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交野歴史健康ウォーク 208回
新撰組誕生の地ー壬生界隈
島原〜西本願寺〜本光寺〜京阪・七条駅 解散
 


案内人:吉岡 一秋氏(交野古文化同好会)

 日時 : 2024年5月18日(土) 午前8時45分 京阪・交野市駅集合  
                       参加者32名(会員22名)

 行程
  京阪・交野市駅 →枚方市駅 → 祇園四条駅→ 乗り継ぎ→ 阪急・四条駅 →
       四条大宮下車 → 大宮通 → 壬生 → 光縁寺 → 旧前川邸 →
      八木邸 → 新徳禅寺 → 壬生寺 → 光徳公園(昼食) → 千本通り →
      島原界隈(角屋・輪違屋) → 西本願寺 →本光寺 → 京阪・七条駅
                本光寺にて解散   (徒歩 約7km)
 2024年5/18(土)、天候 晴。京都 気温30.3度、真夏日を記録。当日は熱中症など心配されましたが、皆さんお元気で最後まで歩き通されました。

 交野市駅に8時45分元気な29名が集合、8時49分発の列車に乗車、枚方市で3名が合流され、9時3分発特急に乗車、祇園四条〜、阪急・四条と乗り継ぎ、四条大宮に10時過ぎ到着。駅前にて、村田会長と当日の案内人・吉岡一秋氏より挨拶と当日の行程と新撰組と壬生との関わりなど説明を受けた後、早速新撰組発祥の地・壬生周辺ウォークに向けて出発。
 今回の企画は、案内人の吉岡一秋氏が、昨年の11月の勉強会で「真夏の夜の大捜査ー近藤の苦悩と決断ー」、幕末の頃の京都の情勢・新撰組や池田屋事件の深層をお話頂き、その際、次は新撰組の発祥の地・壬生へウォークに行きましょうと計画されたもの。
 
 駅前から大宮通りを南下、直ぐに姉小路通を西へ折れ沢山のお寺が建ち並ぶ中、最初の訪問先の「光縁寺」に到着。旧前川邸前では、当時の壬生界隈の地形や情勢、新撰組の成り立ち、「古高俊太郎の拷問」のこと等を詳しく解説を受けて、次いで新選組発祥の地「八木邸」前で記念撮影。新徳禅寺〜壬生寺とゆっくりと散策。
 光徳公園で少し早めの昼食後、五條千本〜中央市場〜島原界隈(角屋・輪違屋・大門)〜西本願寺(太鼓楼・唐門)〜本光寺で解散。それぞれ京都駅・京阪七条へと帰途に着きました。

 参加された皆さんから「初めて壬生を歩き、当時の新撰組のことなどへ夢を馳せることが出来て本当に楽しかったです」「十数年ぶりに、四条大宮駅に降り立ち壬生寺など〜島原〜西本願寺など沢山の史跡を巡り、京都を堪能しました」「幕末頃の壬生の風景を思い浮かべながら、色々な歴史を身近に感じられる大変楽しいウォークでした。」と大好評でした。


  ※案内役の吉岡さんには下見や事前準備など、また、資料など沢山提供頂き
 有難うございました。当日、頂いたレジュメを参考にさせて頂きました。  

 また、毛利信二様には当日の貴重な写真を撮影頂き有難うございました。
  記して感謝申し上げます。
 壬生の地名
  壬生の地名は、水が生まれる場所「水生(みぶ)」に由来している。この辺り一帯は、清らかな泉が湧きだす湿地帯で、壬生菜の産地として知られていた。
 1000年以上の歴史を刻む壬生寺の周辺は、10軒あまりの屋敷が点在するだけの田園地帯であった。この頃は、途中に遮るものもなく、屯所であった前川邸、八木邸から二条城を遠望することができたという。まさに都の外れといった趣ではあるが、それでも近藤らの情熱を刺激し、高揚させるのは充分の地であった。
(レジメ) 新撰組誕生の地・壬生界隈
島原〜西本願寺〜本光寺〜京阪・七条駅
 
 
 
 
 
