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交野歴史健康ウォーク 174回

古文化同好会バスツアー

継体天皇のふるさとを訪ねる

2018.5.12(土)  39名参加

行   程 : 交野8時30分出発=交野北IC=栗東IC=琵琶湖博物館
=琵琶湖大橋=白髭神社=昼食=高島歴史民俗資料館=
鴨稲荷山古墳・継体天皇ゆかりの神社・史跡・古跡を散策=
藤樹道の駅=京都東IC=交野北IC=交野市午後5時頃解散

 交野古文化同好会の特別企画「継体天皇のふるさとを訪ねる」バスツアー、役員の皆様、ご参加いただいた会員の皆様のご支援・ご協力のお陰で無事、事故もなく開催出来ましたことを心より感謝申し上げます。

 今回のバス旅行は天候にも恵まれ(翌日は大雨)、また高島歴史民俗資料館の白井先生の案内により、白鬚神社から鴨稲荷山古墳、継体天皇ゆかりの神社・史跡・古跡を詳しく解説を受けながらゆっくりと散策することが出来、大変すばらしい歴史ウォークとなり、主催者側としましてホッと胸をなでおろしている所です。

 交野を定刻8時30分に出発。琵琶湖博物館までの車中の約40分間、歴史研究家の寺田政信氏より「継体大王物語」をじっくりとお話下さいました。次いで、草津市観光ボランティアガイドの3人さんと博物館の玄関口で待ち合わせ、館内の「水族展示室」〜C展示室(暮らしとつながる自然)などを中心に3組に分かれてテキパキと案内していただきました。吉岡さん、古市さん、田中さんの3人さんお世話になりました!

 今回のメインテーマの「継体天皇のふるさとを訪ねる」の案内をお願いしている、高島歴史民俗資料館の白井忠雄先生と白鬚神社で待合せて合流。その後は、白井先生の運転される車による先導により、各史跡を巡りました。志呂志神社で昼食後、鴨稲荷山古墳、高島歴史民俗資料館では、継体天皇のゆかりの地の模型を見ながら、詳しく解説頂きました。

 午後は、高島歴史民俗資料館〜天皇橋〜胞衣塚(えなづか)〜彦主人王陵墓参考地・田中古墳群(36号墳)〜安産もたれ石〜三重生神社と案内頂き、ここで白井先生とお別れして、藤樹道の駅で休憩後、湖西線を走り京都東インターを通り午後5時15分頃、交野へ帰着いたしました。

 参加された方々から、「白井先生自ら車を運転され道案内の先導役で大変お世話になり、行く先々で大変詳しく解説頂き、質問にも丁寧に応えて下さり、大変良かったです。」「白井先生のの説明が分かりやすくて、継体天皇のことが良く理解できて大変勉強になりました。」「天候も良く気持ちよく参加でき、楽しいバスツアーでした。お世話くださり有難うございました。」など大好評でした。
 
 記念写真の撮影は、伊東さんに御協力を頂き誠に有難うございました。
 

 ※本ホームページを記載するにあたり、
 高島歴史民俗資料館で頂戴しました、「高島歴史探訪ガイドマップ」=継体天皇関連遺跡を歩くなどのパンフレット・チラシ、及び下記のHP、WEB記事など参考に作成させていただきました。記して感謝申し上げます。

  琵琶湖博物館、白鬚神社、高島歴史民俗資料館などの関連ホームページなど。  
     高島市立 高島歴史民俗資料館で記念撮影
 
記念撮影   撮影:伊東征八郎氏

交野古文化同好会 特別企画 「継体天皇のふるさとを訪ねる」     バスツアーレジメ
 『日本書紀』によると、子供のいない武烈天皇が死ぬと皇位継承者が絶えそうになりました。そこで大連の大伴金村らが候補者を捜し、白羽の矢を立てたのが越前三国にいた男大迹(おほと)王でした。王は応神天皇の5世孫で、父は彦主人王、母は垂仁天皇の7世孫振媛です。

 振媛は三国の坂中井から、彦主人王により近江の三尾の別業に迎えられ、王を産みましたが、夫の死後、子を連れて高向に戻って来ました。そして507年、男大迹王が57才の時、金村らが迎えに来たのです。王は樟葉宮に至り即位し、前代以来の大連大伴金村・物部麁鹿火、大臣許勢男人を再任し、仁賢天皇の娘手白香皇女を皇后としました。

 その後、山背の筒城(綴喜)宮・弟国(乙訓)宮と転々とした後、526年にようやく大和の磐余の玉穂に都を定めたといいます。
 さぁ!ゆっくりと継体天皇のゆかりの地を歩きましょう!
      日 時   5月12日(土)(雨天決行)  ※弁当持参

