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平成29年5月定例勉強会

河内木綿と機織り教室

  
講師:真鍋 成史氏 (交野市教育委員会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 32名の参加
 2017.5.27(土)午前10時、5月定例勉強会に32名の会員が参加されました。

 高尾部長の司会で始まり、村田事務局長の挨拶の後、講師の真鍋成史氏から
「森遺跡と鍛冶工房」をテーマで、パワーポイントの詳細な資料による映像を駆使してたっぷりとお話し頂きました。

 講師の真鍋先生には、これまで古文化同好会の勉強会で、「鍋塚古墳の発掘調査について」「肩野物部氏と鉄・鉄器生産=岡山と交野の結びつき=」「交野地域の古代氏族=新選姓氏禄=」などのお話をいただき、今回、「森遺跡と鍛冶工房」について広範囲にわたるご講演を頂戴しました。

(講演の概要)


 <森遺跡と鍛冶工房>
   1.森遺跡と関連する古代氏族
       (肩野物部氏、鍛冶造、守部氏、三宅山荘園と須弥寺など)
   2.森遺跡における鍛冶生産
       (ヤマト王権との関わり、茨田屯倉、鍛冶関連遺物)
   3.倭鍛冶系譜 森遺跡の地下式鍛冶炉)
       (九州島からの移動)
   4.韓鍛冶系譜 森遺跡の地上式鍛冶炉
       (韓半島東南部、新羅からの移動)
   5.初期官営工房 森遺跡の倭韓融合型鍛冶炉
       (飛鳥・奈良時代の官営工房の先駆け)
   
     森遺跡の鍛冶工のその後
      1.森遺跡の鍛冶工は、6世紀後半以降、急速に衰退し、恐らくは
        飛鳥地域の官営工房に吸収されたのだろう。
      2.奈良時代には鍛冶造氏とみえ、改姓して守部氏となる。
        須弥寺を氏寺として建立。
      3.平安時代には交野郡司として守部氏がみえ、森遺跡一帯に
        三宅山荘園を構え、その後石清水八幡宮に寄進し、荘官となる。

   6.まとめ  鍛冶操業のビデオ説明
       ・森遺跡において、2系統の鍛冶工人系譜が追える。
        親方層は倭鍛冶系譜だろう。
       ・倭鍛冶は瀬戸内海沿岸地域から古墳時代中期になって移住してきた。
        その伝承が磐船神社の伝承に投影されている。
       ・韓鍛冶も入ってきたと思われる。韓国島南部地域の可能性。
        北側の私部地区の遺跡においても確認。倭・韓でそれぞれ住み分けている。
       ・古墳時代後期に入ると、倭・韓鍛冶工の交流が行われ、後の官営工房へとつながる。

  <参考資料>
   1.交野市史「考古編」森遺跡
   2.交野古文化同好会40周年記念誌
       「肩野物部氏と鉄・鉄器生産=岡山と交野の結びつき=」
   3.ヤマト政権の生産基盤を掘る
       「倭鍛冶の系譜ー森遺跡の発掘調査からー
   4.交野市文化財事業団設立15周年記念誌
       北河内の古墳文化ー鉄文化を中心にー  
   5.森遺跡{Ⅰ~X}調査報告書  交野市教育委員会
   6.交野地域の古代氏族  =新選姓氏録から考える=

 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日上映されたパワーポイントの資料及び
   上記の資料などを参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。


講師:真鍋 成史氏 (交野市教育委員会)
勉強会 風景
森遺跡と鍛冶工房  
  交野市教育委員会  真鍋 成史氏

北河内の古墳文化 -鉄文化を中心にー
交野市教育委員会   真鍋 成史  (抜粋)
 交野市森遺跡は、JR学研都市線河内磐船駅より東側に広がる、古墳時代から中世にかけての遺跡である。
平成5年以来今日まで、市道建設や民間開発に伴い、交野市文化財事業団が継続して調査を行っている。そしてこの遺跡は交野市の古代から中世までの歴史を考える上で、貴重な史実を我々に提供してくれている。
 中でも古墳時代中期の鍛冶炉が多数確認され、鉄滓(てつさい)や羽口(はぐち)などの遺物量から全国の五指に入る大規模鍛冶工房が確認されたことは最大の調査成果といえよう。

次のことも明らかになってきた。
①鍛冶原料は朝鮮半島南部から入手しているが、工人は倭鍛冶であり、古墳時代前期に列島内で成立していた鍛冶技術により森遺跡で操業が行われていた。
②飛鳥時代になると、森遺跡での鍛冶工人が飛鳥地方の初期官営工房に収公され、韓鍛冶と一緒に国家の管理下に置かれる。
③後期中頃、岡山県北部で始まる製鉄操業に森遺跡の鍛冶技術が応用されている。

 森遺跡の鍛冶操業は、古墳時代中期に操業を開始し、飛鳥時代までに操業を停止してしまうが、その150年間に、日本の鉄文化に与えた影響は極めて大きいといえよう。

1.北河内全体を通してみる森遺跡の鉄器生産

 森遺跡の成立は弥生時代終末のことであるが、当時はまだ鍛冶操業を行つていない。灌漑用水路を遺跡の各所に廻らせた、農耕を主とした集落であり、天野川を遡ってきた小船が通行できる大溝も確認されている。当時の北河内における鍛冶遺跡であるが、淀川に程近い枚方市の星ヶ丘遺跡②や鷹塚山遺跡③など確実なところでは交野郡域でのみ確認されている。

