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京阪出町柳駅から下鴨神社を通り抜け、
出雲路橋から鞍馬口街道、一番目の目的地の上善寺へ。 |
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正しくは賀茂御租(かもみおや)神社といい、世界文化遺産である。
毎年5月15日に行われる、京都三大祭りの一つ「葵祭」は上賀茂神社と下鴨神社の例祭。神社ゆかりの菓子として、加茂みたらし団子が有名。 |
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鴨川に架かる出雲路橋(いずもじ/いづもぢ-はし)は、北大路通の南、鞍馬口通にある。橋の上からは、北に北山、東に比叡山、南東に大文字山などを望むことができる。
出雲路橋は、鞍馬街道の出入口にあたり、「京の七口」の一つになる。鞍馬口、出雲路口ともいわれた。
古代氏族・出雲氏がここに住み出雲井於神社(いづもいのへ)があった。
〇鞍馬口
京の七口の一つ。京都から鞍馬街道の入口にあたりこの名がある。
※京の七口
「口」とは出入り口のことで、京都の出入りする通行口。実際には七口よりも多くの出入り口があった。
・長坂口(周山を経て若狭へ) ・大原口(大原を経て若狭へ)
・粟田口(山科・大津を経て江戸へ) ・丹波口(亀岡を経て丹波へ)
・伏見口(伏見を経て奈良や大坂へ) ・竹田口(伏見を経て奈良や大坂へ)
・鳥羽口(淀を経て大坂、山崎を経て西国へ) ・荒神口(近江へ) など。
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| 8月22、23日の両日、家内安全・無病息災などを祈願する「六地蔵巡り」の一つで、「鞍馬地蔵」を祀り、善男善女の参拝で賑わう。境内墓地には幕末、禁門の変で戦死した長州藩士の首塚がある。 |
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| 上善寺から寺町通りを南に天寧寺、更に二番目の目的地の上御霊神社へと。 |
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山号は萬松山。本尊は釈迦如来。
寺町通に面した門は「額縁門」と通称され、比叡山の眺望を一幅の絵のように見せる効果が見事。 |
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ご祭神は早良親王(崇道天皇)、井上内親王、他部親王、藤原吉子、橘逸勢、吉備真備をはじめ十三柱。
正しくは御霊神社。平安遷都以前よりこの地に勢力をもった出雲氏の氏寺である。
古来御所の「産土(うぶすな)の神」として崇められている社で、桓武天皇は「早良親王」の祟りを恐れ、この地に祀ったのが「上御霊神社」である。
例祭は「御霊会(ごりょうえ)」で、京都の数ある祭りの中で、御所の門前で神輿を担ぐことが許された唯一の祭り。
古代、権力争いに敗れ深い恨みを持ったままこの世を去った人たちがいた。平安京ではそうした人々の「魂」を鎮める祀りが行われるようになる。これが御霊会である。
史実上、最初に確認できるのは西暦863年、神泉苑で行われたもの。清和天皇の命により、無実の罪に問われ、非業の死を遂げた人々にの怨霊を鎮めるために執り行われた。
当時、京は干ばつや疫病の流行など災いが続いており、人々は恐怖におののき、その原因は怨霊にあると考えた。そこで災いから逃れるため御霊(みたま)を鎮魂、即ち「御霊信仰」のため、御霊会を執り行ったのである。
※祭神の一人、吉備真備について
真備は憤死した人物ではないが、恨みをもって死んだ人々の御霊を慰める時に、崇拝されていた真備の精霊(せいれい)をそこに一緒に祀ることによって、御霊を慰め鎮める目的で祭神に追加された。
また、「応仁の乱」の戦端が開かれたところでもある。「応仁の乱」発祥の地の看板あり。(写真)
社前で売られている「唐板」の煎餅には疫病除けのご利益があるとされ、明治維新まで皇室に皇子が誕生するたび当社に参詣し、これを土産としたとのこと。 |
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「応仁の乱」の戦端が開かれたところでもある。「応仁の乱」発祥の地の看板あり。 |
今回のテーマ「怨霊」を鎮めるため建立された御霊神社において、
祟りとされた人々十三柱の名札を持った参加者13名が並び、
山門を舞台に、歴史上の行動をわかり易く説明され、大喝采を浴びました。 |
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賀茂川河川敷にて昼食
比叡山をバックに集合写真 |
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| 昼食後、寺町通りをさらに南下、三番目の目的地の阿弥陀寺(織田信長公の墓)への予定であったが、入山料が必要の為、河川敷にて阿弥陀寺の歴史、本能寺の変、変後の豊臣秀吉の行動等々説明。次の目的地、相国寺へと向かう。 |
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天文年間(1532〜1554)に近江の坂本から洛中に移る。開山は清玉上人。