◆募集人員  50名(定員に達し次第締め切り)

※参加者が40名に達しない場合は中止。

◆参加費   会員 5,000円 一般 5,500円(当日徴収します)

◆集合・出発場所 午前830分(時間厳守)焼肉久太郎駐車場

◆案内人  白井忠雄 館長 (高島歴史民俗資料館)

◆参加申し込み受付  324日〜430日まで

       事務局・村田氏 電話 892−2326

 
 継体天皇のふるさとを訪ねるMAP
 

交野市を出発して琵琶湖博物館までの車中で約40分、
歴史研究家の寺田政信氏より継体大王物語をじっくりとお話下さいました。







滋賀県立 琵琶湖博物館
 草津市観光ボランティアガイドの3人さんと博物館の玄関口で待ち合わせ、
館内の「水族展示室」〜C展示室(暮らしとつながる自然)などを中心に
3組に分かれて、詳しく案内していただきました。
吉岡さん、古市さん、田中さんの3人さんお世話になりました!
 
 
 
 
 
水中散歩を楽しむ
 
 
大ナマズ模型
 
大なまずの尻尾が見える
 
大ナマズの顔が! 口ひげがわずかに見える!
 
 
 
 
 
当日、詳しく案内していただいた草津市観光ボラティアガイドさん
 
バイカル湖に住むバイカルアザラシ 豪快な泳ぎ
 
 
チョウザメの豪快な泳ぎ
 
琵琶湖の説明
 
ヨシ原を体感
 
 
 
 
 
 白 鬚 神 社
 御 祭 神  猿田彦命   別社名 白鬚明神・比良明神
 近江最古の神社 白鬚神社の公式ホームページ
 由緒略記

 近江最古の大社で、社記によると垂仁(すいにん)天皇の25年(第11代・2000余年前)、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が社殿を御創建(御再建とも)、天武(てんむ)天皇(第40代)の白鳳(はくほう)3年(675)勅旨(ちょくし)を以て「比良明神(ひらみょうじん)」の号を賜るとある。当社の縁起(えんぎ)は謡曲(ようきよく)「白鬚」(観阿弥(かんあみ)作にも謡われ、日本全国に約300の分霊社(ぶんれいしや)が祀(まつ)られている。
 
 御祭神の猿田彦命(さるたひこのみこと)は、天孫(てんそん) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 降臨(こうりん)の際に先頭に立って道案内をされた神で、導き・道開きの神として知られている。当社にお祀りされている猿田彦命は白髪で白い鬚を蓄えた老人のお姿で、御社名の由来にもなっている長寿神である。
 御 神 徳

 古くから延命長寿白鬚の神として広く崇敬され、また縁結び・子授け・福徳(ふくとく)開運・攘災(じようさい)招福(しようふく)・商売繁盛・交通安全など人の世の総ての導き・道開きの神として信仰されてきた。

 9月5日・6日の秋季大祭には「なる子まいり」と称する神事があり、数え年2歳の子どもに御神前で名前(呼び名)を授け、その名前を3日間呼ぶと子どもの無事な成育と延命長寿のご加護が頂けるという。
 参考 ひげの文字は3種あり。
ひげを表す漢字には「髭」と「鬚」と「髯」がある。 単に「ひげ」といった場合は「髭」の漢字を使うが、口ひげ(口の上の毛)は「髭」、あごひげは「鬚」、ほおひげは「髯」と生えている場所によって使い分けられる。
 
 
 白井先生と白鬚神社で待合せて、詳しく説明をお聞きする。
 
 

比良山脈を背に白砂と老松に囲まれて神々しく鎮座する白髭神社。
本殿は豊臣秀吉の遺命を受けた豊臣秀頼の寄進を受けて慶長8年(1603年)に建立されたもの。
本殿は檜皮葺きで入母屋造りで桃山時代特有の建築様式を今に受け継いでいます。
 
 
 シンボル的存在でもある、琵琶湖に浮かぶ朱塗りの大鳥居の景色に惹かれ、
昔から多くの人が訪れる白髭神社。琵琶湖に浮かぶ沖島を背景に佇む鳥居は
本当に厳島神社と見間違うような、実に絵になる風景です!

昼間の景色も素晴らしいのですが、夕刻頃の光景がまた格別です。
ぜひ、いろんな時間帯で湖上の鳥居を眺めてみて下さい!
 
 

なお土日は日没から約2時間、湖上の鳥居がライトアップされています。
大晦日など、特別に長時間に及ぶライトアップがされる時もありますよ!
 
