星のまち交野TOPページへ戻る

平成26年5月定例勉強会

中山道 西から東へ

  講師:村田 健一氏 (かたのこらん会代表)

会場:青年の家・学びの館   午前10時~12時

39名(会員34名)の参加
 2014.5.24(土)午前10時、5月定例勉強会に39名(会員34名)が参加されました。
高尾企画事業部長の挨拶に続いて、村田健一氏より「中山道 西から東へ」をテーマに、中山道を歩くに至ったきっかけから始まり、中山道を歩かれた日程、中山道のあらまし・略図の説明、道を間違えて迷ったこと、利用した鉄道、歩いた国道・ルート、眺めた山、道中印象に残った人々など詳細な資料を基にわかりやすくご講演いただきました。
 
 休憩を挟んで第2部では、「中津川から落合宿を経て馬篭宿。馬篭宿から妻籠宿を越えて三留野(みどの)宿までの21.9km」を1泊2日で歩かれた様子をビデオで詳しくご紹介いただきました。

 険しいアップダウンのルートを、ビデオカメラを片手に、案内しながら撮影された素晴らしい内容でした。
 歩かれたルートの地図を見乍ら、もう一度ゆっくりと鑑賞したいと思いました。

 引き続き、6月28日(土)の勉強会で、「中山道 西から東へ」の後編、「全行程の総まとめと三留野宿から日本橋まで」をご講演いただきますので、ご期待ください! 
 第2部ビデオの紹介は、「軽井沢から碓氷峠」の予定です。
 ※ 当日頂いたレジメ集及び村田健一さん作成のブログ「中山道 西から東へ」のレポートと写真集など、
 HPの掲載にあたり、村田さんの快諾を戴きましたこと深く感謝申し上げます。 
 


 本日は2時間たっぷりと中山道・西から東へのご講演いただき誠に有難うございました。
中山道を西から東へ歩く方が少なく、いろいろと資料収集も難しい中、良くぞ、歩き通されましたね。
本当に心から敬意を表します。若い頃からゴルフで鍛えられた足腰と粘りがあってこそでしょう。
 
 色んなご苦労なことも多くあったでしょうが、街道筋での親切なご夫婦のお話や嬉しい出来事など、
お聞きしていて感動の連続でした!有難うございました!
 村田健一さん作成のブログ
「中山道 西から東へ!」
をじっくりとご覧ください!

 http://nakasendo-wtoe.blogspot.jp/

第1日目、「京都三条から大津へ(瀬田唐橋)」     

第29日目、「浦和宿~蕨宿~日本橋」


高尾事業部長の挨拶


講師 : 村田 健一氏 (かたのこらん会代表)
    休憩を挟んで第2部では、「中津川から落合宿を経て馬篭宿。馬篭宿から妻籠宿を越えて
三留野(みどの)宿までの21.9km」を1泊2日で歩かれた様子をビデオで詳しくご紹介いただきました。
 中山道 西から東へ! 第18日目 2351516日一泊)
「中津川~落合~馬篭~妻籠~三留野」までを参照してください
 当初は13,14日の予定であったが雨と台風1号の予測で2日日程をずらした。お蔭でこの2日間は快晴。夏日を思わせる暑い日になった。
新幹線「ひかり」とワイドビュー「しなの」を乗り継いで中津川駅には午前1048着。
 駅前の商店街を南へ300メートルほど歩いて左折。ここが中山道だ。
この地方、駅前通はどこともによく似た景色、しかしここは少しだけ道幅が広い。
 左折して前方を見るとインターネット氏も言っていた通りいきなり上り坂が見える。その坂の名前は「茶屋坂」となっていた。今日の8キロはほとんど上り一辺倒と覚悟はしていた。  ・・・・・・・・・・・・・・続く
中山道 西から東へ
              かたのこらん会代表  村田 健一氏
はじめに
  歩き始め:昭和19年のこと
        :海外出張で外国の町を歩く   


1.その後中山道を歩くに至ったきっかけ
 
 小学校同期・会社の同期と。 
 歩いたルートの例
  ●ただ歩くのではなく目的地を決めて歩く
   ★ 淀屋橋基点。東:鶴見の花博覧会会場 西:海遊館 南:通天閣、住吉大社 
              北:伊丹空港
   ★豊中の中学校めぐり:4中出身。第1中から第18中まで順に 
   ★ マラソンコース 大阪マラソン:住之江公園~新橋 
               京都マラソン西京極~国際会議場  
   ★ 川に添って歩く 疎開先で過ごした猪名川:河口から大野山(源流地) 5回  
               淀川:宇治から大阪毛馬の閘門 5回
   ★京都:銀閣寺から金閣寺 国際会議場から八坂神社  
   ★ 奈良:山辺の道 般若寺から秋篠寺 他
   ★大阪と京都の春夏甲子園出場高校。(校門前で写真撮影して帰る)

