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平成30年度
交野古文化同好会総会・特別講演会
 青年の家 学びの館 午後1時30分~
  
29年度実施報告及び会計報告・監査
30年度行事予定・予算案ほか


2018.4.21(土) 
総会・講演会  
出席者40名(会員39名)
 総会は、伊東征八郎広報部長の司会で始まり、立花昇会長の開会の挨拶のあと、村田義朗事務局長が議長に指名されて議案審議に入り、29年度の古文化同好会の行事実施報告については高尾秀司企画事業部長より、会計報告は梶健治会計、会計監査は巽憲次郎会計監査役より提案され承認されました。
 30年度の立花会長のご挨拶に続いて、30年度行事予定は高尾部長、予算案は梶会計よりそれぞれ提案され承認されました。最後に、厚主弘副会長の閉会の挨拶により30年度総会は無事終了しました。

 引き続き記念講演会に移り、「神仏判然法の様相ー高鍋藩を中心にー」をテーマで後藤正人先生(和歌山大学名誉教授)をお招きしてご講演を頂戴しました。

 特に、今年は明治150年に当たり、明治初年度に行われた「神仏判然法の様相」について、後藤先生より、高鍋藩を中心に大変詳しく貴重なお話を頂き、当時を振り返る良い機会となり大変意義深い講演会となりました。

 講演会後、いろいろとWEBや参考図書(神々の明治維新)⇒を読み、明治維新とは何だったのかが、少しずつベールを剥ぐように分かりかけてきました。

 北河内地方・交野でも、沢山の石仏などが毀損されたり埋められたり捨て去られたとのこと、今回のご講演は高鍋藩のことが中心でしたが、当地での様相はどうであったのか、古文書などの研究者に是非ともお聞きしたいものです。

※神仏判然法(神仏分離法)とは、
 明治元年(1868年)、明治維新政府は神仏判然令(神仏分離令)を布告します。これは 江戸幕府が事実上の国教としていた仏教に代わって、神道を国教とするものでした。明治維新は 江戸時代後期以降の儒教や国学をその活動の精神的支柱として居り、復古神道に伴うものであったからです。明治政府の神仏分離政策は 必ずしも仏教を排斥するものでは有りませんでしたが、結果としては廃仏棄却運動が全国各地で吹き荒れてしまう事と成りました。 

 ※講演会の内容を掲載するに当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ関連の資料など
  参照させて頂き、記して感謝申し上げます。
  
なお、レジメをワードに打ち直しましたので、文字に誤りなどあればご容赦願います。 
 
立花会長のご挨拶
立花会長の挨拶(概要)

  平素は、交野古文化同好会の活動に対して何かとご協力ご支援を賜り厚く御礼申し上げます。
 
平成29年度の行事報告並びに会計決算報告のご承認、有難うございました。会則では役員の任期は2年間となっています。今年度は2年目で、2月3日(土)の役員会で、全役員と世話人の了承を得ています。議案書の9頁に、役員及び組織図を掲載しています。昨年の総会で名前とお顔を紹介済みですので、本日は省略させていただきます。

 さて、古文化同好会の活動の中心は、歴史健康ウォークと勉強会です。毎回20人から30人前後の参加者があります。昨年度の行事内容のページに参加者人数を載せていますが、「交野広報」を見て参加される会員外の数も、年間トータルでかなりの人数となります。

 その他、市文化祭での展示、布・藁草履作りと注連縄づくりは、市民へのアピール活動として実施しています。

 小学生対象の交野歴史かるた大会も、38回実施している活動です。
 かるた作成の意図として、

 ・子供の頃から、かるたを通して郷土の歴史に関心を持ってもらいたい。
 ・家庭内で、親から子へ、子から孫へと、良き交野の文化を語り継いで
  もらいたいという考えがあったように思います。

 「交野広報」4月号に、「住みたい、住み続けたいまちへ」というタイトルが載っていました。藤が尾小学校の東の田畑は既に整地されつつあります。星田北エリアは、今後開発が進んでいくことでしょう。市の生涯学習推進部では、文化財の保護として埋蔵文化財の調査を計画しているそうです。古文化同好会としても注目したいところです。

 交通や買い物の便利な町づくりも結構ですが、自然と触れあって、多くの人とゆっくり時の流れを楽しむ場も必要であろうかと思います。

 「月も美しい 花も美しい それに気づく心が美しい」私の好きな言葉です。

 4月7日(土)文化連盟代表者会議がありました。60ほどあるどの会も、高齢化が進み存続が危ぶまれています。教育長の挨拶の中に、今年の市文化祭には、もっと若い世代が参加できる取り組みが必要であろうという内容の言葉がありました。

 小学校でも地域の市団体でも、お呼びがかかればいつでも訪問して講話や出前授業をしていただく会員さんが複数居られます。声掛けがあれば、どんどんそれに答えたいと思っています。

 平成30年度の事業計画及び予算案も決定いたしました。会員の皆様方の一層のご協力・ご支援をどうぞよろしくお願い申し上げます。

交野古文化同好会・総会 議題
  1.日時  平成30年4月21日(土)  13:30~
  2.場所  学びの館
   総会次第
     1) 開会の挨拶
     2) 平成29年度の行事報告
     3) 平成29年度・会計決算報告
     4) 平成29年度・会計監査報告
     5) 平成30年度・会長挨拶
     6) 平成30年度の事業計画案及び予算案
     7) 閉会の挨拶


       総会後、特別講演会 演題「神仏判然の様相」
      講師; 後藤 正人先生(和歌山大学名誉教授)
 
平成30年度 交野古文化同好会 役員
会長 立花 昇
副会長 厚主 弘
吉岡 一秋
事務局長 村田 義朗
会計 梶 健治
会計監査 毛利信二
  巽 憲次郎  
企画事業部 部長 高尾 秀司
         副部長 崎山 竜男  
         副部長 木下 忠信  
広報部    部長 伊東征八郎 
             副部長 竹田 優梨
地域部    部長 厚主 弘(兼)
     私部地区 私部(1) 奥野 和夫
私部(2) *吉岡 一秋(兼)
私部(3) 梶 健治(兼)
     郡津地区 郡津 *巽 憲次郎(兼)
幾野 山下 東太郎
松塚・梅が枝 橘 美緒子
     倉治地区 倉治・神宮寺 *厚主 弘(兼)
     私市地区 私市 *平田 政信
天野ヶ原 高尾 秀司(兼)
森・寺 木村 陸司
     星田地区 星田 *立花 昇(兼)
藤が尾・妙見坂・妙見東 崎山 竜男(兼)
南星台・星田山手 毛利 信二(兼)
       *印は地区代表    (兼)は他の役職と兼務
 
平成30年度 交野古文化同好会 上期行事計画
行     事    内    容
4 7(土) *歴史健康ウォーク
 ★「月輪の滝から獅子窟寺へ」
   沢登りと修験道を歩く 健脚コース 

  京阪・私市駅 午前9時~12時  案内:村田義朗氏 
21(土) *平成30年度総会  議題:平成29年度事業・決算報告、
    平成30年度事業計画・予算案
 特別講演会 「神仏判然法・高鍋藩を中心に-明治150年-」 
  講師:後藤正人先生(和歌山大学名誉教授) 
 場所:青年の家・学びの館 午後1時30分 ~ 午後4時30分
5 12(土)
*バスツアー
(雨天決行)
滋賀県立
琵琶湖博物館
鴨稲荷古墳など
(案 内)
高島市歴史資料館
白井館長
 ★継体天皇のふるさとを訪ねる   案内:寺田政信氏
   募集人員 50名(定員に達し次第締切) ※弁当持参 
   ※参加者が40名に達しない場合は中止。    
  参加費  会員 5,000円 一般 5,500円 
            (当日徴収します) 
  集合・出発場所 午前8時30分(時間厳守) 
             焼肉久太郎駐車場
 ◎参加申込受付は、3/24~4/30まで 
       村田氏 電話/FAX 892-2326
26(土) *勉強会  ★ テーマ 「上ノ山遺跡」(縄文・弥生時代を探る)
 場所・学びの館      午前10時~12時  
  小林義孝氏  (元大阪府教育委員会) 
6 9(土) *歴史健康ウォーク  ★奈良・佐紀古墳群から平城宮跡を探訪 弁当持参
   JR河内磐船駅集合 午前9時
 近鉄・平城駅~神功皇后陵~成務・称徳天皇陵~平城宮跡
 近鉄・西大寺駅 15時解散    案内:高尾秀司氏
23(土) *勉強会  ★テーマ 「寺と仏像セミナーシリーズ」 =寺について=  
     午前10時~12時 学びの館  講師:高尾秀司氏
7 14(土) *歴史健康ウォーク  ★上ノ山遺跡周辺探訪 京阪・交野市駅西ロータリー集合
 午前9時 上ノ山遺跡~新天野川~釈尊寺~私部西墓地
   12時解散  案内:高尾秀司氏
21(土) *藁・布ぞうりつくり  ★市民対象  藁・布ぞうりつくり 午前9時~午後3時
 場所 ゆうゆうセンター 1Fロビー スタッフは午前9時集合
 ※7月14日(土) 藁ぞうり作り講習会
    松宝寺公園:午後1時30分
22(日) *無縁墓清掃  ★獅子窟寺の無縁墓の清掃   午前8時  王の墓集合
8 4(土) *役員会  ★30年度下期行事検討 午前10時~12時 青年の家206号
適宜 *無縁墓清掃  ★かいがけ道・郡南街道の無縁墓の清掃
9 11(火) *歴史健康ウォーク  ★交野市水道局見学  京阪私市駅集合 午前9時~12時
   吉向松月窯 ~ 水道局   案内:高尾秀司氏
22(土) *勉強会  ★テーマ「交野古文化同好会活動総まくり」石鏃とHPを活用
  午前10時~12時  学びの館   講師 立花 昇氏(会長)
●当該行事計画(案)に従って実施します。
 会員外の方は参加自由ですが、資料代200円を負担願います。
●各行事に参加される方は、直接会場又は集合場所にお集まりください。
  集合時間が過ぎると開始・出発します。
●歴史健康ウォークは小雨決行。
 参加される方は交通事故などに十分ご留意ください。会としては責任を負いません。

