ホームページに戻る
 

2019年 新春恒例の初歩き

磐船峡・鮎返しの滝と磐船神社初詣

 明けましておめでとう御座います!今年は亥年です。
1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きで、
天野川の上流域・磐船峡の史跡を訪ねて来ました。


日時:平成31年1月2日(水)  午前9時集合
集合場所 京阪・私市駅
  27名(会員19名)参加
案内:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)
行程 : 交野市駅(9時集合出発)→ 哮ヶ峰(クライングウォール) →
名勝・磐船峡 鮎返しの滝 → 磐船神社初詣 → いわふねスポレク解散 

12時過ぎ  徒歩 約6.5km
 2019年1/2(火)、天候晴れ。今年の正月は大変穏やかな年明けで初歩きとしては最高の天候の中、ゆっくりと歩くことが出来ました。早朝から私市駅には、「明けましておめでとうございます」「今年も昨年同様どうぞよろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら集合された。

 午前9時皆さんが揃った処で、高尾部長の司会で始まり、村田事務局長の新年の挨拶の後、高尾秀司氏の案内で、私市駅から天野川の上流域・哮ヶ峰・磐船峡・磐船神社の史跡めぐりと初詣、初歩きに相応しいコースを探訪してきました。磐船神社では、初詣で賑わう境内で暖かい焚火と甘酒が振る舞われて、交野古文化同好会の繁栄と会員の健康を願って参拝してきました。

 本日の参加者は元気な総勢27名(会員19名)の皆さん、新春の初歩きと山登りを存分に楽しまれたようで、「穏やかで天気も良く、鮎返しの滝が見られたことと磐船神社に初詣もできて、良い正月を迎えられ幸せです」と感想を頂戴しました。
 
 高尾さんには綿密な事前の準備と下見に万全を期していただき、大変分かりやすくご案内いただきました。また、当日配布のレジメを提供いただき誠に有難うございました。
  記して感謝申し上げます。

 ※HPを記載するにあたり、交野市史、磐船神社のホームページなど、
  WEB記事などを参照しました。記して深謝します。

交野古文化同好会・恒例初歩きレジメ
磐船峡・鮎返しの滝と磐船神社の初詣で
集合場所:京阪・私市駅 午前9時集合

   昨年完成した磐船峡への遊歩道

 今まで車道しか通れず大変危険でありましたがこの度、長い間の懸案でありました歩道が大阪府の肝いりで完成いたしまた。これで磐船峡を抜け、従来まで使っていた山道を通ることにより、磐船神社まで比較的安全に行くことが出来るようになりました。今回、団体として初歩きです
  新しい展望台より見た「鮎返しの滝」

 今回遊歩道の完成に伴い鮎返しの滝の展望台も同時に出来ることになり殆ど出来上がっておりますが現在展望台の安全柵が未だ出来ておりません。

ことしの3月頃?案内板と同時にできる事になっております。昨年の8月にはこれを記念して楓も5本植えており、完成後植樹際も行う予定になっております。

 
  磐船神社

 古い神社形式の代表的な神社であります。本殿が無く、拝殿のみという形式です。一番の代表が奈良・桜井にある大神神社、近くには妙見宮があります。かつての神社には社殿が無かった。代わりに用いられたのが磐座(いわくら),神籬(ひもろぎ)であった。磐座は神が降臨する岩で、一方神籬は木製のもので、青竹などで四方を囲んで注連縄を巡らし中央に榊を立て幣を取り付けたものをいう。

 
   四社明神 

 西暦587年物部氏の滅亡・中世の神仏習合の影響で、境内に磨崖仏、(四社明神・住吉神社の本地仏という説)有り、右から地蔵菩薩・阿弥陀如来・大日如来・勢至菩薩を彫ってあるといわれる。

