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平成28年9月定例勉強会

”歴史の迷宮を歩く”シリーズ
持統天皇の本音の実像に迫る


  講師: 歴史研究家 寺田 政信氏
(交野古文化同好会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 29名(会員23名)の参加
 2016.9.24(土)午前10時、9月定例勉強会に29名が参加されました。

  立花会長の挨拶の後、講師の寺田政信氏から「
持統天皇の本音の実像に迫るをテーマで、
詳細な資料に基づき、寺田氏が独自に研究された「持統天皇の本音」を大変詳しくお話しいただきました。
  
  このたび、寺田様には大変興味深いお話をお聞かせ下さり誠に有難うございました。
  今回の勉強会の内容を取りまとめるに当たり、当日頂いたレジメを参考にさせていただきました。
   
  
持統天皇の本音の実像に迫る」講演概要

    1.持統天皇の通説 ・・・  生涯を通じて天武天皇に忠実であった
       ・天智天皇の皇女として生まれ、天智天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)に嫁ぐ。
       ・壬申の乱で勝利した天武天皇が即位。天武天皇を継いで持統天皇として即位。

        ・藤原不比等と組んで藤原京を実現。持統天皇が崩御すると天武天皇と合葬。     
    2.乙巳の変の真相 
        ・なぜ中大兄皇子が天皇に即位しなかったのか?
       
 ・事件の黒幕は誰だったのか。
         ・白村江の戦い なぜ中大兄皇子は大海人皇子を採用しなかったか?
     3.継体天皇の時代に遡り、皇室系図を見ながら考察する        
     4.持統天皇の本音の実像に迫る
         ・持統天皇は夫である天武天皇お排除し父親である天智天皇の本意の実現に尽くした。
         真相①天武天皇が崩御したあと、天武系を排除して自ら持統天皇として即位。
         真相②天武系から天智系の桓武天皇へと皇統を繋ぎ本音が実現
         真相③持統天皇の吉野への行幸は、藤原不比等と謀り、天武天皇の意思に反して、
           内宮に天照大神を主祭神とし自分を擬したとされる新しい伊勢神宮を創建。
           日本書紀の記述と合葬はカモフラージュ。
    5.さいごに 
      持統天皇は本意を隠しつつも、夫、天武天皇の名誉を必死に守った。
      偉大な女帝でした。

 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメと諸WEB記事を参照させて
    頂き、記して感謝申し上げます。


講師:歴史研究家 寺田 政信氏(交野古文化同好会)
勉強会 風景
「持統天皇の本音の実像に迫る」  レジメ

歴史研究家  寺田 政信氏
“歴史の迷宮を歩く"シリーズ
 持統夭皇の本音の実像に迫る

歴史研究家  寺田政信氏 
【持統天皇の通説】

 持統天皇の通説は日本書紀の記述そのものです。要点は以下の通りです。
 * 天智天皇の皇女(鵜野讃良皇女=うののさららみこ)として生まれ、天智天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ草壁皇子を生みます。

 {考え所}

 寝屋川には讃良郡という地名があります。寝屋川の郷土歴史家は、この地名から寝屋川の石の宝殿を持統天皇の陵と主張しています。
 規模からみてもあり得ないし、持統天皇と天武天皇が合葬された陵があり、この陵が古代で唯一被葬者がはっきりしているといわれており石の宝殿説は寝屋川郷土歴史家の我田引水に過ぎません。

        
            寝屋川市の打上元町  石の宝殿古墳

* ある時、大海人皇子は、病床の天智天皇に呼ばれ天皇を継がないかと尋ねられます。もし継ぐ意志ありと答えたら謀反の疑いで殺されますから、大海人皇子は病気を理由に丁重に断り、武器を献上し直ちに剃髪をして吉野に隠棲します。時の人々は、「虎に翼を付けて野に及つが如し。」と噂します。
* 翌年、天智天皇が崩御すると、太政大臣にまで登りつめた大友皇子を取り巻きの群臣逹は、天皇に指名しようとします。
* 大海人皇子は吉野で蜂起します。壬申の乱の始まりです。
当初は、少ない軍勢でしたが、東国特に尾張の大軍勢2万に助けられます。


        
          吉野川 奈良県吉野郡吉野町宮滝  

        
                 壬申の乱の地図

{考え所}
 なぜ尾張の大軍勢が大海人皇子を助勢したのか。大海人皇子はその名前からして幼少の頃尾張ですごしたのではないかと思っています。
 戦略としては、近江軍(大友皇子を担ぐ)|が東国と通じるのを防ぐため不破の関を押えます。大海人皇子と鵜野讃良皇女、草壁皇子は吉野から美濃まで強行します。
 そこで仮の宮を作りそこから指揮をとります。
 鵜野讃良皇女にとつて大友皇子は異母弟ですから忸怩たるものがあったかもしれません。

