交野古文化同好会2月「勉強会」

「安土城のいま」
-解き明かされた信長の夢-

講師 近藤 滋氏 (安土城郭調査研究所 所長)
2月24日(土)午前10時〜12時  場所:青年の家・学びの館     
平成元年から20年計画で発掘調査中の安土城の研究成果を
沢山の資料と映写画像を交えて、丁寧にきめ細かく講演いただきました。

交野古文化同好会 中会長の挨拶 講演会風景
特別史跡 安土城跡


現在の安土城跡周辺



安土城郭資料館の安土城復元模型

安土城は、織田信長が天下統一の拠点として琵琶湖岸に築いた大城郭です。
 織田信長は尾張国(現愛知県西部)の戦国大名です。はじめは尾張の一戦国大名にすぎませんでしたが、持ち前の才覚と行動力で周辺の戦国大名たちを従え、天下統一への道を歩んでいきます。

 信長は領地の拡大にあわせて居城を清洲城(愛知県清洲町)、小牧城(愛知県小牧市)、岐阜城(岐阜県岐阜市)と移し、天正4年(1576)から安土城の築城を開始します。

 信長は安土城を築いた後、さらに西国への進出を目指しますが、天正10年(1582)6月2日、京都本能寺において、明智光秀によって殺されます。安土城はその光秀が羽柴秀吉によって滅ぼされた後、焼け落ちました。
 その後も、信長の遺児信雄、信孝や孫の三法師が安土に入城するなど、安土城は天下人である織田氏の居城として機能しつづけていました。
 しかし天正13年(1585)、小牧長久手の合戦を経て織田信雄を屈服させた秀吉が、近江八幡に甥の秀次を入れ、八幡城を築かせたことにより、安土城は城としての機能を失い、廃城されることになります。


 (安土城郭調査研究所HPを参照させていただきました
安土城の歴史






1576 正月中旬、安土城の築城を開始する
1577 安土山下町中に楽市楽座の掟書を発布する
1579 完成した天主に信長が移り住む
1582 ハ見寺に徳川家康を迎え、能が行われる
本能寺の変で信長死去、安土城の天主・本丸等が焼失する
1585 豊臣秀次の八幡城築城に伴い安土城は廃城となる
安土城跡の発掘年表
調



20


1989 発掘調査を開始する
伝羽柴邸跡で五棟の建物跡を検出する
1990 環境整備の基本構想を策定する
伝羽柴邸跡で櫓門跡を検出する
136mにわたり大手道の当初ルートを確認する
1991 伝前田邸跡で建物四棟と木樋暗渠を検出する
黒金門に至る大手道の全ルートを解明する
1992 環境整備工事に着手する
1993 大手門とその東西に続く石塁跡を発見する
東家文書を調査し旧安土城下の絵図を多数発見する
1994 旧ハ見寺境内地を調査し当初の伽羅配置を明らかにする
現ハ見寺の高石垣を解体し当初の大手道を検出する
1995 百々橋口道及び主郭部周辺をめぐる周回路を調査する
1996 搦手道の調査に着手する
米蔵付近より金箔貼りの鯱瓦を発見する
1997 搦手道の全ルートを解明する
台所跡から流し・カマドとともに飾り金具を発見する
1998 天主台下から焼失建物とともに多数の遺物を発見する
一建築金物、十能・鍬、花器、金箔瓦、壁土等
搦手口の湖辺で木簡、完形に近い金箔瓦等を発見する
大手道の整備工事が完成する
1999 本丸跡から清涼殿と同じ平面を持つ建物跡を発見する
2000 天主台の再調査を実施
2001 大手門周辺から石塁と門跡2カ所を検出
2002 大手門西側〜百々橋口と大手門東側の調査を実施し、
大手門東側に虎口を検出
2003 大手道東側の蓮池周辺を調査し、曲輪跡などを検出
2004 大手道東側の蓮池周辺を調査し、曲輪跡などを検出
2005 大手道南側で城内南端の石垣を検出し、大手門前面に
空間のあったことを立証


