ホームページに戻る
|
|
案内:向井 克喜氏(交野古文化同好会) |
|
行程 : JR河内磐船駅10時集合 → 信貴生駒電鉄磐船駅跡→京阪河内森駅→ 天田神社→川東神社・三又の堰→森灯篭の辻 → 須弥寺・観音堂→西国三十三観音 → 森墓地・六体地蔵と3仏 → 堂の池 →大門酒造 解散 12時過ぎ徒歩約2km |
|
2024年2/10(土)、天候晴れ。午前9時40分過ぎから参加者が徐々に増えだして、10時の定刻には、河内磐船駅前の広場が参加の皆さんで一杯になりました。総勢56名の参加は、2013.3.30の交野古文化同好会40周年記念ウォーク「星田の桜回廊を歩こう」の参加者54名以来の新記録となりました。地元の向井克喜さんのご努力で森地区の皆さんにもお誘いされ10数名の方が参加されました。また、春の新酒の香る大門酒造さんの酒蔵見学を準備して頂いたお陰で沢山の参加者で主催者側としては嬉しい限りです。 午前10時、皆さんが揃われたところで村田会長の挨拶の後、向井克喜氏の案内で河内磐船駅から森地区周辺の史跡を巡ってきました。先ずは駅前で、信貴電磐船駅とJR河内磐船駅の変遷や駅前開発に伴って発掘された一大鍛冶工房・森遺跡について説明を受けて、京阪・河内森駅から天田神社へ出発しました。 そして森村へ、燈籠の辻・東大寺の二月堂燈籠などを経て、須弥寺では住職の池田幸子様のご配慮により、本殿及び観音堂を御開帳いただきご参拝させて頂きました。最後に、大門酒造さんでは大門康剛6代蔵元の案内で酒蔵見学が出来ました。事前に向井さんより十分な準備をして頂いたお陰です。感謝!感謝!です。 参加された皆さんからは、「こんなに身近なところに沢山の歴史や言い伝えがあるなんて大変なお驚きです。散歩道が楽しく愛着が持てるようになりました。須弥寺さんはお参りしますが、陽石や三十三観音に森のお墓など案内頂き大変新鮮さを感じました。大門酒造さんの美味しいお酒を飲みながら季節の料理を頂きたいと思いました。」など嬉しい感想を頂きました。 今回は、地元の森地区の自治会や山地保全活動など幅広く活発に活動されている、向井克喜様に大変お世話になりました。事前に関係先などへまた綿密な下見に万全を期していただき、大変分かりやすくご案内いただきました。また、当日配布のレジメを提供いただき誠に有難うございました。記して感謝申し上げます。 |
|
須弥寺にて記念撮影 撮影は、須弥寺住職 池田幸子様にお願いしました。深謝! |
|
消えた信貴生駒電鉄磐船駅と 森地区歴史探訪 レジメ |
|
案内:向井克喜氏(古文化同好会) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新しく設置されたパーゴラ付近に集合、向井先生より詳しく説明を受けました |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
①JR河内磐船駅: JR片町線は明治28年(1895年)に片町(現大阪城北詰駅付近)ー四条畷駅が開通。明治31年(1898年)に四条畷ー長尾間が開通、その間は星田、津田駅しかなかったが昭和10年(1935年)に河内磐船駅が出来た。 ②信貴生駒電鉄(現京阪電鉄)磐船駅跡: 京阪交野線は昭和4年(1928年)に信貴生駒電鉄として枚方ー私市間が開通、昭和10年(1935年)に片町線河内磐船駅開設に合わせそのすぐ上に連絡駅として信貴電磐船駅が出来た。昭和23年(1948年)に廃駅となり300m南側の河内森駅だけになった。その名残として私市側からのトンネル通路が今も使われている。 ③京阪河内森駅: 信貴生駒電鉄が開通した翌年昭和5年(1930年)に地域有力者の働きで河内森駅が出来るが昭和20年(1945年)休駅となるが直近の磐船駅の廃駅に伴い河内森駅が復活する。JRとの連絡駅としてよりも地域の要望より駅は私市地域にある河内「森」となった。 信貴生駒電鉄は枚方ー私市ー近鉄生駒駅を繋ぐ計画であったが勾配や難工事から私市駅で終わった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天田神社は私市地区と森地区の境界、私市側にあり、両地区の氏神となっていました。この付近は、弥生時代の集落跡が見つかっており、交野でも古くから人が住んでいたところでした。「交野町史」によれば、「このあたりは川水があって、稲のよく実る甘野または甘田の名があった。まことにありがたい田だとの感謝の祈りを込めて、田の上流に宮を建てて、田の神を祀ったのが甘田の宮のはじまり」とされています。境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、付近の山麓からは肩野物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、当地の歴史の古さを偲ばせるものがあります。 【祭神
本社 住吉四神】 表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと) 底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
④天田神社 ※郷土史かるた 「(あ)天田の宮は田の神まつる」 私市、森の氏神社住吉四社を祀る。古代この地域は土地が良く肥えて作物が豊かな野で有ったので甘野と言われ川は甘野川、田は甘田であった。この甘田に田の神を祀った甘田宮が天田宮の起源。境内を流れる小久保川は私市・森の大切な灌漑水でありその分水堰「水分(ミワタ)」や奈良時代の1条通りとの関わりも? |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
