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2003年新春恒例の初歩き
お正月を歩こう!交野の里の初春を!
交野古文化同好会


2003.1.2(木)午前10時〜午後3時15分
集合場所:JR河内磐船駅前広場

JR河内磐船駅前→森→寺・住吉神社(初詣)→塚穴古墳→神宮寺→
旧交野中プール→
昼食・倉治公園(トイレ)→古墳の塚→
清水谷古墳→涌き水→桜道・鐘撞き堂池→源氏池→
機物神社(初詣)→倉治小→免除川→有池遺跡→私部大池→
青山の石仏(沈黙・冷水地蔵)→船戸→JR河内磐船駅前
 2003年1/2(木)天候くもり時々晴れ、参加者26人。元旦の夕刻よりぐっと冷え込んだが、沢山の方々が参加された。心配された天候も午前中は曇り空で時々太陽が顔を出し、午後は雲の間から暖かい日差しをサービスしてくれて絶好のウォーク日和となりました。寺の里道を上ると、暖かい日差しを一杯に受けた別世界のような風景が広がって見えた

 河内磐船駅前では、「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします」と、口々に挨拶を済ませた。
 全員揃った所で井戸会長より「交野山麓の古墳を訪ね、古代の歴史に触れて頂くと共に、また交野ではじめての高速道路という超近代的な工事が進められようとしている場所を、直に歩いて各自確認してもらえる機会を作りました」とウォークの趣旨説明があった。

 案内は平田さん、中角さん。午前10時過ぎに河内磐船駅を出発、森村を過ぎ寺村の入り口から静かな村の中をくねくねと歩き、里山の道を上ると交野の町が一望できる高台の段々畑に出た。「わぁ、交野にこんな好い所があるんだぁ!!」と、参加者全員歓声を挙げた

 住吉神社で初詣。塚穴古墳では狭い羨道から一人一人と古墳の中に入り懐中電灯で中を見学した。1400年の時間を経過してもなお、石室はびくともしていない。これだけの遺物を残した先人の知恵と財力に驚く。
 住吉神社の北側の綺麗な棚田は、市内を見下ろす絶好の場所である。また、創価学園の小公園は、桜の名所でもある。直ぐ下に、重要文化財の山添家の大きな萱葺きの屋根が見える。山添家5代孫秀隆は、南伊勢五郡の領主であったが、織田信長に敗れてここに住みつかれたという。山添家住宅は現在、屋根の葺き替え工事中のため見学は中止されているが、道路沿いから工事現場を見学した。

寺古墳群(塚穴古墳)塚穴古墳
 寺古墳群は寺の集落の東南、竜王山の山麓に群集する後期古墳群(六世紀から七世紀初頭、飛鳥時代)である。14基の古墳からなり、いくつかの尾根に2〜3基づつ点在し、広い範囲をこえて寺古墳群と呼ばれている。
 そのひとつの寺中山古墳群は、寺の集落を過ぎ、住吉神社の手前の道を真直ぐ東に上り、創価学園の小公園を北に見ながら登ると小さな池が左右に5個ほど続き、谷筋を右へ曲がるとさらに池があり、しばらく竹薮と雑木の平地を行くと古墳に出会う。
これは横穴式石室を完全に残す古墳です。
 東西12m、南北11mの方墳で入り口は西を向いている。周りは竹薮と雑木で薄暗い。
 大人一人がやっと這って入れる程の入り口から、懐中電灯を片手にした平田さんに続いておそるおそる入る。羨道は短く片袖式となっている。中は、意外と天井が高く、195cmあるという。しっかりと石組みがされている。大きい岩石とそれを支える小さい石が左右にバラス良く組まれている。天井の岩石もしっかりと組まれすこぶる頑丈に出来ている。


 神宮寺の町並みが続く山根道から竹薮の中の小道をを抜けると、旧交野中学校のプールに出た。山からの自然の湧き水を取り入れた、自然石を刳りぬいて造られた立派な樋がそのまま残っていた。現在はヒマラヤ杉の植えられた綺麗な倉治公園になっているが、40数年前には交野中学校の職員室があり、木造の校舎と運動場があった。「懐かしいなぁ」という声があちこちから聞こえる。倉治公園で昼食、足元から冷え込むも少しお神酒も入って身体が温まる。

 昭和26年、関西電力枚方変電所の建設工事中、6〜7世紀頃と推定される8基の横穴式古墳が発掘され、出土した土器や装身具が変電所内に倉治古墳群出土遺物(交野市指定文化財)として展示されている(見学日:5月・11月の第3日曜 午前10時から午後3時まで 前日までに交野市文化財事業団まで申し込みが必要)ことなど、平田さんから説明を受けたあと、古墳の塚、清水谷古墳を見学した。
 東倉治地区の青いフェンスが張り巡らされた第2京阪国道予定地の間を縫うように歩き、鐘撞どん池、鐘撞どん地蔵を訪ね、JR学研都市線を越し源氏池の北側を通り機物神社で初詣を済ませた。

 倉治小学校を過ぎ、交野連山が一望できる、あぜ道に座り全員で記念撮影。この写真は、「石鏃」の次号の表紙を飾ることになる。
沈黙地蔵」と名付けて
小さな案内板が建てられたが、
無くなっていた。道路建設を静かに
見守っておられる。

 免除川を渡り、有池遺跡を過ぎ、高速道路予定地のフェンスに囲まれた青山のあぜ道に、じっと工事の進み具合を見守っておられる沈黙地蔵、水守り地蔵の石仏を尋ね、府道久御山線を南に歩き、再び河内磐船駅にたどり着いた時は午後3時15分を過ぎていた。

