平成27年10月定例勉強会 発掘調査からみた私部城 講師:吉田 知史氏 (交野市教育委員会) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 32名の参加 |
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2015.10.24(土)午前10時、10月定例勉強会に32名(会員27名)が参加されました。 高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の吉田知史氏から「発掘調査からみた私部城」をテーマで発掘調査と文献資料を併せて詳しくお話しいただきました。 今回の講演は、「私部城」についての概要と歴史、発掘調査で分かってきた郭や堀の姿、出土瓦のことなど、パワーポイントを駆使して個々の調査記録など詳しい資料に基づき大変わかりやすく解説頂きました。また、私部城の発掘調査の総纏めとして、私部城の説明と写真・図面・図表・解説図など沢山の資料を提供頂きました。 今回の調査以前は出土した瓦の破片は私部で栄えた光通寺の瓦と考えられてきたが、瓦の出土状況や年代を精査すると私部城で瓦が用いられていたことがわかってきた。私部城の瓦の出土地点・状況・年代・瓦の制作技法・瓦工人・歴史的な位置づけなどから、城での瓦利用が一般的ではない戦国期において、私部城は先進的な城であることがわかってきました。 今後は、今回の調査で大きな成果を挙げた私部城、大阪府内で貴重な戦国期の平城をどのように保存し活用して行くかが課題であり、官民挙げての一大事業展開が待たれるところです。 発掘調査からみた私部城 1.はじめに ① 奇跡的に残る平城あと ② 城の周辺の地形 ③ 周辺の街道 ④ 城に関する地名 2.私部城の歴史 ① 歴史上に登場する私部城(交野城) ② 私部城の築造背景に関する諸説 3.私部城跡の発掘調査 ① 埋没した堀跡と郭 ② 郭の構築 ③ 私部城がいつごろあったか 4.私部城跡の瓦 ① 私部城の出土品の概要 ② 瓦の出土地点・状況 ③ 軒平瓦の年代 ④ 軒丸瓦の年代 ⑤ 丸瓦の初期内叩き ⑥ 私部城出土瓦の工人 ⑦ 私部城の瓦の位置づけ 5.まとめと課題 6・付表及び写真集多数 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ及びPPTの資料と 交野市教育委員会提供の資料などを参考にさせて頂きましたこと、 記して感謝申し上げます。 |
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講師:吉田 知史氏 (交野市教育委員会) |
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高尾事業部長 |
立花会長 |
私部城の瓦の説明 |
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<レジメ> 発掘調査からみた私部城
吉田 知史氏(交野市教育委員会)
1.はじめに
(1)奇跡的に残る平城あと
大阪の東北部、北河内の交野に所在(第1図)。
歴史上は「交野城」の名で知られる。
「私部城」とは交野市域で定着した名称で、江戸時代までさかのぼる。
交野市役所の北、交野郵便局の東側、平野部に残る土の城。
縄張り図…中井1982(第2図)、中西2004(第3図)、馬部2009(第4図)
本郭・二郭・三郭・四郭が並び、周囲を堀、土塁が囲う連郭式、群郭式の平城。
大阪府内で、戦国時代の平城が残されていることは奇跡的。
(2)城の周辺の地形(写真1)
城の北側に谷地形。免除川が通り、昔は水田が広がる低湿地帯だった。
城の南にも、谷地形があり。東西にのびている。
西は水田が広がっており、かつては低湿地帯であった。
東には台地の尾根筋が伸びる。
(3)周辺の街道(第1・2図)
東高野街道…京都と河内中心部をつなぐ道
磐船街道とかいがけ道…北河内と奈良をつなぐ道
私部街道…東高野街道・郡津方面から私部を抜けて、神宮寺・かいがけ道方面へ続く
山根街道…津田・倉治方面から私部を抜けて磐船街道(奈良へ)へ続く
京都と河内中心部の中間。奈良から北河内へぬけ東高野街道に接続する地点でもある。
