平成31年度 青年の家 学びの館 午後1時30分~ 30年度実施報告及び会計報告・監査 31年度行事予定・予算案ほか 2019.4.20(土) 総会・講演会 出席者50名(会員47名) |
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総会は、伊東征八郎広報部長の司会で始まり、立花昇会長の開会の挨拶のあと、崎山竜男氏が議長に指名されて議案審議に入り、30年度の古文化同好会の行事実施報告については高尾秀司企画事業部長より、会計報告は梶健治会計、会計監査は巽憲次郎会計監査役より提案され承認されました。 今年度は役員改選の時期に当たり、新会長に平田政信氏が選任され新体制がスタートしました。 平田政信新会長の力強いご挨拶に続いて、31年度行事予定は高尾部長、予算案は梶会計よりそれぞれ提案され承認されました。最後に、厚主弘副会長の閉会の挨拶により31年度総会は無事終了しました。 引き続き記念講演会に移り、中西裕樹氏(高槻市教育委員か主幹)をお招きして、演題 「私部城跡と飯盛山城跡の関連について」 ご講演を頂戴しました。 特に、昨年10月に私部城跡が交野市の市指定文化財に指定されたこともあり、私部城と飯盛城との歴史的背景について、大変詳しく貴重なお話を頂き、私部城が織豊系城郭成立期の平地城館の姿を考える上で、遺構が残る私部城は極めて貴重な存在であることを再確認する良い機会となり大変意義深い講演会となりました。 ※【織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)】 織田信長・豊臣秀吉およびその配下の諸大名が建設した城郭の総称。瓦屋根や石垣、天守閣などが特徴。 ※講演会の内容を掲載するに当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ関連の資料などを参照させて頂き、記して感謝申し上げます。 ⇒ 中西裕樹氏の著作「大阪府中世城館辞典」 10/1 私部城跡 新しく交野市指定史跡に! |
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崎山議長により議案審議はスムーズにすすめられました |
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高尾部長より、事業報告と計画案が提案されました |
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平成31年度 新役員 前に整列 |
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1.日時 平成31年4月20日(土) 13:30~ 2.場所 学びの館 総会次第 1) 開会の挨拶 2) 平成30年度の行事報告 3) 平成30年度・会計決算報告 4) 平成30年度・会計監査報告 5) 会則の改定 6) 役員改選 7) 平成31年度・新会長挨拶 8) 平成31年度の事業計画案及び予算案 9) 閉会の挨拶 総会後、特別講演会 演題 「私部城跡と飯盛山城跡の関連について」 講師; 中西 裕樹氏(高槻市教育委員会主幹) |
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「私部城跡と飯盛山城跡の関連について」 講師 中西 裕樹氏(高槻市教育委員会主幹) |
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中西 裕樹氏(高槻市教育委員会主幹) |
