第196回 交野歴史健康ウォーク
星田駅北開発地区〜周辺史跡巡り
2022.11.12(土) 30名(会員20名)参加
案内人 : 山本 秀雄氏 (交野古文化同好会)
行程 :星田駅(午前9時)→ 星田駅北開発地区 →東高野街道 → 大井川道標 → 大谷北大師祠→ 地蔵堂 → 大谷交差点 → 山根街道→ 布懸遺跡→ 大分け →鍛冶が坂 →星田公園 →愛染律寺跡・八幡宮跡 →星田会館(小休止) →星田神社(一旦解散)→ 平井邸・神祖営趾之碑→星田小学校 →星田駅解散 (12時頃解散) 徒歩 約4.5km |
2022年11月12日(土)秋晴れの中、山本秀雄氏の案内で、星田駅から駅北開発の状況をゆっくりと説明を受けながら見学後、山根街道から東高野街道を歩き、大谷の交差点を渡り、傍示川と別れて山根街道の布懸遺跡、鍛冶が坂から星田公園へ、新宮山八幡宮・愛染律寺・旗掛け松・星田神社などを訪ねて、交野の新しい町づくりと古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 ウォーク当日、早朝より続々と沢山の方々が駅前に集合された。会員18名に加えて、交野広報を見られたり知人の紹介などで会員外の12名の方が参加され、その内2名が新会員に申し込まれた。50周年記念の今年になって、新入会員が44名増加、総勢157名となりました。 時間の制限のある中、一部(ひそみの藪)を省略、星田神社で一旦解散後、平井邸・神祖営趾之碑を訪問、星田小学校の二宮尊徳像を見て、JR星田駅で12時頃解散しました。 参加された方々から、「星田駅北開発地区を詳しく解説付きで見学出来て、とてもよくわかりました。また、星田のまちの地形や史跡・歴史などが分かってとても楽しかった。」など感想を頂戴しました。 ホームページに掲載するにあたり、講師の山本さんが作成されたレジメを頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。 ※参考資料 星田村絵図(元禄15年・天保14年)、明治18年・41年星田の地図、星田風土記、交野市史・交野町史など参考にさせていただきました。 |
星田神社にて記念撮影 |
レジメ作成は、講師 山本秀雄氏 |
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下記の地図は明治12年測量の地図に標高の高低図を 高さ10m単位に色分けし、小字(交野市史から転記)を書き入れたものである。 大屋喜代治著 「河内国交野郡星田の里」を参照 |
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星田村絵図(元禄10年・1697年)描かれている 東高野街道と一里塚(道の両脇に松の木が植えられていた) |
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土地区画整理事業が始まる前の状況(東高野街道) |
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本日の講師 山本秀雄氏 |
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星田なないろ保育園工事現場 令和5年4月開園予定 |
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東に東高野街道、西に京街道につながる主要道路 |
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東高野街道 東高野街道が南北に、市内の東西を結んだ旧道が走る、昔の交通の要衝。高野山詣での旅人で賑わったという。 交野市と境を接する寝屋川市大谷町と交野市星田5丁目の境界から打ち上げにかけて、寝屋川市東部の丘陵地帯を通っているのが東高野街道である。この街道はその名の通り、紀伊の国にある高野山金剛峰寺に通じる古道で、河内の西部を通る西高野街道とともに古くから重要な交通路であった。 江戸時代の元禄2年(1689)に儒者貝原益軒が京都から河内、和泉、紀伊を巡り「南遊紀行」を残しているが、それによると、この街道は「河内の山の根街道」「山根の大道」などと表現されている。 地蔵堂の灯篭が1680年の建立であることを思えば、益軒先生もこの地蔵堂の灯篭を横目に見られて通り過ぎられたのではと想像するのも楽しいことである。また大谷墓地の西尾墓には元禄の頃(1700年頃)の墓碑(西尾晴雄家)や元禄11年(1698年)の墓碑(西尾和三家)もあることから大谷の村の始まりもこの頃かも? |
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大井川万吉・道標 「すぐ京、八はた道」と台石に「門弟中」と刻む 安政3年(1856)の道標 星田駅から西へ行くと傍示川にかかる橋の手前に、大井川万吉とすぐ(真っすぐの意。) 京、八はた(八幡のこと。)道、台石に門弟中と刻まれている。安政3年(1856年)と刻まれている。 大谷出身の河内相撲から江戸相撲に出世した人の道標を兼ねた碑である。 |
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寝屋川市域の東高野街道は大谷町と交野市星田の境を南北に通っており、その北端にタチ川が東西に流れている。タチ川と東高野街道の交差する西北角に「大井川万吉」の碑がある。大きな花崗岩の自然石を台座にし、その上にもう一つこれも花崗岩の自然石をのせている。総高182cmである。正面に「大井川万吉」と大きく刻んでいる。彼は当地出身(大谷町河流明夫家先祖)の力士で、これはその顕彰碑である。大井川万吉と刻まれている碑の左側には、すぐ八はた道、安政3年(1856年)と刻まれ、道標を兼ねている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
