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2024年 新春恒例の初歩き
妙見宮初詣と周辺史跡探訪
案内:山本秀雄氏(交野古文化同好会)

 明けましておめでとう御座います!今年は辰年(たつどし)です。
今年は、辰年に因んで「青空へ昇る龍の勢いでやるぞの精神」で
健康第一に活動して行きたいと思います。

1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きに参加して、
星田妙見宮にお参りして健康で過ごせるようお祈りして来ました。

日時:令和6年1月2日(年始)  午前10時集合
集合場所 京阪バス停 妙見口
    参加者20名(会員14名)
 行程 : 妙見口〜光明寺檀徒墓〜交野八景・妙見の観桜〜家康ひそみの藪
〜国定公園〜妙見宮の歌碑〜星田妙見宮〜妙見奥の院〜鎌倉墓
 2024年1/2(火)、恒例の初歩き天候晴れ。
 年明け早々、1月1日午後4時10分頃、石川県能登地方を震源とする震度7の大地震が起き沢山の方々が亡くなり大きな被害が発生しました。この地震により亡くなられた方々のご冥福をお祈りしますとともに、被災された方々へ心よりお見舞いを申し上げます。

 初歩きの当日は風もなく良い天候に恵まれ、「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら妙見口に集合。
 村田会長は新年の挨拶のあと、「来る1月13日の交野郷土史かるた大会は、小学生及び参加者合同のかるた大会を盛大に行いたいと思います。つきましては、参加スタッフの皆さんには、12時50分に会場へお集まり下さい」と述べられた。続いて、案内役の山本秀雄さんより、当日の案内コースと史跡などの概略説明がなされ早速、星田妙見宮に向けて出発。光明寺の檀徒墓から妙見河原の桜道へ出て、交野八景で有名な妙見の桜並木をゆっくりと上り、「家康のひそみの藪」で詳しく説明を受けた後、妙見宮の前で元気な皆さん全員で記念撮影。

 初詣客で賑わう妙見宮でしたが、山本さんより、懇切丁寧に「星田妙見宮」について解説いただきながら妙見宮をぐるりと回り裏参道へ出たところで記念撮影。最後の行程の「鎌倉墓」を見学後、12時過ぎ解散。
 当日配布されましたレジメその他資料関係など、HPへの掲載を
快諾いただき誠に有難うございます。記して感謝申し上げます。

写真提供は、毛利信二様にお願いしました。

初歩き 妙見宮周辺史跡レジメ
 
 
 
 
 
 妙見宮の石造物等配置図
 
 
 
新年のご挨拶 
村田会長(左)と山本さん(右) 年の初めのご挨拶

2024年1月2日、初歩きMAP

 

元気な皆さんが勢揃い!
星田妙見宮鳥居前で記念撮影
 集合場所の妙見口バス停

 
案内:山本秀雄氏(交野古文化同好会)
 
 
 
 
 妙見口の交差点に集まり、先ず案内の山本さんより、新年のあいさつの後、「昔の妙見口交差点付近の妙見川は天井川で私市と星田を行き来する住民は、川を越すために上り下りしていたこと、また通行に便利なように天井川の下がトンネルになっていた」ことなどをお聞きする。
 
天井川であった妙見川とトンネル風景(昭和30年代?) 昔、このあたりは星田の禿げ山から流れ出た沢山の土砂で一面妙見川原となり、流れる妙見川も大雨のたびに土砂で川底が埋まり、雨が止むと村人は総出で川底をさらえて、その土砂で両側の堤を一層高く、厚く盛り上げた。それを繰り返していると妙見川は高い堤の天井川となり、その下を通行に便利なようにトンネルが掘られた。トンネルの上にあった、地蔵さんは今は、妙見口の交差点の東南角に祀られている。

 昭和38年から41年にかけて妙見川改修大工事でトンネルはなくなり、旧川の跡は道路と住宅になり、妙見川原からこのトンネル跡までの350mは桜並木が延長され、下流の藤が尾地区には、府営と供給公社の団地が建ち、現在は一大住宅街となっています。

