輪が出土した。

第3号古墳(東車塚南古墳)
 墳丘の径22.4mを測る円墳で、墳丘は削平され基底部には葺石が僅かに残る。墳丘を巡る周濠は方形を呈することから日の丸古墳と呼ばれる。周濠内からは円筒埴輪や家形埴輪・盾形埴輪・短甲形埴輪等が出土した。

第4号古墳(西車塚南古墳)
 墳丘の径17mを測る円墳で、墳丘は削平され、巾2.8m~ 3mの周濠内からは円筒埴輪、朝顔形埴輪、動物形埴輪等が出土した。

第5号古墳
 墳丘の径16.5mを測る円墳で、周囲に幅2.2mの周濠を巡らす。墳丘は削平され周濠内からは円筒埴輪、朝顔形埴輪、動物形埴輪等が出土した。

第6号古墳(大畑古墳)
 墳長約85m、後円部径約50mを測り、車塚古墳群の中では最大の古墳である。墳丘上には住宅が建ち、古墳のくびれ部付近を道路によって切断されている。墳丘からは円筒埴輪が出土した。また、近年の調査で葺石が確認されている。






※ 各古墳の造営時期については、主に図2・図3と交野市教育委員会発行の報告書「交野市の埴輸」と「交野東車塚古墳」を基本とした。

(4)車塚古墳群の造営期間
 表1の造営編年から第1号古墳から第6号古墳の造営期間は、上限が4世紀末から5世紀初頭の390~ 410年頃、下限が6世紀前葉となる。ただ、未調査の古墳の造営年代が明らかになればもう少しその期間は拡大するとみられる。





2 車塚古墳造営期の国内外の情勢

(1)朝鮮半島の情勢
 3世紀後半以降、楽浪郡と帯方郡の二郡が実質的に無力化し、313年には楽浪郡が翌年には帯方郡が高句麗に滅ぼされる。この結果、半島南部の諸国(馬韓・辰韓・弁韓)にも変化がみられ、馬韓諸国では白済国(百済)が、辰韓諸国の中では斯慮国(新羅)が台頭する。(弁韓諸国では、そのような統一国家の台頭はなかった。) また、これまで楽浪・帯方郡に供給されていた弁・辰諸国の鉄は倭に供給されるようになり倭と伽耶(韓国の洛東江中・下流域に近接した国々)地域との関係が強化される。高句麗の脅威に対抗する形で百済・伽耶諸国が倭との関係を深めたのに対して、新羅(斯慮)は高句麗に従属する形で関係を深める。
 この時期の伽耶地方における墳墓を概観すると、4世紀前半では楽浪郡からの影響と見られる単槨の木槨墓が主流であったが、竪穴石槨墓もみられるようになる。また、木槨も副槨をもつようになる。





 4世紀後半に築かれた金官加羅国の大成洞古墳からは錨留短甲(4世紀後半)・鉄轡が、また倭系遺物として筒形(?)・巴形銅器、碧玉製品、土師器(布留式土器)が出土しており、当時の朝鮮南部と倭国との深い関係が認められる。4世紀の金官加羅の支配者は、前世紀と違い祭祀一致的なものから騎馬武者型といった軍事的な姿ヘと変貌していく。

 5世紀になると、北魏の河北統一により南進策をとった高句麗の影響で、3世紀後葉から5世紀前葉まで伽耶地域の中心であった金官加羅国は衰退し、その中心は北部の高霊(5世紀後葉~6世紀中葉)に移る。
 しかし、 5世紀半ばからは新羅の勢力が次第に伽耶諸国に及んでくる。5世紀における伽耶諸国の墳墓をみると、前葉においては、支配者級は本槨墓に固執するが新羅と同様、伽耶においても近代化、軍事化が見られる。

 5世紀中葉になつて福泉洞(釜山市)の丘陵上に始めて石槨墓が出現し、(5世紀から首長墓は丘陵の頂上に築かれる。)後葉になると高霊様式の土器が伽耶西南地域に拡がり、これまでの無蓋式高杯は伽耶と新羅の様式が共存する有蓋式高杯にとって変わられ、新羅の影響が及んでくるのが認められる。

(2)国内の情勢
 4世紀末葉以降、それまで一貫して奈良盆地に営まれてきた倭国の王墓は、大阪平野の百舌鳥・古市に造営されるようになる。この動向について、古墳はその政治勢力の本拠地に営まれるとの考えから、大阪平野南部に王権勢力が移動したとの説(河内王朝説)が生まれた。
 先述のとおり、この時期は朝鮮半島情勢が大きく変動するときである。この動きに連動するかのように国内においても前期古墳の鏡や石製品などの呪術的な性格の副葬品が鉄器や武具などの武人的なものに変化する。このような鉄器生産や須恵器生産並びに馬の飼育技術を伝えたのは主に半島からの渡来人であり、彼らの足跡は特に河内・和泉に多く残る。
 古墳の造営においても、中期になると大王や畿内の有力勢力と、彼らと関係の深い各地の有力首長だけが前方後円墳を造り、中小の首長は円墳・方墳・帆立貝形古墳を造る枠組(和田晴吾)が出来、王権の支配関係がより強力なものとなる。