受付ご苦労様です!  崎山さん 厚主さん
 
 立花会長、 梶さん、 司会は伊東さん

高尾、村田、立花会長、梶、伊東さん

立花会長さん、 会計報告の梶さん
特別講演会
      神仏判然法の様相ー高鍋藩を中心にー       
           講師
 
後藤正人先生(和歌山大学名誉教授)

後藤正人先生(和歌山大学名誉教授)

 神仏判然法の様相ー高鍋藩を中心にー」レジメ
後藤正人先生(和歌山大学名誉教授)
<ご講演概要>

 1.研究史とテーマ
   1868年(慶応4年)3月17日(改元は9月8日)以来の神仏判然令に関する研究が
   沢山積み上げられたきたが、従来の研究では個別藩に即して神仏判然に関する検討が
   欠けている。
   明治初年の高鍋藩日記を中心に神仏判然の様相を分析する。

 2.1868年(慶応4・明治元年)における神仏判然の様相
   ① 主な神仏判然令について
   ② 当時における神仏判然の様相

 3.1869年(明治2年)8~12月における神仏判然の様相
 4.1870年(明治3年)1月~6月における神仏判然の様相
 5.1870年(明治3年)7月~9月における神仏判然の様相
 6.1870年(明治3年)10月~12月における神仏判然の様相

 7.まとめと課題
   ・高鍋藩は神道主義を藩政の一つの重要な政策とすべく、神道家・名波大年を雇い推進
   ・旧藩主の墓所を持つ、高鍋藩の最高寺院を2つとも廃止したことが、
    廃仏毀釈の先導的な役割を果たした。
   ・高鍋藩の3000名を超える農民一揆が勃発。
   ・高鍋藩での廃仏毀釈に対して、一般的に浄土真宗が反対したものはない。
   ・高鍋藩の独自の在り方を分析したが、全国的位置を検討することが課題。   
 〔交野古文化同好会2018=平成30年度総会・特別講演、同年4月21日〕

    
神仏判然法の様相―高鍋藩を中心に
        講師:後藤正人(和歌山大学名誉教授)


1.研究史とテーマ

 1868年(慶応4)3月17日(改元は9月8日)以来の神仏判然令に関して研究が積み上げられてきた。
 とりわけ辻善之助他編『明治維新神佛分離史料』全5巻(東方書院、1926~ 29年)は研究の基礎を築く史料集であった(1970年の復刻を経て、再編成されたものが『新編明治維新神仏分離史料』全10巻、名著出版、1983~ 84年)。 この史料に基づく研究が辻善之助「神佛分離の概観」である。
 これに依れば、松本藩では藩知事・戸田光則が1869年(明治2年)に自らの家に関係ある寺院を廃棄して領内へ範を示し、伊勢山田では新設渡会府の橋本高梁知事が伊勢神宮の神領地に一切の仏葬禁令を出し、住僧へ『檀徒総代と連署して、廃寺願書を差し出し」帰俗すべし、直に廃寺を願うものは士族に取り立て、寺院に属するものを持出すべし、猶予する場合は全て官没すると言い渡した。土佐では615寺のうち439か寺が廃寺となつた。廃仏が徹底され僧侶が多く兵員となり、金属類は大砲などに鋳直され、没収財産は軍事費になったという薩筆藩では1869年11月に全面的な廃寺令が出されている。隠岐、富山藩、佐渡、多度津藩、奈良、京都(方広寺、新京極周辺の寺院)などの特徴的な事例、及び神仏分離反対の激烈な動向も検討され、神仏分離の原因についても本居・平田派国学の影響などが具体的に挙げられていた。

 また圭室文雄「『新編 明治維新神仏分離史料』と『社寺取調類纂』ついて」(1984年)には、「江戸時代には仏教国教であったものが明治元年を境として、神道国教化へと大きく展開していくきっかけとなった。これこそが神仏分離のもつ歴史的意義の一つであった』との貴重な指摘を含む。

 安丸良夫・宮地正人校注『宗教と国家』(岩波書店、1988年)には、解題の安丸良夫「近代転換期における宗教と国家」では『神仏分離令は、単に神社から仏教色をとり除くことを意味していたのではなく、『皇国内宗門復古神道』というこの新たな国教体制樹立のための出発点をなす政策であつた」(503頁)という指摘、及び宮地正人「国家神道形成過程の問題点」には「地方官レヴェルの社寺合併・所属地処分の動きは明治五年(1972)三月の太政官布告一〇四号にも伺えるが、同年十一月、太政官布告三三四号により無檀無住の寺院は廃止され、跡地処置の儀は大蔵省に伺い出るべしとされるのである」(569頁)との指摘は重要である。
 本書には宮地正人作成『宗教関係法令一覧」(1868=慶応4年3月13日~1891=明治24年7月6日)が詳細な内容を有し、本報告でも引用する。

 なお、安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書、1979年)も有益な文献であり、本報告が割愛したキリシタン抑圧関係についても貴重な指摘が窺える。

 地域に即した研究では佐伯恵達『廃仏毀釈百年』(鉱脈社、2003年)がある。
第4章「廃仏毀釈」では、明治10年代に実態調査をしたという平部峡南『日向地誌』(日向地誌刊行会、1929年)に依つて、宮崎県の郡別・在所毎に廃寺名と廃寺数が挙げられているが、驚くべき数である。第5章『仏教弾圧と国家神道の百年」では、宮崎県総務課『宮崎県宗教年表』(1962年)に依つて、県内における神社の創建が紹介されている。

 佐伯氏の著書は主に文献に基づいて県下の廃仏毀釈の動向を検討した概説書である。薩摩の宮崎への廃仏毀釈の影響を指摘したのはある程度当てはまるが、個別藩の神仏判然の動向はどうであったのか、但し廃寺の年代が大雑把過ぎており、例えば高鍋藩知事家の菩提寺・龍雲寺と大龍寺の廃寺は、すでに『新編明治維新神佛分離史料』第十巻 九州・沖縄編(名著出版、1984)に明白な如く、1870年(明治3)11月25日付で伺いを立て、翌12月25日付で上申している。また諸県郡を旧薩摩藩と述べるのは誤りで、同郡には高鍋藩の村々が存在し、紹介された寺院には同藩の寺院が少なからず見受けられる。

 さらに1871年11月に「廃藩置県が断行され、宮崎県では美々津、都城の二県制が布かれ・・・これ以前までは、宮崎各地(旧藩を除く)で|ま、まだ平穏な日々でした」(169頁)という指摘や、宮崎地方の廃仏毀釈は1871年から1873年頃にかけてピークに達したという指摘は、個別藩に即した検討からすれば、妥当であろうか。とりわけ「日向高鍋藩寺院廃合神葬祭等の件」(『新編明治維新仏分離史料』第十巻九州・沖編、1984年)には貴重な史料を挙げているにも拘らず、検討されていない。これらの重要な問題については後に考察する。

 従来の研究では個別藩に即して神仏判然に関する検討が欠けている。具体的には、神社から如何にして寺号を抜き、住職を廃止し、仏像・仏具を取出したのか、これらの住職や仏像・仏具はどうなつたのであろうか。逆に寺院から神道を如何にして取出し、神社へ神主は如何にして設置されたのか。社人と神主の関係、神道指導者の雇入れ、神道と『皇学』との関係、藩校への神道学浸透の問題、大寺住職と還俗の問題、還俗した場合の身分(士族か卒族か)や苗字の問題、大寺境内地の取扱の問題、藩知事家と神道、位牌・墓所の行方や神殿の建設の問題など、興味深い課題が存在する。

 とりわけ近世の高鍋藩主(1~ 10代)の墓所は、高鍋城下では臨済宗・龍雲寺(3代、寺領100石、境内7反12歩、檀家212軒)、臨済宗・大龍寺(4・10代、寺領100石、境内3反27歩、檀家117軒)、六本本の浄土宗・崇厳寺(初代、2代)、練馬の臨済宗・広徳寺(5代)、麻布の臨済宗・光林寺(6、7、8、9代)であるが、旧藩主の菩提寺の住職をめぐってどのようなことが問題とされたのか、そして神仏判然によつて如何なる変化を蒙ったのか。

 法制史の問題でいえば、神仏判然令とその政策は「信教の自由」の成立の問題と如何なる関係を有したのかという重要な問題が横たわつているのである (注1)。

 神仏判然法との関わりで従来未検討であつた、明治初年の高鍋藩日記である「藩尾録1~ 4」を中心に分析する。即ち1868年から70年(明治3)12月までとなる。1970年代前半に調査した宮崎県立図書館寄託の藩日記(写真撮影及びコピーを通じた史料解読に依る)により時系列的に検討を加えていきたい (注2)。
  (注)
1 明治憲法第28条「信教の自由」の原理に日蓮宗不受不施派の法認問題があること、岡山藩における神社創建の問題を検討した(後藤正人『近代日本の法社会史』第2章「『信教の自由』の法社会史」(世界思想社、2003年)。
2 『藩尾録」を含む高鍋藩日記に現れた最下層身分の諸問題を、史料集・研究史上の誤りを指摘しつつ明らかにした。後藤編・刊『法社会史紀行』 4号(2017年)所収拙稿。
なお延岡藩百姓の逃散一揆をめぐる問題を検討している。後藤「逃散一揆と現代にいたる顕彰の法意識一南九州を対象とする百姓・幕藩関係をめぐって」(同上第4号)
2.1868年(慶応4・明治元)における神仏判然の様相