 
天井川の「妙見川(ひがしかわ)」(星田名所記)
妙見口交差点(=左)とトンネルの上にあった、地蔵さんは、
今は妙見口の交差点の東南角に祀られている。
道行く人には、背を向けているため、案外と知られていない。

いつも綺麗なお花がお供えされている
 光明寺の檀徒墓
 
 
 2016.9.21に平田政信氏にご案内頂いた時の写真を掲載
阿弥陀立像
 
 
 
 
 交野八景・妙見の観桜
 
 交野八景の一つで有名な妙見川原の桜並木
(戦前の桜は明治42年に400本の吉野桜が植樹され、年々有名になり
花見時には片町線に臨時列車が出て、大変賑わったそうである。
昭和20年の敗戦後、その桜も切られ、間もなく現在の桜が植えられた。)
妙見の桜並木は、平成元年「大阪緑の100選」に選ばれている。
最近、交野市の市指定文化財として指定された「江戸時代末期の絵地図」には
見事な桜並木が描かれており、既に江戸時代から桜の名所として知られていた。
 
 
妙見河原の桜について
 @ 天保11年(1840)〜安政5年(1858)の星田村大絵図に、
   鳥居からじょうもん坂の妙見堤に
   桜並木の図が初見  天保11年に妙見宮拝殿が再建され、それを機に桜の植樹
 A 明治7年〜11年 堺県星田村絵図には、じょうもん坂の少し下流まで桜並木
 B 明治42年 西井村長時に400本の吉野桜を植える
 C 戦後(昭和20年)にすべての桜を伐採
 D 昭和44年 桜を主体とした公園計画の下じょうもん坂より下流の両岸にも
   桜・もみじが植えられた。
 ※ これらにより、大阪みどりの百選「妙見の桜並木」、交野八景で「妙見の観桜」に入選し、 大阪府下の桜の名所となっている。 


 大阪みどりの百選「妙見の桜並木」の石碑
 
 
 

家康のひそみの藪
 

 妙見坂小学校の南側、妙見宮の参道前の竹薮が、徳川家康のひそみの藪である。
 家康は二度、星田へ来ている。
 一度目は、天正10年(1582)家康41歳の時、、織田信長が京都本能寺にて家臣明智光秀の謀反により自害したと聞き、堺から逃げ帰る途次、一時この星田の藪にひそんだと言い伝えられている。
 2度目は、元和元年(1615)家康74歳の時、大阪夏の陣に東軍16万人のうち、手兵1万5千人を引き連れて星田の平井家に一泊している

「伝家康ひそみの藪」物語   (ふるさと交野を歩く ひろい話(3)より)

天正十年(1582)6月2日の明け方に織田信長が京都本能寺に於て、家臣明智光秀の反逆によって自害し果てたとき、信長と同盟を結んでいた徳川家康は、少人数の近臣を連れて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していた。

当時、信長の強大な勢力によって一応近畿は平定され治安は保たれていたが、その盟友を失った時の家康の立場は極めて微妙にならざるを得なかった。 幸い、信長死すの情報がいち早く家康のもとにもたらされると、身の危険を察知して、すぐさま堺を退去して本国三河に帰ることとした。

家康はいずれの道を通って河内から山城を経て三河に帰ったか。 
 中央公論社の日本の歴史第十二巻の
282頁には、「家康は津田主水頭(もんどのかみ)に道案内を求め、急に道を転じて宇治田原に向かうことになった。」と書き、枚方市史第三巻18頁には「家康一行は、津田村には信長恩顧の者がいるから道案内をざせようという進言をいれ、その道案内によって津田村から尊延寺村を経て山城綴喜郡に出た。」と書いている。

 吉川英治の太閣記には、「枚方から津田方面に向かった」と記し、山岡荘八の徳川家康には、「守口から北河内の津田方面に向かった」と書いてあり、いずれも星田に来たとは書いていないが、津田方面には家康が来たという伝承を聞かず。星田の伝承では、星田炒見宮の参道の入口の北に「家康ひそみの薮」のことを俗に「けんしきの藪」といって、家康が堺から逃げ帰る途次、一時この藪に潜んでいたと言い伝えられている。  
   続きは、こちら


         家康ひそみの藪MAP

 
 
 
星田妙見宮
詳しくは、星田神社と星田妙見宮のHPをご参照ください!
 