 古墳時代に入ると、森遺跡からは、その背後の山地に分布する森古墳群の葺石に使用された片岩の原石が出土し、農耕以外にも古墳造営を行う集落機能も併せ持つようになつたが、いまだに鍛冶を行った痕跡はない。そして北河内地域からも鍛冶遺跡が消滅してしまうのである。それは古墳時代に入るまでは、北河内をはじめ各地の中規模集落において、各々が鉄を入手し簡場な鍛冶作業を行つていたが、鉄供給が大和政権により統制され、入手が許される集落が限定されたためである。

 大和政権により新たに構築された鉄素材の流れは、博多湾から瀬戸内を通って関東までと、日本海を北上して北陸まで続く2ルートあつた。瀬戸内海ルート上には現在、四国中央市の破魔殿遺跡、奈良県纏向遺跡、さらに関東では神奈県千代南原・吉添遺跡、千葉県沖塚遺跡、埼玉県山崎山遺跡、群馬県北村遣跡、日本海側では、島根県古志本郷遺跡、石川県一針B遺跡など古墳時代初頭の各地の拠点集落で羽口を用いた鉄器生産が開始されている。そしてこれら拠点集落で製作された鉄器が周辺遺跡に分配されたと考えられる。森遺跡をはじめ北河内の古墳時代前期集落には纏向遺跡などの拠点集落の鍛冶工房で作られた鉄器が流通していたと考えられる。

 森遺跡において鍛冶操業が開始されるのは古墳時代中期に入ってしばらくしてからのことである。突如として、農耕に必要な水路を埋めて鍛冶専業集落へと変貌するのであるが、それは大和政権により鍛冶集団が強制移住されられたことが要因にあげられよう。調査の結果、鍛冶炉16基、そして周辺から鉄滓、羽口や炉壁など合わせて100キロ近くの鍛冶関連遺物と、鍛冶原料として朝鮮半島産の輸入銑鉄塊や鋳造鉄斧、破損した鉄地(金)銅製馬具片やそれらをリサイクルした含銅鉄塊が出土している。

 そして、注目される遺構としては、 1989年や1995年度の調査で、鍛冶炉を複数基配置した掘立柱建物の鍛冶工房である。飛鳥池遺跡や平城宮馬寮推定地などのほか、各地の律令期の工房で同様に炉を複数並べた大型建物が調査されており、森遺跡で見つかった工房に飛鳥時代以降の官営工房群の系譜を求めることができる。

 北河内では森遺跡以外でも四條畷市の蔀屋北遺跡いやすぐそばの寝屋川市讃良郡条里遺跡においても同じ時期に鍛冶操業が行われている。両遺跡ともに馬骨や馬具が出土しており、河内馬飼に関係する集落である。鍛冶関連遺物の出土量は森遺跡に比べてわずかで、これまで鉄滓や羽日などの鍛冶関連遺物が6キロ程度しか出上していない。製作された鉄器は刀子・鉄鏃・馬具などで、百済特有の轡とされる。さらに、U字形板状土製品や鳥足紋土器など半島系土器
が多数出土しており、百済系技術者集団の鍛冶工房が推測される。

 鉄滓の大きさを比較すると、森遺跡は蔀屋北遺跡の4~5倍はある。つまり、蔀屋北遺跡では最終の鉄器の加工が主たる鍛冶作業であったが、森遺跡には不純物を含んだ鉄塊が持ち込まれ、成分調整を行う精錬から操業を行っていたことが確認されている。
 続く古墳時代後期に入ると、北河内において鍛冶遺跡数が増加する。交野市では継続して森遺跡で操業が行われたほか、交野郡街跡、寺村遺跡でも認められる。枚方市では九頭神遺跡、四條畷市では更良岡山遺跡など認められるが、いずれも飛鳥時代までは継続しておらず、飛鳥池遺跡などへ工房を移したと考えられる。


2.倭鍛冶(わかじ)と韓鍛冶(からかじ)

 では大和政権によって森遺跡にどのような鍛冶集団が配置されたのであろうか。それを考える上で参考となる史料が二つあるので、紹介しておく。
 一つ目は平安時代に書かれた『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』「巻三 天孫降臨」条である。これによると肩野物部氏が物部氏の祖先・饒速日命と一緒に天磐樟船に乗って河内国河上哮峰に天降ったことが記されている。
そして、天降った先が交野市私市にある哮ヶ峰で、その時使われた磐船が現在の磐船神社のご神体の巨石である。
このことは、『交野町史』以来よく知られてきたことで、この記述から交野市内にある古墳の被葬者を肩野物部氏として考えられるようになった。しかし、一緒に天降った集団の中に、倭鍛冶の祖とされる天津真浦(あまつまうら)も含まれていることは、これまで注目されていなかった。

二つ目がこれも平安時代の記された記録、『新選姓氏録(しんせんしょうじろく)』「第二帙 河内国神別」である。これには「『守部連(もりべのむらじ) 振魂命(ふりたまのみこと)之後也」という記述を載せているが、守部氏とは平安時代の交野郡擬大領(ぎだいりょう)になった硯在の交野市森付近に勢力を持っていた氏族である。『続日本紀』には神亀5年(728年)2月16日に、鍛冶造大隅(かぬちみやつこおおすみ)が改姓し、守部連と名乗ったことを記しており、これら二つの記録から、元々は森遺跡の鍛冶工人であったことが読みとれるのである。

 『新選姓氏録』には、河内国はじめ京畿諸氏の系譜を集成しているが、鍛冶・土木・馬匹など技術者についても記している。北河内においてその多くは渡来系氏族とされているが、この守部氏だけが日本神話に現れた諸神の後裔とされている。 先の『先代旧事本紀』に書かれた記事と合わせて、森遺跡の鍛冶操業が倭鍛冶によつて行われていたことを、この平安時代に書かれた二つの記録から読み取ることができる。