 織田信長が天下統一を夢見た安土城跡の発掘調査の講演を、胸を躍らせながら拝聴した。
私は、これまで安土城跡を2度見学したことがあります。発掘調査中の大手門から大手道を上り、道の両側に発掘された、伝羽柴秀吉邸や前田利家邸などの家臣の屋敷跡を辿り、途中黒金門を通り二の丸、本丸、三の丸、頂上の天主まで一気に登り、帰りは、ハ見寺の三重塔や仁王門を見て大手道まで下ったことを思いだします。
 今回、特に、長年にわたり発掘調査に携って来られた近藤所長から安土城跡の発掘成果を全般にわたり、きめ細かくお聞きすることが出来たことを大変嬉しく思っています。
他の関連資料なども参考に、以下にその概要をまとめてみました。

安土城跡の現状と歴史
 信長が安土城を築いた安土山は標高198mで、西の湖、常楽寺湖、および伊庭内湖によって三方を湖で囲まれ、琵琶湖を堀と見立てた壮大な城であった。周囲の内湖は昭和初期の干拓事業によって埋め立てられ、小さくなった西の湖がその面影を残している。また、南側はひざまでつかる湿地が広がっていたとみられ、敵を寄せ付けない立地条件も考慮していたとうかがえる。
 天主は地上6階、地下1階。1階に狩野永徳の絵が飾られ、5階は法隆寺夢殿に似た八角形。6階は金箔張りで柱に竜、内部に中国皇帝、天上には天人が描かれていたという。炎上は、城下町の火災が飛び火したなど諸説あるが、原因は不明。1585年に廃城となった。1952年(昭和27年)、特別史跡に指定された。
 現在、安土山の大半はハ見寺が所有しており、大手道から天主などへの見学ルート以外には立ち入ることが出来ない。2006年9月から入山見学料として500円が必要となった。

安土城跡発掘調査概要
1. 文化資産としての安土城跡の保存、活用を図るため、滋賀県は1989年から20年計画の
  調査整備事業に着手した。天主・本丸跡は戦前にも発掘されているが、本格的な調査は
  初めてだった。
2. 対象は天主台や大手道、大手門周辺など。面積は安土山(96ヘクタール)のうち、
  5%弱だが、中腹の伝羽柴秀吉邸、伝前田利家邸跡で建物跡を検出した。
3. 1993年度には大手道の全容を解明した。
4. 1996年には、米蔵付近より日本の城で最古の金箔塗りの鯱(しゃちほこ)瓦を発見。
5. 1999年には、本丸跡で天皇を迎えるためとみられる御殿跡の礎石を確認した。
6. 2001年〜2004年にかけて、大手門西側、東側などから西虎口を2個、大手門、
  東虎口を確認。
7. 2005年、大手門前面に空間のあったことを立証した。
8. 県は発掘調査をほぼ終え、事業終了の2009年3月を目指し、大手門周辺の整備工事を
  進めている。
 
安土城の復元案 
  内藤昌氏と宮上茂隆氏の案に加えて、新たに佐藤大槻氏の案が出された。
  織田信長の右筆、太田牛一の記した『安土日記』(『信長公記』)
  フロイス『日本史』ほか、イエズス会宣教師らの記録
  昭和15年安土城発掘調査報告
  平成元年から始まった第二次発掘調査報告などを参考に案が出された。

  内藤案の特徴は、天主内部に4階吹き抜けの空間があり、ここに宝塔が収まっていた、
  とするもの。内部に吹き抜け空間をとったことで、下層の規模がきわめて大きくなった。
  また複雑になった外観とあいまって、「壮大」「壮麗」という印象を与えるものである。
  NHKがこの内藤案を支持し、CGを作って繰り返し放送した。
  セビリア万博に出展された復元模型も、この内藤案に従ったものである。
  安土城記念館には、内藤案と並べ、宮上案による復元模型が展示されている。