星田妙見宮由緒書
「正式名」 小松神社
「創立」 平安時代(弘仁年間)に創建、
明治三十九年十一月に星田神社境外社となる

 太古より生駒山系は岩座信仰が盛んであり、この中にあって、当宮は現在残る数少ない岩座信仰の霊場です。平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810〜823)に、弘法大師が交野へ来られた折り、獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、仏眼仏母尊の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り、それが三ヶ所に分れて地上に落ちたといいます。この時よりここに、「三光清岩正岩の妙見」として、祀られるようになったと言います。

 平安時代には「神禅寺」称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には、「嘉承元年(1106)九月二十三日 星田神禅寺」と見えます。
 また「東和久田系譜」延宝六年(1678)には、「采女迄三代妙見の別当ショクニシテお供燈明捧御山守護致由候緒也」と記されており、応永九年(1402)生まれの和田出雲安直、将監安道、采女安国の三代にわたり、当宮の別当職であったことがわかります。天文四年(1535)の神明帳には、小松大明神と記されています。

星田妙見宮にまつわる詳しい伝説
については、ここをクリックして下さい

五十二代嵯峨天皇の弘仁年間(810〜823)、弘法大師は京都を旅発たれ、ところどころの霊場を訪ね回っておられたが、ふと河内の国私市(きさいち)の観音寺へ立ち寄られ、ここで虚空蔵菩薩求門持(こくぞうぼさつぐもんじ)の法を修められた。
すると、その法力によって、その夜、山の手に仏眼仏母の光明が輝いた。
そこで、夜明けになってから山に登り、獅子窟寺山の吉祥院にある獅子の岩屋に入って、仏眼尊の秘法を唱えられた。

すると、不思議にも、大空から、七曜の星(北斗七星)が降り、それが三つに分れて落ちた。八丁三所と言われている
その星の降った所を探してみると、星田の高岡山の南にある星の森、光林寺の境内の森、そして今一つはこの妙見山の頂にある三つの巨岩である。
以来、これらの石を影向石(ようごうせき)として祭ることになったと言われている。(妙見山影向石略縁起)による。

影向石(ようごうせき)とは、神仏がその姿をこの石の上にあらわしたという石で、八丁(872b)とは、三ヶ所の影向石の間が八丁隔たっているという意味である。

 
 
 ここ星田妙見宮は、諸々の宗派を超えた神仏が祀られており、神仏習合の固まりのようなお宮さんです。(妙見宮と豊臣稲荷)

1、妙見信仰とは−北辰妙見菩薩信仰(北辰妙見菩薩―道教の北辰信仰が仏教に入って北辰妙見菩薩となった。神道に入っては、天御中主神と習合した)(妙見=妙なる視力→事の善悪や真理をよく見通す)
  *道教の北辰信仰−北極星(北辰)は宇宙のすべてを支配する最高神(天帝)で、その乗り物の北斗七星は人々の行状を監視し、その生死、禍福を支配する。 「北辰、北斗への祈り→百邪を除き、災厄を逃れ、福がもたらされ、長生きできる」

2、星田妙見宮の神仏(拝所)
   30に近い神仏(拝所)が祀られている。それぞれに神格、ご利益、ご霊験(―職務分担)が異なる。

(1)妙見菩薩=(妙見菩薩の名の仏は見当たらない) 豊臣稲荷(奥宮―宮司)と習合?(道教、仏教、神道)
 
(2)稲荷社=ここに3社がある。食物、豊穣、商売繁盛、生産増強、屋敷安泰、交通安全、他(万能の神)
     (空海は、稲荷神を東寺の守護神とした)(神道)
 