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昨年3月末まで、高槻市の「しろあと歴史館長及び今城塚古代歴史館長」を歴任され、4月、高槻市教育委員会文化財課主幹に就任されました。近畿地方を中心に戦国時代や城郭・城下町を研究され、いろいろな地域・自治体・教育機関などで講師としてご活躍中です。 主な著書に『大阪府中世城館事典』(2015戎光祥出版)、編著に『飯盛山城と三好長慶』(2015戎光祥出版)や『高山右近キリシタン大名への新視点』(2014宮帯出版社)があります。 |
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「私部城跡と飯盛山城跡の関連について」レジメ 中西 裕樹氏(高槻市教育委員会主幹) 「私部城跡と飯盛山城跡の関連について」レジメ PDF |
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1.はじめに 〇 注目される私部城 私部城が機能した時代は、大きく山城から平城へと城郭史が転換し、 瓦・石垣礎建物、そして天守という織田信長から豊臣秀吉へ受け継が れた近世城郭誕生の胎動期 (織豊系城郭 )。 この時代の城郭 を考える上で、私部城は重要なピースに。 2.飯盛城 〇 天下人の「首都」 将軍不在の京都に代わり、山城が「天下」を裁く「首都」に。 ※天下とは京都を中心とする秩序や周辺地域(首都圏) 〇 飯盛城とは? 大阪・奈良の府県境となる生駒山地から西に派生した急峻な飯盛山 山頂(標高314m)に立地。麓からの比高は約300m。 芥川、飯盛には背丈を超える高さの石垣があることは大いに注目。 〇 飯盛城の画期 永禄11年(1568)足利義昭・織田信長の上洛後、三好義継は 飯盛城に。やがて平地の若江城(東大阪市)に移る。 3.私部城 〇 安見宗房と安見右近 元亀2年に久秀が離反の際、同調しない右近は奈良で生害。 久秀が「安見右近城」を攻撃(『多聞院日記』)。 翌年にも久秀は「安見新七郎居城」を攻撃(『信長公記』)、 佐久間信盛や柴田勝家らが来援。 〇 私部城の構造 地表面での遺構構造は、約東西300m×南北200m【図5・6】。 光通寺の高台。基本構造は方形の曲輪が並立し、周囲に独立的な 曲輪を配置する「群郭式」。 畿内の武家権力の拠点は、先の高屋城、池田城(池田市)など、 先行する経済活動の場に接する事例が多い。群郭式の構造を成立 させた堀の多用はこの立地を克服するためか。 4.私部城の魅力 〇 城郭史のターニングポイント 【織豊系城郭】 桝形虎口や高石垣、瓦の使用などが特徴。 織田信長と武将たちの城郭にみられ、豊臣秀吉らが継承。 近世城郭への系譜。 〇 平城の姿 1570年代前後の義昭配下の武将たちは、織豊系城郭に先駆けて、 平地に堅牢、かつ新しさを持つ城郭を出現させていた。 〇 大阪の城と瓦 大坂本願寺・私部城・若江城(東大阪市)の瓦が同笵。笵についた傷から ①大坂本願寺→②私部城→③若江城の順に製作された瓦(交野市の 吉田さんの研究)。本願寺と城郭に同じ瓦集団が関わっていたことを示す。 5.おわりに 拙著『大阪府中世城館辞典』では約108ヶ所の城館を収録したが、 平地城館は20ヶ所未満、織豊系城郭成立期の平地城館の姿を考える 上でも、遺構が残る私部城は極めて貴重な存在。 |