(1)主な神仏判然令について

1868年3月17日付で、神祗事務局から神仏判然に関して諸社へ以下のような通達があつた。

  諸国神社ノ別当・社僧等ヲ復飾セシメ僧位僧官ヲ返上セシム(神祇事務局 諸社)
今般王政復古旧弊御一洗被為在候二付諸国大小ノ神社二於テ僧形ニテ別当或ハ社僧杯卜相唱へ侯輩ハ復職被仰出候若シ復職ノ儀無余儀差支有之分ハ可申出候仍テ此段可相心得候事 但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ是迄ノ僧位僧官返上勿諭二候官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在侯間当今ノ処衣服ハ浄衣ニテ勤仕可致侯事
右ノ通相心得致復飾侯面々ハ届出可申者也

 この要点は、神社において僧形のまま別当或いは社僧と称している者は還俗を仰せ付ける。還俗に差し障りのある場合には申し出よ。還俗した者は僧位・僧官を返上することは勿論である。官位については追って沙汰があるので、この処は白い衣服で勤仕すべし。ここでは神社から僧侶の追放を目的とした。なお同年3月13日に王政復古、祭政一致、神祗官再興、全国の神社・神職の神祇官への付属といった宗教原則の布告が出されていたことは、五箇条の誓文が発布された前日に当たっていたことと共に、重要である。

なお同年3月28日付で神仏判然に関する法令が下された(割愛)。

更に同年4月10日付で次のような法令が発せられた。
神社中仏像仏具ヲ除却スルハ稟候措置セシメ社人僧侶共粗暴ノ行為勿ラシム(太政官仰出)
 諸国大小之神社中仏像ヲ以テ神体卜致シ又ハ本地杯卜唱へ仏像ヲ社前二掛或ハ鰐口梵仏具等差置候分ハ早々取除相改可申旨過日被 仰出侯然ル処旧来社人僧侶不相善氷炭之如ク侯二付今日二至り社人共俄二威権ヲ得陽二御趣意卜称シ実ハ私憤ヲ齎シ侯様之所業出来候テハ御政道ノ妨フ生シ候而巳ナラス紛擾ヲ引起可申ハ必然二候左様相成侯テハ実二不相済儀二付厚ク令顧慮緩急宣ヲ考へ穏二可取扱ハ勿論僧侶共二至り候テモ生業ノ道ヲ不失益国家之御用相立侯様精々可心掛候且神社中二有之候仏像仏具等取除候分タリトモー々取計向伺出御差図可受候若以来心得違致シ粗暴ノ振舞等於有之ハ屹度曲事可被 仰付候事 但 勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ伺出候上御沙汰可有之其余ノ社ハ裁判所鎮台領主地頭等へ委細可申出候事

 神社に仏像・仏具を除却するよう措置せしめ、社人・僧侶共に粗暴の行為をなからしめるという趣旨で、以下のことが明示された。

 諸国の神社に仏像を以て神体と致し、または本地垂迹と唱えて仏像を社前に懸け、或いは鰐口・梵(鐘か)・仏具などを差し置く場合は早急に取除き改めるよう過日仰出られたが、旧来社人・僧侶間が不和に付、今日に至り社人共は俄かに威権を得て、上からの御趣意と称し、実は私憤を晴らすような所業があっては御政道の妨げを生じるのみならず、紛擾を引き起こすこととなるのは必然である。そのようになっては実に相済まぬことなので、厚く顧慮せしめ、程好く取り扱うべきことは勿論、僧侶共に至っても生業を失わず、国家の御用に相立てるよう精々心がけるべきである。且神社に備えている仏像・仏具を取り除いたものは全て取計らい向きを伺い出、政府の指図を受けるべきである。もしも今後心得違いを致し粗暴の振る舞いがあった場合にはきっと処罰を仰せ付ける。但書は、先の3月28日付の内容と同一である。
 同年9月18日付で神仏混淆の禁令を発している。以上の4つの布令は藩日記には記録されていない。

(2)当時における神仏判然の様相

 1868年1月付で島津忠義から徳川慶喜追討の「御布告書」が出され、翌2月にはこれに対して藩主・秋月種殷は『御答書」(同時に布告文)を差出して、「王室に寇(あだ》なす者を誅戮」することを「神明(命)」に誓つている(「続々本藩実録13」2月1日条)。同月9日付で、藩内へ大政奉還がなされたことを報じ、出兵の覚悟を以て「天下奉公」を命じた(9日条)。また同月17日には薩摩藩士の名で日向国諸県郡下の旧幕府預所に対する火急の要請があり、高鍋藩はこの口上書の意味を承知する旨の返答をしている(17日条)。

 1867年には神仏判然を示す政策はとられていない(『続々本藩実録12」)。翌68年3月4日条(「続々本藩実録13」)には、比木神社は従来『真言宗持』であつたが、吟味の結果、「唯一神道持」(吉田神道)とされ、永友勘負が比木神社代請持を命じられた。中世以来神仏習合であつたがために長照寺号が廃止となり(廃寺)、「本地仏躰仏具」は日光院へ納められ、神領・寺領共に新輪番所付となった。閏4月16日条(『続々本藩実録14」)によれば、従来「修験持」であった冨田社は、吟味の末に「唯一神職持」となり、比木社人の壱岐出羽が代請持を命じられた。神領・境内・屋敷はそのまま附置かれたが、廃寺とされ、仏具は円実院へ引き渡された。
3. 1869年(明治2)8~12月における神仏判然の様相

 1869年6月には版籍奉還が行われ、高鍋藩主は知藩事とされた。「日向高鍋藩寺院廃合神葬祭等の件」によれば、9月10日付で太政官宛に3つの伺を提出した。

 第1は「微禄或ハ無檀ニテ難立行寺院ハ、本寺へ取結度事」(指令「伺ノ通異乱無之様可取分事」)、第2は「無住ノ寺院ハ、堂舎取除地所弓I払度事」(指令「伺之通」)、第3は「管内庶民二至ル迄、志次第葬祭式仏法ヲ相転シ、古典二基キ、神道二為致、邪宗調ノ儀ハ、役方ニテ厳重為取糺度事」(指令「伺之通』)である。第1は経営困難な寺院を廃寺とし、第2は何らかの咎により住職を追放して堂舎・仏像仏具・地所を投収し、仏葬から神葬へ替えることが可能となり、従って寺院の仏葬がなくなれば、経営が成り立たなくなるのである。

 藩は9月23日に神道主義を藩政の重要な政策の一つとして実行するべく、堺県の神道家・名波大年を雇い(「藩尾録1」9月2日条)、翌24日に大年はまず藩内の大小神祗を開かせ、仏具を取り除き、『御神躰を清潔ニ奉仕』し、同時に『皇学二取掛候存念」があるのだという。その為に早速「御神躰御改不相成候而ハー統修学手延相成可申旨』を永友宗鷹より申し出、神祗局参事よりも申し出たので、その取計を宗鷹へ達した(24日条)。

 10月4日に大年は城門や諸士の門戸に神仏混淆の「守符」を貼っていることを咎め、「皇京諸官人御内等ニハ」こうした守護札が決して存在しない、これは全く「武家文盲之俗弊」だと見做し、このような札は取捨てが命じられた。この結果、「不許僧尼触穢不浄之輩参入1といった掲札を門戸に貼り付けることが一統へ触れ出された。また「御書院講書』は1ヶ月両度に藩校教授によつて行われてきたが、以後は大年が10日の日に「皇書之講」を行い、26日の日に藩校教授が漢籍を講じるように改められた(4日条)。 10日に、壱岐藤男が数年皇学修業を経て進歩したというので、「皇学句読師」として「旦夕社人祭典・復古之助教」を申付けられ、勤役中は士族に任じられて1人扶持が与えられた。12に、藩は「全廃仏之筋」ではないが、秋月家始め「神道御取要相成」、「士族中并下々二至迄、奉体其意」、これを望む場合は『神葬勝手次第取計候様」一統へ達せられた(12日条)。23日に、大年は藩内の神社を取調べ、比木社に仏像2体・舞楽仮面1枚を発見、知藩事の命によつて城の大火に関する碑文を選んで箱裏面に作成し日高寺にすべて預けられた。同23日、皇学師・勝浦鞆雄が「古道蒙頌百部」を学校用に献上し、『御用立御備立思召」されて小倉半紙十束と蝋燭百挺が与えられた(23日条)。書名|ま久保季滋『古道訓蒙頌』(神道思想書、1868=安政5年)が正しい。

 11月1日には、藩知事への「御祝儀・御機嫌伺」が多少省略され、比木社等の9社神主と3ヶ寺以上には盃が下されることとした(1日条)。5日に、藩校助教が4名から2名に減らされたことに対して、規則では漢学のみを以て定めていたが、今後は皇学を加えたことにより、4名の助教の必要が訴えられ、結局採用されることとなつた(5日条)。6日に、祗園社を改めて八坂神社と唱え、祗国寺・十輪院と称していた住職が阿部年男と改名して(廃寺)、八坂神社神主と達せられた(6日条)。 12日に。名波大年と永友宗鷹の伺によつて『比木神社例祭前奉幣之神事次第」が定められ、大年・宗鷹の供奉などが挿入された(12日条)。

 12月16日に、葬式につき神葬或は儒葬執行の届書を簡略化するために、神葬か仏葬かを伍組毎に調べて申し出る旨、村目付へ触れ出された(16日条)。18日に、日光院が『復飾』(還俗)を命じられ、比木五社大明と神明宮の神主を兼ねることの達しがあった。また同日に比木大明神社料が現米8石となり、これまでの神料52石と寺料15石は引き揚げられた。
 さらに以下のような達があつた。神明宮祭礼料の1斗2升はこれまで通り、同神主へ比木輪番所居住が認められ、日光院は従来度々転住に付、引越の節は人足を貸し渡す。日光院の仏器や汁物等は本堂へ始末し、追つて引渡の命があるまで保管せよ。比木輪番所の汁物は神主へ引渡のこと、比木社の福智王は追って「御転宮」に付、従前7人社家は比本神主の差配ではないので、永友司が支配するものとする。永友宗鷹の比木社受持願を許可する。高月寺は無住に付、寺料37石5斗及び護摩料60石を引揚げる。また日光院には護摩料の米を2月後より手当料として下される(18日条)。これ迄は毎年正月に行っていた寺院の宗旨調べをこの節より廃上し、寺院へ差し出すに及ばないことを達していた(26日条)。
4. 1870(明治3)1月~ 6月における神仏判然の様相