* 近江軍は、大友皇子が若く統率力に欠け群臣たちは度重なる離反で自滅します。
* 勝利をおさめた大海人皇子は天武天皇として即位します。鵜野讃良皇女は忠実に天皇に仕えますが、天皇を継ぐべき草壁皇子が早世します。
* 天武が崩御すると鵜野讃良皇女は持統天皇(女帝)として即位します。

そして、藤原不比等と組んで天武天皇の事業を次々実行していきます。
 藤原京の実現などです。
*天武が蜂起した吉野へ何回も訪れ天武天皇を偲んだとされます。
* 持統天皇が崩御すると天武天皇の陵に合葬されます。古代で被葬者が100%比定されるのはこの陵だけとされます。
 このように見ていくと、持統天皇は生涯を通じて天武天皇に忠実であった姿が日本書紀に記されています。


    
                天武・持統天皇 合葬陵
そこで、歴史研究家の著者がこの鉄壁のアリバイを崩し持統天皇の本音の実像に迫っていきます。
【持統天皇の本音の実像に迫る】

いきなり持統天皇に入るのではなく、歴史の上流の流れから入っていきたいと思います。

<乙巳の変の真相>

 乙巳の変は645年、時の権力者蘇我本家(首長:蘇我入鹿 父:蘇我蝦夷)を中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後に藤原鎌足)が滅亡させた事件です。
 645年6月12日、 時の皇極女帝が大極殿に御し、三韓からの表文を奏上する儀に蘇我入鹿を立ち会わせさせた。大極殿なので帯刀を解かれ無腰のままで御簾越しに皇極天皇の前に座ります。奏上も終りの頃、中大兄皇子が入鹿に斬りかかり仕留めました。中臣鎌足はやや遠方から弓矢で加担したという。
 翌日、蘇我蝦夷も誅された。この時、蝦夷の所に集められた古来の書物が焼失したという。この書物が残されていたら日本の歴史の真実が明らかになったかもしれないといわれている。
 翌月、皇極女帝は、弟の孝徳天皇に譲位します。

 この乙巳の変は歴史教科書では、“大宝律令”として紹介されるが、この年から律令制度の準備が始まったという意味で律令制度が制定されるのは700年代に入ってからです。この乙巳の変には謎が多く「考え所」として整理しておきます。

    

{考え所}

 なぜ、当時の大権力者の蘇我一族を滅ぼし中大兄皇子が天皇に即位しなかったのか?
諸説あります。当時、中大兄皇子は20才ですから、当時の常識として天皇は、30歳が即位の目途でしたからこれも一理あります。もう一つの説は中大兄皇子の妹が軽皇子(後の孝徳夭皇)に嫁いでいてその妹が可愛く天皇に即位すると、后を貰うことになりそれを嫌ったというわけですがこれは俗説だと思われます。中大兄皇子は実行犯ですが黒幕がいたと考えるのが正しいと思っています。

 黒幕は一体誰なのか、御簾の奥から惨劇を見ていた皇極天皇と弟の軽皇子(孝徳天皇)で間違いないと思われます。乙巳の変の当日参内していた蘇我の古人大兄皇子が次期天皇の本命でした。皇極女帝はこのままでは、天皇家は蘇我一族に奪われると危機感を抱いたわけです。そこで、天皇自ら表に立てないので息子の中大兄皇子を実行犯としたのです。孝徳天皇が即位したとき中大兄皇子を皇太子(次期天皇候補)としています。

 孝徳天皇は、飛鳥には蘇我一族に与する勢力が多いことから難波に宮を置き律令制度の推進に邁進します。ところがその手法に異をとなえた中大兄皇子は、孝徳天皇の后の妹もつれて飛鳥に戻ります。鎌足も同行します。
 孝徳天皇は失意の内に難波の地で亡くなります。ここで中大兄皇子が天皇に即位するチャンスでしたが、なぜか即位せず、皇極が重祚(一旦天皇を降りた後再度天皇に即位すること)し斉明天皇として即位します。

{考え所}
 
 なぜ、中大兄皇子は天皇即位を拒んだのか? もし天皇に即位したら当時のしきたりとして、兄弟継承が普通で大海人皇子に譲位せざるをえなくなるので、理由は分かりませんが大海人皇子だけには譲りたくないと思ったようです。大友皇子の成長を待つため即位を拒んだのです。