(4)城に関連する地名(第5図)
「城」…郭群の所在する高台一帯。特に二郭においては「天守」の地名。
「本丸池」…二郭~本郭の南の堀跡とみられる池。
「出」…「城」の南の高台。
「市」…城の東に接する。商業と城の関わり(中西2004)。
「行殿」…城の北東の高台
2.私部城の歴史
(1)歴史上に登場する私部城(交野城) (第1・2表)
元亀元年(1570) 織田方の安見右近の城として記される。
※安見右近は畠山家家臣団から松永久秀に預けられた人物。織田上洛後に畠山、
松永とともに織田方についたとみられる。
元亀2年(1571) 奈良で安見右近切腹。松永親子が私部城を攻めるが落城せず。
元亀3年(1572) 松永親子が付城を築いて私部城を再び攻める。織田方の援軍により松永親子は
敗退する。その後、織田軍は河内中心部へ進み、若江城・高屋城を奪取する。
※この時点で城主として安見新七郎の名がみえる。本能寺の変の前年の京都馬揃に取次として
召集されており、織田政権下の北河内を抑えたことがわかる。
天正6年(1578) 織田信長が「安見新七郎所」にて休息。
→松永久秀が織田包囲網を敷く時に重要視したことがわかる。織田軍にとっては、河内進攻・石山合戦
において重要拠点となった城。松永と織田の間で揺れ動く安見氏。
(2)私部城の築造背景に関する諸説
①南北朝期に安見氏が築城した可能性(片山1981 ほか)
地元に伝わる『安見系譜』が主な根拠。中井均氏や馬部隆弘氏の検討から可能性は極めて低くなる
(中井1982、馬部2009)。
②鷹山弘頼により築城された可能性(小谷2013)
奈良高山で続いた名門一家出身。交野・私部に拠点をもち、飯盛城の敵に警戒を固めた。
牧・交野一揆の軍事動員などから交野における軍事権を有していたことがわかる。
③安見宗房による築城の可能性(中西2004)
鷹山弘頼とともに河内の戦国期の争乱で台頭する人物。一時期は飯盛城に入り、北河内・奈良を
手中におさめた。この段階で公的な性格をもつ城が築かれた可能性。
④松永久秀の配下である安見右近が築いていた可能性の指摘(小谷2013)。
永禄11 年(1568)、松永久秀が津田城を手に入れ、北河内の交通を松永が抑える。
この段階で久秀配下であった安見右近が築城しえた可能性を指摘する。
⑤織田配下としての安見右近による築城の可能性(馬部2009)
星田を拠点としていた右近が、私部で栄えていた光通寺を退け、私部城を築くには織田の後ろ盾を
必要としたとみる。縄張りの一部に織田の城からの影響の可能性を指摘。
3.私部城跡の発掘調査
(1)埋没した堀跡と郭(第6図)
これまでの発掘調査のなかで、後世にうめられた城の堀や郭が確認された。
本丸池(2012-4次第4調査区) 私部城があったころの堀の形を確認した。
本丸池東の堀(2013-6次第1・6~8調査区) 建物跡東側に続く堀跡を確認した。
中世の瓦や土器片も出土した。この堀より北、本郭南に複雑な形状をもつ平坦面が存在。
本郭南東部の堀跡(2013-6次第3調査区ほか)
本郭の南東で本郭と三郭の間からのびる堀の端を確認した。地盤層を削りこんで急な斜面をつくる。
この斜面は戦国時代が終わって間もなく、郭の上から落としこんだ土により埋められている。
二郭北西の郭と堀(2012-3次)
地中に埋もれていた堀と郭が確認された。郭の上では建物の柱跡が確認された。
→江戸時代の『室町殿日記』に、おびただしい堀で守りを固める私部城の姿が記されている
(佐竹編1980)。このイメージによくあう城の姿がみえてきた。
(2)郭の構築
私部城の発掘調査では、現在良好に残る本郭や二郭・土塁の構築方法がわかった。
地山を削って築かれた郭(本郭、二郭の南側、二郭北西の郭)
固い地盤層を削り込んで急な斜面をつくって郭としている(写真2)。
盛土で築かれた郭(二郭北側、三郭、本丸池西の土塁(郭か)ほか)
地盤層の上に、盛土をして築かれる(写真3)。盛土中に地盤層に似た土塊が混じっており、
堀や郭斜面を削った時にでた土を盛土に利用したとわかる。
(3)私部城がいつごろあったか
城ができる前の中世私部