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高槻市 教育委員会文化財課 中西 裕樹 ( なかにし ・ ゆうき ) 1 はじめに ○ 注目される私部城 私部城が機能した時代は、大きく山城から平城へと城郭史が転換し、瓦・石垣礎建物、そして天守という織田信長から豊臣秀吉へ受け継がれた近世城郭誕生の胎動期 (織豊系城郭 )。この時代の城郭 を考える上で、私部城は重要なピースに。 ⇒ 戦国時代は山城の時代でも。国史跡への取り組みが進む飯盛城跡がその代表。 同じ北河内の2つの城跡を取り上げます 【 図 1 】。 10/1 私部城跡 新しく交野市指定史跡に! 2 飯盛城 ○ 天下人の 「 首都 」 戦国大名三好長慶は、天文22年 (1553)に芥川城(芥川山城跡。高槻市)へ入城して天下掌握を進める。その後、家督を子の義興に譲って永禄3年(1560)、天下人の長慶は飯盛城(四條畷市・大東市)へ【図2・3】。 →三好氏は芥川城に村人らを登城させ、争論を裁定。京都からは公家や寺社の使いが交渉に。文化人も登城、飯盛城では宣教師が盃を受ける。これらの対応に足る施設が想定。主要な家臣も居住。 ⇒将軍不在の京都に代わり、山城が「天下」を裁く「首都」に。 ※天下とは京都を中心とする秩序や周辺地域(首都圏) 〇 飯盛城とは? 大阪・奈良の府県境となる生駒山地から西に派生した急峻な飯盛山山頂(標高314m)に立地。麓からの比高は約300m。西麓に河内を南北に縦断する東高野街道、北麓に大和に繋がる清滝街道。西麓の深野池では河内を北流する大和川の水運に連絡。交通の便。 →天文6年(1537)頃、畿内の実力者・木沢長政が畠山在氏を河内国守護に擁立して飯盛城を守護所に。長慶以前は、やはり地域を押さえる畠山被官の安見宗房が在城。 ⇒城域は東西400m×南北600m、大きくⅠ~Ⅲの地区。 Ⅰ・・・ 「御体塚丸」周辺。東西の尾根上に細長い曲輪を連ね、要所に堀切。周辺の地形は急峻で岩盤も露頭。石垣が集中。 Ⅱ・・・ 「高櫓郭」周辺。地形的に主郭に相当。堀切や堅堀など軍事的性格が強い。面積は狭く、詰城的な場所。 Ⅲ・・・ 「千畳敷」周辺の曲輪は50m以上の広さ。城内の主たる居住空間として多くの施設が想定。「南丸」東側には土塁。石垣を伴う虎口や大阪周辺では珍しい「畝状堅堀群」。 ※本格的な石垣づくりの城は織田信長以降で、戦国時代は「土づくり」が基本。山をならして曲輪(後の「本丸」や「二の丸」をつくり、土を掘った「堀切」や盛った「土塁」などで防御。ただし、すでに芥川、飯盛には背丈を超える高さの石垣があることは大いに注目。 〇 飯盛城の画期 城跡からは大阪湾や淡路島(三好氏の本拠)、京都方面への視界。これだけ優れた眺望の山城は皆無。大阪平野は京都を目指す物や人の流れが集まる地域で、優れた経済感覚や柔軟な思考を持つ人々が湊町や寺内町などが発達。周辺でも交通に関わる集落が発達し、そこに拠点を置く勢力が経済活動を後押しする三好氏の被官に。 深野池の舟運を担う三箇氏や街道を押さえる岡山・砂の結城氏、田原の田原氏ら(「河内キリスタン」)。彼らの拠点は城への発着点、多くのキリスタンが集まる飯盛城の「城下町」。戦国時代の城と町が到達した一つの形を示す。 ⇒永禄11年(1568)足利義昭・織田信長の上洛後、三好義継は飯盛城に。しかし、やがて平地の若江城(東大阪市)に移る。 3 私部城 〇 安見宗房と安見右近 私部城は、段丘上に立地し、北が低湿地で南には谷地形が。大和国から続く傍示街道(かいがけ道)、同じく近隣を走る岩舟街道、東高野街道が集まる地域。東に山根街道、西に私部街道【図4】。この城主が安見氏。天文21年(1552)以降に河内国下郡代、飯盛城を拠点に河内や南山城に勢力を持つ安見美作守宗房が有名。 →畠山高政と三好長慶らに戦いを挑み、永禄8年(1565)の将軍足利義輝殺害後は秩序回復を目指す「天下御再興」の戦いを開始。この後は安見右近が活動。永禄11年に河内守護代遊佐信教が松永久秀の付属に。なお、元亀元年(1570)に義昭と信長の陣営が窮地に立った際、河内では若江城と高屋城、私部城が守りを固める(『信長公記』)。