創建:年代不詳だがこの地には天暦3(949)年に石清水八幡宮の荘園三宅山荘園が設置され、津田から星田までが含まれる広大なもので、鎌倉時代まで続く。当社はその頃に創祀されたと思われる。 ご祭神 :品陀別命(八幡さま) 森・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭においてそれぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天田神社の小久保川の東側(川東)の森側にあるお社で石清水八幡宮との関連と言われている。森地区は平安時代から石清水との関わりが強く火長神人でもある。肩野物部一族との関わりや水分(ミワタ)との関連も? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ホンダワケ命は「応神天皇」や「八幡神」の名で知られています。戦前までは武神として崇められていましたが、戦後から平和観念が浸透していくなかで、教育や縁結びなど日常生活に根ざした諸願成就の神さまへと変化していきます。「八幡さま」を祀る神社は全国に約4万ほどあり、日本中のどこへ行っても出会える神さまです。 また、当社の創建年代は詳らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成十二年には区域内の 河内磐船駅北側より平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続く事が確認された。また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祭りしたものと思われる。 当社の前に円柱状の灯篭の変形のようなものが一対立っている。 それには壽永寺元皓と僧名が刻まれている。この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の 幡隨院で修業し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって 江戸寿永寺住職にせられた人。寛永年間父母の墓参のため森に帰り当村領主大久保家のために大いに尽くすところがあったので、同家よりその宗家向井五衛門に扶持、馬、槍を許した。 よって、向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場 とした。(現在) また、この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので その材を用いて立てたのが、現在社前にある一対の立石である。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幼保連携型認定こども園 【あまだのみやちどりこども園】 (森新池がこども園へ) 交野市の公私連携・幼保連携型認定こども園です。こどもたち一人ひとりに寄り添い、個性を認め合い、温かく見守り続けて行きます。地域に根差すこども園として、これまで以上に親しまれる保育園を目指します。京阪交野線・河内森駅から徒歩5分の駅近です。子どもたちは、天田神社や獅子窟寺、緑豊かな環境に包まれて、元気に遊んでいます。 2020年4月民営化となり、公私連携・幼保連携型認定こども園としてスタートしました。2021年3月に新園舎が完成。4月より定員も210名となり、一回り大きなこども園となって新たなスタートを切ります。一人ひとりに寄り添い、個性を認め合い、温かく見守り続けて行きたいと思います。これまでと変わることなく地域に根差すこども園として、いろいろな役割を担い、これまで以上に親しまれるこども園を目指しています。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
當宮の口池は明治38年向井直勝氏の発起によりて創設せらる、氏の没後 昭和9年拡張工事を起工成るに及び村民氏の徳を追慕しこの碑を建つ 昭和9年5月 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森の中心部に大きな石燈篭があり、石清水八幡神と春日大明神の燈篭である。この灯篭の南隣にかえる石(陽石)があり安土桃山時代(1585年頃)の昔話がある。 「河内郡交野の森村の城戸という処に住む由松とお種と言う仲の良い働き者の若夫婦が僅かな田畑を耕し暮らしていたが庄屋さんから郡代の命令で大和の国の郡山城の普請に由松と村人数名が郡山城に出向いた。 郡山城の石垣普請で3ヶ月ほどで同行の他の者は帰ったが由松から音信のない日々が続きお種は毎日夫の帰りを待ち石燈篭の傍で立っていたが、何時しかお種が見えなくなった。村人が探したがその場所に大和から帰りの道を向く蛙の様な石があるのに気付き、お種が待ちきれず石になったとの昔話」多分この昔話より「森男に私市女」と云われる様になったと推測される。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蛙石の言い伝え ふるさと交野を歩くひろい話(二)より(奥野平次著) 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この伝説は、寝屋川市のおばあさん(2代も前)の話として原稿が残っていると、門真市文化財愛護推進委員の方から奥野平次さんが受け取られたという経緯があり、今から200年も前の蛙石の話がよそで生きていたということです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石清水八幡宮と彫ってある石灯籠 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
春日大明神と天照皇大御神の石燈籠 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大灯篭の足元にくぼみ石が! |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「くぼみ石」の由来を聞く。 昔の子供たちが、餅つき遊びをした石の跡だという。 「この石にじーと耳をあててみ、ぺったんこ、ぺったんこ、ぺったんこ・・・・ぺったんこの音が聞こえてくるやろ」と、亡くなられた奥野平次さんは子供たちにいつも言っておられたという。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
無垢根亭(むくねてい) 酒蔵の二階に設けた小さな酒亭 お客様各位 江戸時代から続く酒蔵の中にひっそりと佇むレストラン 無垢根亭がリニューアルオープンしております。 ゆっくりとした空間で季節ごとに変わる土鍋料理をお楽しみください 無垢根亭 ご予約お待ちしております。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|