(3)北河内地域の情勢
 北河内地域の出現期の古墳は天野川流域に集中して造営される。 3世紀後葉に森古墳群の築造が始まって以降、4世紀初めには禁野古墳や万年寺山古墳が出現する。4世紀中葉になると、淀川の支流の穂谷川流域に牧野車塚古墳、また四條畷市域にも忍丘古墳が造営される。
 これらの古墳は埴輪祭祀や埋葬施設の違いから複数の首長系列によって形成されたと推定されている。そして、これらの首長が淀川や天野川水系の水運や大和盆地への陸運を管掌したとされる。
 5世紀を前後して車塚第1号古墳と赤塚山古墳(枚方市)がほぼ同時期に築造され、それぞれ継起する古墳と共に古墳群を形成する。(この時期、茨田・讃良郡では古墳の造営はみられない。)
 この時期の特徴として副葬品に朝鮮半島の影響が色濃くみられることである。またその影響は集落遺跡にもみられ、特に茄子作遺跡の須恵器生産、森遺跡・私部南遺跡の鉄器生産、そして河内古湖周辺の蔀屋(しとみや)北遺跡・讃良条里遺跡の馬飼に渡来人の存在が指摘されている。
 5世紀後半以降、数多く造られる小形の帆立貝古墳や円墳(清滝古墳群・讃良岡山古墳群や車塚古墳群の第4・5号古墳)の被葬者には、このような渡来系の技術集団の長が含まれているとみられる。


3 車塚古墳の被葬者の性格
 畿内においては纏向遺跡・ホケノ山古墳・勝山古墳などの調査により3世紀前半には古墳の造営が開始されたとみられている。
 箸墓(270~ 280頃)の造営年代とほぼ同じ時期の土器が森古墳群から出土したことにより、3世紀末には同古墳群も造営が開始されたとみる。
 森古墳群の造営期間については、4世紀後葉に至るまで連綿と造営されていたことは推定できる。このことは車塚古墳群と森古墳群との造営期間に空白期間がみられないことを意味する。
 また、両古墳群の墓域についても、現在は水田や住宅街によって離れているように見えるが車塚古墳群は森古墳群に隣接する山地部の裾野部に造営されており、墓域がほぼ繋がる形で所在する。これらの理由から、車塚古墳群は森古墳群に継起する豪族の古墳群であるとみてとれる。
 従つて車塚古墳群の被葬者については墳形や出土した副葬品から、(1)森古墳の被葬者と血縁関係のある人物。(2)倭政権に関係した有力豪族と深い関係を持った豪族。(3)倭政権の朝鮮半島(伽耶地域)進出に深く関係した豪族。(4)渡来系の鍛冶集団を掌握した豪族ということになる。
 交野地域に関係する有力な氏族(豪族)としては、中央の物部氏・息長氏や地域の茨田連、交野連が想定される。しかし、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文にあるオワケ臣のように、これまで全く知られていない人物(政権に深く関与した人物であっても)の可能性もある。




 ここで森古墳群や車塚古墳群の被葬者に該当すると見られている氏族について概観してみる。

物部氏
 河内が本拠とされる物部氏は大和との繋がりも深い。軍事や刑罰に関わりが深いとされるが、本来は神事や祭祀を司つた氏族とされる。垂仁朝に物部十千根(とちね)が武器庫の管理を託されたとするが、石上神宮の創設から推定して5世紀後半(雄略朝以後)のこととされる。履中朝に物部のイコフ、雄略朝に目(め)が大連に就任する。そしてこの時期を同じくして石上周辺には巨大古墳が造営される。
 神武東征における鳥見の長髄彦《物部氏の祖である宇摩志治(うましまじ)命の伯父》の本拠地を「和名抄」に記す添下郡鳥見郷(現生駒市から奈良市に含まれる地域)と桜井市の鳥見山付近に比定する説がある。添下郡の地域では4世紀後半に富雄丸山古墳が造営される。肩野連の祖は、ニギハヤヒノミコト13世の孫の物部目連公の子、物部臣竹連公とする。
 古墳時代前期から祭祀を司つていた物部氏が台頭するのは倭政権(河内王朝)の朝鮮進出以降のこととされている。