本丸池西の土塁盛土下層の出土品(写真4)から、城ができる前の14 世紀ごろに、私部城の周辺部に集落があったとわかる。15 世紀ごろの私部の中心は、字市の高台上の堀で囲われた屋敷地とみられる(第8図)。堀の方向が一致することから、山根街道に沿った字市の町割りがこの頃にできていたこともわかった。
私部城の廃城時期
本郭、出郭の廃棄土坑や、堀の埋土中で16 世紀中頃~後半までの瓦が出土し、それより新しい時代の出土品はない。私部城は戦国時代の終わりとともに役目を終え、堀の多くは埋められている。
機能した期間は短い可能性
私部城の堀が機能していた間、堀の底に堆積した土は少なく、土器の出土数も少ない。
また、郭に改変の痕跡が認められないなど、長期間利用された可能性は低い。
私部城が大規模な城として使われたのは、16 世紀の中でも戦国時代のごく短期間のことだったと
考えられる。
4.私部城跡の瓦
(1)私部城の出土品の概要
土器や陶磁器は非常に少なく、出土品の大半は瓦の破片。今回の調査以前は室町時代に私部で栄えた光通寺の瓦と考えていた(交野市教委1995、交野市文化財事業団1995)。
瓦の出土状況や年代を精査すると、私部城で瓦が用いられていたことがわかってきた。
(2)瓦の出土地点・状況 (第3表、第6図に出土地点)
私部城で中世瓦は城域全体で出土しているが、その中でも郭の周りに集中している。
また、廃城時のものとみられる次のような遺構と土層中で出土した。これは、城が廃城になった段階で
多量の瓦が郭周辺で利用されていたことを示す。
郭上のガレキが廃棄された土坑…本郭(1994 年度第2調査区)、出郭(1997-1,2次)
郭上から斜面に流出した土中…二郭南斜面(2013-1次)、東斜面(2013-3次)、
北斜面(2013-5次)、本郭北(2013-3次)など。
堀埋土からの出土例…本丸池東の堀(2013-6次)、本郭南東の堀(2013-6次)、
字市の高台北側(2012-2次擁壁部工事立会)など。
(3)軒平瓦の年代
顎貼り付け(第9図)主体で、16 世紀代のものとわかる。(山崎2000)さらに、私部城出土の三葉唐草文瓦(第10 図の②)は、大坂城下層(本願寺期)と、若江遺跡(若江城の堀)で出土した同笵瓦との先後関係から、16 世紀中頃~後半に年代を絞り込める。
(4)軒丸瓦の年代
軒丸瓦の瓦当裏面側に刻み(凹線)がある(写真5)。軒丸瓦の瓦当と丸瓦部の接合をしやすくするためのもの。法隆寺の瓦編年によれば室町時代にはない(佐川1989)。交野市域でも15 世紀~16 世紀前半ごろの瓦には認められない。勝龍寺城・多聞城など、戦国期の城で認められる技法であり、私部城の軒丸瓦もこの頃のものとみられる。
(5)丸瓦の初期内叩き
凹面を部分的に道具で叩いた痕跡がある(写真6)。丸瓦凹面全体を叩く江戸時代の内叩きと区別し、「初期内叩き」と呼ばれる(第11 図 武内2001)。16 世紀前半まで奈良の法隆寺などの瓦で認められる。京都の東福寺や平等院などでも一部認められる。これが畿内各地に広がるのが16 世紀後半からであることから、私部城の丸瓦も16 世紀後半に入ってつくられたものとわかる(第4、5表)。
(6)私部城出土瓦の工人
私部城の瓦の特徴から少なくとも3つの系統の瓦工人が関わったことがわかる。
①北河内在来の瓦工人 本郭の土坑出土軒平瓦の一つが、交野山上の廃岩倉開元寺の瓦と同文。
もとは奈良の瓦工人か。
②16 世紀後半に大和からきた瓦工人 初期内叩きのある丸瓦などから。
③摂津の瓦工人 軒平瓦の顎貼り付け技法は、中世の播磨や摂津・和泉で用いられており16 世紀頃に
北河内でも多く認められるようになる。特に、私部城の軒平瓦に笵傷が加わる前のものが、
大坂城下層で出土していることから摂津を中心に活動した工人もかかわったとみられる。
私部城以後の瓦工人 後に織豊城郭の瓦が確立される時に動員された可能性が高い。
私部城の三葉唐草文軒平瓦の笵を切り落としたとみられるものが、織田方の城ともなった
若江城堀跡で出土している。同笵のものはそこでみられなくなるが、三葉唐草文自体は
安土城以後の瓦で流行する。私部城の瓦に認められた軒平瓦の顎貼り付けの技法や、
部分的な丸瓦の内叩き技法、軒丸瓦の瓦当裏面に刻みを入れる接合技法は、織田の城郭
の瓦にも認められる。
(7)私部城の瓦の位置づけ