 
 阪急・四条大宮駅前 出発
 
村田会長の挨拶
 
案内人・吉岡一秋氏のウォーク行程の説明
 
 
四条大宮駅
 
 
 光縁寺と山南啓介の墓
  光縁寺と新選組の隊士との関わりは、当寺の門前近くに新選組の馬小屋があり、毎日、門前を隊士たちが往来し、その中には副長の山南敬介(やまなみけいすけ)もいた。山門を見上げれば、瓦に「丸(まる)に右離(みぎばな)れ三つ葉立葵(みつばたちあおい)」の山南家と同じ家紋が目に入った。
 当時の住職は二十二世良誉上人(りょうよしょうにん)で年齢も山南と同じであった。良誉上人と山南敬介との間に親交生まれ、切腹を命じられた隊士たちをねんごろに弔ったのは良誉上人だった。山南も隊を脱走したとして、沖田総司の介錯で切腹させられた一人であった。

 当寺の過去帳「往詣記」には隊士25名の名が記載されている。その中には、新選組と決別した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)、藤堂平助(とうどうへいすけ)の名も含まれている。油小路の変で倒れた伊東と藤堂は、いったんここに埋葬されたが、新選組隊士と一緒では不都合だということから、半年後に掘り起こし、泉涌寺塔頭・戒光寺墓地に改葬されている。
 
 光縁寺の山門の瓦に「丸(まる)に右離(みぎばな)れ三つ葉立葵(みつばたちあおい)」の山南家と同じ家紋  本堂裏の墓石、山南敬介、河合耆三郎(きざぶろう)、大石造酒蔵(みきぞう)ら新選組の隊士たちの墓石は雨に濡れて一層寂しくみえた
 
 
 
 
 

光縁寺の山門の瓦に「丸(まる)に右離(みぎばな)れ
三つ葉立葵(みつばたちあおい)」の山南家と同じ家紋
 
 
光縁寺の仏
 
光縁寺の佛手柑
 旧前川邸と古高俊太郎拷問の土蔵
  綾小路通りを西へ坊城(ぼうじょう)通りまで行くと、そこはもう壬生界隈である。
壬生は新選組の発祥の地であり根拠地である。綾小路通りを西へと進み、坊城通りに突き当たる手前が黒板塀の壬生郷士・前川荘司邸跡(非公開)で新選組の屯所の一つ。尊攘派志士を急襲した池田屋騒動は、この前川邸で凄まじい拷問を受けた古高俊太郎の自白がもととなったか?。新選組が古高を逆さ吊りの拷問に使った縄もそのまま保存されているそうだが、見ることは出来ない。
 
 
 
旧前川邸の古高俊太郎の拷問部屋
 
 
 
 
 
 
 壬生住人士ー八木邸
 前川邸を出て、坊城通りを挟んで向かいが壬生郷士・八木源之丞邸で一般公開されている。
発足当時、新選組は壬生郷の郷士・八木家に「新選組宿所」の表札を掲げた。当時まわりに民家はなく野中の一軒家だったため、1km先の二条城の様子が邸にいながら窺えたという。
 また反対に南側を望めば1km先に島原の門が見えた。当邸では文久3年9月18日深夜、奥座敷で芹沢鴨ら4人が斬殺されている。鴨居に残る刀傷は、その闘いの壮絶さを物語っている。
 
 
八木邸 新撰組屯所遺跡
 
 
 
 
 
新徳禅寺 
 八木邸の向かいが新徳禅寺。勤皇の志士・清河八郎(のち幕府の刺客に暗殺される)が将軍警護の目的で上洛したのに、全隊員234人を前に「本当の目的は倒幕、天皇警護」と宣言。幕府から10両の旅費をもらって、はるばる京の都に治安維持のために駆けつけた隊士は驚き、隊は分裂し、近藤勇、沖田総司、土方歳三ら13人のみが残った。ここに後世、幕末の京の地にその名を轟かせることになる「新撰組」が誕生する。
 
 壬生寺
  新徳禅寺の向かい側が有名な壬生寺。新選組は当時、世間から「壬生狼(みぶろ)」と呼ばれ恐れられていた。壬生寺の広い境内は、新選組の兵法訓練場となり迷惑がられていた。境内に入ると右手に壬生塚があり、近藤勇の胸像と遺髪塔、芹沢鴨・平山五郎の共同刻銘墓、河合耆三郎、野口健司らの墓がある。
 また壬生寺といえば壬生狂言。鎌倉時代の円覚上人が広く大衆に仏の教えを説こうと身振り手振りで布教したのが始まりだそうで、国の無形文化財に指定されている。沖田総司が境内で子供たちを集めて遊んだ話や、隊士たちが壬生狂言を鑑賞したエピソードも伝わっている。春と秋の公開のほか、節分にも上演されている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
壬生塚 近藤勇・土方歳三
 