息長氏
 息長氏は、近江国坂田郡を本拠とする豪族である。「古事記」は開化天皇の皇子の日子坐(ひこいます)王の末裔とするが様々な系図があり謎の多い氏族とされる。応神天皇の皇子で仁徳天皇の異母兄弟にあたる若野毛二俣王(わかぬけふたまたおう)の娘である田宮中媛(たみやなかつひめ)が息長氏の領地であった枚方市の田宮郷を譲られたことや、田宮中媛の姉妹が天皇家に嫁いでいることから交野市に残る「きさいべ]や「官田(乾田)」の地名がその由来に繋がつているとみられている。また、天野川流域に神功皇后を祀る住吉神社が数多く存在するのもこの関連とみられる。日本海沿岸や琵琶湖並びに淀川水域の水路を管掌する氏族として交野地域と深い関係が窺える。

茨田連
 茨田郡の有力な豪族で神武天皇の子、彦人井耳命(ひこやいみみのみこと)を祖とする。茨田郡の茨田郷にあつた屯倉の管掌として勢力をふるう。淀川水系に氏人が分布し息長氏とも深い関係をもつとされる。

交野連
 ニギハヤヒノミコトの6世の孫、伊香色雄(いかがしお)命の子の多弁宿禰(たべのすくね)を祖とする系図と同じく物部目連を祖とする系図がある。水野正好氏は、天皇家と縁のある息長氏が私部を管掌し、その管理を交野連に託したとされる。

 森古墳群の出現はこの地域と倭政権との関係を示しているが、それ以前の庄内期における交野地域(枚方市を含む)は弥生時代後期の色相を色濃く残す地域であったことが出土土器から指摘されている。
 また、天野川流域(牧野古墳群を含む)の前期古墳を造営した集落が地域的に幾つかのグループを形成し、それぞれのグループに豪族が存在していたとみられている。すなわち互いの交流はあってもまだ、確固とした従属関係はなかったとみえるが、車塚古墳群の第3.4.5号古墳や枚方市の赤塚山古墳のように既に消滅している古墳も多く、現存する古墳だけで判断するのは問題が残る。

 しかし、北河内における前・中期古墳の墳形や副葬品の特徴、当時の倭政権の支配制度《部民(べみん)制度・氏(うじ)姓(かばね)制度》並びに様々な技術革新をもたらした渡来人の動向と彼らを管掌したであろう豪族を概観すると、3世紀から4世紀前半頃までの交野市域の豪族は倭政権に「朝貢」するような形の関係で結ばれていたが、まだかなりの独立性を有していたとみられる。しかし、4世紀後葉までには従属的な形で直接倭政権、又は物部氏のような有力豪族の支配体制に組み込まれていったとみられる。
 
 このように考えると、森古墳の被葬者は交野郡全域を支配した豪族ではなく、中央では、何々(交野郡の部分的な地域名)の何々彦と呼ばれた人物とみられる。また、図7から北河内では森・車塚古墳群のように継起する古墳群が存在しないこと、継体天皇が即位された所を茨田や交野と記さず「樟葉」とあること、並びに交野郡と分離後の茨田郡の位置や、交野市域に茨田に関連する地名がみられないこと(交野の地名が交野郡全体を指すようになるのは交野郡が設置された以降とみる。)等を鑑みると森・車塚古墳群の被葬者は後の交野連(肩野連)の祖の可能性が高いということになる。

 先述のとおり記録にない人物も想定できるが、これほど大和に隣接する場所で、長期間にわたり造営された古墳群の被葬者に関連する記録が全く記されていないとは考えにくい。


参考文献
(1)交野市史F考古編」 水野正好 交野市教育委員会
(2)交野市の埴輸 井上主税  交野市教育委員会
(3)北河内の古墳 前・中期古墳を中心に  財団法人交野市文化財事業団
(4)事業国ヤマト政権の生産基盤を掘る  交野市教育委員会

(5)日本の時代史2 倭国と東アジア  吉川弘文館
(6)須恵器 考古学ライプラリー5 中村浩  ニューサイエンス社
(7)大系 日本の歴史 古墳時代 和田率  小学館
(8)播磨国風上記 沖森卓也他編   小川出版社
(9)筒形銅器と政権交替 田中晋作   学生社
(10)三輪山と古代の神まつり 河上邦彦他   学生社
(11)交野市車塚古墳 報告書   交野市教育委員会
(12)日本の歴史02 王権誕生 寺沢薫   講談社
(13)古代朝鮮 井上秀雄   NHKブックス
(14)古代の吉備 門脇禎二
(15)古墳時代中期における渡来系鍛冶技術の導入過程について  真鍋成史
                   「たたら研究」52号別冊
(16)円筒埴輸総論 考古学雑誌第64巻  川西宏幸 日本考古学学会
(17)考古学より見た伽耶 金元龍
(18)文献より見た伽耶 武田幸男
(19)交野市森第1号古墳採取資料の検討 柳本照男他 原口正三先生古希記念論集

下記のレジメを参照ください
車塚古墳群の造営時期と被葬者の性格について (PDF)
次回の勉強会は、10月26日(土)学びの館 午前10時~12時
「明治初期の地図で歩く星田の山」 講師:大屋喜代治氏です。

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