 又拝殿の南側には天文14年(1545)の年号が彫られた不動明王の石仏もある。


  哮ヶ峰(クライングウォール)前にて記念撮影


 「肩野物部氏と磐船神社」のレジメ
 このコースは、府民の森「ほしだ園地」と「くろんど園地」を結ぶハイキングコースです。
・府民の森「ほしだ園地」は、巨大な岸壁や雑木林の自然の中にある、約105haの広大なネイチャーパークです。日本最大級の人道吊橋(星のブランコ)やクライミングウォールがあるアドベンチャーゾーンです。
・磐船神社は、御祭神饒速日命が天照大御神の詔により天孫降臨された記念の地であり、古典によると「河内国河上哮ヶ峯」と呼ばれているところです。御神体は命の乗って来られた「天の磐船」といわれる高さ12メートル、幅12メートルある船の形をして巨大な磐座(いわくら)です。また、古代からの日本人の巨石信仰にも思いを馳せると、天の磐船は古代の人々にとってまさに天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域でありました。
・磐座の東側には四社明神(住吉の神の本地仏として大日如来・観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四石仏)が彫られています。
・鳥居をくぐると、不動明王が彫られ天文4年(1544)の銘があります。
・府民の森「くろんど園地」は、京阪私市(きさいち)駅から奈良県の「くろんど池」に至るハイキングコースの大阪側にある園地です。なだらかな起伏が多く、何本ものハイキングコースがあります。
・月輪の滝は大正10年頃まで金剛の滝と呼ばれていたようです。昭和45年滝が広で工事中に、富寿神宝50枚が入った土師器の甕とせん仏が出土しました。現在、倉治の資料室で展示しています。

集合地は京阪私市駅
 今年の正月は大変穏やかな年明けで初歩きとしては最高の天候の中、ゆっくりと歩くことが出来ました。早朝から私市駅には、「明けましておめでとうございます」「今年も昨年同様どうぞよろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら集合された。
 
 
 <ちょっと小耳に>
 昭和4年開業時、京阪交野線は信貴生駒電鉄枚方線でした
 信貴生駒鉄道は、京都方面より信貴山への参詣客を運ぶことを目論んで、現在の京阪交
野線に当たる区間の免許を取得して昭和4年私市~枚方東口を開業、私市~生駒間は後に
建設予定であったが、昭和恐慌による経営難で、昭和14年交野電気鉄道に譲渡された。

京阪 私市駅の変遷
 

信貴生駒電鉄について詳しくは、こちらを参照ください!
 

 哮ヶ峰へ出発
 
 いわふねスポレクを通り天野川沿いにピトンの小屋まで
天野川沿いのハイキングコースを歩く
 
 
 
 
 
 
 駐車場とわんぱく広場を結ぶ全長約200mの木製歩道橋
地上10mの歩道橋から見上げるコナラの木々もまた違った表情。
デッキからの天の川の眺めも最高。
 
 
 哮ヶ峯 
 哮ヶ峰(たけるがみね)、天野川鮎返しの滝のすぐ下流にあり、東西方向にずんぐりした花崗岩で出来た台地。南側は昔、石切場となってその跡が断崖絶壁となって残っている。神話の山である。太古の時代に、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船(いわくすぶね)に乗ってこの峰に天降ったという。現在、付近にはロッククライミングの壁が作られ、交野のつり橋「星のブランコ」への入り口になっている。
  ※哮ヶ峰の頂上に哮ヶ峰の石碑が建てられています。
 
  哮ヶ峰の石碑
 哮ヶ峰の石碑 
 哮ヶ峰は、太古の時代、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐樟船に乗ってこの哮ヶ峰に天降ったという神話に満ちた山である。

 標高186m、頂上の台地は西北の方向に延びている。大和田原、天野川(道)、私部に中心とした両側の町並み、遠く八幡さんの山が見え、戦略的な要点といえるだろう。


 上り切った南側に約160cmの碑は建っている。この碑は昔、小松宮(妙見さん)にあったが明治4年、廃仏毀釈の時小松宮にあることが好ましくないといったので、ここに遷したという。


 碑の刻銘
 (太陽) 
 奉祭妙見法 三年成就必 
   万治二年大坂釣鋳町
 (星) 
  乾元亨利貞   
    正月七日大行院法元
  (月)
   現世安穏為二世安楽也

  (石鏃NO114号を参照)
 