 
 
近藤 勇之像
 
土方歳三之像
 
 壬生塚に入り直ぐ左手に、「あゝ新選組」の石表が建っている。100円入れると、「鴨の河原に・・・」三橋美智也の「あゝ新選組」の歌が自動演奏される。毎年、7月16日午後1時半よりここで、慰霊法要が開かれるそうだ。
 壬生狂言
 壬生寺といえば壬生狂言。鎌倉時代の円覚上人が広く大衆に仏の教えを説こうと身振り手振りで布教したのが始まりだそうで、国の無形文化財に指定されている。沖田総司が境内で子供たちを集めて遊んだ話や、隊士たちが壬生狂言を鑑賞したエピソードも伝わっている。春と秋の公開のほか、節分にも上演されている。
 
 
壬生狂言の様子
 
 
 
 
 
 
 
 
千体仏塔
 光徳公園 (昼食・休憩)
  壬生川高辻を通り過ぎ、松原通を西へ進み千本通の手前に光徳公園があり、ここで早めの昼食をとる。
 昼食後、かって平安京の朱雀大路であった千本通を南下、京都市中央青果卸市場を通り過ぎ、壬生寺から南へ約1キロ、15分ぐらいで島原の西門に到着。
 島原の角屋、輪違屋、島原大門などを見学した。
 
 五条・千本交差点付近
 
 
 島原の角屋・輪違屋・大門
昼食後、かって平安京の朱雀大路であった千本通を南下、京都市中央青果卸市場を通り過ぎ、壬生寺から南へ約1キロ、15分ぐらいで島原の西門に到着。
 島原の角屋、輪違屋、島原大門などを見学した。
 
 
 
 
 島原は寛永17(1640)年六条柳町から移転した遊里。島原の入口は,当初は東の大門だけだったが,享保17(1732)年に西門が設けられ,天保13(1842)年,この地に大門が建てられた。近年まで島原の旧観を伝えていたが,昭和52(1977)と平成10(1998)年,2回の交通事故により西門は倒壊した。この石標は島原西門跡を示すものである。
 
 
 
 
 
 鴻臚館は,外国使節を接待するための施設。平安京では,羅城門北側に朱雀大路をはさんで左右に東西鴻臚館が建てられたが,弘仁年間(810〜24),東西市の設置に伴い七条北のこの付近に移転した。渤海国の賓客をもてなし詩会などが行われたが,同国の滅亡(927)により鴻臚館も衰微した。この石標は東鴻臚館跡を示すものである。
 
 
 島原の角屋
 島原には、新選組隊士が出入りしていた足跡が数多く残っている。中でも揚屋であった角屋には、初代局長芹沢鴨が泥酔のあまり乱行に及んだという柱の傷痕が、今も生々しい。芹沢鴨は斬殺されたその日にも、角屋で深夜まで酒宴を楽しんでいたという。
 現在角屋は、揚屋建築唯一の遺構として重要文化財に指定されており、美術館として公開されている。江戸期の貴重な文化に触れることが出来ます。
 
 
 
 
 
 
 
江戸時代の揚屋建築では日本唯一のもので重要文化財に指定されている
台所 西郷隆盛が使ったという「たらい」
主庭の臥龍松 大座敷の襖絵  芹沢鴨の晩餐の間
 
 
 
 
 輪違屋
 置屋(おきや)・輪違屋(わちがいや)
島原に唯一残る「置屋」、太夫などの芸妓を揚屋などに派遣するところである。
 
 
 
 島原の大門
 島原のQ&A
  財団法人 角屋 公式ホームページより参照
Q. なぜ島原というのですか?
A. 島原は、官命により、寛永18年(1641)に島原の前身である「六条三筋町」から現在地の朱雀野に移されました。その移転騒動が、四、五年前に九州で起きた島原の乱を思わせたことから、「島原」と呼ばれるようになりましたが、正式地名は「西新屋敷」といいます。島原への移転した年を寛永17年とする説もありますが、それは移転命令の年で、実際の移転は翌18年のことであります。