当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方の境内と塔頭13ケ寺を構えていた。また当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所とされた。
本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や森蘭丸、力丸をはじめとする家臣の墓や、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等がある。1587年、蓮台野からこの地に移され、現在に至っている。
この地は上京区上立売通り大宮東入阿弥陀町と今も呼ばれている。
@本能寺の変
1582年6月2日、備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようとしていた織田信長に対して、先発させた家臣明智光秀が謀反を起こして丹波亀山城から引き返し、京都の本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺に宿泊していた当主の織田信忠を襲撃したクーデターである。寝込みを襲われて包囲された信長は脱出を諦めて自害を迫られ、信忠は二条御所に退いて戦ったがやはり自害した。
※現在の本能寺は五代目。変の本能寺は現在の寺町御池ではなく、堀川四条の近くにあった。現本能寺小学校は寺跡の中心に位置する。
A 清玉上人と織田家
織田家が支配していた尾張の国で清玉上人の母親が突然倒れてしまう。それを助けたのが織田家の人間。しかし治療甲斐もなく母親は清玉上人を産んですぐに亡くなった。それを不憫に思った織田家の人たちはまだ幼い清玉上人を大切に育て、そうして織田家の保護を受けて清玉上人になんと19歳の若さで阿弥陀寺の住職になった。
清玉上人は織田家に大変な恩義を感じていた。だから、信長の死体が明智光
秀の手に渡る前に、遺骸を運び、阿弥陀寺にてひそかに葬儀を行ったと言われている。
B 清玉上人と秀吉
秀吉が信長の一周忌を己が喪主として執り行おうとして阿弥陀寺住職(清玉上人)に懇願したところ、信長亡き後の織田家の乗っ取りに近い振る舞いである、すなわち継承者争いを勝ち抜くために信長の一周忌を利用しようとする秀吉に、「人の道に非ず」と非難し、そのような者に加担するわけにはいかないとしてこれを断ったという。その為秀吉は、大徳寺に総見院という塔頭を新たに造ることになったとの逸話がある。
しかたなく秀吉は木造の「信長座像」を2体作らせ一体を火葬し、もう一体を祀らせ、大徳寺に総見院の寺領を与え、一周忌法要を執り行ったのである。
また、その後天下人となった秀吉は阿弥陀寺への怒りを露わにし、その所領は大きく削られたと伝えられている。
※信長の菩提寺は、大徳寺の総見院(信長一周忌法要の為、秀吉が建設)
C 清玉上人死去・・・そしてその後
清玉上人は本能寺の変から3年後に亡くなる。「まってました」といわんばかりに秀吉は清玉上人の阿弥陀寺を移転させ、しかも阿弥陀寺の敷地を縮小させた。まさに嫌がらせである。そのため、阿弥陀寺にお参りする人も減ってしまい寺は困ってしまう。その阿弥陀寺に助けたのが森家。森家は、信長の小姓の森蘭丸(もりらんまる)の親族である。森家の援助(えんじょ)のおかげで阿弥陀寺はなんとか維持することができたのである。阿弥陀寺には信長のお墓と森蘭丸および親族のお墓がある。
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臨済宗相国寺派の大本山。正しくは相国承天禅寺。
法堂は仏殿を兼ね、内部の天井に描かれる龍は、狩野光信で音に共鳴する「鳴き龍」として有名。往時には高さ109メートルと伝えられる「七重の塔」があったが落雷で焼失したとのこと。
臨済宗の大本山にはそれぞれ独自の禅風をもっており、「相国寺の声明面(しょうみょうづら)として知られている。
〇京の伝説「宗旦狐」
相国寺境内に一匹の古狐が住んでいたところ、千利休の孫の宗旦(そうたん)が茶会を開くにあたり、狐が宗旦に化け見事なお点前を見せたという。
また、門前の豆腐屋の破綻を救ったり、近くの店を繁盛させたりした。
人々から宗旦狐と呼ばれ、稲荷として祀られて、海運の神として信仰を得た。 |
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相国寺から烏丸通りに出て、同志社大学内の「薩摩藩邸跡石碑」を確認し、
最後の目的地の京都御所へと向かう。 |
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明治天皇とともに、公家らが明治2年東京へ移った後、公家屋敷などが広がっていた公家町を形成していた京都御所周辺は大量の空き家の町となり荒廃した。
この状況を嘆いた天皇は、明治10年御所の保存を命じた。これを受け京都府が火災延焼を防ぐため御所周辺の空き家となった公家屋敷を撤去して整備したのが京都御苑の始まりである。
昭和24年には国民公園として広く開放された。現在は京都御所、仙洞御所、京都大宮御所の敷地は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館は内閣府が、それ以外は環境省が管理している。 |