 森遺跡で鍛冶を停止してから100年余りで、この遺跡出身の鍛冶工人は、飛鳥地方の官営工房で伴造としての主導的な立場を確立したと思われる。その後、大隅など文官としても活躍する人物もその中から登場する。しかし、すべてが文官となったわけではなく、天平宝字6年(762)の造石山院所の鉄工に「守小衣」が見えており、鍛冶工であり続けた守部氏もいたのであろう。
 鍛冶氏から改姓された守部氏は、都での高い官位の政治的立場を利用して、出身地の森地区に氏寺である須弥寺を建立し、さらには平安時代に交野郡擬大領としての地位も築いたものと考えられる。

 倭鍛冶を配置した森遺跡と対照的に韓鍛冶を配置した遺跡も多数見つかっている。そこには列島内でこれまで製作されていなかった鉄器に関する技術者を呼び寄せ配置したと思われる。北河内では先に取り上げた蔀屋北遺跡で出土した百済に系譜をもつ馬具などを製作していた工人がその代表といえよう。そのほか、森遺跡と同じ交野市倉治には6世紀後半に築造された清水谷古墳があり、加耶とのつながりのある竪穴系横穴式石室をもち、鉄滓を副葬している。『新選姓氏録』には渡来系として「交野忌寸」の名前がみえ、彼らの墓ではないかと考えられている。

3.鍛冶技術の製鉄への応用の可能性を探る

 森遺跡の鍛冶操業を考える上で、岡山県津山市中山神社に伝わる『中山神社縁起』という興味深い縁起文がある。遠く離れた場所で『先代旧事本紀』が記した肩野物部氏が登場しているのである。この縁起によると、この社地には肩野物部氏が住んでいたが、その地を中山神に譲り、和銅年間(708~714)に同県久米郡久米南町及び岡山市北部(旧・建部町)の誕生寺川流域に移り住んだと伝えている。当事業団が平成9年に調査を行った同流域の中世の古文書中に「肩野部長者」「肩野部忠元」「かたのさたむね」などが見えており、縁起文に書かれた同氏の存在が確認された。

 この中山神社は『古今和歌集』「大歌所御歌1082番」で「まがね吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」と詠まれているが、「まがね吹く」とはこの中山神社にかかる枕詞で、古代周辺で製鉄を行っていた情景を歌に詠んだもとと理解されている。発掘調査の結果、津山市(旧・久米町含む)には多数の古墳時代から奈良時代までの製鉄遺跡が見つかっており、肩野物部氏がいなくなる頃に操業を終えている。

 これらの津山市の製鉄遺跡は岡山県の東部を流れる吉井川水系に属しているが、鉄鉱石・砂鉄をとも使っているところに特徴がある。この付近には鉄滓を副葬した古墳も多数あり、そのことから製鉄集団が多くいたことが分かる。

 次に肩野物部氏が移り住んだ誕生寺川流域は、岡山県中央部を流れる旭川水系に属しており、彼らが移り住んだとされる奈良時代以降に製鉄が盛んに行われる。平成7~9年に当事業団が誕生寺川流域で製鉄遺跡の分布調査を行った。これら誕生時川流域の製鉄遺跡は、立地や採集した製鉄関連遺物の形状からみて、奈良時代から鎌倉時代にかけて操業が行われている。また、製鉄炉も津山市周辺の遺跡よりも大型化している。津山市との違いは誕生寺川流域では製鉄原料には鉄鉱石でなく、すべて砂鉄に切り替えていることで、これも平安時代以降の製鉄遺跡の特徴とされている。


 肩野物部伝承地が付近に二地点ある津山市(旧・久米町)大蔵池南製鉄遺跡を例に取って以下説明する。
この遺跡は六世紀後半代に製鉄操業が開始されている。岡山県北部で最も古い製鉄遺跡で、箱形炉七基、燃料置き場、廃滓場などが確認されている。調査の結果、製鉄炉の底に溜まった鉄滓の形ゃ大きさが極めて同じ時期に操業された森遺跡のものとよく似ていた。また、鉄滓から復元された製鉄炉と鍛冶炉の炉底の形が似ている。このことも合わせて、肩野物部氏配下の倭鍛冶、 つまり森遺跡で操業を行っていた鍛冶(後の守部)氏が岡山県北部で砂鉄を用いた製鉄炉の開発にあたった可能性を指摘しておきたい。

4.まとめ
 以上、当事業団において、これまで15年間に渡り取り組んできた森遺跡の鉄研究の成果を振り返りながら、北河内の鉄文化を考えてみた。この地域は古墳時代中期から後期にかけて、列島内の鉄文化の中核地であつたことは間違いない。その役割を果たした氏族が交野郡においては肩野物部氏・鍛冶(守部)氏であり、讃良郡では佐良々氏、宇努氏であつた。
 肩野物部氏・鍛冶氏は、特に製鉄に果たした役割は極めて大きかつた。鍛冶氏はその直近にやつてきた半島系技術者つまり韓鍛冶ではなく、古相の鍛冶技術を持った倭鍛冶であつた。そのため、肩野物部氏のもと、後期に入って彼らが開発した製鉄は半島とは全く違った炉となつたのであろう。

