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平成27年11月定例勉強会

交野ヶ原と星田妙見宮の北辰信仰
  講師:佐々木 久裕氏 (星田神社宮司)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 31名の参加
 2015.11.28(土)午前10時、11月定例勉強会に31名(会員25名)が参加されました。

 高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の佐々木久裕氏から「交野ヶ原と星田妙見宮の北辰信仰
をテーマで星田妙見宮の由緒・歴史について大変詳しくお話しいただきました。
 妙見山にペルセウス流星群の隕石が落ちたこと、頂上に豊受大神が祀られていること、古事記の天地開闢の神々のこと、伊勢神宮のことなど大変多岐にわたりお話しくださいました。

 また、平成28年7月には星田妙見宮創建1200年奉祝祭が開催されます。
   星田神社と星田妙見宮のホームページをご参照ください。    

 「交野ヶ原と星田妙見宮の北辰信仰」 講演の概要

  1.交野ヶ原と星田妙見宮の北辰信仰
     ・交野ヶ原のキーワードは
       物部氏、北辰、北斗七星、羽衣伝説、七夕
     ・妙見山は中心の登龍の滝から外へえぐられた馬蹄形になっている
      816年7月23日に、北斗七星の方向から来たペルセウス流星群の隕石が正体
     ・物部氏が最高神として祀る「豊受大神」は、一族の祖先神、天之御中主神と同一神、
      また北斗八星から降臨した天女でもあると云われている
     ・星田妙見宮には、織女石の裏側に豊臣稲荷社があり、ここに祀られる「保食神」は
      豊受大神と同一神であり、この社は妙見山頂上に祀られている
     ・星田妙見宮の御祭神 - 妙見大菩薩 またの名を「天之御中主神」またの名を
       「太上神仙鎮宅霊符神」といい、それぞれ仏教、神道、道教における北辰を指す
       御神体は、織女石(たなばたせき)。御神紋は、北斗八星。織女とは七夕の織姫のことで
       あると同時に、北辰の神格を指しま
     ・北辰信仰は宗教や国境を超えた、最も古い形の信仰
     
  2.星田妙見宮と七夕
      ・空海がとなえた秘法により、天上から北斗七星が降臨し、星田の里の三か所に
       分かれて落ちた。 星田妙見宮、光林寺、星の森
      ・天の川を挟んで等距離に織姫と彦星が浮かび上がる  妙見宮と天田神社
      ・夜空に輝く北斗七星。織姫と彦星、天の川。桓武天皇が天を仰ぎ、地に描いた理想郷。
       その想いは今も交野ヶ原に、静かに息づいております。

  3.移り変わる北辰信仰
      ・北辰の変化 北辰の場所は26,000年周期で巡つている
      ・北辰信仰の変化  宇宙樹・北辰信仰  西王母・東王父  羽衣伝説→七夕伝説
      ・北辰を祀る妙見宮の神紋が「北斗八星」であること、「羽衣伝説」が交野ヶ原の天の川にも
        あることから、妙見宮は羽衣伝説の原型を伝えていることが分かる。

  4.世界樹信仰から七夕へ
      ・世界樹(この世の全てを生みだし、私たち人間を生みだし、世界を支えている大樹)と
       北辰を仰ぎ、感謝する → 西王母・東王父 → 羽衣伝説 → 七夕
      ・毎年七月七日は、天と地が交わる日。
       それは天の恩恵を忘れやすい人間を戒める日であつた。
       それが万物を育む水へ感謝し、人間のいのちを守つてくれる衣服へ感謝し、
       私たちの生活の基盤を作つて下さつたご先祖きまへ感謝し、
       天と地の間で生かされていることへ感謝する日となる。
       様々な形でなされた天の恵みへの感謝。
       その背景には、常に北辰の存在があった。

             

 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメの資料などを
    参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。

  
 

講師:佐々木 久裕氏 (星田神社宮司)
勉強会 風景


高尾事業部長


立花会長
交野市文化連盟40周年記念で
交野古文化同好会が表彰されました


受付   崎山さんと木下さん

レジメ>   交野ヶ原と星田妙見宮の北辰信仰
佐々木 久裕氏 (星田神社宮司)
交野ヶ原と星田妙見宮の北辰信仰

 2000年以上も昔。ここ交野ヶ原は、日本で初めて天神が咆ヶ峰(たけるがみね)に降臨した聖地であり、その天神の子孫である
物部(もののべ)一族の本拠地でした。
また、大阪と京都を結ぶ唯一のルートとして、交通面でも重要視されました。