 
高さ16.5m、オーバーハング2~5mの本格的なクライミングウォール。
平成9年のなみはや国体で使用。
利用するには、指導者(講習会受講者)の同伴が必要。
初心者でも体験できるクライミングゾーンもあるので、一度チャレンジしてみよう。
 
 
 
 
 
 昨年、新しく新設された遊歩道を歩き、鮎返しの滝へ
 
 
 大阪府指定名勝・磐船峡(鮎返しの滝) 
 大阪府指定名勝・磐船峡(鮎返しの滝)    平成30年3月14日指定

 花崗岩の山地を深く浸食した磐船峡は、無数の巨石や奇岩が露呈するなかを天野川が流れ、別世界のような景勝地となっています。鮎返しの滝は、生駒山地と交野山地との境に深い磐船峡を穿つ天野川が、平野に流れ出す段差の高いところにあります。落差約8メートル、約7メートルの一枚岩を激しく流れ落ち、昔から鮎の遡上も許さない難所とされます。
 この滝の上流には、天孫降臨伝説の巨石『天の磐船』と、奇岩の積み重なる地下洞窟をもつ磐船神社があります。
 鮎返しの滝および磐船神社周辺地を含む磐船峡は、江戸時代以来今日まで、風致景勝が人々を魅了していることから、大阪府文化財保護法条例に基づき名勝指定を受けました。
 
 今回遊歩道の完成に伴い鮎返しの滝の展望台も同時に出来ることになり殆ど出来上がっておりますが、現在展望台の安全柵が未だ出来ておりません。ことしの3月頃?案内板と同時にできる事になっております。昨年の8月にはこれを記念して楓も5本植えており、完成後植樹際も行う予定になっております。
 

手前の橋の向こうの山に遠望されるのは「星のブランコ」
 鮎返しの滝から山越えで、168号線の磐船隧道へ歩きます
昨年の台風21号により樹木が倒れ、一部ロープ伝いに登る注意ヶ所あり。
 
 磐 船 隧 道
昭和22年トンネル工事が始まり25年頃完成。
その後、狭くて暗いトンネルは車の往来が激しくなり交通に支障があり、
昭和62年改良工事に着手、63年3月31日完成。現在の姿になりました。
 磐 船 神 社
詳細はこちらのホームページへ  磐船神社へようこそ
 磐船神社では新年の初詣で賑わう中、予め高尾さんが西角宮司に連絡して頂いていたお蔭で、神社の由緒書と岩窟めぐりの写真集を頂戴出来、詳しくご案内下さいました。
 宝永年間大和田原・河内田原・私市・星田がもめごとで分裂したとき、この神社は廃社同然となり明治まで続くが磐船の「ご神体」だけは、ちゃんと残っていたので復活でき昭和になり社殿などが整えられようやく復興することができたとのことです。
 
 
 古い神社形式の代表的な神社であります。本殿が無く、拝殿のみという形式です。一番の代表が奈良・桜井にある大神神社、近くには妙見宮があります。かつての神社には社殿が無かった。代わりに用いられたのが磐座(いわくら),神籬(ひもろぎ)であった。磐座は神が降臨する岩で、一方神籬は木製のもので、青竹などで四方を囲んで注連縄を巡らし中央に榊を立て幣を取り付けたものをいう。
 
 
                          磐船神社の御由緒
自然・巨石信仰・天都神の降臨・仏教の伝来・
神仏習合・神仏分離/日本の信仰の歴史を物語るお宮

創祀の由来


磐船神社は御祭神饒速日命が天照大御神の詔により天孫降臨された記念の地であり、古典によると「河内国河上哮ヶ峯」と呼ばれているところです。御神体は命の乗ってこられた「天の磐船」といわれる高さ12メートル、幅12メートルある船の形をした巨大な磐座(いわくら)で、初めて訪れた人々は皆一様にその威容に圧倒されるといいます。