 1月5日に、城内の八幡社・新納諸社の本社神主は永友司に、都野一ノ宮・野別府諸社の本社、「福島十三所院中諸社」の本社や、「衾田八幡諸県諸社」の本社にも神主がそれぞれ命じられた。神主はその掛の社人を全て支配し、伺・届など取次には添書を差出すこと、「家柄永神主二被命候訳ニハ無之」、「才力・学識有之者以人選、神主被命筈二侯」というのであった(「藩尾録2」1月5日条)。15日に、支配下の従来の社人・修験・真言僧・神社持の有無に拘らず、還俗・未還俗の者たちを悉皆取調べて帳面に記載して申出るように、三郷長及び福島へ申遣わした(15日条)。

 26日に、円実院が還俗して橋口年家と称し、知藩事先祖の神殿を建立するに付、橋口は神主を命じられ、神殿社料現米8石を家禄より下されることとなつた(26日条)。27日に名波大年は従来給米の取決めがなく、食事や用弁のために「小番」1人が付けられていたが、これが引揚げられて20人扶持、外に水夫1人が下され、更に『男計二而ハ介抱不行届二付」、高鍋町相模屋の娘「御附被置、朝夕膳部取扱、且裁縫迄一切引請、不自由無之様取計可申旨相達、右二付、参人扶持」が下された(27曰条)。

 2月6日に、人別帳作成は今後も「年中出入・生死・家内人数・年齢・名前」を書上げ、五人組頭へ集め(諸士などは別扱い)、毎年1月15日期限で人別方へ差出すことが定められた(6日条)。
 23日に、知藩事家の菩提寺・大龍寺の廻宗は『転変淫奔之上、不如法之風聞有之、且又射的相催」し、椎本郷の子供に傷を負わせ、さらに廻宗の悪事数箇条を宝福寺の看司(禅宗の寺務監督者)・禅亮が訴え出た。その内には証拠のないものもあったが、『旁御寺柄之住職江致不届二付」、住職取揚げ、福島の円盛院へ下転、科銭45貫文を30日以内に上納申し付けられた。同じく知藩事家の菩提寺・龍雲寺の住職(鈴嶺)は銀嶺寺へ『婦人両三日滞在為致、御寺柄ハ勿論、本寺之身分として不届二付」、住職取揚げ、福島の善栖庵へ下転、科銭40貫文を同様に申し付けられた。曹洞宗・太平寺の良権は他所へ婦人を滞在させ、「且ッ買入候約定致候風聞も有之」、寺柄も憚らず不埒に付、40日逼塞を命じられた。
 知藩事家は葬祭に付、仏法を止めて神葬祭にしたので神殿造営となり、落成の上は「兼而願立之次第も」あるので、安養寺(境内7反4畝12歩、寺領100石、檀家191軒)の住職・等誉の隠居も許可する。但し老年まで務めて大儀を致した故に生涯3人扶持を下され、一家を興す考えもあるので養子を願う際には、この扶持の内、現米5石を相続の者へ下され、「永代可被加候間」、考えの程を申出るよう大参事より達があつた。

 更に①大龍寺と龍雲寺へ対して、藩知事家の位牌は神殿完成まで安養寺へ安置することとなつたので、安養寺は供養などのことを勤めるよう命じられ、大龍寺と龍雲寺の従来の仏供料は知藩事家より安養寺へ宛行うことも達せられた。
 ②神殿『成功」の上は、「御位牌御葬之事」とされた。
 ③上記の3ヶ寺の檀家の位牌は各家へ持帰り、仏祭を望む者は帰依する寺へ差置くことは苦しからぎる旨布告する。
 ④大龍寺・龍雲寺の本尊諸仏は仏器と併せて檀家の祠堂へ当分始末する旨を安養寺へ達する。
 ⑤墓守を大龍寺と龍雲寺に置き、社家または士族老人の内、2人を選び、知藩事家より扶持を与える(以上、23日条)。

 3月12日に、門徒宗の称古寺より「当宗旨之儀ハ兼而武術相嗜居」り、何時でも御用立てのことなくてはならない家柄なので、武術修業を願い出た。当時1人でも兵員を増さなくてはならぬというので、願の通り許許可し、武術の際には兵員の服を用い、その余は法衣を用いるよう達した(12日条)。4月7目に、藩校の神事及び開講式があり、3局の承事以上、家令・家扶は直垂を召して卯半刻より詰め、学校並びに兵賦局教官は上下にて出勤し、清祓式には皇学教授・名波大年が清祓を行い、承事以上は上ノ間へ、教官は四ノ間へ詰めた。最後に名波大年が帯剣をして講席へ出て『出雲国造神寿言、日高儀一論語学而篤開講終」った(7日条)。

 昨年12月18日に六本本の崇厳寺(初代・2代藩主墓所))へ、来たる1871(明治4)年より廃寺となり、住持を還俗、士族に申し付けられ、米4石(内、3石が藩より、1石が知藩事家より)が宛行われて墓守が命じられ、但し家作はそのまま遣わされる旨が達せられた。これに対して、3年正月付で崇厳寺から御屋敷御役人衆中宛に嘆顧書が出れた。

 ①御一新の折柄、拠無い次第ではあるが、拙寺も90年の開、崇厳院殿(2代種春)「尊霊様方之御余光ヲ以』って数代の住持は勿論、院内僕従に至るまで、「御屋敷之忍ロニ依、安置永継」してきたことを謝しつつ、今般の寺号廃絶・復飾の御趣意に付、年来僧法を守ってきたのであり、今さら弘祖に対して不快に存じ、世間に先んじて復飾することは実に愧入るばかりである。寺号廃上の儀も同門の寺院に対して不穏と考えるので、この2つの処置は格別の取扱を以て猶予下され度、また位牌安置の儀、数年来崇敬も申上げ、今さら取片付けを仰せられては「拙僧住職以来御崇敬奉申上候儀も水之泡と相成」、何卒これまで通り安置できるよう評議をお願いしたい。

 ② この度の扶持につき、有難く思うと共に、時節柄「諸藩共之仏騰之折柄」、活計も立ち難く、御憐憫の程を切にお願いしたい。

 ③拙寺は年貢地で5、8、10月の3度上納を続けてきたが、最近は不行届きとなり、苦心している有様である。これまた御鱗憫の程を願うばかりである。この請書(同年3月付)も「高鍋様御役人衆中」宛に出されている。この嘆願を受けた藩庁は、同3年12月(?)付で、寺号の存続を当職一代限りとし、その他は全て昨冬に命じた達りとした。崇厳寺の請書(「高鍋様御役人衆中」宛、同3年2月付)では、寺号廃止・復飾の儀は当職限り聞届けられたことを感謝し、別紙絵図面を差出して「境内惣地坪之内、壇方墓所地坪徐之境内御年貢上納分」を「御屋敷」が負担することを謝していた(似上、4月8日条)。

 同月12日に、元大龍寺住職・廻宗を福島の円成院へ下転するように達したが、円成院は檀家もやや遠く、寺役勤め難い旨と、医師の「容体書」とを添えて、隠居願を提出して許可され、安養寺を召呼び達した。同じく元龍雲寺住職・鈴嶺を福島の禅栖庵へ下転するように達したが、「疝情之症二而腰痛・脚疾痛之趣」があり、医師の容体書を添え、隠居願を提出して許可され、安養寺を召呼び申達された(12日条)。21日に、葬祭式2冊と図面が達せられて心得べきこととされた。葬祭は人道上大切なことであり、「其家々の貧富二従ひ、可成丈入念取計可申」とされ、葬祭の書物も種々あるが、「彼是折哀斟酌或ハ神儒折衷、或ハ儒葬祭相用候儀当局ハ勝手次第取計候様」各方面に達した(21日条)。

 6月10日条に「那和(名波)大年介抱人」を町人より罷り出し、「万端妾同様之心得旨」を当局から達し置かれたが、「雨中土足着類、町人持前之処二而ハ不都合二付」、以前御奥にも召仕した米屋里という女が「御末永々相勤御茶之間江被召仕候砌ヨリ 入帯等相用侯儀も有之候間、以来士族妾二準シ下駄着類等も不苦旨相達」した。21日に、願い出により「安養寺内南ヨリ」1、2、4番の屋敷地が3名の士族へ、「龍雲寺南ヨリ」1、2、3番の屋敷地が3名の士族へ居屋敷として下付された(12日条)。
5. 1870年(明治3)7~ 9月における神仏判然の様相

 8月2日条に依れば、大平寺は「御目見御盃、本領三人扶持、屋敷三畝拾式歩、田弐段六畝参歩」であったが、住職が病死となり、無住となつたので廃寺とされた。藩校規則の内、「皇書」を「漢籍二可比繰替試業之儀」は伺の通り沙汰が下り、書名の儀は追って取調べて申出ることとなつた(13日条)。書道修行を目指した川崎乾一郎の伜・磐見が藩校へ入寮し半給を与えられたが、「書家業之一旦成丈皇学修業候様」命じられ、荒川善躬など5名は皇学所へ入寮、半給が与えられ、皇学修業を命じられた(15日条)。
 21日条に依れば、元日光院の神林実男は先達て復飾願を許可され、その後に永代士族へ召立てられて家屋敷が与えられ、屋敷1反は拝領となつたが、その余は銀納となった。橋口年家は先達て復飾が許可されて永代士族となり、家屋敷がそのまま与えられ、屋敷1反は拝領となつたが、その余は銀納となつた(27日条)。
 とりわけ9月21日に、朝藩政府から明治天皇誕生日の9月22日を休日として、「以来毎年御藩中諸役場始一統致休日候様可相心得候事」と命じられ、藩政庁もこのように達した(21日条)。
6. 1870年(明治3)10~ 12月における神仏判然の様相