   遂には行く目的地がなくなってー

2.中山道を歩く

 平成22年6月22日から平成25年1月19日まで、74歳11ヶ月から76歳5ヶ月にかけて、回数にして29回、日数にして延41日。
 最初の15回は日帰りで、第16回目の御嵩宿から一泊2日、第21回目の薮原から塩尻までが二泊3日の行程。第22回目の塩尻から下諏訪を経て(和田峠越え)望月までの行程だけが3泊4日で行きました。ただ街道で最難所、登り21km、下り21kmの和田峠(途中休憩所も何もないただ山の中)で靴擦れから出血しさらに右足首が腫上って、朝起きてみれば足の腫れが酷く翌朝、望月から帰阪するという想定外のトラブルに見舞われたこともありました。

3.中山道(別紙経路図)

  「中山道とよく聞くけれど一体、日本のどの辺を通っている道なんだ」とよく聞かれます。
  お手元の地図を参照していただいて‥

  ・京都府~滋賀県~岐阜県~長野県~群馬県~埼玉県~東京都、の7都府県を
   山梨県を避けるようにやまなりに遠めに回ってお江戸までの533km

  ・日本橋~京都三条大橋 533km。69宿(除く日本橋と三条大橋)

  ・東海道は(地図参照)太平洋沿いに直線的な490km。

★道を間違えて迷うことも多々あった。(見ず知らずの人の助け)

  ・最初は大津から瀬田の唐橋、「この道違いますよ」
  ・小田井宿から追分宿までの道程では、なんだか道をはずしているような予感がして畑仕事のおじさんに
   尋ねたところ、ぜんぜん違うところを歩いていた。
   このコースは次回に正しい道を歩き直した。
  ・坂本宿18から安中宿16への山際の道でどこかの家からおばさんの声

  ・一日一ミスで行こう、と誓ったがなかなか誓い通りには行かなかった。
  少なくとも十数回道に迷って十数人以上の人に助けてもらった。中には500mも引き返して付いて来て
  道案内をしてくれた中年女性もいた。

 旅行エイジエンシーの企画するツアーが便利なことはわかっているのですが、バスツアーを利用せず独自で計画し、電車の切符を買い、宿屋を調べて予約し、自前で行動したかった。その日の終着点からのアクセスを考え、宿泊所と電話などで交渉し、出発点と到着点と宿場の関係を確かめ、総て「自前」であっただけにミスも多く、ロスも多かった。

・なお、中山道の街道記を書いた本など何冊かあるにはあるのですが、そのどれもが東京日本橋から京都三条大橋までの東から西へのものばかり。西から東は私の知った限りでは一冊もありませんでした。タイトルに「西から東へ」と断ったのはこういう意味からです。
 ただ中山道を西から東への街道記ではないが、この街道を西から東へ辿った関連書物を三冊見つけました。

  ①有吉佐和子著「和宮様御留」
  ②昨年よく読まれた浅田次郎作品「一路」
  ③210年ほど前、赴任地の大阪南本町から任明けて江戸の国元への帰郷ルートに中山道を利用した
   蜀山人「太田南畝」の「壬申(ジンシン)紀行」
   享和元年2月(1801)から翌年2月まで支配勘定として大阪銅座勤務。任明けて自分の国への帰途に
   中山道を選んだ。3月21日(大阪)から4月7日(江戸帰着)15泊16日。

  この3冊の中でも「壬申紀行」が中山道道中記としては描写が細かい。

● 2年半の間には様々なトラブル

  ★ 相棒の単車での骨折事故で3ヶ月ロス。
  ★ 新しい靴をはいた私の足のトラブル。それも街道の中で最も過酷な22kmの峠の道「和田峠」で
  ★ 冬の積雪地区鵜沼宿~太田宿(1月の岐阜県)

5 (その他)

   利用した鉄道   東海道線 近江鉄道 樽見線 高山線 太田線 名鉄広見線 中央線
              信越線 小海線 高崎線 京浜東北線  


   歩いた国道    Route1 Route8 Route21 Route19 Route20 Route42 Route44
              Route9 Route18 Route17 