 当社は大阪府の東北部、交野市私市(かたのし きさいち)にあり、奈良県生駒市に隣接する、生駒山系の北端、まさに河内と大和の境に位置します。境内を流れる天野川は、10キロほどくだって淀川に注ぎ込みます。この天野川にそって古代の道ができ、「上つ鳥見路」と名付けられ、後世には「磐船街道」とか「割石越え」と呼ばれるこの道(現在の国道168号線)は現在の枚方と奈良の斑鳩地方をむすび、さらには熊野にまで続く道でした。瀬戸内を通り大阪湾に到着した人々や大陸の先進文化は、大和朝廷以前にはそこから淀川、天野川を遡りこの道を通って大和に入るのが最も容易であったと思われます。

 またその一方で、古代からの日本人の巨石信仰にも思いを馳せると、天の磐船は古代の人々にとってまさに天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域でありました。そしてこの地に出現された饒速日命はまさに天から降臨された神様であり、長髓彦などの豪族たちをはじめ、大和の人々から天神(あまつかみ)として崇敬を集めたのであり、命のお伝えになられた文化が大和河内地方を発展させたものと思われます。そして当社は、天神として初めて大和河内地方に降臨された饒速日命の天降りの地として信仰されてきました。


磐船神社と物部氏


 古代における当社の祭祀は饒速日命の子孫である物部氏(もののべし)によって行なわれていました。その中でも特に交野地方に居住した肩野(かたの)物部氏という物部の一族が深く関係していたと思われます。この一族は現在の交野市及び枚方市一帯を開発経営しており、交野市森で発見された「森古墳群」の3世紀末~4世紀の前方後円墳群はこの一族の墳墓と考えられており、相当有力な部族であったようです。また饒速日命の六世の孫で崇神朝における重臣であった伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の住居が現在の枚方市伊加賀町あたりにあったと伝承され、森古墳群中最大最古の古墳の被葬者はこの方ではないかとする説が有力です。


神仏習合の時代


 物部守屋公が蘇我氏との崇仏・排仏論争に破れ、物部の本宗家が滅びるとともに交野地方の物部氏の勢力も一掃されることとなります。このため当社の祭祀も衰退を余儀なくされますが、当社を総社としていた私市、星田、田原、南田原の四村の人達が共同で祭祀を行ってゆくようになりました。 その後、生駒山系を中心とする修験道や山岳仏教が盛んになると、当社もその影響を受けることとなり、修験道北峯の宿・岩船の宿としてその行場に組み込まれてゆきます。

 また、平安朝になると交野が貴族の御狩り場や桜狩りの名所となり、歌所ともなります。そして歌の神様でもあり、航海の神様でもある住吉信仰が広まり、当社も御神体天の磐船のそばの大岩に住吉四神がお祭りされるようになります。この理由についてはお互いに船と関係の深い事により結びついたとも、「新撰姓氏録」という典籍によると、住吉大社の神主であった津守氏が饒速日命の子孫にあたり、その関わりで物部氏滅亡以後、住吉四神が祀られたとも考えられています。(住吉大社と当社の関係は意外と深く、「住吉大社神代記」という古典には、「膽駒神南備山(いこまかんなびやま)本記 四至(中略)北限饒速日山」として、当社(=饒速日山)を、住吉大社の所領であるかあるいは住吉大神と縁の深い「生駒山」北の境界として、記していることは興味深いものがあります。)鎌倉時代にはこの住吉の神の本地仏としてその大岩に大日如来・観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四石仏が彫られ、四社明神として知られています。その後四社明神の祀られた大岩の前に御殿が建てられ、現存はしていませんがその屋根や柱を立てた穴らしい跡が岩に残っています。また境内の大岩には不動明王が彫られ、「天文十四(1545)年十二月吉日」の銘が彫られ、神仏習合の色合はますます強まりました。


近世以降


 近世に入ると当社は先の四村の宮座による共同の祭祀が定着して行なわれていましたが、度重なる天野川の氾濫による社殿、宝物などの流失が続き、神社の運営は困難を極めました。そして江戸時代宝永年間(1704~7年まで)に四村宮座の争いから、各村御神霊をそれぞれ神輿にのせて持ち帰り、それぞれの村に新たに社殿を設け氏神として祀りました。このため当社は荒廃を余儀なくされます。しかしその後も村人たちの努力により饒速日命降臨の地としての伝承は守られ、明治維新後多数の崇敬者の尽力により復興されました。また日本中に吹き荒れた排仏毀釈運動の影響もなく神社境内の仏像も無事保護され、神仏習合をそのまま今に残しております。


