2002.10.5(土)天候快晴、参加者10人。交野ドームを9時過ぎ車で出発、星田会館で和久田先生と落ち合い、星田地区をご案内頂いた。
今回は、いつも、交野歴史健康ウォークを案内して頂いている平田さんが、今日の話はなんでっか?(歴史健康ウォーク(星田地名編 10/5 )に当日の散策状況を詳しく投稿頂きましたので、勝手ながら引用させて頂きました。
秋晴れの中、星田地区を歩きました。
急きょ、和久田さんに説明役をお願いし星田会館に集合しました。この会館は妙音池のうえに建てられています。池の築造年代は不明であるが、星田の池の中では最も古く、新宮山の放生池としてつくられたと伝えられている。また、池の中に島があって、弁財天を祀っている。
交野町史に「旗かけ松の下、崖の中腹に弁天社があって、妙音池の端から鳥居をくぐり、石段を登って参詣していたが、江戸時代いつのころか、崖が崩れ、弁天社とともに妙音池の中に落ちて小島が出来た。その後この小島に弁天社をまつることとなった。」と記している。
そして会館を出たところ、中川沿いに水車があったとのこと。そして上流に向かって歩くと、旧山根道を横切るところに下の水車があった。下の水車があるということは上の水車があるということ、古文書によると下の車まで23間(41b)とある。昭和10年頃まで回っていたとのこと。
中川沿いに3基の水車が回っていたのだなぁと興味深く聞かせていただいた。そして交野市内で一番大きな池、星田大池⇒源氏屋敷⇒地下下(じげげ)⇒旭縄文遺跡⇒星の森(妙見山・光林寺・星の森の3箇所に星降った)「八丁三所星が降る」この場所には5個降ったが一番大きい石をまつり、あと4個は埋められているとの説明を受けた。
途中、強地の涌き水でのどを潤し大谷南の大師堂まで。ここで東高野街道と山根道とが合流する。
大谷北大師堂で折り返し、実る稲穂の中を山根道沿いに足を進めた。布懸遺跡(旧石器)⇒高岡⇒大分け(大池から放出した用水をここで方面分けした所)⇒星田会館に到着。約2時間半のコースであった。
新宮山も本日のコースになっていたが、時間の都合、次回の歴史散歩でお願いすることで終了した。
和久田さんの研究熱心さといい、資料といい、元気さといい、何よりも郷土史にかける情熱の強さを肌で感じた一日でした。地名編、始まったところです。
我がふるさとの地名をこれからも歩きます。
快晴の秋の半日、星田の里を水車跡地、大池、旭遺跡、星の森、山根街道を歩き心行くまで楽しんだ。
和久田先生の詳しい説明と星田の古い歴史と変わり行く里の姿を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
《ミニガイド》
星田大池
面積が3.9ヘクタールと交野市で一番大きい池である。池の1/3が埋め立てられ交野3中の敷地になっている。
元の面積は6ヘクタールほどあった。星田大池は高岡と楯石・梶ヶ坂の丘陵に挟まれた広い谷地を高い堤防を築いて堰止めして造られた人工の池である。いつ頃築造されたかは不明であるが、古記録によると、元禄11年(1698)に堤防の改修を行っているので、相当古くから出来ていたことになる。
源氏屋敷
源氏の一統星田氏が地下下に住んでいた所を、源氏屋敷という。
「源姓、星田次郎右衛門正種は、河内国星田庄から起こる。家紋丸に三星、水車。千姫取次役、後江戸に帰る」
千姫の取次役として大阪城に出仕し、元和元年(1615)大阪落城のとき、城を脱出して江戸に帰った千姫に随行した武士の中に、星田次郎右衛門正種がいた。
現在は星田山手線が新しく開通して、傍示川の手前の信号付近である。
布懸遺跡(のうかけいせき)
昭和54年に旭小学校西隣の電電公社社宅建設予定地より旧石器時代の石器(約1万5000年前)が発掘された。
星田旭遺跡
大谷橋から傍示川を上流へ1キロばかり行くと、茄子石(なすびいし)の谷と沸底(ぼって)の谷から落ちる谷川と、地獄谷の谷川とが一つに集まるところ、小字旭といって両方の谷川に挟まれた麓の小さな台地に、縄文時代の中期、今から4千数百年前から人が住んでいた。
大正の初め、星田新池が築造されたとき、川に近い山麓で十数個の竪穴式住居跡が発見された。この住居跡からは、貝殻に入れた約2000年前の中国の新の時代の青銅貨が発掘されている。また、新池の中に沈んでいる山の崎あたりから和同開珎入りの壺が出土した。
現在は老人ホームが建っている。
《ミニガイド》
星田地区・地名の由来 そのほかの小字名についてはこちらを参照ください。
旭(あさひ) |
交野第三中学校の敷地は、その西北に広がる星田大池の半分を埋め立てられた ものである。「旭」の地域は、星田大池がほとんどを占めている。