太田牛一の記した『信長公記』に書かれていた、興味深いこと
1. 信長は、城下町の経営には苦労していたようだ。当時の侍は故郷に本拠を持っており、家臣に「安土へ出てこい」と言っても、なかなか集まらない。
 面白いのは、「弓衆」の長屋が焼けた際の信長の怒り方。今でいう単身赴任で男ばかりだから、料理などをしていて火事が起きたと言う。火事を機会に家族を呼び寄せるよう命じた。
2. 天正10年(1582)正月一日、信長が「御幸の間」を家臣に見学させたことが書かれている。
 「御幸の間」を拝観したあと、最初に参じた白州へ戻ると、信長公から台所口へ参るようにとの上意が伝えられた。それに従い伺候すると信長公は厠の口に立って待っており、そこでわれらの出す十疋ずつの礼銭をかたじけなくも手ずから受け取られた。
 

調査成果・新発見の絵図などから分かったこと
1. 安土城の縄張りは、山上には信長の城と宮殿があり、中腹には信長一族と小姓・右筆・
  馬廻り衆など側近の屋敷、山麓は城の外郭線の防御施設などが造られて、山全体が
  立体的な機能を持った壮大な城であった。
  山頂の宮殿、山腹の家臣屋敷、山ろくの砦(とりで)と、一体的な縄張りがある。
  やはり、天下取りの城というイメージ。
  しっかりとした防御機能を持って都に対峙(たいじ)していた。
2. 城下町や下街道に面した山麓を石垣で区画して、山=城とした。
3. 『信長公記』などに書かれている、山下(さんげ)・山麓は安土山の中腹を指す。
4. 伝本丸御殿(御幸の間)、直線の大手道(6〜7mの幅で180m)、三門形式(大手門・
  東口虎口・西虎口)の大手石塁の造から、天皇の行幸を迎える機能を備えていた。
  信長は、天皇を将軍自らの邸宅に招いた室町幕府を受け継ぎ、安土城に天皇を
  迎えようと考えたのだろう。
  天正10年6月2日、信長は本能寺で無念の自害に果て、その夢は叶えられなかった。
5. 城下に面する西側の防御が手薄。
6. 「江州蒲生郡豊浦村与須田村山諭立会絵図」(元禄8年)に惣構どて
  描かれ、また、「指上申西霊寺建立並寺地之」(江戸中期)に信長公の頃に
  惣郭之土堤を開いたと書かれている。明治初期の地図では惣構地内の道路は、
  鍵形路が分布していることなどから、安土城下町には、内町・外町があり、岐阜の
  城下町と類似している。但し、楽市楽座は内町にあった。

総まとめ
安土城は、近世の先駆けといわれるが、城・城下に中世的要素がある。城下の在り方や社会・経済的にも近世というには未成熟であり、まさに過渡期の城であって、戦国末期でより中世に近く、近世は次の秀吉の時期からと考えられる。

以上、今回の講演で確認できたことを念頭において、また、是非とも安土城跡を
訪れたいと思います。

《信長と安土城》
1534年 尾張で信長誕生
1546年 元服し織田三郎信長を名乗る
1551年 父信秀が病死、家督を継ぐ
1555年 清洲城主となる
1560年 桶狭間の戦い。今川義元を討ち取る
1567年 稲葉山城を攻略、岐阜城に改名。「天下布武」の印章を使い始める
1568年 将軍足利義昭を奉じて京に上洛
1571年 比叡山焼き打ち
1573年 足利義昭を京から追放。室町幕府滅亡
1575年 長篠の戦いで武田勝頼を破る
1576年 安土城築城開始。信長も安土に移る
1577年 安土城下町に楽市・楽座令
1579年 安土城天主が完成
1582年 本能寺の変、信長自刃。安土城天主、本丸炎上
1585年 安土城廃城


幻の屏風絵、7年は宮殿に
    ローマ法王へ信長が献上

2007年02月13日16時15分 (asahi.com参照)