星田には町内で大師講をつくり管理している大師堂が15あり、各人が祀っているのを加えると28ぐらいあるとされている。このうち大谷には、大谷北(しもんちょ)と大谷南(かみんちょ)に大師堂があり双方とも石祠でかこまれていて、昔は、ほとんどの人が分かれて大師講に加入し、4月21日には1日中お祀りをしていた。北の大師堂の石祠の右側に寛政2年(1790年)と刻まれている。 |
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東高野街道の大谷の中央に、約25uの地蔵堂があります。旅人の安全を祈る地蔵菩薩とともに、大谷の子供の神として子供の病気や安産の守護神として信じられ、地蔵が童形として現れ、農耕の手伝いをしてくれた子供を神様とした地蔵信仰が定着した。 大谷地蔵内には、今より330年以上前の地蔵菩薩立像や、僧形立像、弘法大師像等の文化財11点も継承保存されている。 9年前一部修理後、防虫・防腐のため樟脳やナフタリン・除湿剤を入れて文化財を守られてきています。 |
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大谷地蔵堂喚鐘(かんしょう) |
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大谷町16番に所在する大谷地蔵堂の南側、妻の上部に吊るされている。総高57.8cmで4区の池ノ間、4本の縦帯の前面にわたって、ぎっしり人名が刻まれている。これは本鐘が作られた弘化3年(1849年)当時の、大谷村の主要な家の名簿であろうと思われる。縦帯1には年紀の「弘化3年」と「河州交野郡大谷村地蔵堂什物」と刻まれている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大谷地蔵堂の南端の石灯籠 |
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延宝8年(1680年)江戸時代前期のころの造立である。寝屋神社境内の石造遺物の中で最も古いとされている拝殿前の灯篭(天和2年 1682年)とほぼ同じころに建てられている。 愛宕大権現は京都の西北、山城と丹波の国境にそびえる標高924mの愛宕山頂に祭られている愛宕神社のことで、火の神、火除けの神として信仰された。 この石灯籠はおそらく大谷地蔵堂の前を通っていた東高野街道を夜になって道行く人々の往来安全のために、灯明が点じられたのであろうが、同時に、防火の願いも込められていたのであろうと考えられる。 |
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この通りには、元油屋さんや醤油屋さんなどの由緒ある家屋が整然と並んでいます。 |
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油屋さんの油絞め石と言われています。 |
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<大谷南のお大師さん> 強地といって星田と打上の境になる場所で石祠の裏に「大谷中」とかいてある。この大師さんの東から来る道が山の辺の道(山根街道)でありここで合流して打上へ向う。府道の開通によって大谷の村落と分断され、現在では田圃の中でぽつんと建っている。 <星田名所記の大谷南の大師堂> ここは、開拓した人の名前をつけて「治右衛門広(じえもんびろ)」という地名がついていて、山の根の道と東高野街道が合流し西の打上方向に向かう地点である。現在熊取町にある京大の原子力研究施設の建設の際、その建設予定地の候補になったこともあり(昭和34年)、また避病舎(伝染病舎)(明治29年〜昭和26年)が建っていたこともある。 |
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星田大池は正確な建設の時期はわからないが星田村の記録にでるのは寛永14年(1637年)でそれ以前とされている。元禄10年星田村絵図(1697年)では1町3反(1.3ha。最大時の交野3中が造られる前は6h)の池が描かれている。 星田大池は、地図では堤防の高さは、標高70mぐらいで、星田の地盤は現在の星田駅周辺が最も高く45m近くでそこから北側には低くなっている。従ってこの星田駅の高さまで星田大池の水を自然の流路勾配を確保できるルート設計すれば北星田地区全域、特に地盤が高い西側の地域にも給水が可能になる。地図でみるとこれに届く水路は小字布懸の東西の水路だけであろう。 従来の星田村の水源の中川は、湧き水主体であったが、星田大池は、星田村天保絵図が描いているように村落の北側の星田山などの山水を降雨時は、傍示川に流し、通常の晴天時などは星田大池に貯水するという、積極的に星田の山水を利用していこうとするものである。 天保絵図では降雨時のぼって川、地獄谷川の山水の傍示川への放流の桝が描かれているが、ぼって川は、明治末期に星田新池が造られ、地獄谷川とは、ぼって川(現在は星田新池からの放流水をいう。)が合流する上流の傍示川の正式な名前で源流は小松山の南斜面の山水である。 |
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昭和43年10月から46年3月にかけて、大改修工事が行われその時に碑が建てられた。 |
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山根街道の一部、OP65m。狸藪と呼ばれていた。 幅1m程の古道が残っています。 現在は住宅が建ち並び昔の面影は全くありません。 |