   眺めた山
         伊吹山 鈴鹿山脈 恵那山 御岳山(御嶽山) 浅間山 妙義山 赤城山 榛名山

 
印象に残った人々 

 ・琵琶峠?「蛇が出たあ」50歳がらみの女性  
 ・山小屋で大の字の若いオーストリア人 
 ・深谷宿手前のお店「まるや」の4歳のあやちゃん 
 ・柿と下仁田ネギの苗を呉れた畑仕事の深谷宿のおばあちゃん 
 ・坂本から松井田の山の中で家の中から「中山道だったら違いますよ」の大きな女性の声 
 ・中でも小田井から追分への道の途中で駅への道を尋ね、ここまで間違ったルートを歩いてきたと家の庭にいたご夫婦に尋ね駅に向かって歩き出したら後ろから自分の車に乗って追いかけてきて「歩き外れた道は中山道の中でも是非通る値打ちのあった道ですと言って、車に乗せてもらい案内してもらった。このルートには見事な桜並木・風たちぬの堀辰雄記念館 分去(わかされ)の碑(北国街道との分岐点)などがあった。
etc etc 

★五街道     東海道(490km) 中山道(533km) 日光街道(江戸~日光140km)
           奥州街道(江戸~福島白河市199km)甲州街道(江戸~下諏訪225km)

    休憩を挟んで私の写した素人撮影のビデオを第2部で見ていただきます。
  
第2部
VIDEO観賞


● 本日見ていただくルートは「中山道・各宿場間の距離と最寄り駅」表の「46」の「中津川」から
  42の「三留野(みどの)」までの21,9kmです。
  島崎藤村「夜明け前」
   「木曽路は総て山の中である。‥‥一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」
   いよいよこの馬篭宿の手前辺りから木曽路に入る。

  段々大阪から遠くなるにつれアクセスに時間がかかって、初日は実際には半日ぐらいしか使えない。
  今回の旅程は1泊2日。スタートは中津川駅(中津川宿)から落合宿を経て馬篭宿。
  馬篭宿の岩茸旅館泊。藤村記念館の隣。
  2日目は:馬篭宿から妻籠宿を越えて三留野宿(駅名では(南木曽駅)

●おわりに
  反省:「中山道を歩く」事を重視したために、中山道に沿って点在する遺跡の幾つかを割愛して
      しまった事を残念に思う。」

 ★三條大橋から東京日本橋まで、41日間、29回の歩行記をブログに掲載しています。
    インターネット「中山道西から東へ」で検索してください。

      http://nakasendo-wtoe.blogspot.jp/
 
中山道 宿場地図

中山道 高低差
 村田健一さん作成のブログ
「中山道 西から東へ!」
をじっくりとご覧ください!


ここでは、第一日目と最終29日目を抜粋して掲載させていただきました!

第1日目、「京都三条から大津へ(瀬田唐橋)」  

第29日目、「浦和宿~蕨宿~日本橋」   
京都三条から大津へ   22・9・18
 622日草津からスタートした「中山道」。同伴者N君が既に東海道歩きの時に三条~草津をクリアしているので、草津を基点としてスタートしたが、私は未だ三条~草津間は未知のコースなので、山歩きの大好きなYさんと一緒にこの区間の穴埋めをすることにした。




 最寄駅を8:31に乗って三条まで行き、高山彦九郎正行先生と書かれた駅前の像を横目に見て東へ向って歩き出した。

やや暑い日であったが天候は申し分なし。都ホテル(旧称)前の緩やかな上り坂を上がり、青竜山
安養寺日向大神宮を左に見て進む。
 暫く行くと国道から右に逸れる細い道があるが、これが中山道(ただし草津までは東海道と中山道が共有道で、草津までは一般的に東海道の名前で呼ばれているようだ)である。   

 三井寺観音道の分かれ道に大きな石柱が建っている。逢坂山には走井の井戸で知られている「月心寺」。(写真参照)今は無人の様子。井戸の言われが書かれた説明看板を読んで先に進む。

 坂の頂上辺りに「逢坂山関址」の大きな石碑。常夜灯を過ぎ蝉丸神社を過ぎれば浜大津は目の前。
          
実はここで引き返すか瀬田の唐橋まで歩くか迷った。2日間で草津まで行く予定なので今日はここを終点としても良かったのだが、大津に着いた時、未だ陽は高く午後3時になっていなかったので、瀬田の唐橋まで歩くことにした。これがやや判断違い。思ったより距離があって時間がかかり瀬田の唐橋に到着した時には周囲はやや暗くなっていた。考えていたようには食事どころが無い駅前だ。