 16世紀に織田信長が狩野永徳に描かせ、天正遣欧使節がローマ法王グレゴリオ13世に献上した屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」の手がかりを得るため派遣された滋賀県安土町の調査団(団長・若桑みどり千葉大学名誉教授)が9日、ローマで記者会見した。調査団は、1585年3月に献上された屏風が、その後少なくとも7年間はバチカン宮殿内の展示室「地図の画廊」に置かれていたことが確認されたと発表した。
 ※今後屏風絵が発見されれば、築城から3年で焼失した安土城の姿を知る
   貴重な資料となる。


安土町の今後の調査が待たれるところです。

下記の関連ホームページを参照下さい。

滋賀県教育員会のHPの安土城郭調査研究所
安土町観光協会(あづち周遊)
安土の歴史散歩と風景

当日の講演で映写された画像を撮影したもので
不鮮明なものが多いですがご辛抱願います。
主郭部の郭群(天主・伝本丸・台所跡など)
安土城の調査結果から見た郭と性格
安土城復元図を示して講演される近藤所長 天主の礎石(穴蔵)
御幸の間の復元図
天皇の行幸を想定して作られたもの
1間が7尺2寸の大きさである
御幸の間の見物ルート図
信長公記に書かれた天正10年正月一日
信長が御幸の間を見学させたルーを検証

御幸の間の見物ルート図
「信長公記」に書かれた天正10年正月一日、信長が御幸の間を見学させたルーを検証
天正10年(1582)正月一日、信長が「御幸の間」を家臣に見学させたことが書かれている。
 「御幸の間」を拝観したあと、最初に参じた白州へ戻ると、信長公から台所口へ参るように
との上意が伝えられた。それに従い伺候すると信長公は厠の口に立って待っており、
そこでわれらの出す十疋ずつの礼銭をかたじけなくも手ずから受け取られた。

東側の搦手付近
連続性のある石垣と平面形状の異なる郭群、船着場から台所などへ搦手道で直結している


近江国蒲生郡安土古城図 貞享4年(1687)  中央が天主
三方が琵琶湖に囲まれ、屋敷には信長の一族の家臣の名前が書かれている
天正10年6月2日、信長が本能寺で無念の自害に果て、6月15日、
安土城は何者かの手により放火され灰燼と帰した時より100年後に書かれた絵図

安土城復元図

大手道周辺の郭群
大手道周辺の郭群
伝秀吉邸(左)と前田邸(右)の復元図
前田邸の復元模型
等高線に沿った不等辺四角形が多く、比較的大規模な面積(茶色に塗られた部分)である
それ以外のところに、信長は家臣に普請をさせて住居とさせた



安土山南面山麓郭群

山麓の郭群
百々橋側地区 城の内外を画する連続した石垣と帯曲輪(おびくるわ) 
 石垣が組まれ、側溝が見つかり6mの石敷き道路が分かった

大手道周辺地区
三門を配した大手石塁と城内路および櫓推定地
中央が大手門、右の東虎口(行幸門・公家専用門)
左に西虎口2(武家専用門)西虎口1(通常大手門)

城の南側約百十メートルの間に大手門を含め、四か所の出入り口「虎口(こぐち)」があり、
すべて大手道につながることも判明。ただ、一番西側だけは門をくぐるといったん突き当たり、
さらに直角に曲がるともう一つの門がある堅固な戦国時代特有の枡形(ますがた)虎口だった。

蓮池地区
  伝江藤邸(出丸跡)と関連し、企画性をもった小郭群が見つかった

安土城総構概念図


従前は、安土城下町に惣構はないとされていたが、下記の新たな資料が発見され
上記のように惣構えがあったことが分かってきました

←「江州蒲生郡豊浦村
  与須田村山諭立会絵図」

  (元禄8年) 惣構どてが描かれている。


 「指上申西霊寺建立並寺地之」に
 信長公の頃に 惣郭之土堤を開いた
 と書かれている。
  (江戸中期)

 惣構地内の道路は、鍵形路が分布している。