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蛤御門の変(禁門の変)については、その原因などを説明、
敵同士であった薩摩と長州がその後「薩長同盟」を結ぶに至る経緯を説明。 |
正式には「新在家御門」という。
天明の大火(1788年)の時、開かずの門であった新在家御門が「焼けて口を開く蛤」とのことから、京の人たちがいつの間にか「蛤御門」というようになった。
変当時の門の位置は、もうすこし内側にあり、明治になってから現在のところに移ったとのこと。
@ 禁門の変(蛤御門の変)
元治元年(1864年)7月19日、京都で勢力の挽回を図る長州藩と、御所を守る幕府軍との間で激しい戦いが繰り広げられた。前年8月18日の政変で京都政界を追放された長州であったが、池田屋事件が火に油を注ぐ結果となり遂に武力行使となったのである。
しかし、会津・薩摩藩を主力とする大軍の幕府軍には力及ばず敗走したのである。
この戦いは「禁門の変」と呼ばれているが、中でも激戦区だったのが西側の「蛤御門」であったため、「蛤御門の変」と呼ばれている。
戦いは一日で終わったが、二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。
A 長州の徳川幕府に対する恨み
毛利家は豊臣政権時代に中国地方10ヶ国120万石の太守だった。関ヶ原の戦いのときに毛利家は戦う前から内部分裂をしていた。秀吉の死後に毛利家分家の実力者吉川広家は徳川家への加勢を進言していたそうである。
ところが広家を嫌っていた毛利家の外交担当の安国寺恵瓊はその得意とする外交力を発揮して広家が知らない間に毛利家の総帥輝元を担ぎ出し西軍の総大将にしてしまう。このことに激怒した広家は徳川家と内応し関が原の戦いで広家は毛利軍・安国寺軍の出陣を阻害する位置に陣取って毛利軍・安国寺軍の動きを封鎖した。小早川家も重臣たちが徳川家に内応しており関が原の戦いでは最初は西軍が優勢にも関わらず日和見していたが反旗を翻し東軍が勝利した。
広家は毛利家の安堵を条件に戦場での毛利軍を封鎖したようなのだが、家康は東軍に味方した武将達に領土を分け与えるために毛利家の広大な領土が必要だったので毛利輝元が西軍総大将になったことを理由に毛利家を取り潰そうとする。
広家は毛利家安堵の約束が反故にされてしまったので自分の恩賞とされていた周防・長門を毛利家の領土にして毛利家の存続を徳川家に必死で願い出て毛利家は中国10カ国120万石から周防・長門2カ国37万石と大減俸だったが存続が許されました。
存続を許されたとはいえ多くの家臣を抱えていた毛利家は相当苦しく徳川幕府を恨んでいた。高杉晋作の家は昔から西を枕にして東(徳川家)に足を向けて寝ていたそうある。幕府に対する先祖代々の恨みも大きな力となった。
また、幕末の長州藩は経済的に豊かで活動資金が潤沢だったから幕府に反抗でた。幕末は中世的な封建社会が行き詰り、幕府や多くの藩が経済的に破綻状態だったが、長州も幕末の少し前まで経済的に破綻していたが、藩政改革に成功し尊王攘夷運動(倒幕活動)をするための資金が潤沢にあった。
また、下関は交通の要衝で白石正一郎ら尊王の志のある豪商が居て活動のために資金を援助した。しかし白石は援助をしすぎて幕府が倒れた頃には自分の店を潰してしまったとのこと。 |
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平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門弟(じょうとうもんてい)、京極邸などとも呼ばれた。(当時は通りの名が屋敷名になった)
道長の長女彰子(しょうし・あきこ)が一条天皇のお后となり、里内裏てある当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子たちも誕生した。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」 (この世は自分のためにあるようなものだ。満月のように、何も足りないものはない。)
この歌は娘の威子(いし・たけこ)が後一条天皇の皇后となったときの邸での壮大な宴席で詠んだとされている。
娘を次々と妃に立て、外戚となって内覧・摂政・太政大臣を歴任、権勢を振るい栄華をきわめた道長。藤原氏最盛期を作ったと言われている。
その順風満帆振りが手に取るように伝わってくる。 |
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天台圓浄宗の大本山。正しくは廬山天台講寺(てんだいこうじ)。
前身は天慶年間(938〜47)に良源が北山に創建した与願金剛院(よがんこんごういん)。応仁の乱後も再々火災で焼失したが、その後再建され、天正年間(1573〜92)に現在地に移った。
当地は紫式部の邸宅跡と伝え、源氏の庭には「紫式部邸宅址」の石碑。
二月三日の節分会は「鬼の法楽」の名で知られ、鬼に豆を撒いて悪病退散を祈願する。良源が修行中に邪魔をしてきた鬼を退散させたという故事に由来 |
土御門弟(つちみかどてい)跡の説明看板は取り外されていたが、
藤原道長、長女彰子と一条天皇の関係なども説明。
尚、丁度その頃(15時頃)雨が落ちてきたため、
当初予定の蘆山寺は入山せず帰路についた。 |
| 参加の皆様、お疲れ様でした! |