 今回のウォークは交野連山の麓の古墳を訪ね、古代から開けていた山根道を歩き、JR学研都市線を跨ぎ、交野市の東部を一回りする約9kmの行程だった。尋ねるたびに第2京阪国道(高速道路)予定地は姿を変えて行く。青いフェンスに囲まれた面積がどんどん増え、建物がなくなり更地に姿を変えて行く。どこからでも良く見えていた交野山が広大な高速道路に阻まれて見えなくなって行くのだろうか。JR線、京阪線を跨ぐためには20m位の高さになるのだろうか。そうなれば、交野の風景も一変する。
 環境汚染が心配されている中、工事はどんどん進んでいるようだ。青山の道路予定地では、大阪府が発掘を続けており村の跡、溝などが出ているようだが詳細は不明。
 
 これからも、歩くたびに変わり続ける予定地を我々の眼で良く見て、永く記憶に留めておきたいものである。また、写真などに収めて変わり行く町を記録しておく必要がある。

 井戸会長の熱弁と平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史と高速道路の進捗度合いなどを確認できた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
第2京阪国道予定地写真、交野ドームより枚方市方面を望む


    平成14年3月撮影(なにわWebタウンページより)
 

寺村からの里道を上る
遠方に交野市内が僅かに見える
寺村の住吉神社
初詣で今年の盛運を祈る
寺の塚穴古墳
墳丘と横穴式石室が完全に残っている
6世紀後半から7世紀初葉の頃の古墳
山添家住宅・国の重要文化財
現在、屋根の葺き替え工事中のため
見学は中止されている
古墳の塚 
玄室の石で心と書かれている
関西出力枚方変電所付近から
出土した6世紀後半の古墳の骨を
集めて昭和33年に作られた
清水谷古墳・標高70mの地点
覆屋が掛けられ大事に保存されている
7世紀の築造と推察されている
横穴式石室を備えている
基底部から天井石上部まで1.97m
交野連山が雄大に望める
左から交野山、旗振山、竜王山
青山の第2京阪国道予定地
沈黙地蔵が工事を見守っている

清水谷古墳
  交野市東倉治5丁目にある横穴式石室を具えた古墳である。清水谷古墳内部
東倉治の大阪府警察学校の南、北両脇の道が山裾で交差する、その交差点の東に位置している。標高70m、西への眺望が開け東に交野山系がある。
 この清水谷古墳は、昭和42年3月末、当時この土地の所有者であった中野氏が蜜柑の苗木を植えようとして地面を50cmほど掘り下げた際、横穴式石室の天井石が偶然見つかり、存在が確認された古墳である。
 墳丘は9m、墳径は12m前後。主体部は、南北にやや長い楕円形の墳丘の中央に、南に開口する横穴式石室が設けられている。現在、横穴式石室の上は、覆屋が造られ石室を保護している。この横穴式石室は、「無袖式の横穴式石室」である。
 この山麓地方は、古代の機織業を主とした渡来人の居住地が南から北へと続いて、はたやま(交野市寺)、はたもの(交野市倉治現在の倉治より山寄り)、はただ(枚方市津田、当時の集落は清水谷の口)の3機織業集落が、それぞれ山麓扇状地の上に繁栄していた。そして、夫々その集落の附近に横穴式古墳群を築造している。
 それは、はたやま集落では竜王山古墳群、はたもの集落では関西電力枚方変電所敷地内の横穴式古墳群である。はただ集落では清水谷古墳が発見されたのみであるが、附近にも古墳らしきものがあるようで、はただ古墳群中の一部と思われる。
 また山麓3集落とも、7世紀の築造と推察されている
《ふるさと交野の野仏との出会い》
 
鐘撞堂池(かねつきどんいけ)(東倉治2丁目3)
 関西電力枚方変電所の下に松塚上池、下池があり、その下の池である。面積は約20アール。標高は50m。第2京阪国道予定地の側にある。
 この池の堤防に鎮座する阿弥陀様を「鐘撞どん地蔵」という。  鐘撞どん地蔵
 この堤防の下に昔、小さなお堂(鐘撞堂)があって鐘が吊るしてあった。
鐘は下の田んぼが、日照りで水がなくなったとき、池の水をださなければならない。そんなとき、この鐘をついて池の水を出すことを村人に知らせたのである。
村の人は鐘が鳴ると自分の田の水口を開いて水が入るようにして待ったのであろう。
 その鐘撞堂があった事から、鐘撞堂池と名がついた。
        
「水守(みずまもり)地蔵」
  青山2丁目、第2京阪国道予定地より約150m南の畦に鎮座されている。
 
「二十数年前に撮った、一枚の写真をたよりに在ることを信じていた。(事実あきらめかけていた所) 
 前々回のサタディーウォーク(第2京阪国道予定地を往く)の際、現地付近で写真をみてもらった。
参加者の村田様からあの畦のあたりじゃないですかとおっしゃった。そのときはそのまま次の地へ足を運んだ。何か心に残るものがあったので、古墳清掃の帰り道、寄って見ようということになり、現地へ、
 在った!おられた!二十数年振りの再会となった。
何か心を動かすものがあったのでしょう。」
                       (平田さんのお話)

《二つの水源(湧水)》
倉治地区 交野山の山麓、扇状地による湧水。

1.かに川水源(東倉治4丁目) 以前は地酒の水源として利用されていた。
2.なしがだに水源(倉治7丁目) 倉治の村へ引かれ、庭木の水や飲み水などに利用されている。
 ※「無ヶ谷」と書くのか?地名ではこのあたりを「東浦」という。
 源氏橋を渡った右側(北)がかなり落ち込んでいて、その落ち込が桜道から津田方面まで続く。V字になった落ち込みを谷と言うのであって、地形的に見て落ち込みだけなので、ついた名前ではないか?

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