やっと見つけた唐橋近くの外食「ココス」で夕飯を摂った。
この日はここで引き上げる。第一日終了。

 ・・・・・・・・・・・・・続く。
 第29日目、「浦和宿~蕨宿~日本橋」   25117()19()
  寒い。やはり寒い。それでも元気に最後の中山道に向かって歩き出した。浦和駅をスタートしたのは135分であった。幸い天気は良かった。最初のチェックポイントは「調神社」、「つきじんじゃ」と読む。この「調」という字は「租庸調」の「調」の意味だということは説明文ですぐに解った。参道両側に寄せられた雪を見てまずは旅の無事を祈る。「さいたま市立南浦和小学校」を過ぎま「六辻」の信号を渡る。しばらく歩くと平成3年に開園したという「六辻水辺公園」。入り口から続く道の左側に添って、自然石で仕切られた幅1メートルほどの水路が作られてある。
ここで最初の小休止を10分間とることにした。

実はこの水辺公園から歩き出して間もなく、本日第一回目の道の間違いを仕出かした。センターラインに沿って行けばなんという事はなかったのに、V字型の右の道がなんとなく中山道のような気がしてそちらに機嫌よく歩いてしまった。幸いこの時は300メートルほど先で、親切なご婦人に指摘され正道に戻った。それほど大きなロスにはならなかったのは幸いであった。
「旧中山道一里塚の跡」と言う比較的新しい石柱を道路の左側に見る。「蕨宿」に入った。錦町6丁目3番地の道路際に「中山道蕨宿一番地」の木製縦型の標識。その足元には20センチぐらいの高さで雪がかき寄せられてある。「境橋」を渡る。渡るといっても長さ2メートル半。渡ったという感覚は全くない。錦町5丁目に来ると「一六橋」がある。一と六のつく日に「市」が開かれたことがこの名の由来だとわかる。長久山宝蔵寺の前を過ぎる。「中山道蕨宿」の石柱で記念撮影。この宿内の両サイドの歩道には、40センチ角で中山道69宿場の、歌川広重と渓斎英泉の陶板絵が埋め込まれてある。錦町1丁目の信号を過ぎると「戸田橋」「巣鴨」の文字が交通標識に現れてきた。もう目的地も近い。実は今日は蕨宿内ではなく少し板橋よりの西川口に宿をとってある。     ………続く
 中山道 西から東へを歩き終えて
村田健一氏は、2年と6ヶ月かけて中山道を踏破されたあと、
次のようにブログに感想を書かれています! (
転載させていただきました)
 75歳にひと月を残す6月に京の三条大橋をスタートした足は、満76歳を6ヶ月過ぎた1月に江戸日本橋を踏んだ。
 2年と6ヶ月、回数にして29回、日数計算では41日かけて533kmを歩いたことになる。
実際は、間違ったルートを歩いてしまい、次回に正しい中山道を歩き直したり、歩行途中で間違いに気がついて正しいルートへ引き返したことは数度ではきかず、実際は550km以上歩いているように思う。

 雨の日もあった。暑い日もあった。寒い日もあった。そして私にとっては、新しいキャラバンシューズが足に合わず、靴擦れと、足の擦過傷に悩まされた「和田峠」の一番辛かった苦しい思い出がある。それが中山道で一番厳しい20kmの峠道で起こったのは不運であった。


登り10km、下り10kmの和田峠がアクシデントも重なった私には最もきつい難所であった。
それでもその翌日は和田宿から18,3km先の望月宿まで歯を食いしばって歩いたが、一夜明けた次の日の朝、足首から先が大きく腫れ上がり、無念にも次の日の予定を中止して引き返さざるを得なかった。足の痛みに加えこの夜はもっと恐ろしい目に会った。峠道を降りきった所で山中の国道142号線に出た。この頃はもう辺りは真っ暗闇、自分の居る場所さえわからない。やむなく宿泊予定の旅館「本亭」へ電話を入れたが「今どちらに居ますか?」言われても、自分の居る場所が真っ暗闇の山の中では言い様がない。とにかく下り道を辿りさえすればなんとかなるだろうと142号線を歩き出した。
しかし夜の国道の恐ろしさをすぐに思い知ることになる。100キロレベルの猛スピードで大型トラックがひっきりなしに走る。歩道は車道に引いたガードレールとの間隔が僅か80センチほどの幅。トラックが来る度に、背中のリュックを引っ掛けられないようにガードレールの外へ身を避ける。自分の体と走るトラックの車輪は1メートルほどしか空いていない。もちろん運転手からはこちらの姿は見えるはずはない。トラックが走り去る度に素早く先を急ぐ。トラックのヘッドライトが見えたらまたガードレールの外へ身を避ける。こんなことを1時間以上繰り返して先に進んだ。後日振り返ってみてもあの夜の行動は無謀であったと思う。よく事故にならずに済んだと思う。国道が142号線だったのも縁起が悪かった。一番に死ななかったのは幸運だった。
 太平洋を友として歩く東海道とは対照的に、中山道は日本の山々を友達として歩く事になる。まず三条から大津への峠は逢坂山、草津から暫らくは、伊吹山の雄姿に疲れを忘れさせてもらいながら歩いた。伊吹山と別れたら次に会ったのは鈴鹿山系。大きくはないが姿や形のいい恵那山も印象的だった。まさに木曽路からの眺めであったこともその印象を強くしたのだろう。次に現れ出たのは3067m西日本最高峰の御嶽山。御岳山、みたけさん、など読み方や文字の同じような山の名前が東京都や秋田県など日本にはいくつかある。