 785年。桓武天皇が長岡京遷都達成の神思感謝として、翌年に交野ヶ原の柏原で、歴代天皇で初めて郊天(北辰)祭祀を行います。北辰とは、北の夜空の中心を指します。ちなみに、この柏原という場所は、未だに特定されていません。
 ちょうどこの頃、桓武天皇の寵愛を受けた百済王敬福が平野から交野ヶ原に移住して、一段と道教的文化が盛んになると、貴族たちは星宿に因んだ名称を地名につけ、こぞって歌に詠んだと伝えられています。

 816年。空海が唱えた呪文によつて、交野ヶ原に北斗七星が降臨した、という言い伝えが、降臨地三か所に残つています。その中の一つである「星田妙見宮」は、空海が唐から「宿曜(しゅくよう)経」を持ち帰り、星の道場を創建したことに始まります。
 宿曜とは、天体の動きや場所と、人間の運命とが関係するというもので、のち陰陽道に吸収されていきます。

 『曾丹集(そにしゅう)』という平安時代の書物には
   (交野ヶ原に)昔、一人の仙女あり。この渓水(天の川)に浴する所、少年のたわむれにその衣を隠す。ゆえに帰る事あたわず。ついに夫婦となりて後二年を経て飛び去る。故に天の川と号すという、当地の羽衣伝説が記されています。

 1689年。『南遊紀行』という書物には
  磐船より入り、おくの谷中七八町東に行ば谷の内すこぶる広し、その中に天の川流る。谷の奥に、星の森あり。星の社あり。その神は牽牛織女なり
  とあり、当地の七夕伝説を知ることができます。

交野ヶ原は、まるで天を地上に写し描くキャンパスのようです。
ここには「物部氏」「北辰」「北斗七星」「羽衣伝説」「七夕」というキーワードがあります。
何故交野ヶ原に星が祀られたのか。その中で星田妙見官はどのような位置づけにあるのか。
キーワードを頼りに、これらを歴史的に見ていきましょう。




星田妙見宮の御由緒
は以下の通りです。
  
 御祭神は「妙見大菩薩」またの名を「天之御中主神」またの名を「太上神仙鎮宅霊符神」といい、それぞれ仏教、神道、道教における北辰を指します。
 北辰信仰は、天界と地底界とを貫くようにそびえ立つ
宇宙樹(世界樹)から万物が生まれ、その頂点である北辰にある星は、この宇宙の秩序を司る神であると言われるもので、北欧のユグドラシルを始め、世界各地に同じ神話、信仰が見られます。
 このように、北辰信仰は宗教や国境を超えた、最も古い形の信仰です。

 そしてその御神体は、織女石(たなばたせき)。御神紋は、北斗八星。織女とは七夕の織姫のことであると同時に、北辰の神格を指します。
 北斗八星とは、北斗七星の柄の端から二つ目の星の隣に、微かに見える一星を含める名で、空海が持ち帰った星曼荼羅にも北斗八星が描かれており、これも北辰の神格を指します。

 滋賀県余呉湖・京都丹後には有名な八人の天女降臨伝説があります。これは北斗八星から天女が降臨したことを表わしており、更に平安時代の歌集『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』には、余呉湖の段で「
織姫子孫、河内天の川にあり」とあります。
こ れで余呉湖と当地の羽衣伝説に深い関わりがあることが明確になり、同時に日本各地の羽衣伝説がある土地は、物部氏が深く関わっていることも分かつてきました。

 これらの共通点は、北辰の運行によつて導かれます。地球は止まりかけのコマのように首振り回転をしており、地軸が指す北辰の場所は、26,000年周期で巡つています。
約13,800年前は織姫星(ベガ)が北辰であり、約4,000年前は北斗七星が北辰でした。

 織姫星は北辰の神格を持ったまま西へ移動したため、北辰から西王母という名前に変わり、天を支配する女神となります。同時に天の川の対岸にある彦星は東王父という、地を支配する男神として位置づけられます。
この二星を主人公として、羽衣伝説へ、更に七夕伝説へと信仰が変化していきます。


星田妙見宮 北辰の変化 北辰信仰の変化
御祭神  北辰妙見
御神体   織女石
御神紋  北斗八星
南遊紀行伝  牽牛織姫
 織姫星(ベガ) 1&800年前  
北斗七星 4,000年前 
北極星(ポラリス) 現在 
織姫星(ベガ) 12,000年後  
宇宙樹・北辰信仰 
 西王母・東王父 
  羽衣伝説 
  七夕伝説