Q. なぜ島原の地域名を花街(かがい)というのですか?
A. 明治以降の歓楽街は、都市構造とは関係なく、業務内容で「花街」と「遊廓」の二つに分けられました。「花街」は歌や舞を伴う遊宴の町であり、一方、「遊廓」は歌や舞いもなく、宴会もしない、歓楽のみの町であります。島原は、囲郭的な都市構造でしたが、業務内容は歌舞音曲を伴う遊宴の町で、単に遊宴だけを事とするものではありません。島原の町は、和歌俳諧等の文芸活動が盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈しました。明治6年には「花街」の象徴である歌舞練場が開設され、「青柳踊」「温習会」などが上演されました。このことから、歓楽専門で文化のない町である「遊廓」という用語では、島原を十分に理解することができないのであります。ちなみに、遊廓には歌舞練場がありません。

Q. 島原は江戸の吉原とどのように違いますか?
A. 島原の入口は当初、東口の一つでしたが、その後西口ができるとともに、島原内に劇場が開設され一般女性も入ることができました。島原は開放的な町で、天保13年(1842)以降は土塀や堀(かき揚げ堀)もなくなり、老若男女の誰でも出入りができました。そのため島原は360年間、放火による火事は皆無で、嘉永7年(1854)にわずか一回、失火によって、島原の東半分が焼失したのみであります。
 島原は江戸時代、歌舞音曲を伴う遊宴の町であり、しかも明治以降、歌舞練場を備え、「青柳踊」「温習会」を上演していたことから「花街」となります。


 それに対して、吉原は周囲に10メートル幅の堀を設け、入口を一つにして厳しい管理を行い、遊女を閉じ込めるなど閉鎖的な町でした。その結果、逃げ出すための放火が多く、新吉原時代(1676〜1866)の190年間に21回、明治期には7回もの大火が発生しています。また、吉原は江戸時代、俳壇や歌壇が存在するなどということもない、歓楽専門の町でありました。明治以降も歌舞音曲を必要としない業務であったため、歌舞練場(演舞場)も持っておりません。したがって、吉原は都市構造上からも、業務上からもまぎれもなく「遊廓」ということになります。

Q. 揚屋と置屋の違いは?
A. 揚屋は太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫、芸妓を派遣してもらって、お客様に遊宴をしていただくところであります。揚屋は料理を作っていましたので、現在の料亭、料理屋にあたります。ただし、揚屋は江戸時代のみで、明治以降はお茶屋業に編入されます。

 一方、置屋は太夫や芸妓を抱え、揚屋に派遣します。置屋ではお客様を迎えませんでしたが、明治以降、お茶屋業も兼務する置屋では宴会業務も行うようになりました。

 この揚屋と置屋の分業制を「送り込み制」といい、現在の祇園などの花街に、「お茶屋(宴席)」と「屋形(芸妓、舞妓を抱える店)」の制度として伝えられています。これに対して、吉原などの遊廓の店は自ら娼妓を抱えて歓楽のみの営業を行い、これを「居稼ぎ制」といいます。

Q. 太夫と花魁(おいらん)の違いは?
A. 太夫は、傾城(けいせい 官許により遊宴の席で接待する女性)の芸妓部門の最高位となります。六条三筋町時代、四条河原で能や舞に明け暮れ、その中から優れた傾城を能太夫、舞太夫と呼んだことが、太夫の始まりとされています。太夫は舞や音曲のほかに、お茶、お花、和歌、俳諧などの教養を身に付けていました。

 ところが、花魁は芸を披露しないため、歌舞音曲を必要としません。まさしく娼妓部門の最高位ということになります。
 太夫と花魁との外見上の大きな違いは、帯の結び方でも分かります。太夫の帯は前に『心』と結ぶのに対して、花魁の帯は前にだらりと垂らして結びます。