私部城は義継の若江城、守護畠山氏の高屋城と「同列」。 ⇒元亀2年に久秀が離反の際、同調しない右近は奈良で生害。久秀が「安見右近城」を攻撃(『多聞院日記』)。翌年にも久秀は「安見新七郎居城」を攻撃(『信長公記』)、佐久間信盛や柴田勝家らが来援。 〇 私部城の構造 地表面での遺構構造は、約東西300m×南北200m【図5・6】。光通寺の高台。基本構造は方形の曲輪が並立し、周囲に独立的な曲輪を配置する「群郭式」。広く南九州や東北地方に多いとされるが、「横並び」の構造は横並びの権力構造の具現化と理解。 →隣接した台地上に「市」の字地名。発掘調査で14世紀ごろの集落が確認。15世紀には山根街道に並行する屋敷地。城は集落よりも低く、軍事的には「不利」 ⇒畿内の武家権力の拠点は、先の高屋城、池田城(池田市)など、先行する経済活動の場に接する事例が多い。群郭式の構造を成立させた堀の多用はこの立地を克服するためか。 4 私部城の魅力 〇 城郭史のターニングポイント 文献上で確認できる私部城は、1570年代初頭の畿内支配を織田氏と三好・松永氏が争う最中の安見氏の城。 【織豊系城郭】 桝形虎口や高石垣、瓦の使用などが特徴。織田信長と武将たちの城郭にみられ、豊臣秀吉らが継承。近世城郭への系譜。 →織豊系城郭の特徴が確認できるのは元亀元年頃。信長の上洛は永禄11年(1568)10月、瓦・石垣・礎石建物(天守など)はどこから?この頃、畿内周辺の拠点城郭は、ほぼ平城に。 〇 平城の姿 武家秩序の頂点に位置したのが将軍義昭。これらの城主の多くは、義昭配下の武将であった。山城国の細川藤孝と勝龍寺城(長岡京市)、近江国の明智光秀と坂本城(大津市)、摂津では先述の和田惟政の高槻城(高槻市)、池田氏と池田城、伊丹氏と伊丹城(伊丹市)。河内国では畠山氏と高屋城、三好氏と若江城、そして安見氏と私部城。 →義昭自身も永禄12年(1569)以来、京都の平城(旧二条城)を居所。これらの城郭は、瓦・石垣・礎石建物といった織豊系城郭の特徴を持つ。石垣が旧二条城、勝龍寺城、坂本城、高槻城。これらの城郭と若江城、私部城では瓦が出土。 【天守】 文献上「天主」(天守)の確認もこれらの城が最初。元亀2年(1571)の旧二条城、同3年の坂本城、同4年の高槻城と若江城。 ⇒ 1570年代前後の義昭配下の武将たちは、織豊系城郭に先駆けて、平地に堅牢、かつ新しさを持つ城郭を出現させていた。 〇 大阪の城と瓦 私部城の発掘では大量の瓦。古代以来、日本では役所や寺院の建物に瓦が用いられ、中世の瓦葺きの建物は寺院などの宗教施設に限定。法隆寺や四天王寺周辺で瓦づくりの職人集団が活動。 →瓦には耐久性。瓦を使い始めた戦国時代の城は最初から城専用の瓦をつくるのではなく、寺院の瓦の転用や同じ瓦を葺く。 【瓦の同笵】 軒先を飾る瓦には「唐草」や「巴」などの文様。型(笵)を押し付けたもので職人集団ごとの特徴。 ⇒大坂本願寺・私部城・若江城(東大阪市)の瓦が同笵。笵についた傷から①大坂本願寺→②私部城→③若江城の順に製作された瓦(交野市の吉田さんの研究)。本願寺と城郭に同じ瓦集団が関わっていたことを示す。私部城には近隣の廃岩倉開元寺の同笵瓦も。 5 おわりに 拙著『大阪府中世城館辞典』では約108ヶ所の城館を収録したが、平地城館は20ヶ所未満、織豊系城郭成立期の平地城館の姿を考える上でも、遺構が残る私部城は極めて貴重な存在。 【参考文献】 中西裕樹『大阪府中世城館事典』(戎光祥出版、2015 年)。 吉田知史「発掘調査成果からみた私部城」(仁木宏・中井均・中西裕樹・NPO 法人摂河泉地域文化研究所編『飯盛山城と三好長慶』戎光祥出版、2015 年)。 |
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