 磐船神社は、御祭神饒速日命が天照大御神の詔により天孫降臨された記念の地であり、古典によると「河内国河上哮ヶ峯」と呼ばれているところです。御神体は命の乗って来られた「天の磐船」といわれる高さ12メートル、幅12メートルある船の形をして巨大な磐座(いわくら)です。
 また、古代からの日本人の巨石信仰にも思いを馳せると、天の磐船は古代の人々にとってまさに天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域でありました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
四 社 明 神 
 
磐座の東側には四社明神(住吉の神の本地仏として大日如来・
観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四石仏)が彫られています
 
鳥居をくぐると、不動明王が彫られ天文4年(1544)の銘があります
 
磐船神社のホームページ


 岩窟拝観をご参照ください!
こちらから岩窟めぐりが出来ます!
 
 
 御神体は命の乗って来られた「天の磐船」といわれる高さ12メートル、
幅12メートルある船の形をして巨大な磐座(いわくら)です

舟形大岩の上面に「加藤肥後守」の五字と
その紋所が彫り付けられています。
 


 秀吉の 力もおよばぬ 舟形巨岩
         (交野郷土史かるた)


磐船神社のご神体・大岩天の川の上流の磐船峡は、数多くの岩が露出している。中でも磐船神社の御神体といわれる船形の巨岩は、かってこの地に勢力を張っていた肩野物部氏(かたのもののべし)が「饒速日命(にぎはやひのみこと)が渡来したときに用いた磐樟船」として崇拝したといわれています。
 こうした降臨伝説を物語るように、平安時代から交野の村々では、海の守護神である住吉三神を祭神とする氏神信仰が盛んであった。
巨岩は横18m、高さ12mもあり、神殿に覆い被さるように大船の舳先(へさき)を南に向けて座しています。

 時代は下り、豊臣秀吉が大阪城を築くにあたって、諸侯を督励して巨岩を運ばせたことはよく知られている。
 その際、
加藤清正(加藤肥後守)が石屋に命じて岩を割ろうとしたのですが、石から血が流れ出した為、思いとどまったといわれている。神の宿る巨岩にまつわる説話としても、よくできたストーリーではないでしょうか。

 
舟形大岩の上面に「加藤肥後守」の五字とその紋所を彫り付けている。
       (交野市史 民俗編)


 現在では、下記に掲載しました追記のように↓  考えられています。

 
  伝説の追記  交野郷土史かるためくり 番外編その一

   私市の磐船神社には、高さ、幅とも12メートル以上もある巨岩があり、神社のご神体として祀られています。
 この巨岩は、加藤清正が大阪城の石垣に利用しようとしたが、あまりの大きさに断念したという伝説があります。
 しかし、近年この巨岩のてっぺんに、左の拓本のように、加藤肥後守と石工の名が刻まれていることが分かりました。
 ここで登場する加藤肥後守は、秀吉の忠臣加藤清正ではなく、その息子のことと考えられます。
 そのため、ご神体を運ぼうとしたのは、秀吉の時代より、少し後の時代だと思われます。

 現在の大阪城の石垣も秀吉時代のものではなく、徳川家康が大坂夏の陣より後に諸国の大名から石を取り寄せ、築造したものということが分かっています。
 加藤肥後守にしても、大阪城まで運び出すことができなかったことから、石に名前を刻むことしかできなかったのでしょう。
 ちなみに大阪城の石垣に加工されながら使われなかった石を残念石と呼びます。
(交野郷土史かるためくり)を参照


加藤肥後守拓本
 帰りは、往路を再び歩いて私市駅へ向かいます。
 
 スポーツ文化センター「星の里いわふね」(スポレク)前で解散しました。
 
 
参加の皆さん、大変お疲れ様でした!

交野古文化の歴史ウォークに戻る