 両氏の墓とも森遺跡の近くには存在していることも、当事業団の調査研究で明らかになつてきた。鍛冶操業が一番盛んであつた古墳時代中期後半、北河内最大で全長85mの車塚古墳群第六号古墳(大畑古墳)とその周囲では葺石を持たない全長20m下の円墳である第四・五号古墳が築かれており、前者を肩野物部氏、後者を鍛冶氏とすることができるであろう。北河内においても職能民の墓の一部はこのように有力首長の周囲に配置されたと考えてよいであろう。

 佐良々氏、宇努氏は渡来系の馬飼集団であつたと思われるが、彼らは馬匹生産だけでなく、馬具の製作の技術も持つて半島からやつてきた。馬具には木工や金工技術も必要であり、彼らは複合的な工房群を形成したと思われ、その後の藤ノ木古墳にみる金工技術の発展につなげていくのである。四條畷市からは馬を一緒に葬った小型の円墳が多数見つかつており、彼らの墓であつたと考えてよいであろう。付近には中期後半に全長65mの墓ノ堂古墳が一基存在するが、渡来系馬飼集団を統括した倭系の首長が想定されよう。

 森遺跡の立地は現在では護岸工事が完了した天野川から少し離れた位置にあるが、古代においては水運に恵まれかつ、大和へと通じる磐船街道近くに位置していた。「船戸」という小字名も残り、当時は淀川を遡つて森遺跡まで船運が使えたことが予想される。朝鮮半島や各地から鍛冶原料を入手しやすい立地であつたといえる。森遺跡の近くには、磐船街道から分岐した「かいがけ道」もあり、こちらも大和へと通じる。同遺跡は天野川と二つの大和へと通じる陸路との結節点に位置している。原料に含まれた不純物の精錬が行われた後、それを大和の鍛冶遺跡へと運びこんだのであろう。また大和政権の直轄地であつた「私部」地区の遺跡にも近く、そこへの鉄器の供給も重要な役割であつたといえよう。そして、先に紹介した馬具の破片や銅を含んだ鉄塊の出土は、周辺の遺跡から集められた廃鉄器のリサイクルも行っていたことを示している。廃鉄器回収にも水・陸路が利用されたのであろう。
秦氏と茨田屯倉について
 北河内の古代を考える上で、この秦氏の残した地名は重要で、それは『古事記』には仁徳天皇の時代のこととして「秦人を役ちて茨田堤及び茨田屯倉を作り」という記事を載せるが、この屯倉の所在地についての二つの候補地があり、いずれも秦氏に関係する地名が存在しているためである。寝屋川市には現在も秦や太秦という地名が残り、交野市の寺から枚方市津田にかけては、古来、「はたやま」、「はたもの」、「はただ」の秦氏に関係する集落が存在したとされる。

 また平安時代に書かれた『和名抄』に「交野郡三宅郷」、『石清水田中家文書』の延久四年2 0七二)の大政官牒に「三宅山荘園」の名前がみえ、吉田東伍氏は『大日本地名辞典』の中で、交野郡三宅郷の名前が茨田屯倉に由来すると指摘している。

 『日本書紀』は敏達天皇が皇后(後の推古天皇)のために「私部」を置いたと記すが、交野市私部はこの皇后領に由来するとされる。また小字名にも「官田」が残り、これは『養老令』が記す畿内に置かれた天皇の食料田である「官田」に由来している。またこの官田は大化以前の屯倉に由来するとされている。平安時代の初め書かれた『延喜式』には河内に20町の官田があったとされ、近年、第二京阪道路建設にともなう発掘調査が行われ、上私部遺跡や私部南遺跡の調査が行われ、多数の住居跡が確認され、中から新羅系土器が出土したことから屯倉に関連した『古事記』が記す秦人の集落であった可能性が指摘されるようにもなった。

 『日本書紀』には宣化天皇の時代には茨田屯倉から筑紫(つくし)の「那津(なのつ)」に米が運び出され、この屯倉に付随して港があったと思われる。私部の境にあたり森地区には「船戸」という地名があり、また交野市郡津は地名中に港を示す「津」が付いている。天武天皇の孫、長屋王の邸宅(平城京)からは「肩野津」から米を運んだことを記す荷札木簡が出土しているが、郡津はこの津の比定地でもある。米を皇族の邸宅に「肩野津」から運んだと記す木簡の内容からは、交野市私部にあつた「屯倉」に系譜をもつ「官田」との関係がうかがい知れよう。

 以上、交野市私部の官田に屯倉が置かれた可能性を挙げた。もちろん、これらのことだけで、茨田屯倉が交野市にあつたとはいえない。今後とも交野市私部の「官田」の地が茨田屯倉であったのか、それとも天皇の皇后。后妃領であったのかも含めて、考古学・文献史学・地理学など共同での調査研究を進めていかなければならないであろう。
交野市における古代の馬飼集団
 交野市域の半分は生駒山地によつて占められている。この生駒山は、『日本書紀』では「謄駒山」、『万葉集』では「伊故麻乃山・射駒山、伊駒山」などと表記されている。生駒の「駒」とは馬のことで、馬と密接に関連した名称といえよう。文永六年(1269)に作られた『万葉集註釈』には、「昔百済国より馬をこの国へ献りたり、それを秦氏の先祖よくのれりけり、さて帝これをいみしきものにせさせ給ひて、うまと云こと定り始て、いこま山に放てかわしめ玉ひけり」とあり、生駒山周辺が馬飼との関係が深かったことが分かる。特に、北河内では西隣の四條畷市に濃密に分布するほか、寝屋川市や枚方市でも多数の古代の馬関係資料が見つかっている。