 10月11日に永友宗鷹(比木社受持)と壱岐菅男(宮田神主)が「朝廷御書上ヶ之神明帳調方」に任命された。以下の福島の寺院は復飾を願い出て処置された。昌福寺と就源寺が御目見以上の住職であるという理由で1代士族・1人半扶持となり、家屋敷がその侭与えられ、屋敷は銀納となつた(「藩梶録4」10月11日条)。政府より2月23日付で各藩へ藩政改革後に決定した職制・諸局の規則・判任官以上の官員名、及び管内の社寺・農商の制法書に至るまで至急提出を命じており、国元では社寺・農商の法制に付、取調べて送つた(25日条)。

 11月2日には、藩学校の生徒を以下のように区分した。第1等は古語拾遺(斎部広成)、万葉集壱弐之巻、祝詞正訓(平田篤胤)、皇典文彙(同)、詩経、書経、易、春秋、第2等は神代正語(本居宣長)、神代阿志か比、大学、論語、中庸、句読切り、第3等は直比ノ玉(本居宣長「直毘霊)、玉峰国育、孝経、小学の各試験に受かった者とされた(2日条)。藩は「皇道」を敷くために、高鍋町と美々津町を誘い、御仮屋において美々津を立ち上がらせたく、名波大年に講義を、永友宗鷹と壱岐菅男(前出・菅夫)へ代講を命じ、藩校へ貴賤男女に限らず空席を聞き糺すように、各方面へ達している(10日条)。
 11日には、「御先霊様近々神殿江御移」に付、今後は年々御祭がある筈なので、この節は御遷宮御式を行い、その後は御祭礼の節は勿諭、平日にても藩中勝手次第に参詣を許可されるので、この旨を権大属以上へ達している(11日条)。
 17日には、御神殿御遷宮のために御供御雇、火焼長士・御釼持など8つの役職に13名の雇が命じられた(17日条)。民事事務(全15件のうちに「社寺之事」あり)及び会計事務(全17件)に付、「朝規二法り伺済、治定相成」という(21日条)。
 藩は同11月25日付で太政官へ次のような伺を提出し、12月25日付で指令を受け取つている。
 管内寺院藩ノ適宜二寄、追々相廃候テ不苦御座候哉、其節ハ御届可仕儀二御座候哉、此段奉伺侯、以上(指令「法類寺檀申合事故無之分ハ、廃寺聞届、檀家ハ最寄同宗ノ寺院へ合併可申付、尤廃寺号朱印地之有無境内之広狭共取調、跡地所ノ分見込更二可伺出侯事」) <前掲「日向高鍋藩寺院廃合神葬等の件」より>

 まず領内寺院の廃寺は藩の判断によって行って宣しいか、その際は届が必要であるかを伺つている。太政官の指令は、『法類寺檀」の申し合わせに支障がない場合は廃寺を認め、檀家は最寄りの同宗寺院へ合併を申し付け、ただし廃寺が朱印地かどうか、面積の多少を取り調べ、跡地め処分見込みにつき、さらに伺い出るべきことを達している。また廃寺による支障の有無に付、その判断を全く藩に任せ、檀家の処置と、廃寺が朱印地かどうか、廃寺の面積や処分に関心を寄せていたことが判明する。ここに現れた朝藩権力の廃寺処置には近代的な「信教の自由」の萌芽すら窺うことは困難である。

 12月15日条には、皇学師・勝浦鞆雄は現米12石を与えられて藩校助教となり、従来の3人扶持は引揚げられた。23日条に依れば、学校にて植松常男の「医学」、勝浦鞆雄の「皇学」講義を知藩事が「上覧」した。27日には大祓(古来は6・12月晦日に万民の罪穢を祓った神事)議つた神動、正月元日や5日の祭式の節、勝浦が行うことを命じられ、この3日間、官員以上は直垂上下にて出庁するように達せられた(27日条)。

 藩政庁は12月25日付で太政官へ以下のような伺いを立て、さらに上申した。「管内寺院ノ内、藩ノ適宜二寄り、別冊ノ通相廃候間、此段御聞届仕候、尤境内徐(地脱か)山林或ハ反別其外等ノ儀ハ、追テ見込相付ケ、御伺可申上候、以上」、「管内寺院本末寺号等、雛形ノ通細詳取調可申出旨、七月中民部省ヨリ御達相成居候間、則別冊ノ通取調差上申候、以上」<前掲『日向高鍋藩寺院廃合神葬の件」より>。

 藩政庁は驚くべき廃寺の有様を届けているが、境内徐地や山林・反別など追つて届けるべきかを伺い、これらの廃寺について本末関係や寺号などを民部省の達に合わせて上申した。これに依れば、古義真言宗の地福寺を含む15ヶ寺、臨済宗妙心寺派の龍雲寺、大龍寺を含む20ヶ寺、曹洞宗永平寺派の大平寺を含む14ヶ寺、浄土宗鎮西派の安養寺を含む11ヶ寺、時宗昌福寺1ヶ寺、一向島宗西本顧寺派の称専寺を倉む7ヶ寺、新義真言宗の高月寺を含む19ヶ寺の計87ヶ寺である。

 廃寺の理由は、地福寺では「知事代々祈願所ノ処、仏祭相止侯二付」、龍雲寺では「知事代々菩提寺ノ処、本葬祭執行井檀家同断仏祭不用候二付」(大龍寺も同断)、大平寺では「檀家本葬祭執行仏葬祭不用且ツ無住二付」、安養寺では「知事菩提寺ノ処本葬祭執行檀家同断、仏葬祭不用二付」、高月寺では「知事祈願所ノ処、仏祭一切相止侯二付」とのことで、いずれの場合も事実とは異なつていた。
7. まとめと課題

 高鍋藩では、神仏判然令が公布される1868年(慶応4)3月17日以前の同年3月4日には神仏判然政策が始動し、越後出兵による戦死者のための招魂碑や葬祭をめぐって神道の一定の浸透が認められた。翌1869年2月の版籍奉還以後、同年9月に神道主義を藩攻の一つの重要な政策とするべく、神道家・名波大年を雇い、大年は藩内の大小神祇を開いて仏具を取り出し、「神躰を清潔二奉仕」し、かつ「皇学二取掛候存念」があつた。大年を支える藩内の神道家は勢力を増し、藩学校にも影響を及ぼしていった。やがて大年は「皇学教授」となり、朱子学を中心とする藩学校を次第に「皇学」中心へもって行こうとした。

 神仏判然令の機能を見ると、藩にとって重要な寺院であった日光院に還俗を命じ、いきなり神社の神主を命じている。有力寺院である円実院も還俗して橋口年家と称して、知藩事先祖の神殿の神主を命じられた。重要な寺院である安養寺は隠居も許可されており、彼らには一定の給付が支給された。また旧蕃主の墓所がある大龍寺と龍雲寺の住職は、前者が「転変淫奔之上、不如法之風聞有之、且又射的相催」などの理由で、後者は「婦入両三日滞在為致、・・・本寺之身分として不届二付」との理由で、それぞれ住職取り上げ、科銭が課せられ、地方寺院へ「下転」となった。やがて両者は医師の「容体書」を添えて隠居願を提出して許可された。なお、高鍋藩でも軍事費調達を急務としているので、寺院抑圧による種々の財源捻出は重要な一つの要因となったものと考えられる。こうして旧領主の墓所を持つ、高鍋藩の最高寺院が2つとも廃止されたのである。

 龍雲寺や安養寺の旧境内の一部が士族たちに下付されたということについては、1872年(明治5)9・10月に勃発した高鍋藩の3千名を超える農民一撲と一定の関連があるのではないか、即ちこの農民一揆では村ぐるみを基礎としつつ、横断的な村々の緩やかな連合体が「方今廃藩置県トナリ藩士族ノ知行所ハ、悉皆百姓ノ田地トナサンコトヲ謀り』(小寺鉄之助編著『宮崎県百姓一撲史料』宮崎県史料編纂会、1956年に所収高鍋藩吉田西州覚書」)と述べるような状況が見られたからである。

 この農民一揆を藩政庁は一方では旧藩士たちの協力を得て弾圧し、他方では密偵を利用して「巨魁」を捕えている。この「一揆指導者」は懲役10年の刑に処せられたが、「税額減少ノ儀訴出度侯得共」(同上所収、「司法省願伺届 宮崎県」)と「租税軽減」を述べていたことは注目されてよい。

 廃寺となつた一般の寺院は寺領が引き上げられ、住機は還俗し、屋敷は銀納となるが、苗字や家屋敷の所持が認められた。しかし禅宗の看事や、寺番は帰農が命じられ、60歳以上の場合には養育料1人扶持が与えられた。要するに廃寺となつた場合は、単に住職が追放となるのではなく、一般に苗字、身分(士族ないし卒族)、扶持米や、元の家屋敷が与えられたのである。こうした処置は廃仏毀釈に拍車を掛けることになつた。

 高鍋藩の廃仏毀釈の特徴は、第1に旧藩主の墓所のある龍雲寺と大龍寺の住職の「非行」を理由として追放され、無住の状態を作り出し、朝藩政府へは「本葬祭執行檀家同断佛葬祭不用候二付」ということを廃寺の理由とされ、これらの大寺の廃寺が廃仏毀釈の先導的役割を果たしたこと、第2に廃仏毀釈の大勢は1868年3月から1870年8明治3)末の間、即ち廃藩置県の以前に決していたことである。高鍋藩の廃仏毀釈は、独特の政策意図が貫かれた成功例の一つであると言えよう。第3に神仏判然令・廃仏毀釈は幕藩体制を支えた一つである仏教寺院の特権(特に宗旨人別調べ)を剥奪したが、生れ出る近代天皇制を支える神道に特権を与えたが故に、近代的な「信教の自由」の成立には程遠いものとなつた。但し高鍋藩に対する薩摩藩の影響を指摘することは容易いが、以上に見たように神仏判然令をめぐる高鍋藩は独自な動向を示していたものと考えられる。