 時局は、動きます。百済が唐と新羅によつて滅ぼされますが残った将軍が頑張り百済再興を目指します。日本に人質(外交官)として来ていた百済王の帰国を要請します。豊璋が選ばれます。白村江の戦いです。中大兄皇子が指揮をとり斉明天皇も九州までいきますが途中で崩御します。白村江の戦いは惨敗します。中大兄皇子は逃走し唐と新羅軍が襲うことを考慮し水城や山城を造り大津宮で天智天皇として即位します。多くの考え所があります。

    
                白村江の戦い図
{考え所}

 なぜ、白村江の戦いで600隻ともいえる倭国海船が100隻に満たない唐・新羅連合軍に惨敗したのか。
倭国海軍に戦略がなかった。統率者は阿倍比羅夫である。蝦夷を攻めたときの功労を買って選ばれたが、戦略は無く、今の船員の資格でいえば2等航海士並みです。一方敵方は海戦に長けた唐軍の統率者が指揮をとり白村江に入る倭国軍の船を挟み撃ちにして火矢を放ち倭国船は水夫も兵も火消に大わらわで全く戦いにならなかったのが敗戦の現実でした。

{考え所}

 百済王の末裔の豊璋は鎌足と同一人物か?
白村江の戦いの前後の鎌足の動きの記述がありません。同一人物としていいと考えます。斉明天皇が九州まで出かけたのも鎌足を助けるための想いからだと思われます。

{考え所}

 なぜ、白村江の戦いに中大兄皇子は、大海人皇子を採用しなかったのか。
大海人皇子はその名前からも海人族で海戦の戦略には最適な人材のはずです。中大兄皇子は大海人皇子には戦功を渡したくないと思ったのでしょう。
 そして、最初の通説へと話が進みますが、乙巳の変よりずっと前から壬申の乱の真相の源流のあったことを系図を見ながら考察してみたいと思います。
{考え所}時代は継体天皇まで遡ります。

 ヲホド王(継体大王)は、父親は湖東の坂田(米原付近)息長一族の出身で湖西の高島の三重一族に別業(外交官)で来ていたとき三重一族の親戚筋の越前三国の振姫を娶りヲホド王が誕生します。

 父親がすぐ亡くなると三国に帰り育てます。ヲホド王は若いころ美濃、尾張などに活動し尾張連草香の娘目子姫を娶り後の安閑・宣化が誕生します。ヲホド王20才ころだと思われます。

 そして時を経て、507年ヲホド王57歳、樟葉の宮で即位し大和から天皇系譜正統の手白香皇女を娶り後の欽明天皇が生まれます。ここで、安閑・宣化の尾張系(東国系)と欽明の大和系の二つの流れが生まれます。欽明は大和豪族の支援を貰い仏教の受け入れと蘇我一族に肩入れします。

      

 欽明は東国(尾張系)を排除することなく宣化の娘を娶り敏逹天皇ヘと継承します。敏達天皇は仏教導入には中立といわれています。最初の后は、継体大王の父親の出身地の米原(坂田)の息長一族の広姫を選びます。東国系の后です。ところが広姫が早世します。敏逹天皇が大変悲しんでいるとき、蘇我馬子が娘の豊御食炊屋姫を后に送り込みます。
 敏逹天王は大変喜び后を喜ばす手立てはないかと問います。そこで物部は、蘇我とは対立していましたが、敏達天皇を喜ばすため、交野の私部の所領を豊御食炊屋姫に献上します。私部(きさいべ)の起源です。

 日本書紀には次のように記載されています。
「(敏達)六年、春二月―日、詔して日祀部、私部を置いた。」

 敏逹天皇がなくなると、広姫との間に生まれた押坂彦人大兄皇子が天皇になって当然ですが、蘇我馬子の横暴で豊御食炊屋姫を推古天皇(女帝)とします。推古天皇は聖徳太子を摂攻として蘇我馬子とは距離を置いたようです。蘇我馬子が葛城の土地を所望したときもきっばり断っています。聖徳太子に譲位したかったのですが、早世してしまいます。

 推古天皇は後継者として、蘇我系の聖徳太子の息子山背大兄と非蘇我系の押坂彦人大兄皇子の息子の田村皇子(舒明天皇)を選びます。推古天皇最後の意地でした。

 舒明天皇は、押坂彦人大兄皇子血統の宝皇女を后として中大兄皇子と大海人皇子が誕生します。推古天皇の意地で蘇我系の天皇は排除したものの、蘇我一族は大きな権力を握っており、天皇そのものを蘇我が奪う恐れがあるところから皇極と孝徳が黒幕となって中大兄皇子と鎌足が実行犯となって乙巳の変となっていくわけです。