 六世紀後半には交野市の倉治古墳群において轡が出上している。新羅や加耶系の渡来系集団の墓と考えられている古墳群である。そのほか、古墳時代の大規模な鍛冶遺跡である森遺跡からは、鉄地金銅製品の破片がや銅含みの鉄塊が含まれていたこと理化学的調査によって分かった。これらは周辺の馬飼集落から持ち込まれた鉄板に銅を貼り合わせた馬具の一部と考えられる。

 また、平安時代末には讃良郡(寝屋川・四條畷市)と接する星田地区に星田庄があり、福御牧や樟葉牧との間に争いが起こっている(『興福寺別当次第裏文書』)。この庄園も元は牧であったことが記されている。
森遺跡や星田地区の外殿垣内遺跡では中世の馬の骨は発見されているが、これまでのところ古墳時代に遡る発見例はない。しかしこの星田あたりでは全時代を通じて遺構・遺物ともに希薄であり、また讃良郡にも接していることから、古代においては馬の放牧地として利用されていたのではないだろうか。

「交野たたら」の実施について
 交野市文化財事業団において平成9年11月30日(日)に、島根県の日刀保(にっとうほ)たたらより人間国宝の木原明村下にお越し頂いて、森遺跡の鍛冶原料を復元するため、製鉄実験を実施したことがある。故・原田誠一初代理事長のもと、奥野和夫初代事務局長をはじめ、同僚の上田修さん、嘱託員の皆さんやそのほか多数の考古学関係者にもご協力いただいた。

 操業の6日前から炉の下部構造の製作、4日前から粘土捏ねを行い、3日前からその粘土を用いて炉を築き始め、砂鉄炉一基と鉄鉱石炉一基を作り上げた。操業は深夜0時スタートで、終了は当日の昼頃であつた。皆、精魂尽き果てた状態で操業が終了、本当にご苦労をおかけした事業であった。

 翌日はできた鉄を用いて鍛冶操業を行い、森遺跡の発掘調査を行うに際しての貴重なデータを我々に提供してくれた。遺跡で出土する鉄滓や粒状滓・鍛造剥片など微細遺物の生成過程が分かつたこと、またどのような鍛冶原料が運ばれてきたのかもよく分かつた。
 
 その後、実験の報告書をまとめることもでき、製鉄・鍛冶遺跡の調査にあたつては、この報告書が極めて有効なものという認識で全国的にも知られるようになった。当事業団の存在をアピールするいい事業ではなかつたかと思う。

倭 鍛 冶 の 系 譜 一森遺跡の発掘調査から―
   交野市教育委員会   真鍋 成史  (1部抜粋)
<はじめに>

 昭和20年代の終わり頃、交野市森から私部に行く道の途中の田の中に排水溝を造るため120 cmほど掘削したところで、弥生時代終末の土器が確認されたことが、森遺跡発見の契機となった。発見者は交野考古学会の代表である片山長三氏らで、その後周辺の遺物の散布状況から遺跡が標高35~ 40mの間で、東西約400m。南北200mの範囲に広がっていることが分かった。

 片山氏らは昭和30年6月に町道建設工事に伴い森南3丁目の大門酒造北側の斜面に弥生土器や石器片などの遺物が採取され、同年9月20日より5日間にその斜面においてトレンチ掘りでの発掘調査を行い、森遺跡が弥生時代終末から現代まで続く遺跡であることを確認している。

 そして昭和61年度からは河内磐船駅南側、平成4年度からは駅北側のロータリーやそれに接続する市道建設及び区画整理事業に伴つて、交野市教育委員会と交野市文化財事業団によって大規模に発掘調査が進められた。そして、遺跡の広い範囲で古墳時代中・後期の鍛冶に関する遺構・遺物が確認され、この時期、鍛冶専業集落であつたことが分かった。またこの大規模な調査が開始されてから20年が経ち、鍛冶炉や鍛冶関連遺物について様々なことが分かってきた。

<鍛冶炉>

  4つの型式の炉が確認された。1つ目(A型)は弥生時代以来の一般的な鍛冶炉で、作業場に穴を掘つただけのものである。2つ目はA型の鍛冶炉の周りに溝が取り付いているものである(B型)。その系譜を朝鮮半島に求める意見もある。3つ目は地下構造をもつ鍛冶炉(C型)で、すでに弥生時代北部九州・瀬戸内海沿岸において認められる。4つめは地上式の鍛冶炉(D型)で、朝鮮半島を含め大陸に系譜を求めることができる。立ち作業に適した炉で、その後日本には根付かなかつた。

<鉄滓>

 鉄滓はその形状及び金属学的調査結果からも精錬鍛冶滓、鍛錬鍛冶滓に分類される。森遺跡において上面に凹部のある滓が多いことが特徴で、銑鉄塊を処理した精錬鍛冶滓と思われる。

<羽口>

 大きさや形状なども様々である。後端部の送風管の取り付け部を削りだす羽口(I類)が多い。古墳時代に入つてすぐに出現する大型のタイプ(Ia類)は僅かで、森遺跡で主体となる羽口はその小型タイプ(Ib類)で、5世紀中頃以降に再び朝鮮半島から伝えられたものであろう。5世紀代にはそのほかに後端部をソケット状ではなく、丸く収めるタイプの羽口(Ⅱ a類)もある。後端部がソケット状に作られた羽口(Ia類)が倭系化したものと考えられ、古墳時代中期以降、瀬戸内海沿岸及び山陰地方においても認められる。

<原・燃料>

 鍛冶原料と考えられる銹化の免れた鉄塊系遺物や廃鉄器は僅かであるが確認されている。鉄塊系遺物の多くは銑鉄系で、朝鮮半島から持ち込まれたものである。燃料の炭の多くにはアカマツが使用されており、現在も刀匠や鍛冶屋も火力のコントロールしやすいマツ材を選定している。