ただ、傍示川の南側に星田新池という大きな池がある。この池の東南部に「旭」という地名があって、飛び地のようになっている。
飛び地の方の旭や傍示川の流域に「旭縄文遺跡」があり、縄文時代の遺物を出土している。縄文時代の人々は、この傍示川の辺りに集落を営み、狩猟、採集生活を送っていた。星田地区での最初の住人ではなかったろうか。
星田大池の堤防に立つと朝日がキラキラと水面に照り輝いている。確かに朝日の方向になる。堤防の下は御農、布懸と農耕地がある。朝日を拝んで農作業に出る。この情景を地名に表わしたものであろう。
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星ノ森
(ほしのもり) |
旭、高岡の南、傍示川に面した場所が「星の森」である。
星の森といっても、住宅化が進み森はごくわずかである、その昔この森の中に石を御神体にした社があった。
この社の由来はこうである。
平安時代の初め、嵯峨天皇の時代、弘法大師が私市の獅子窟寺にこもっておられた。
そんなある日、妙見山と星田の光林寺星の森の3ヵ所に七曜星が降りるのを見たという。これを機として、この3ヵ所を星の霊場とされたというのである。星田の人々は、星の降りた3ヵ所はそれぞれの距離が約8丁であるので「八丁三所に星が降る」と言って喜び、星田の地名は、ここから生まれてきたものだと言われている。
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梶ケ板
(かじがさか) |
地下下、楯石の方から北へ伸びる丘陵が坤村まできている。その途中にある地名が「梶ケ坂」である。星田小学校の南側の道が梶ケ坂で丘陵を切り通しにして越え、東側の向井、白水、紐谷へと通じる。
梶ケ坂は丘陵の斜面を意味していると思われるが、寺の地名に「有リカジ」というのがある。この「カジ」と「梶」、地形的によく似ている。寺の場合、傍示からの谷の出た所で、また、住吉神社の森がある。谷風が吹き下ろして神社の森を揺さぶる。星田の場合、白水の方から見ると丘陵の尾根や斜面一面に竹林が生い茂り、傍示川の谷、白水、紐谷の谷筋を吹く風に竹や雑木林のこずえが鳴るといった情景はよく合う。
そのようなことから竹林や雑木林を吹き抜ける風のある坂道といった意味で、「梶ケ坂」と付けられたと見る方が良いのではないか。循石から伸びる丘陵の北の端部分が梶ケ坂であるが、この丘陵は南が高く、北が低く2段になっている。神宮山と呼ばれている南の高い段の方を「八幡宮跡」、北の低い段の方を「愛染律院跡」と呼ばれている。
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江戸時代中期、天明8年(1788)、交野郡星田村に生まれ大阪に住んだ吉田屋藤七という人がいた。彼は淀川筋の土砂留奉行に対し、砂防事業に対する意見書を提出している。
それによると、淀川に注ぐ天野川が水田面より2丈も高い天井川となっているため、この天野川に注ぐ他の小河川も同様に水田面よりも高くなっている。その結果、いくら川筋の堤防を高くしても上流から流れ出る土砂が川床にたい積するので、川床面の上昇と追いかけっこになるだけである。根本策は土砂を川に流さない方策を講じなければ解決しないのである。
吉田屋藤七は、土砂の供給源である星田の奥山一帯のはげ山をなくすことであり、そのために山全体に植林をして、下草刈りを止め、山全体を森林で覆いつくすようにすべきである。そうすれば大雨が降っても洪水にはならず、したがって土砂の流出も少なくなる。治山治水はこれしかないと説いている。
吉田屋藤七 幕府に進言 と「交野かるた」に詠まれている。
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強地(こわじ)
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石ノ本の南、ちょうど阿曽谷と左ヶ谷に標高70〜80mぐらいの丘陵が出ている。その間の谷と谷を出た台地状の土地を「強地」と呼んでいる。
「強い(こわい)」というのは、固い、ごわごわするといった意味である。水気の少ない固いめのご飯を「こわいご飯」と言い、赤飯のことを「おこわ」「こわめし」というが、この「こわい」は、いずれも固いという意味である。
「強地」は、粘土質で岩盤が上まで上がっている固い土質であったことから、耕作するのに非常に骨の折れた土地、苦労した土地という意味をこめて付けられた地名であろう。 |
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