 皇極と舒明の間の子供二人、中大兄皇子と大海人皇子は、中大兄皇子を後継者とすると同時に、大海人皇子を東国(尾張)に幼少から送り込み中大兄皇子になにか起こったとき大海人皇子が皇統を継がせるという皇極女帝の思惑があったのではないか。東国系が復活しても皇統が守られれば、それは良しとしたのではないか。


    
【持統天皇の本音の実像に追る(本論)】

 ここから本論に入ります。日本書紀の記載では持統天皇は生涯天武天皇に忠実とされますが、ここでは、持統天皇は、夫である天武天皇を排除し父親である天智天皇の本意の実現に尽くしたことを明らかにします。

<真相その①)

 天武天皇の後継者として草壁皇子を想定していましたが、草壁皇子が早世してしまいます。そのあと天武天皇が崩御します。そして、自ら持統天皇として即位します。もし、天武天皇に忠実であれば、天武系の皇子高市皇子や舎人親王を天皇に立てるべきです。天武系を排除したわけです。

<真相その②)

 生前の草壁皇子の后として天智天皇の娘の皇女(後の元明女帝)を選び文武天皇を生みます。更に文武天皇は、天智系の皇女(後の元正女帝)を后とし聖武天皇へと繋ざます。この間、天武系の皇子・皇女は全く登場していません。
 
 血統で見ていくと、草壁皇子は、天武系50%/天智系50%です。文武天皇は、天武系25%天智系75%、聖武天皇は、天武系10%天智系90%となります。その後淳仁天皇という天武系の小さな紛れはありますが、称徳女帝の後、天智直系の光仁天皇そして桓武天皇へと繋がっていきます。これが持統天皇の本意が実現したわけです。

         

<真相その③)

 持統天皇の吉野への30回もの行幸の真相に迫ってみたいと思います。通説では壬申の乱を立ち上げた吉野に天武天皇を偲ぶための行幸とされますが、日本書紀では行幸をしたとあるだけでその目的の記載はありません。いくら天武を偲ぶといっても飛鳥から遠い吉野へのこの回数の行幸は異常です。何か別の思惑があったと考えるのが妥当だと思われます。

私の推理では、伊勢神宮の創建に関わることだと思っています。

    

 吉野で藤原不比等と会って伊勢神宮の創建の相談をしたのではないでしょうか。天武天皇は、2万の兵で支援してくれた尾張一族に感謝を込めて、伊勢近辺に神宮を創建したいと思っていたことは確かです。ただ、天武天皇が思っていた祭神は、尾張一宮の真清田神社の主祭神、天火明命(アメノホアカリノミコト)だったと推察します。この神様はニギハヤノミコトと同一神ともいわれています。

 持統天皇は、藤原不比等と謀り、天武天皇の意志に反して新しい伊勢神宮を創建します。内宮には、天照大神を主祭神とし自分を擬したとされます。相殿に天火明命(ニギハヤノミコト)を祀りバランスを取ります。外宮には丹後一宮から豊受大神を勧請してお祀りします。本来、丹後一宮神社の主祭神は、彦火明命でニギハヤノミコトとされます。持統天皇は、天武天皇の思惑を巧みに交わしました。外宮の豊受大神は女神ですが、神殿の千木は男神の縦切りになっています。

 日本書紀では大海人皇子が吉野で蜂起し美濃へ向かう途中桑名のあたりでアマテラスを遥拝したと記述されています。この時期伊勢神宮の形はないのでこの記事は、日本書紀編纂の折、持統天皇と藤原不比等がカモフラージュのため記述したものと思われます。
 天武天皇と持統天皇の合葬も持統天皇の意地の仕上げのカモフラージュと考えると辻褄が合います。
【天武天皇の評価】

 日本書紀における天武天皇の活躍には素晴らしいものがありますが、意外と天武天皇の評価は低いことに気付きます。
* 天智天皇は近江神社に祀られています。桓武天皇(天智系)は平安神宮に祀られています、天武天皇をお祀りした神社はありません。
* 東福寺の近くの泉涌寺には歴代の天皇の位牌が祀られていますが、なぜか天武系数名の天皇の位牌が抜けているとのことです。

 このように天武天皇の評価が低いのは、天智天皇が亡くなったとき大友皇子が天皇に即位していたとしたら、大海人皇子は反逆者になります。
 明治時代に大友皇子は弘文天皇として即位が認められています。弘文天皇の陵が大津に造営されています。このあたりが理由かもしれません。
【さいごに】
持統天皇は本意は隠しつつも夫、天武天皇の名誉を必死に守りました。偉大な女帝でした。
最後までご覧いただきありがとうございました

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