次に出会った浅間山は季節が冬であったので冠雪した壮大なスケールで見ることになった。
雄大さという意味ではこの浅間山が最も印象に残った。連合赤軍によって引き起こされた昭和47年の浅間山荘事件。あの時連日テレビにかじり付き、大きな鉄球が河合楽器の山荘の壁面に叩きつけられるのを、ハラハラしながら見ていたのを思い出しながら、銀色の雪に覆われた雄大な峰を眺めながら歩いた。

雄大ではないが碓氷峠を降りた時に目の前に現れたなんとも言えぬ奇妙な形の山には度肝を抜かれた。これが妙義山であった。長い道中で度肝を抜かれた光景は2つあったが妙義山はそのうちの一つ。
その後に現れるのは、標高1828mの赤城山や上毛三山の一つ榛名山があるが、中山道もあの奇妙な形をした妙義山を最後に、坂本宿辺りからは山とはおさらばして平地になる。山を身近なお友達として歩くのは峠の釜飯でお馴染みの坂本宿、駅名では横川が最後になった。

大和田建樹さんの作になる有名な「鉄道唱歌」北陸地方編第17節に妙義山を詠んだ歌詞がある。言い得て実に妙である。

「鉾か剣か鋸か、獅子か猛虎か荒鷲か、虚空に立てる岩のさま、石門高く雲をつく」

もう一つの度肝を抜かれた光景は、安中市の駅を過ぎて広い通りを歩き出した時だ。右の山肌にそそり立つ異様な光景。何かの本で読んだが「悪の巣窟のよう」と表現されていた。思わず「あれは何だ!」と指差したくなる光景だ。これは安中市中宿に建つ東邦亜鉛安中精錬所だということはあとで知った。

街道筋で郵便局を見かけたら、1000円貯金をすることにしていた。休祭日は記念スタンプがもらえないためパスしたが、草津矢倉郵便局で始めた1000円貯金が、最後の日本橋郵便局の1000円できっちり50,000円になった。わずか数十センチの一歩が、その小さな積み重ねで55万メートルの彼方にまで移動できるように、1000円の積み重ねが5万円になる。

多くの人に出会った。一人で峠の下り道を「蛇が出た!」と叫んで降りてきた50歳絡みのご婦人が居た。山小屋で大の字に寝ていたオーストリアからの若者が居た。畑仕事のおばさんは柿をもぎ取リ,大根を抜き、その上大仁田ネギの苗までプレゼントしてくれた。
「ここは中山道ではありませんよ」と教えてくれた人は一人や二人ではなかった。小田井宿から追分宿の道すがら、畑仕事中の農夫に間違っていると指摘された時には、既に引き返すにはあまりにも距離があり過ぎるので日を改めて正しいルートに再挑戦したこともあった。

550kmを超える道中を歩く間には多くの人たちに助けてもらった。こちらが尋ねなくても声をかけて頂いて助かったことも数知れずある。人間世界では一人では生きて行けない。助けあい手を差し伸べ合いながら生きてゆく。中山道行脚も人生の縮図といえる。
多くの人たちの親切に助けて頂いたからこそ、完歩出来たと思う。このブログ上で改めて御礼を言わせていただきます。
次回の講演会は、平成26年6月28日(土)学びの館にて
中山道 西から東へ(後編) 講師:村田健一氏 10時~12時です。
 

交野古文化同好会のTOPへ

HPのTOPページへ戻る