出土状況と瓦の年代から、私部城に瓦が用いられていたことがわかってきた。ただし、郭の中心部の調査は少なく、どのような建物に伴ったのかなど、謎も多く残る。特に、安土城以前の土の平城である私部城で、なぜ瓦が利用されたのかが大きな課題になる。
判明した瓦のうち最も新しいものの年代が城主であった安見右近・新七郎の歴史上に記されているころにあたることもふまえると、次のような3つの可能性が考えられる。
①畿内地域の先進性 中井均氏が河内長野市烏帽子形城などの事例から、河内をはじめとした畿内の城で先進的に瓦利用がなされていたことを指摘している。私部城で瓦が利用された背景には、畿内の城における瓦利用の先進性が強く影響したとみられる。
②松永久秀の城からの影響 松永久秀の多聞城出土の丸瓦の初期内叩きや、軒丸瓦当裏面に刻みを施す技法は私部城出土のものと共通する。多聞城の瓦工人が私部城の瓦づくりにも関わった可能性は高い。ただし、松永の城の瓦と同笵の瓦は私部城にない。私部城の瓦当文様が摂津や北河内の在来のものである点も、奈良の独自の瓦当文様を創出した久秀の多聞城と異なる(山川1996)。一概に松永からの影響のみに限定できない。
③織田信長の城からの影響 安見右近が私部城主となった背景として、織田の配下となったことを重視する考えがあり(馬部2009)、その後を守った新七郎も織田政権下で取次をつとめたことがわかっている。織田の城からの影響の可能性がないとはいいきれない。ただし、摂津や河内、奈良といった在来の瓦工人によりつくられている点や、その特徴が織田の城の瓦に先行しているものである点をふまえると、後の織田の城の瓦の源流の一つとみる方が妥当。
5.まとめと課題
大阪府内で貴重な戦国期平城と認識されてきたが、調査を通じて新しい成果が得られた。
・文献の調査からは、謎の多かった安見氏や、戦国期前後の私部について手がかりが増えてきた。戦国の梟雄である松永久秀と織田信長の間で揺れ動いた安見右近や新七郎の姿が垣間見えるようになってきた。
・発掘調査からは、現地形では埋没していた郭や堀の姿が判明してきた。やや複雑な形態をしているが、河内国や大和国の平城の延長線上に築かれたものか。短期間に集中して機能したものとみているが、その形成過程は今後の課題。
・河内、奈良、摂津といった在来の技術による瓦を城で利用していた。城での瓦利用が一般的ではない戦国期において、先進的な城であったことがわかる。軒平瓦の三葉唐草文や、丸瓦の初期内叩き技法、軒丸瓦の瓦当裏面に刻みを施す接合技法は、織田の城郭瓦に通じる要素。後の織田や豊臣による近世城郭の瓦に与えた影響もうかがえる。
【参考文献】
交野市教育委員会 1995『私部城跡発掘調査概要報告書Ⅰ』
交野市文化財事業団編 1995『光通寺』、交野市教育委員会・交野市文化財事業団
片山長三 1981『交野市史 交野町略史 復刻編』、交野市編纂委員会(1963初版、1970増補改訂)
小谷利明2013「天下再興の戦いと私部城 発表レジュメ」、交野市文化財事業団
佐川正敏1989「中世・近世の丸瓦」『伊珂留我』法隆寺資材帳調査概報10、法隆寺昭和資材帳編纂所
佐竹昭広編1980『室町殿日記 下 京都大学蔵』、京都大学国語国文資料叢書一七
武内雅人2001「丸瓦製作技術からみた近世瓦の生産と流通」『ヒストリア』第173号
田代克己・渡辺武・石田善人編1981「交野城」『日本城郭大系』第十二巻 大阪・兵庫、新人物往来社
中井均 1982「交野城跡と北河内の城跡」『地域文化誌まんだ』第16号、まんだ編集部
中井均 2011「私部城の歴史と構造」『シンポジウム「私部城」資料集』、交野市文化財事業団
中西裕樹 2004「私部城」『図説中世城郭事典』、城郭談話会
馬部隆弘 2009「牧・交野一揆の解体と織田政権」『史敏』二〇〇九春号(通巻六号)、史敏刊行会
平尾兵吾 1972『北河内史蹟史話』(1931年初版)
山川均 1996「城郭瓦の創製とその展開に関する覚書」『織豊城郭』第3号、織豊期城郭研究会
山崎信二2000『中世瓦の研究』、奈良国立文化財研究所付表と図面・写真集
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講師と交野市教育委員会のご提供により掲載させて頂きます。