2008年。星田妙見宮拝殿において、七夕と書かれた墨蹟が見つかりました。
このように、星田妙見宮には北辰信仰の歴史が完全に残されていることが分かります。

交野ヶ原と星田妙見富の北辰信仰

織姫を北辰として祀る星田妙見宮。そこから東に流れる天の川を挟んで等距離に、天で牽牛が田を耕した天田の宮(天田神社)があります。更に磐船神社と結べば、
聖地を表わす結界である二等辺三角形が浮かび上がります。

妙見山は中心の登龍の滝から外へえぐられた馬蹄形になっています。
これは隕石が山の大部分を吹き飛ばしたことが原因であると判断し、専門家が計算をしたところ、816年7月23日に、北斗七星の方向から来たペルセウス流星群が隕石の正体ではないか、と推定されました。

また、最も注目すべき点は、物部氏が最高神として祀る「豊受大神」は、一族の祖先神、天之御中主神と同一神、また北斗八星から降臨した天女でもあると云われていることです。
星田妙見宮には、織女石の裏側に豊臣稲荷社があります。
ここに祀られる「保食神」は豊受大神と同一神であり、この社は妙見山頂上に位置します。以上の点から、物部氏がここを奥宮として、祭祀に携わっていたことが考えられます。

星田妙見官の近辺には、朝鮮半島からやってきた秦氏が住んでいました。独自の星信仰を持っていた彼らは、物部の管理下にあって、高度な機織技術を伝えました。
壬申の乱(672年)後に衰退する物部氏に代わつて、秦氏が勢力を伸ばすこととなり、桓武天皇の御代に百済王の移住もあって、交野ヶ原の星信仰はこれらの影響を受けて少しずつ変化していったに違いありません。

桓武天皇の郊天祭祀から31年後、空海が北辰を星田妙見宮で祀り、さらに桓武天皇の皇子である嵯峨天皇、淳和天皇がたて続けに星田妙見宮へ行幸した記録が、当社縁起に残っています。

郊天祭祀は、古代中国で冬至の日に南の郊外で天を祀ったことに始まります。つまり、その場所から見て、どこから朝日が出てくるかが重要になります。そこで、交野ヶ原南郊の地にある星田妙見宮から、冬至の日の出を望むと、交野ヶ原の原点「咆ヶ峰」から朝日は昇るのです。こうして見てきますと、
歴史的、地理的、地形的、民族的、信仰的に、星田妙見宮は郊天祭祀場の最高の候補地に挙がってくるのです。

夜空に輝く北斗七星。織姫と彦星、天の川。桓武天皇が天を仰ぎ、地に描いた理想郷。その想いは今も交野ヶ原に、静かに息づいております。



星田神社 由緒書
 ご祭神
  本殿 上筒男命 中筒男命 底筒男命 息長帯姫命(神功皇后)

 当神社の創建の年月日は詳らかではありませんが、伝えによると、現在本殿の住吉四神をお祀りしたよりも遥か以前に、ここに一本の大杉があって、そこに当地の氏神として、当地方の交野の物部の御祖である櫛玉饒速日命(交野大明神)をお祀りいたしておりました。その後、宝永年間(1704~1711)総社である磐船神社の御分霊を御遷ししてお祀りするにおよび、交野大明神のお社よりも大きな神殿が建てられることとなりました。それ以後、交野社は古宮と呼ばれるようになり、また大杉も枯死したので、その芯をご神体として、お祀りするようになりました。それは鎌倉か、室町の時代か、いずれにせよ当社最古の神であります。
 西井長和氏所蔵の天文4年(1535)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記載されております。また文化2年(1805)の三浦蘭阪著「川内奨撫古小識」には、当神社に正平21年(1366)の銘の石塔があったと記されております。また八幡社はもと新宮山の頂上にお祀りされていましたが、明治維新の神仏習合整理によって、明治7年9月にここに遷されたものであり、昔は山城の男山八幡宮を本宮、こちらを新宮と云われました。平安時代、このあたりは、石清水八幡宮の寺領荘園となり、この地域の守護神として八幡宮の御分霊を新宮に勧請したのに始まります。
 明治5年に村社となる。また、明治39年11月に星田妙見宮(小松神社)が星田神社境外末社となりました。

木内鶴彦さんと訪ねる「星座の里」第1回「天の川星物語・七夕伝説フォーラム」ツアーに
参加させて頂いた時に、記載させていただいたものです。参考にご覧いただければ幸いです。


   彗星捜索家 木内鶴彦氏が推理する
クリック→  「交野ヶ原の壮大な歴史ミステリー」

最後までご覧いただきありがとうございました

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