(3)太上鎮宅霊符神=道教の北辰、北斗を神格化したもの。陰陽道とも関係(お札)―家内安全・厄除け、招福 (道教、陰陽道)
 
(4)三宝荒神=日本古来の荒神(災いをもたらす神)、密教に取り入れて三法( 仏、法、僧)を守る守護神とした。後に、氏族、地域、屋敷、竈をも守る神となった。(古神道、仏教)

(5)磐座=古代自然信仰の磐座が、降星伝説と結び付いて七夕石(織姫石)、道教の北辰、妙見菩薩と習合している。(古神道、道教、仏教)―主祭神?

(6)祖霊社=神社に寄与した神官、氏子などの祖霊を合祀した社。(神道)

(7)延命地蔵=新生児を守る、若死に、短命を免れる。

(8)庚申社=道教の三尸説から庚申の夜、会食して眠らずに過ごした(庚申堂)。ここには猿田彦大明神を祀る。(道教・神道)
(9) 竜王社=龍を祀る社が4社(インドのヘビ信仰は、中国で龍となり、日本へ伝わって日本古来の水神<ヘビ>と習合して水を司る竜神<農耕、豊穣、雨乞いの神>となって日本各地で祀られている)。(神道)

(10)登龍の滝と不動明王=密教では滝に打たれて祈る行場がある。その行場には不動明王(密教特有の仏、大日如来の化身)が立つ。密教と修行者に仇なす悪を撃破する。外道に進もうとするものを内道に引き戻す。(仏教)

(11)烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)=古代インドの不浄を炎で焼く尽す炎の神、密教に取り入れられて密教守護の神、一般には怨霊の侵入口のトイレに祀り、その烈火により侵入を防ぎ、清浄に保つ。(魔除け、金運がよくなる)(仏教)

(12)七星如意輪観音=空海の降星伝説をもとに祀られた。北斗七星と如意輪観音とが習合、生まれた年により本名星、元辰星が決まり、その星に祈ればすべての願いがかなえられる。(道教、仏教)

(13)親子杉=注連縄を張り、お祈りすれば、神はこの親子杉に降りてきて、願いを聞いてくれる。(家内の幸福、子宝)(古神道)

(14)大杉=この鎮守の森を代表する神木(神の依り代)、神格を与えられている。(古神道)

(15)お百度石=2か所にある。百日参り(切実な祈り)を一度で済ます。祈りの対応神は、この森のすべての神仏。(民間信仰)
 祭り

(1)歳旦祭(1月1日)=年の初めに1年の幸を祈る。(神、仏、道)

(2)星祭(2月8日)=個人の本名星を祈り、災いを除く。(道)

(3)稲荷ふいご祭り(5月20日)=火を使う人たちの祭りであるが、ここでは稲荷祭り(神)

(4)七夕祭り(7月7日)=この妙見宮の存在を、七夕伝説に重きを置いてPRしているので、盛大に行われている。(仏)

(5)星降り祭(7月23日)=弘法伝説の星が降ったという7月23日に護摩を焚いて星の霊力に祈る。(道、仏)

(6)地蔵祭り(8月24日)=地蔵盆(子供と地域の守り神としての地蔵の祭り。(民俗神仰と仏教の習合)

(7)祖霊祭(9月23日)=妙見宮に関係の深かった人、戦没者たちの霊を祀る。(神)

(8)年越し大祓い(12月31日)=新年を迎えるために、身に積もった穢れを落とし、心身を清める。(神道)


七夕の歌碑
 
庚申社・祖霊社・地蔵尊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
   
 
金色龍王社 
 
烏枢沙摩明王
烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)=古代インドの不浄を炎で焼く尽す炎の神、
密教に取り入れられて密教守護の神、一般には怨霊の侵入口のトイレに祀り、
その烈火により侵入を防ぎ、清浄に保つ。(魔除け、金運がよくなる)(仏教)

 
 