 神仏判然法、及び廃仏毀釈に対して、一般に浄土真宗が反対・撤廃運動に熱心だったことが言われているが、こうした動向は藩日記には現れていなかった。すでに検討したように、浄土真宗の1寺院から「当宗旨之儀ハ兼而武術相嗜居」り、藩に御用立てすべき家柄なので、武術修行を願い出、藩は軍備拡張の時節であり、許可したのであった。従つて高鍋藩では浄土真宗が神仏判然令や廃仏毀釈に一般的に反対したものとは考え難い。

 今後の課題として、第1は史料上の問題である。『藩日記」、即ち1868年(慶応4・明治元年)始めから1870年末までの「藩尾録1~ 4」を中心に用いたが、1869年1月から7月末まで、及び1871年1月から7月の廃藩置県までの「藩尾録」が何故か欠けている。この欠落した期間における藩日記を検討することができれば、「高鍋藩日記に現れた神仏判然法と政策」の全面的な姿が判明するに違いない。

 第2に朝藩政府の法令と高鍋藩を結ぶ人物として、天皇侍読や公議所議長・大学大監に就いていた秋月種樹(たねたつ、藩知事養子)を考えることが出来るが、具体的な役割の究明は重要である。

 第3は、神仏判然法の動向の比較史的研究である。高鍋藩を西南型として薩摩藩と単に同一のものと捉えるのではなく、独自の在り方を示していると分析したのであるが、さらに全国的位置を検討することも課題となるものと考えられる。

<注>
1 明治憲法第28条「信教の自由」の原理に日蓮宗不受不施派の法認問題があること、岡山藩における神社創建の問題を検討した(後藤正人『近代日本の法社会史』第2章「『信教の自由』の法社会史」(世界思想社、2003年)。
2 『藩尾録」を含む高鍋藩日記に現れた最下層身分の諸問題を、史料集・研究史上の誤りを指摘しつつ明らかにした。後藤編・刊『法社会史紀行』 4号(2017年)所収拙稿。
なお延岡藩百姓の逃散一揆をめぐる問題を検討している。後藤「逃散一揆と現代にいたる顕彰の法意識一南九州を対象とする百姓・幕藩関係をめぐって」(同上第4号)
 秋月家墓地
WEBより参照させていただきました。
 高鍋藩主(秋月)の菩提寺(ぼだいじ)は大龍寺、安養寺、龍雲寺の3つで、舞鶴城公園の北の山にありました。 今はその寺はなくなっていて、境内 (けいだい)に歴代藩主と一族の家臣の墓があります。
大龍寺は明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりました。 龍雲寺は江戸時代から明治4年 (1871年)まであった曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院です。
 「秋月墓地」は宮崎県児湯郡高鍋町大字上江にあります。
 
中央は「高鍋藩 2代藩主 秋月種春の墓」です。 左は11代 秋月種樹の墓です。
 
「高鍋藩 10代藩主秋月種殷公の弟の秋月種樹の墓
 
秋月墓地は山の中腹にあります
 
秋月家墓地案内図  
大龍寺墓地  安養寺墓地 龍雲寺墓地
 
参  考  事  項 
以下に掲げる関連事項は、Webや資料から抽出したもので参考にされたい。
 【神仏判然令】 しんぶつはんぜんれい
 明治元年 (1868) 3月 27日の太政官布告によって,従来あった神仏習合の風をこわそうとした維新政府の政策をいう。この政策から仏教を排撃し,神道を極度に重んじようとする過激な廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく) 運動が起った。
 神仏分離(しんぶつぶんり)とは?

  神仏判然ともいい、主として明治維新直後に行われた新政府による神仏習合(しゅうごう)の禁止と両者の分離を図る宗教政策をいう。
 仏教伝来以来、神道(しんとう)は1000年余にわたって徐々に仏教と習合し、長らく神仏習合(神仏混淆(こんこう))の時代が続いた。近世になると儒学や国学の排仏思想によって、神道から仏教色を排除する動きが出現し、水戸藩(茨城県)や岡山藩、会津藩(福島県)で地域的な神仏分離が行われた。この排仏意識は幕末に至っていっそう強まり、水戸藩や薩摩(さつま)藩(鹿児島県)では過激な寺院整理が行われた。また石見(いわみ)国(島根県)津和野(つわの)藩でも最後の藩主亀井茲監(これみ)によって独自の神社・寺院改革が行われ、維新政府の宗教政策の青写真となった。

 維新政府は神祇官(じんぎかん)を再興して祭政一致の制度を実現しようと、この津和野藩藩主亀井茲監や福羽美静(ふくばびせい)、大国隆正(おおくにたかまさ)を登用し、最初の宗教政策ともいえる神仏分離を全国的に展開させた。まず1868年(慶応4)3月17日、神祇事務局は、諸国神社に仕える僧形(そうぎょう)の別当(べっとう)・社僧に復飾(還俗(げんぞく))を命じ、ついで28日太政官(だじょうかん)は神仏分離令(神仏判然令)を発して、(1)権現(ごんげん)などの仏語を神号とする神社の調査、(2)仏像を神体とすることの禁止、を全国に布告した。

 これ以後全国の神仏混淆神社から仏教色がすべて排除されるが、近江(おうみ)(滋賀県)日吉(ひえ)山王社のように過激な神仏分離が多発したので、太政官は同年4月10日には、神仏分離の実施には慎重を期すよう命じた。しかし、政府の威令がいまだ行き届かず、苗木(なえぎ)藩(岐阜県)や富山藩などの各藩や政府直轄地では、地方官がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を進めたため、寺院の統廃合など神仏分離を超えた廃仏棄釈(きしゃく)とよばれる事態が1874年(明治7)ごろまで続いた。
 神仏習合【しんぶつしゅうごう】
 神仏混淆(こんこう)とも。神と仏とを調和させ,同一視する思想で,神道と仏教の同化を示すもの。奈良時代に起源をもち,神宮寺の建立が行われ,神のための納経があった。平安初期には神前読経や神に菩薩号をつけるようになった(八幡大菩薩など)。中期になると,習合思想は濃くなり,本地垂迹(ほんじすいじゃく)の思想が成立し,神に権現(ごんげん)(仮の姿の意)の称号が与えられた。また,神の解脱(げだつ)を祈念して建てられた神宮寺に,逆に鎮守を設ける風も生じた。本地垂迹思想の進展により,天台では山王一実神道,真言では両部(りょうぶ)神道が成立し,鎌倉時代にかけて垂迹美術が多く作られた。江戸時代には国学の隆盛に伴い,復古神道などが提唱されたが,民間における習合思潮は変化せず,明治維新の神仏分離の政策まで続いた。

【廃仏毀釈】 はいぶつ‐きしゃく
 《仏教を廃し釈迦(しゃか)の教えを棄却する意》明治政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教の排斥運動。明治元年(1868)神仏分離令発布とともに、仏堂・仏像・仏具・経巻などに対する破壊が各地で行われた。
 【神宮寺】じんぐうじ
 神社に付属して建てられた寺院。神仏習合思想の現れで、社僧(別当)が神社の祭祀さいしを仏式で挙行した。1868年(明治1)の神仏分離令により廃絶または分離。宮寺。別当寺。神護寺。神宮院。神願寺。

【社僧】しゃそう
 神仏習合の時代に、神宮寺(じんぐうじ)にいて仏事をつかさどった僧。別当・検校(けんぎょう)・勾当(こうとう)などの階級があり、神職の上位にいて権力を振るったこともある。奈良末期に始まり、明治元年(1868)廃止。宮僧(くそう)。
 【還俗】げんぞく
 出家した者がふたたび俗人に戻ること。帰俗(きぞく)、復飾(ふくしょく)ともいう。還俗には自発的なものと官命によるものとがある。

【祭政一致】さいせいいっち
 祭祀の主宰者と政治上の権力者が同一であること。また、そのような思想および政治形態。古代国家などに多くみられる。
 復古神道【ふっこしんとう】
 江戸後期の国学者,ことに本居宣長らによって唱えられた神道説で,国学の宗教的側面を成す。平田篤胤によって発展大成し,尊王攘夷運動の中核的イデオロギーとなる。記紀などの古典に立脚し,儒仏を排し,国体の尊厳を称揚した。明治維新の重要な思想的側面を形成し,神仏分離,廃仏毀釈(きしゃく)を経て,神道国教化を推進。→国家神道

神祇省
 1871年(明治4)神祇官を改称し、太政官の下に設置された官庁。神祇・祭祀さいしのことをつかさどった。翌年、廃止。

【太政官布告】だじょうかん‐ふこく
 明治初年、太政官が公布した法令の形式。明治19年(1886)公文式の制定により廃止

【版籍奉還】はんせきほうかん
 明治維新後も存続した諸藩主が明治2 (1869) 年土地 (版) と人民 (籍) に対する支配権を朝廷に返還したこと。

【廃藩置県】はいはんちけん
 明治4 (1871) 年7月,封建割拠の基となる藩を廃し,府県に改めることにより,封建制度が廃止され,日本が近代的集権国家体制となったこと。

【知藩事】ちはんじ
 明治新政府の官職名。明治2 (1869) 年6月 17日の版籍奉還の結果,これまでの藩主はすべて明治新政府によって知事に任命された。その新職名を知藩事といった (藩名を冠するときは何々藩知事という) 。知藩事の職責は,所轄藩内の人口,戸籍,社寺を司り,租税を収めさせ,刑罰権を有し,藩兵を管理するなどであった。なお,知藩事の禄高は,同3年9月の禄制整理により,封地実収高の 10分の1に減らされた。同4年7月 14日廃藩置県とともに廃止され,以後は政府の任命する県知事が行政にあたり,旧知藩事はすべて東京に在任を命じられた。
 安丸良夫著「神々の明治維新」 岩波新書・842円。
 