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現在、新宮山一帯は、星田公園として新しく生まれ変わった。平成9年5月20日オープンした。面積1.6ha(約4800坪)。5つの広場(水の広場、芝生広場、野外学習広場、多目的広場、林間広場)に分けられ、市民の広場として利用されている。 新宮山は標高65メートルで、麓には弥生時代の星田最古の米作りの跡が見つかっている。 古墳の石棺があったらしいが、現在は不明である。今から約700年前に八幡宮の分霊を勧請し、八幡宮跡がありここを新宮山といった。 |
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鍛冶が坂を少し下った辺りより新宮山公園を遠望する。 |
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新宮山八幡宮址碑 |
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星田神社が創建された年月に関しては詳らかではありませんが、 伝えによると現在、本殿の住吉四神をお祀りしたよりも遙か以前に一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野物部の祖である饒速日命を交野大明神としてお祀りしておりました。そして、この大杉が枯れた後もその芯をご神体として大切に祀られておりました。 天文4年(1535)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記されており、文化2年(1805)の三浦蘭阪著「川内奨撫古小識」には、当神社に正平21年(1366)の銘の石塔があったと記されています。また、御神宝として鎌倉時代の御神刀が当社に伝わっております。 その後、宝永年間(1704〜1711)に当地方の総氏神であった磐船神社のご神霊(住吉四神)を当時の磐船神社神主であった平井源左衛門がお遷ししてお祀りし、交野大明神のお社よりも大きな神殿が建てられることとなりました。そして、元々お祀りしておりました交野大明神のお社は古宮と呼ばれるようになりました。以後、御本殿にお祀りされた住吉四神は星田の氏神として崇敬されました。 |
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祭神は住吉四神、すなわち表筒男(うわつつお)命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫(おきながたらしひめ)命である。 社殿は住吉造りとせず、飛鳥造りになっているが、奈良飛鳥大社の二十年毎の建替の時、その旧社殿を譲り受けたからだといわれる。 建立の時期については、神殿に祀られている御神体を納めている桶代の表に「明治五壬申十一月」と記されており、推察するに、当時明治二年、明治政府より神仏判然令が布告されて、廃仏棄釈がさけばれ、明治五年に当神社も星田神社として、村社の社格が定められた時と、時を同じくして建立されたようである。旧の拝殿も明治五年建立と推定されるが、昭和五十八年に現在の拝殿が建立される。木造切妻造り銅版葺である。 星田の古傳によると、当地交野の磐船明神はもと星田、私市、田原、南田原の総氏神だったが、宝永年間(一七〇四−一七一一)、この村々の間に宮座についての争いが起こり、その後磐船神社の神霊を、それぞれの村に移して祀ることとなり、当時、平井源左衛門という人が神主職に在任中の折り、当地にその御分霊をお遷しお祀りする事となったという。 当社では大昔からこの土地に小さい祠を立てて、饒速日命を祀った宮、すなわち現在本殿の北側に古宮といわれる末社があったが、この時より、磐船の総社をこちらに遷すというので、古宮(もとみや)よりも大きい住吉四神の大きい神殿が建てられ、それ以来この社が主神の形となったものである。 伝えによると、現在本殿の住吉四神を祀ったよりも遥か以前、ここに一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野大明神を祀っていたが、後にそれが枯死したので、その芯を御神体とし、この古宮ができたという。それは鎌倉か、室町幕府の時代か、いずれにせよ当社最古の神であった。 西井長和著『星田懐古誌』(昭和五十四年交野誌話会刊)によると、西井長和氏所蔵の天文四乙未年(一五三五)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記されているという。この北河内にあって、遥か昔より当地方の交野物部の御祖である饒速日命を古宮として祀り続けてきたのは、この社だけであり、当地方第一であろう。 この社につづいて、石段・鳥居の正面に八幡社がある。この社はもと新宮山の頂上にあったものを、明治維新神仏の分合整理によって、明治七年九月にここに遷されたものであり、昔は山城の男山八幡宮を本宮、こちらを新宮と言ったようである。平安時代に交野市域の南東部の丘陵地帯である津田、倉治、私市、寺村、私部、星田などは三宅山といわれ、一千四〇〇町の山と免田二三町が石清水八幡宮の寺領荘園となり、この地域の守護神として八幡宮の御分霊を新宮山に勧請したのに始まる。 この外に境内に恵比寿社、天照大神社、菅原社、庚申塚、および祖霊社をお祀りする。 |
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星田駅から駅北開発の状況を確認後、山根街道から東高野街道を歩き、大谷の交差点を渡り、傍示川と別れて山根街道の布懸遺跡、鍛冶が坂から星田公園へ、新宮山八幡宮・愛染律寺・旗掛け松・星田神社などを訪ねて交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。 次回は11月26日(土)午前10時〜12時・学びの館にて、今回訪問した地域の状況・史跡・歴史などを勉強します。 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!! |