Q. 島原の範囲はどこまでですか?
A. 現在の位置では、東の大門から西は千本通りまでの東西194.9m、北は中央市場青果棟の南側道路から南は正面通り南一筋目の道路までの南北242.1mであり、その面積は約47,200uとなります。

 島原には六つの町内があります。その位置は大門から東西に走る道「道筋(どうすじ)」に沿って、一筋目に交差する北側の筋に「中之町(なかのちょう)」、その南側の筋に「上之町(かみのちょう)」、二筋目に交差する北側の筋に「中堂寺町(ちゅうどうじちょう)」、その南側の筋に「太夫町」、三筋目に交差する北側の筋に「下之町」、その南側の筋に「揚屋町」とそれぞれなっています。
 
 
 
 
 寛永18年の開設以来、公許の花街として発展してきた島原。
一間幅、本瓦ぶき、切妻の高麗門。門内は通りの左右に格子造りの古い揚屋、置屋が整然と並んでいたという。門前に通称「出口の柳」「さらば垣」、門前の道筋には、「思案橋」と粋に名づけられた橋もあった。市指定建造物。市バス島原口300メートル。
 
 
 
 
 
 
 西本願寺 太鼓楼
 島原の大門から花屋町通りを東に、大宮通へ出ると長い白壁の西本願寺である。
新選組は手狭な壬生から西本願寺に屯所を移した。堀川花屋町の本願寺の境内の東北角に楼閣風の太鼓楼(たいころう)がみえる。西側に当時600畳敷きの北集会場があり、池田屋騒動で名前を売り、幕府から特別報奨金を受けていただけに、西本願寺は土方歳三らの言うとおり屯所を貸した。
 西本願寺新選組屯所跡・太鼓楼
新選組は「池田屋騒動」元治元年(1864)以降隊士が増え、
壬生の屯所では狭くなったこともあり、慶応元年(1865)3月10日、
屯所を壬生から西本願寺へ移し、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、
北東にあった北集会所と太鼓楼を使用していた。
明治6年(1873)、北集会所は姫路市の(亀山)本願寺に一部移設したため、
現在の西本願寺に新選組の足跡を見るのは太鼓楼だけである。
 
 
 
 
 
 西本願寺
16世紀末、本願寺の 寺基 (じき) が現在の地に定められ、
御影堂 (ごえいどう) や 阿弥陀堂 (あみだどう) を始め、
唐門( からもん) 飛雲閣 (ひうんかく) など数多くの国宝が建ち並ぶ寺院です。
 
阿弥陀堂門
 
 
 
 一時・休憩
 
 
大銀杏
 国宝・唐門見学
 西本願寺の国宝「唐門」前で記念撮影
桃山時代の伏見桃山城の遺構といわれ、豪華な装飾彫刻が素晴らしい!
 浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)の国宝・唐門が約40年ぶりに修復され、桃山時代を象徴する華麗な姿がよみがえった。唐門は高さ8・7メートル、幅5・4メートル。寺が1591年に現在の場所に移転した後に造られたとされる。日が暮れるのを忘れて見とれてしまうほどの美しさから、「 日暮門(ひぐらしもん)」の別名がある。
 2018年6月から2021年10月にかけ、 檜皮葺(ひわだぶ き)の屋根をふき替え、門全体の黒漆を塗り直したほか、極彩色の 麒麟きりん や唐獅子など107点の彫刻は、X線分析で顔料を特定して彩色した。
   (2021.11.10 読売新聞オンライン記事参照)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西本願寺の国宝「唐門」前で記念撮影
 
御影堂門
 
総門と伝道院
 
興正寺と飛雲閣
 本光寺・伊東甲子太郎外殉難の地
 新撰組「七条油小路の変」の伊東甲子太郎外3名の殉難の地。新撰組の参謀の伊東が意見の相違から脱党したため、近藤勇の別宅からの帰途中、新撰組の襲撃に会い、本光寺前で絶命。
 
  新選組を脱退した高台寺党の伊東甲子太郎が近藤勇の妾宅で酒を飲み、帰路
新選組に惨殺され、遺体を引き取りにきた藤堂平助らが待ち伏せの新選組と乱闘、斬り殺された。
 
 
 
 
 
 最終案内場所「本光寺」にて解散。
それぞれ京都駅・京阪七条へと帰途に着いた。
 
 
東本願寺と烏丸通
 
京都タワー
 
七条・河原町通
 
高瀬川周辺
 
 
七条大橋
 
京阪七条 川端通付近
 最後までご覧いただき有難うございました!

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