 以下は、読者が上記の本を読んだ感想などをWEBより集めてみました。
 今回の講演会に関連して、いろいろな面で参考になると思います。
 今までに知ったこと、知らなかったこと多々あります。
 先に読んだ安丸良夫『現代日本思想論』(岩波現代文庫)があまりに良かったので、同じ著者の『神々の明治維新』(岩波新書)を読む。副題が「神仏分離と廃仏毀釈」、36年前に初版が出版されたものだ。

 明治維新の前後から国学の影響で神道関係者が力を持ち、 神仏分離と廃仏毀釈の運動を進めるようになった。維新政府が成立してからは、その中枢に働きかけ神道を日本の国教とするよう運動する。江戸時代まで神社には寺院も併設されており、むしろ寺院の力の方が強かった。

 明治維新後、神仏分離の布告が出されたりして、また明治政府成立の混乱に伴って、地方などで過激な廃仏毀釈が実行されていく。津和野藩では明治維新直前に行われたが、明治元年以降に強力な廃仏毀釈が行われた地方は、隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩、苗木藩、富山藩、松本藩などだった。仏教を排撃し、寺院を襲って仏像仏具などを破壊し、家々の仏壇などもすべて破壊した。寺院も廃滅した。路傍の石仏、庚申塚などもことごとく破壊した。すさまじい破壊だった。僧は還俗させた。

 もっとも抵抗したのは真宗門徒だった。真宗僧俗が一貫して廃仏毀釈に抵抗し、その運動によって行き過ぎた廃仏毀釈への反省が生まれ、狂信的な廃仏運動が下火になった。

 最後に安丸は書く。神仏分離以下の諸政策は、国民的規模での意識統合の試みとしては、企図の壮大さに比して、内容的にはお粗末で独善的、結果は失敗だったともいえよう。しかし、国体神学の信奉者たちとこれらの諸政策とは、国家的課題にあわせて人々の意識を編成替えするという課題を、否応ない強烈さで人々の前に提示してみせた、と。

 結果は失敗だったとはいえ、神仏並存だった多くの寺社で分離が行われ、たくさんの神社が独立したことは事実だった。松本には長野の善光寺に匹敵するほどの寺院があったが、打ち壊されて現在は鐘楼くらいしか残されていない。
 近代国家形成の過程で、神道国教化政策が採られ、民俗信仰が抑圧されていく。神仏分離とは、それまでの混沌とした民衆的信仰形態を、神道の元に一元化していこうという動きであり、そこでは民衆の日常的生活にも多大なる影響を与えたという。

 本書では維新以前の江戸期の排仏論、キリシタン禁制などを参照しつつ、宗教という国家にとっての厄介な代物についての分析から始めている。本書はその意味で宗教と政治の微妙な関係の歴史でもある。

 著者は、明治政府が王政復古を打ち出した理由として、クーデター政権であった維新政府が自身の権威を正当化するために、幼い明治天皇を擁立し神権的天皇制のイデオロギーを利用した、という。ここで、あくまで神道を政治利用の手段とした政府の中心人物たちと、復古の幻想を抱く国学者や神道家たちとのあいだには、温度差があった。この差は、じっさいに神仏分離令の運用の場で、政府と神道家たちとのあいだの対立を招いている。

 慶応四年の神仏分離の諸布告で、神道家の急進派の集団が日吉山王社に押し入り、力づくで廃仏毀釈を実行するという事件が起きている。この事件は、政府にとっても尚早であり、また民衆にとっても恐怖と不安を植え付ける結果となった。神仏分離政策においては、国学などの隆盛もあって、それまでの仏教上位の環境に対する強い不満を抱く神道家と、過激な展開を望んでいるわけではない政府と、宗教生活の転換に直面する民衆という三者が存在している。農民たちは神仏分離のなかで自らの生活の土台の変化におびえ、山門擁護のために蜂起するなどの事件まで起こしている。

 初期の時点では神仏分離を速やかに推進することができたのは、一部の神道系の勢力が強いところに限られていた。

 また、仏教側では、政府の一連の政策に危機感を抱いていたが、そのとき政府に対して、仏教はこれまで民衆教化の実績があるから、神道を基本とする教諭を行うこと、キリスト教から民衆を守ることなどの役目を国家から承認されることを求めている。

 その後、神仏分離、廃仏毀釈政策が進展していくなかで、民衆生活において起こったことを、著者はこうまとめている。

 廃仏毀釈は、その内容からいえば、民衆の宗教生活を葬儀と祖霊祭祀にほぼ一元化し、それを総括するものとしての産土社と国家的諸大社の信仰をその上におき、それ以外の宗教的諸次元を乱暴に圧殺しようとするものだった。ところが、葬儀と祖霊祭祀は、いかに重要とはいえ、民衆の宗教生活の一側面にすぎないのだから、廃仏毀釈にこめられていたこうした独断は、さまざまの矛盾や混乱を生むもとになった。そして、こうした単純化が強行されれば、人々の信仰心そのものの衰滅や道義心の衰退をひきおこす結果になりやすかった。
 本書は、廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史には「根本的といってよいほどの大転換」が生まれ、そのことが現代の私たちの精神のありようを規定している、と主張する。そうだと思う。日本人の精神史の伝統というのは、一部の人々が楽観的に信じているように、誰でも振り返ればそこに見えるものではなくて、きわめて慎重に、本物とまがい物を選り分けていかなければ、手に入らないものだと私は考える。

 具体的に、明治の廃仏毀釈で、どんなことが起こったか。比叡山麓の日吉山王社には、社司・宮司たちと武装した神官の一隊が押しかけ、神体として安置されていた仏像や仏具・経巻を取り出し、破壊して焼き捨てた。指導者である日吉社の社司・樹下茂国は、仏像の顔面を弓で射当て快哉を叫んだって、『新・平家物語』の清盛の逆バージョンみたいだ。奈良の興福寺では、あっという間に「一山不残(のこらず)還俗」してしまった。「僧たちはなんの抵抗も示さなかった」って、なんだこの無節操は!

 吉野山は、金峰神社を本社とし、山下の蔵王堂をその「口宮」とすることが定められたが、三体の蔵王権現像は巨大すぎて動かすことができないので(そりゃそうだw)、前面に幕を張り、鏡をかけ幣式(ぬさ)を置いて、神式をよそおったという。竹生島は、大津県庁から「延喜式に見える都久夫須麻(つくぶすま)神社がないのはどうしたわけか」と難癖をつけられ、弁財天像は観音堂に移されて、新しい神社が作られた。いま、舟廊下の出口にある、あの神社のことと思われる。

 有名寺社に関する興味深い話は、ほかにも多数あるが、山の神、塞の神、地主神など、名前や由来のはっきりしない小祠が統廃合され、記紀神話に基づく神名がテキトーに割り当てられ、庶民の信仰や行事・習俗が一変させられたことは記憶にとどめなければならない。開明的な政策が必然的にもたらす「啓蒙的抑圧」は、その遂行者が確信的な善意の持ち主であるほど、始末の悪いものである。

 新政府の方針に諾々と従った僧侶も多かった一方で、存在感を示したのは東西両本願寺だった。明治初年、神道国教主義的な風潮が強まっても、真宗だけはほとんど勢力をそがれなかった。さすが真宗。最近、日本の精神史で「宗教」と呼べるのは真宗しかないんだな、ということをじわじわと納得しつつある。やがて、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶・島地黙雷の建言によって、教部省が置かれ、民衆を教化する(キリシタンに陥らないよう導く)宗教官吏・教導職が定められた。はじめは神職者が優勢だったが、次第に仏教側が圧倒的な多数を占めるようになる。それはまあ、民衆教化に必要な「説教」能力では、僧侶に一日の長があるだろう。

 というわけで、とりとめもないが、薄いベールを剥ぐように、明治初年の日本の風景が見えてくる本である。
 安丸は次のように言う。「新政府が成立すると、彼ら(国体神学の信奉者たち)は、新政府の中枢をにぎった薩長倒幕派によってそのイデオローグとして登用され、歴史の表舞台に立つことになったのであった。薩長倒幕派は、幼い天子を擁して政権を壟断するものと非難されており、この非難に対抗して新政権の権威を確立するためには、天皇の神権的絶対性がなによりも強調されねばならなかったが、国体神学にわりあてられたのは、その理論的な根拠付けであった」

 これは、①国体神学は、薩長倒幕派が自分たちの握った権力を正統化するために採用されたこと、②国体神学によって基礎付けられたのは、天皇の神権的絶対性であり、その天皇の権威を通じて、薩長倒幕派の権力基盤を確立したこと、③国体神学の信奉者たちは、薩長倒幕派によって与えられた権力を用いて、自分たちの利害を追及したが、それが神仏分離・廃仏毀釈の運動という形をとった、という諸点に集約されよう。

 新政府の権力基盤として国体神学を採用しようとするについては、二つの条件が必要となる。一つは、国体神学の信奉者というかその担い手が広範に存在していること、もう一つは、新政府の担い手であった薩長倒幕派の中に、国体神学についての親和的な態度が醸成されていたこと、この二つである。

 一つ目の、国体神学の信奉者の広範な存在ということについては、これは徳川時代を通じて、とりわけ幕末期になって、理論的な深化とその信奉者の普及というかたちで現われていた、というのが安丸の理解のようである。そういう勢力が、明治維新前後には、無視できないものに発展していた。それがなければ、神仏分離や廃仏毀釈が、かなり広範囲にわかり、しかも徹底した規模で行われることはなかっただろう。国家神学の信奉者とは、ほとんどが神道の推進者とかさなりあうわけだが、神道家というのは、徳川時代を通じて仏教の下風を受けていた。その鬱憤を、明治維新前後に生まれた国体神学の興隆の流れのなかで晴らそうというのが、廃仏毀釈を進めたあの奇妙な情熱の理由を説明するものだと安丸は見るわけである。