<天磐船伝承と瀬戸内沿岸の倭鍛冶集団>

 森遺跡において鍛冶操業は、古墳時代中期中頃に入つて開始され、遺跡全体に張り巡らされていた灌漑用水路をすべて埋めてしまう。それに伴つて住居もそれまでは竪穴住居であつたが、すべて掘立柱建物へと変化させている。同時期の第二京阪道路用地内の私部地区の遺跡(上の山・私部南・上私部遺跡)では竪穴住居が古墳時代後期まで用いられていることと大きく違っている。他所よりの鍛冶工人が移り住み、周辺の集落の景観と大きく異なつた鍛冶工場群が成立したと評価できよう。

 この鍛冶工人を考える上で、『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』に記された交野市私市の磐船神社にまつわる物部氏の伝承について再び注目したい。磐船神社は奈良県との境にある神社で、ご神体とされる巨石が饒速日命の用いた天磐樟船であるとされ、その石に乗つてこの神社の北西約l kmにある哮ヶ峰(平安時代には「饒速日山」と呼ばれる)に天下つたと伝えている。中でも『先代旧事本紀』に乗船者として「肩野物部」氏、乗組員に倭鍛冶の祖・「天津真浦」という記載がある。この各書に記された饒速日命による船伝承はその横を流れる天野川、さらにはその先を強く意識して作られ、瀬戸内海より天野川を遡つて交野市磐船付近までやつてきた肩野物部氏やその配下が森遺跡の鍛冶工人(後の交野郡司となる守部氏[鍛冶氏])の事跡がこの伝承に反映されていると私は考えたい。

 例えば森遺跡95‐ 1次調査においては、鍛冶炉がC型、羽口はⅡa類が主体であるが、それらは古墳時代前期末から中期中頃にかけての主たる瀬戸内海沿岸の鍛冶遺跡で見られる炉や羽日の型式と共通しており、倭鍛冶系工人の痕跡が点々と瀬戸内海に残されている。


<まとめ>
 以上のように、地下構造を持ったC型の鍛冶炉とⅡa類の羽口のセットが古墳時代中期に入って瀬戸内沿岸に点々と認められ、その終結点が森遺跡といえよう。同遺跡95‐ 1次調査において、C型の鍛冶炉とⅡa類の羽口が確認され、瀬戸内海沿岸地域の鍛冶遺跡との強いつながりが伺える。先にも述べたがこの考古資料からみた森遺跡と瀬戸内海とのつながりが、先に紹介した饒速日命伝承が伝える倭鍛冶の祖・天津真浦の移住記事に投影されていると私は考えている。

 森遺跡において鍛冶炉の数からいつて主体はA・C型など倭鍛冶系譜のものである。そして複数基配置された鍛冶炉群は、このA・C型以外では見つかつていない。朝鮮半島から伝わった可能性をもつB型の炉(89‐ 1次調査土坑8や91‐ 2次調査鍛冶炉1~ 3)は福岡県遠賀郡岡垣町瀬戸遺跡においてもTK10~TK43型式(6C初~前)の須恵器と一緒に見つかつている。こちらも瀬戸内海を通じて入つてきたものかもしれない。

 森遺跡においてはこのほか、地上式のD型(00‐ 1次調査鍛冶炉)の鍛冶炉も存在するが、これら韓鍛冶系譜の炉は単独でありその数も少ない。D型の鍛冶炉ではIb類の羽口が用いられ、周辺からは韓式系土器の出土も多い傾向がある。また、朝鮮半島南部の鍛冶工人の風習との関係が考えられるミニュチュアの鉄斧も出土している。

 以上のように森遺跡の各調査地から見つかつた炉や鍛冶関連遺物を見ていくと様々な特徴を持っており、また周囲から出土した彼らが日常用いたであろう土器類にも差が認められる。この理由として瀬戸内海沿岸(倭鍛冶)と朝鮮半島(韓鍛冶)という工人の出自差に求められるのではないだろうか。

 しかし、5世紀段階では森遺跡内においても使用する鍛冶炉や羽口も異なっていたが工人間でも数世代後の6世紀中頃になると両者の融合も図られたようで、89‐ 1次調査地ではC型の鍛冶炉とIb類の羽口となり、そしてこのセット関係が後の飛鳥時代の官営工房ヘとつながって行くのである。韓鍛冶が持ち込んだD型の鍛冶炉、つまり立ち作業スタイルは採用されなかつたことになろう。

 畿内の鍛冶遺跡周辺においてこの交野市私市の磐船神社に伝わる鍛冶集団の移住説話と同様のものは数多くある。 
 ①奈良県御所市南郷遺跡群、名柄遺跡及び葛城市の脇田遺跡などの工人と、『日本書紀』が記した神功皇后摂政の時代に葛城襲津彦が新羅から連れ帰つた技術者との関係。
 ②古墳時代の大規模鍛冶遺跡である大阪府柏原市大県遺跡の工人と、『古事記』が記した応神天皇の時代に百済王が献上したという韓鍛冶・卓素との関係。遺跡内において「卓素」という小字が残されている。
 ③奈良県橿原市東坊城遺跡、新堂遺跡及び内膳・北人木遺跡の工人と『日本書紀』が記した応神天皇の時代に加耶出身の東漢氏の祖・阿知使主とその子の都加使主が引き連れてやつてきた党類十七県との関係、さらには後に百済から渡来し彼らの配下となったとする「今来才伎」との関係などである。