太上鎮宅霊符神=道教の北辰、北斗を神格化したもの。
陰陽道とも関係(お札)―家内安全・厄除け、招福 (道教、陰陽道)

 
色々なお札が売られている
 
 
 
 
拝殿
 
拝殿の垂れ幕には、北斗七星と八つ目の補星が描かれている
 
拝殿の奥に、 ご神体の影向石(ようごうせき)が拝めます
 
 
 
 
太上鎮宅霊符神
道教の北辰、北斗を神格化したもの。
陰陽道とも関係(お札)− 家内安全、厄除け、招福(道教、陰陽道)
 
 
三宝荒神=日本古来の荒神(災いをもたらす神)
密教に取り入れて三法(仏、法、僧)を守る守護神とした。
後に、氏族、地域、屋敷、竈を守る神となった。(古神道、仏教)
 

 狛犬は「高麗犬」、「胡麻犬」とも書き、神社の入り口や拝殿の前などに置かれている一対の獣像で、原形はインドにおけるライオン像。それが中国大陸から朝鮮半鳥を経て日本に来ました。沖縄県では「シーサー」といわれる獅子が各家の屋根に魔除(まよけ)として置かれていますが、神社の狛犬も同様に守護と魔除のために置かれています。

彗星捜索家「木内 鶴彦」氏
推理する「交野が原」の壮大な歴史ミステリー

宇宙(そら)の記憶をお読みください。

  交野ではその昔、八丁三所(はっちょうみところ)に星が降ったという伝説が語り継がれて来ました。嵯峨天皇(弘仁年間810〜824)の頃、弘法大師(空海)がこの地方に来られた時に、獅子窟吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、高岡山の東にある「星の森」と、光林寺の境内、そして星田妙見宮の三カ所に落ちたという言い伝えです。星田妙見宮の参道である石段下の右手を少し入ると『登龍の瀧』がありますが、大昔(おそらく西暦900年から1000年の間ではなかったと思うのですが)ここに隕石が落ちたことは間違いない事実だと私は考えています。 滝壺となっているのがクレーターでしょう。 
    ※興味のある方は宇宙の記憶をお読みください。

 


拝殿前より、市内の素晴らしい展望
 稲荷社=ここに3社がある。
食物、豊穣、商売繁盛、生産増強、屋敷安泰、交通安全、他(万能の神)
     (空海は、稲荷神を東寺の守護神とした)(神道)
 
青龍大明神
 
 
豊臣稲荷大明神
 
 
白玉稲荷社 
 

豊正龍王 ・ 豊玉龍王社
 
 
鳥居の額は、妙見山 豊臣稲荷
豊臣とは、秀吉に関係なく、民を豊かにするという意。
 
 

 
妙見山南の墓地・鎌倉墓
 妙見さん裏参道へと通じる、妙見川を更に溯ると、左手に「鎌倉墓」がある。明治時代にこの地を入手した人が開墾して果樹園にしようとしたところ、約200基の墓石類が出土して現在、「延命地蔵尊」として祀られている。石造物は鎌倉中期が一番古く、室町時代に及んでいるが、江戸時代の新しいものは見当たらない。
 この墓地からも、宝瓶三経蓮が7体確認されている。また、来迎印阿弥陀石仏や
松香石の古式地蔵など珍しい石仏がある。この墓地は、一般庶民の墓でなく、小松山(山中)にあった小松寺の上級の僧のものであろうと考えられている。(故西井長和氏)






 


松香石の古式地蔵
右手を下げて与願院を示し、左手に宝珠を持つ
  小松神社(星田妙見宮)裏参道入口のそばに、「鎌倉墓」と呼ばれるお堂が建てられています。 ここには周辺から掘り出された石仏・石塔など200基以上が集められています。中でも地蔵菩薩立像は像高42センチで右手に宝珠を持ち、左手は錫杖を持たず、与願印の印相を結ぶ古式地蔵です。交野市で古式の形式をもつものとしては、私市・共同墓地と星田・薬師寺とこの地蔵菩薩の3体だけです。
最後までご覧いただき有難うございました

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