 二つ目の、薩長倒幕派の国体神学への親和性ということについては、これまで学問的に注目されることはなかったと思うのだが、安丸は、薩長倒幕派の勢力こそ、そもそも神道を基礎にした国体神学的なイデオロギーを掲げていた勢力なのであり、それゆえ彼らが明治維新のイデオロギーを国体神学に求めたことには、内在的な要因があったと安丸は見ている。

 長州藩と水戸藩については天保改革の一環として廃仏毀釈運動が行われ、薩摩藩と津和野藩については明治維新直前に同様の運動がすでに行われていた。これらの藩のうちで、明治維新で権力を握った薩長両藩と、長州藩の友藩であった津和野藩の神道家たちが中心になって、明治維新以降の神仏分離・廃仏毀釈の運動をすすめてゆくわけである。彼らは、権力の座についた同胞の支援を仰ぎながら、すでに地元で経験していた神仏分離・廃仏毀釈の実践を全国規模で再現しようとしたのである。

 こうして見ると、明治維新というのは、政治的にもイデオロギー的にも、徳川体制から薩長藩閥体制への大規模な移行であったということが見えてくる。神仏分離・廃仏毀釈運動というのは、したがって、偶然に起こった奇妙な現象などではなく、政治的・歴史的背景をもったそれなりに必然的な動きだったといえるのである。

 こうした動きに仏教側はほとんど抵抗らしい動きを見せなかった。興福寺の如きは、僧侶全員が進んで還俗し、寺院廃滅の危機に直面したほどである。唯一の例外は真宗であったが、これも表立って抵抗したわけではない。表では薩長藩閥の権力に屈すると見せかけて、せいぜいサボタージュをする程度だった。それでも、宗派としての団結を維持したおかげで、宗教としてのアイデンティティをあまり毀損されずにすんだ。多くの仏教宗派は多かれ少なかれ、宗教的なアイデンティティを損なわれたのである。日本人は無神論的な傾向が強いとよく言われるが、その理由の一つは、明治維新前後の廃仏毀釈運動によって、多くの宗教が骨抜きにされ、それにしたがってそれら宗門の信者たちが信仰を失ったという事情がある。それを考えると、日本人というのは、実にすごいことをするものだと思う。国民の宗教心を、短い期間にいとも簡単につぶしてしまうのである。

 この運動の影響をもっとも深刻に受けたのは、修験道だったと安丸はいう。修験道の二大本拠地として古い歴史を持っていた吉野と出羽三山のうち、出羽のほうは修験の伝統を完膚なきまでに破壊され、いまではすっかり神社化してしまったという。吉野はそれほどでもないが、やはり修験道の全国的拠点としての勢いを、今は感じさせることがない。

 神仏分離・廃仏毀釈運動は結局破綻した、というのが安丸の評価だ。この運動の究極の目的は、神道を国民の一人一人に内面化させるということだったが、神道自体には、人々に内面化されるような、宗教的な実質はない、というのがその理由だ。実質のないものを宗教として押し付けられても、それを内面化して信仰できるというわけでもない。というわけで、神道を内面化できなかった多くの日本人は、宗教そのものに関心を抱かなくなり、その結果無信仰な国民性が形成された。安丸が言いたいのは、どうもそういうことのようである。
 各地で廃仏運動は活発化し、京都では、薬師如来の垂迹とされる牛頭天王(ごずてんのう)を祀まつる祇園社(ぎおんしゃ)が、八坂(やさか)神社と社号を改めさせられました。奈良の興福寺では、春日大社との分離に伴って僧侶が全員還俗し、同大社の神官に転じたため、廃絶の状態になりました。五重塔を250円、三重塔を30円で売却、買い主は金具をとるために焼こうとしましたが、周辺住民の強い反対によって消失を免れました。

 鎌倉の鶴岡八幡宮では、仁王門や護摩堂、源実朝さねともが中国の宗そうから取り寄せたという一切経(いっさいきょう)を所蔵する輪蔵(りんぞう)、多宝塔(たほうとう)、鐘楼(しょうろう)、薬師堂(やくしどう)などが、1870(年6月のわずか十数日のうちにすべて破却されてしまいました。

 このほか、薩摩藩では1869年、藩主の菩提寺が廃寺になり、その後、1060の寺院が破却されました。数年間、藩内に一つの寺院も、一人の僧侶も見られなくなったと言われています。富山藩では70年、領内の1635の寺院のうち、6つの寺院が存続を許されたほかは、すべて廃寺とする政策がとられました(『佛教大事典』)。

 これに対して、過剰な仏教排撃が政府批判に結びつくことを懸念した維新政府は、71年4月、政府の許可なしに仏像などの排除を禁止するとともに、地方官による寺院の強引な統廃合を制限しました。

 寺院の破壊は1868~1876年ごろまで続いたとされ、破却され廃寺になった寺院数は、当時存在した寺院のほぼ半数に上るといわれています(『日本仏教史辞典』)。

 廃仏毀釈により多くの貴重な文化財が失われました。この”暴風雨”については、「国学的な思想が『原理主義化』した例とみることができ、攘夷(じょうい)感情のなかで育まれた『純粋な日本』の復興という情熱が、維新期社会の興奮のなかで一気に暴発した」(坂本多加雄『明治国家の建設』)といった分析があります。
キリシタン弾圧

 政府が「切支丹」を厳禁したのは、開国に伴うキリスト教の浸透を、神道国教化の上からも防ぐ必要があると考えたからです。

 徳川幕府も、宣教師やキリスト教信者を迫害してきました。すべての庶民を対象に、踏み絵によって「宗門改(しゅうもんあらため)」を実施。17世紀末には、日本からキリスト教徒はほとんど姿を消したとみられていました。

 しかし、19世紀半ば、フランスのカトリック宣教師らが琉球・那覇へ布教のために来訪し、1865年には、居留外国人のため長崎に大浦(おおうら)天主堂(てんしゅどう)を建てました。そこを近郊の浦上村に住む隠れキリシタンたちが訪ね、以来、村民たちは公然と信仰を表明するようになります。

 九州鎮撫ちんぶ総督兼長崎裁判所総督に着任した政府参与・沢宣嘉さわのぶよしは、浦上のキリシタン徹底弾圧の方針を固めます。

 浦上では江戸時代、過去3回にわたり「浦上崩(うらがみくずれ)」と称されたキリシタン検挙事件が起き、長崎奉行所が捕らえた信者の中から獄死者が相次いだ歴史がありました。

 維新政府は、御前会議で浦上の全キリシタンを流刑に処することを決めます。まず、中心人物の114人を捕らえて、津和野・萩・福山の3藩に配流(はいる)し、さらに3384人の老若男女の信徒を、西日本の20藩に流罪としました。流刑中に613人が死亡したといわれます(『国史大辞典』)。 

 政府の切支丹禁止に続いて、この4回目の「浦上四番崩れ」に対しては、在日外交団から批判の声が沸き上がり、とくに米欧歴訪中の岩倉使節団に対して、訪問先で各国から抗議が寄せられました。このため、政府は1873年2月、切支丹禁止の高札を撤去し、キリスト教はようやく活動の自由を得ます。

 さらに、仏教側の抵抗・反撃も強まり、「寺請け」制の神社版である「氏子調べ」制も、うまくいかず、1年10か月で廃止されました。廃藩置県後、神祇官は神祇省に格下げされて間もなく廃止されます。神道を唯一の宗教として国民に教化・定着させる政策は行き詰まりました。

 一方、政府はこの間、全国の神社を行政管理の下に置き、神職の世襲廃止や神社の社格を定める制度づくりを進めました。

 社格とは、神社を神祇官所管の官社と地方官所管の諸社に分け、官社は官幣社(かんぺいしゃ)(大社・中社・小社・別格官弊社)と国幣社(こくへいしゃ)(大社・中社・小社)とし、諸社も序列化しました。

 こうして天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮を頂点に、これら多数の神社を国家制度の枠の中に組み入れます。

 廃藩置県のあとは、「廃城」の波が押し寄せました。

 「文明開化、旧物破壊の思想」が強かった明治初年、「封建遺制の象徴」として、「旧藩士らの反抗運動」の拠点として「障害物視」されたのが、全国各地の城郭じょうかくでした。当時は、現代と違って城郭を「文化財として保存しようとする考えは少なかった」ようです(森山英一『明治維新・廃城一覧』)。

 時代を遡りますと、徳川幕府は大坂夏の陣(1615年)で豊臣氏を滅ぼすと、諸大名に「居城以外の城は破却せよ」と命じました。城郭は一つに限って許すという「一国一城令」は、軍事力の削減を狙いとしており、各地で約400の城が数日のうちに取り壊されたといわれます。

 さらに、徳川幕府は武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定し、居城以外に城を新築するのはもとより、無断で修理改築することも禁止しました。

 その結果、江戸時代末期には、幕府直轄の江戸城、大坂城、駿府城、二条城、甲府城、五稜郭(ごりょうかく)の6城をはじめ、諸大名の居城など合計180余りの城郭が存在していました。

 戊辰戦争は数多くの城を舞台に繰り広げられましたが、火砲の使用は、城郭の防御力の限界を露呈させ、明治維新後に城を取り壊してしまう藩も相次ぎました。

 廃藩置県後、城郭は兵部省―陸軍省の管轄となります。

 1873年1月、陸軍の6鎮台(軍団)・14営所(兵営)の全国配置が決まり、それらのほとんどが城郭内に置かれました。それに伴い、陸軍が軍用財産として残すものは「存城」、それ以外の、淀城など144城が「廃城」の対象になり、城郭建築は取り壊されることになりました。

 各地で城郭の保存・復興計画が進められるようになるのは、大正時代に史跡・国宝保存の法律が制定されてからのことです。
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