 いずれの伝承も朝鮮半島からの技術者の渡来記事であるが、これらの遺跡では主としてB・D類の鍛冶炉を用いていたと推測される。森遺跡へも同様に半島系技術者を一部には配置したものと思える。同遺跡をはじめとする畿内鍛冶遺跡の韓鍛冶系譜については今後の検討課題としたい。

森遺跡と鍛冶工房  
  交野市教育委員会  真鍋 成史氏
 森遺跡の鍛冶操業を考える上で、岡山県津山市中山神社に伝わる『中山神社縁起』という興味深い縁起文がある。遠く離れた場所で『先代旧事本紀』が記した肩野物部氏が登場しているのである。この縁起によると、この社地には肩野物部氏が住んでいたが、その地を中山神に譲り、和銅年間(708~714)に同県久米郡久米南町及び岡山市北部(旧・建部町)の誕生寺川流域に移り住んだと伝えている。当事業団が平成9年に調査を行った同流域の中世の古文書中に「肩野部長者」「肩野部忠元」「かたのさたむね」などが見えており、縁起文に書かれた同氏の存在が確認された。

 この中山神社は『古今和歌集』「大歌所御歌1082番」で「まがね吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」と詠まれているが、「まがね吹く」とはこの中山神社にかかる枕詞で、古代周辺で製鉄を行っていた情景を歌に詠んだもとと理解されている。発掘調査の結果、津山市(旧・久米町含む)には多数の古墳時代から奈良時代までの製鉄遺跡が見つかっており、肩野物部氏がいなくなる頃に操業を終えている。

 これらの津山市の製鉄遺跡は岡山県の東部を流れる吉井川水系に属しているが、鉄鉱石・砂鉄をとも使っているところに特徴がある。この付近には鉄滓を副葬した古墳も多数あり、そのことから製鉄集団が多くいたことが分かる。
倭鍛冶(わかじ)と韓鍛冶(からかじ)
 
 大和政権によって森遺跡にどのような鍛冶集団が配置されたのであろうか。それを考える上で参考となる史料が二つある。

 一つ目は平安時代に書かれた『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』「巻三 天孫降臨」条である。これによると肩野物部氏が物部氏の祖先・饒速日命と一緒に天磐樟船に乗って河内国河上哮峰に天降ったことが記されている。
 そして、天降った先が交野市私市にある哮ヶ峰で、その時使われた磐船が現在の磐船神社のご神体の巨石である。このことは、『交野町史』以来よく知られてきたことで、この記述から交野市内にある古墳の被葬者を肩野物部氏として考えられるようになった。しかし、一緒に天降った集団の中に、倭鍛冶の祖とされる天津真浦(あまつまうら)も含まれていることは、これまで注目されていなかった。

 二つ目がこれも平安時代の記された記録、『新選姓氏録(しんせんしょうじろく)』「第二帙 河内国神別」である。これには「『守部連(もりべのむらじ) 振魂命(ふりたまのみこと)之後也」という記述を載せているが、守部氏とは平安時代の交野郡擬大領(ぎだいりょう)になった硯在の交野市森付近に勢力を持っていた氏族である。『続日本紀』には神亀5年(728年)2月16日に、鍛冶造大隅(かぬちみやつこおおすみ)が改姓し、守部連と名乗ったことを記しており、これら二つの記録から、元々は森遺跡の鍛冶工人であったことが読みとれるのである。

 『新選姓氏録』には、河内国はじめ京畿諸氏の系譜を集成しているが、鍛冶・土木・馬匹など技術者についても記している。北河内においてその多くは渡来系氏族とされているが、この守部氏だけが日本神話に現れた諸神の後裔とされている。 先の『先代旧事本紀』に書かれた記事と合わせて、森遺跡の鍛冶操業が倭鍛冶によつて行われていたことを、この平安時代に書かれた二つの記録から読み取ることができる。

 森遺跡で鍛冶炉が確認された場所を示した地図です。滋賀県野洲市教育委員会にいらつしゃいます花田勝広さんによれば、大県遺跡の炉はただ単純に土を掘りまして、そこに粘土で火窪を作るAタイプ、地下構造つまり大きな穴を掘りまして、そこに粘土や焼け土を埋め戻してから、粘土によつて火窪を作るBタイプがあります。すでに両タイプとも列島内で弥生時代に認められています。この他にCタイプといういわゆる地上式炉と呼ばれる鍛冶炉があり、盛土もしくは地山を削りだして、地面より上に炉を築いています。こちらは愛媛大学の村上教授の研究により、朝鮮半島に系譜を辿れることが近年になりわかってきました。

 森遺跡においても同様に三タイプの鍛冶炉がみつかっていますが、このことは、各地から鍛冶工が集められたということでありましょう。
①森遺跡の鍛冶炉はさまざまな種類がある。→いろいろな場所から工人が集められた可能性。
②近畿地方において一番鍛冶炉を掘り当てている。→それは、調査担当者の調査技術差ではない。
→交野では倭鍛冶の炉つまり地下式のものが多く、その他では地上式の韓国式炉が多く残りが悪いためである。→つまり交野には弥生時代以来の鍛冶工人が多く集められたということを示している。
③A型炉-弥生時代以来の炉で、穴を掘り粘土を貼っただけのもの。
 C型炉-弥生時代の中期後半に北部九州にて開発された炉。
 D型炉-韓国式の炉。広く韓国内認められる。
 そのほかに、B型炉もある。
④鍛冶炉座ってするのは日本式、韓国からヨーロッパにかけて鍛冶屋はおおむね立ち仕事
A型の鍛冶炉→下面に土師器を敷いている。
そのような例は韓国・京畿道華城発安里遺跡からも見つかっている。
①C型炉→穴を掘りそこに焼土や炉壁の残骸を入れ、その上に粘土を貼る。
②つまり地下構造をもった鍛冶炉→これが古代の日本の製鉄につながる。→岡山の肩野物部伝承

①写真上-火窪部を掘った状況   ②写真下-地下構造を掘った状況
①北九州市重留遺跡→瀬戸内への玄関口である。
②森遺跡のC型炉と最もよく似ている。→羽口の形態も森遺跡95-1次調査のものとよく似る。
③近くに片野という地名もある。→交野の森との鍛冶工人の交流が考えられる。
④海のルート沿いの淡路島の雨流遺跡、大阪府和泉市の寺田遺跡などにC2型の炉がある。
 『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』に記された交野市私市の磐船神社にまつわる物部氏の伝承について再び注目したい。磐船神社は奈良県との境にある神社で、ご神体とされる巨石が饒速日命の用いた天磐樟船であるとされ、その石に乗つてこの神社の北西約l kmにある哮ヶ峰(平安時代には「饒速日山」と呼ばれる)に天下つたと伝えている。
 中でも『先代旧事本紀』に乗船者として「肩野物部」氏、乗組員に倭鍛冶の祖・「天津真浦」という記載がある。この各書に記された饒速日命による船伝承はその横を流れる天野川、さらにはその先を強く意識して作られ、瀬戸内海より天野川を遡つて交野市磐船付近までやつてきた肩野物部氏やその配下が森遺跡の鍛冶工人(後の交野郡司となる守部氏[鍛冶氏])の事跡がこの伝承に反映されていると私は考えたい。
韓国式の炉が確認された地区では韓式土器が多い傾向にある。

① B型炉 韓国式からの系譜が考えられるとされるが、今後の検討課題である。

     →周辺からは韓国で作られた鋳造鉄斧や韓式系土器が出土する。→すぐ隣の調査区からも確認される。

②同様の炉が福岡県の岡垣町からも確認されている。

D型の鍛冶炉。韓国式である。溝の上に粘土を置いてから鍛冶炉を作っている。
①韓国の鍛冶炉は土坑をもつものもあるが、日本のC型と異なり、炒鋼などの別用途が考えられる。
②鍛錬鍛冶作業は地上式の鍛冶炉で行う。
③平川遺跡のものなどは極めて上私部遺跡のものと似ている。

 右側が日本、左側が大陸側における鍛冶作業の様子です。どこが違うかというと、日本は床面にお尻を付けていますが、大陸側は立位で作業を行っています。それは古墳時代でも同じで、列島と大陸側の鍛冶作業の大きな違いといえます。そして、古墳時代には朝鮮半島から多くの鍛冶工がやつて来るのですが、彼らが日本に来たときに築いた炉は、恐らくは立位もしくはそれに近い姿勢で作業を行っていたと推定されます。
後端部がソケット状のものは送風管と固定しているため専用度が高い
 車塚古墳群1号墳(4C末~5C初)からは半島とのつながりを示す巴形銅器・筒形銅器が出土しており、車塚古墳群の被葬者は、数世代に渡って半島から工人・素材などを呼び寄せた。また、半島への軍事行動にも参加した可能性がある。(甲冑・鉄斧=鉞など)  渡来系工人としては交野忌寸(漢人庄員の後なり)などが候補として上がる。

 倭鍛冶を配置した森遺跡と対照的に韓鍛冶を配置した遺跡も多数見つかっている。そこには列島内でこれまで製作されていなかった鉄器に関する技術者を呼び寄せ配置したと思われる。北河内では先に取り上げた蔀屋北遺跡で出土した百済に系譜をもつ馬具などを製作していた工人がその代表といえよう。そのほか、森遺跡と同じ交野市倉治には6世紀後半に築造された清水谷古墳があり、加耶とのつながりのある竪穴系横穴式石室をもち、鉄滓を副葬している。『新選姓氏録』には渡来系として「交野忌寸」の名前がみえ、彼らの墓ではないかと考えられている。
①森遺跡の西端での調査。
②5C中頃と6C中~後の2時期の鍛冶炉。
③5C代の近くからは鋳造鉄斧や韓式土器が出土する。
①C型炉→6C中頃以降のもの。5世紀代は地下構造が焼土などであったが、こちらは粘土を貼っている。
②これが飛鳥時代以降の飛鳥池遺跡や難波宮などの鍛冶炉の形態につながる。
森遺跡の鍛冶工のその後
      1.森遺跡の鍛冶工は、6世紀後半以降、急速に衰退し、恐らくは
        飛鳥地域の官営工房に吸収されたのだろう。
      2.奈良時代には鍛冶造氏とみえ、改姓して守部氏となる。
        須弥寺を氏寺として建立。
      3.平安時代には交野郡司として守部氏がみえ、森遺跡一帯に
        三宅山荘園を構え、その後石清水八幡宮に寄進し、荘官となる。
まとめ  
       ・森遺跡において、2系統の鍛冶工人系譜が追える。
        親方層は倭鍛冶系譜だろう。
       ・倭鍛冶は瀬戸内海沿岸地域から古墳時代中期になって移住してきた。
        その伝承が磐船神社の伝承に投影されている。
       ・韓鍛冶も入ってきたと思われる。韓国島南部地域の可能性。
        北側の私部地区の遺跡においても確認。倭・韓でそれぞれ住み分けている。
       ・古墳時代後期に入ると、倭・韓鍛冶工の交流が行われ、後の官営工房へとつながる。
最後までご覧いただきまして有難うございます。

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