 

岩戸社 
境内の一番上手にある石室(古墳)の前に社を建て、天の岩戸として奉祀。
 
岩戸社と磐座
 
 
岩戸社の古墳
 
寿老神と弁財天
 
 
紫式部の歌碑
「三尾の海に 網引く民のひまもなく 立居につけて 都恋しも」という歌が記されています。
越前国主となった紫式部の父、藤原為時に従って越前に向かう途中、大津から船路で
湖西を通り三尾崎(白鬚神社のある岬)の浜辺で漁をする人の網引く
見馴れない光景に都の生活を恋しく思い詠んだものとされています。
 
 
 

志呂志神社にて昼食
 鴨稲荷山古墳の隣に建つ、志呂志神社の境内をお借りして、昼食を摂る
 延喜式神名帳に、『近江国高嶋郡 志呂志神社』とある式内社。
 社名・志呂志は“シロシ”と読む。
 
 高島郡誌(1927)には
  「鴨の氏神なり。祭神瓊々杵尊・鴨祖神・玉依姫神。宝亀元年(770)藪ケ原の地より今の地に遷座ありしと伝ふ。祭神は事代主命なりしを後世吉田家の許状(室町以降、神社界を壟断した吉田家が出した認可状)に瓊々杵尊と誤れりと云ふ。
 又伝ふ、天長中(824--34)鴨祖神・玉依姫命を配祀すと。文治3年(1187)源頼朝十貫文の社領を寄付せられしが、永禄年中(1558--70)延暦寺の僧徒に掠略せらる。其後転退したるを天正2年(1573)再建せり。
 明治維新までは天皇社と称し、俗に牛頭天皇(牛頭天王)を祀ると称せり。
 本社を式内志呂志神社と定めし証左詳ならず。猶再調すべし」とあり、当社を式内・志呂志神社と比定することに疑問を呈している。
  高島市立 高島歴史民俗資料館
 華麗な副葬品が出土したことで知られる、鴨稲荷山古墳の南150mのところに、
高島の歴史・民俗・考古資料を収蔵展示しています。
 
 
記念写真    撮影:伊東征八郎氏
 
 鴨稲荷山古墳
  鴨川右岸に広がる沖積地に位置する古墳です。古墳時代後期のもので、湖西地方では平野部に立地する唯一の前方後円墳です。現在は前方部の墳丘がありませんが、周辺の地形などから、全長45m・後円部の直径25m・高さ5mほどの周濠をめぐらせた前方後円墳であったと考えられています。 

 明治時代に、後円部から横穴式石室と刳抜(くりぬ)き式家形(いえかた)石棺が掘り出されました。
 また、石棺内から、金銅冠(こんどうかん)・沓(くつ)・魚佩(ぎょはい)・金製耳飾・鏡・玉類・環頭大刀(かんとうたち)・鹿装大刀(ろくそうたち)・刀子(とうす)・鉄斧(てっぷ)などの象豪華絢爛な副葬品が発見されました。

 のちに、これらの副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることがわかり、この古墳の被葬者や場所と大陸との交流関連について、様々な興味と話題を呼んでいます。

 ※鴨(かも:KAMO)【高島市】京都市下鴨社領であったところ。
                  季刊「湖国と文化」(2004年4月:91号)より
 
 
 鴨稲荷山古墳は、安曇川と鴨川によって形成された沖積平野に立地しています。この古墳は、全長60mの規模をもつ前方後円墳で周濠を有し、墳丘は二段築成で、円筒埴輪や葺石で飾られていたようです。築造年代は出土遺物より古墳時代後期(6世紀前半)と考えられています。

 主体部は、後円部にある横穴式石室で、南東に開口部を向けています。石室内には、二上山(大阪府と奈良県の県境に位置する)の白色凝灰岩性の家形石棺が安置されていました。被葬者の頭位は南東です。家形石棺の外面にはベンガラ、内面には朱が塗られていました。石棺内の被葬者の身の回りには、金銅製の宝冠・飾履・魚佩・金製垂飾付耳飾・玉類・環頭大刀・刀子・鉄斧・鏡などの豪華な副葬品が納められ、石棺外には、馬具・土器類が副葬されていました。
 この副葬品の配置は、近年発掘調査された奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳と同様で、6世紀の貴人の葬法を知る重要な遺物です。

 金銅製品に彩られた副葬品に、金銅製冠や金銅製飾履があり、朝鮮半島の加耶国の影響を大いに受けています。半筒形金銅製品を含めた3種類の金銅製品装身具の共通性が強いことから、被葬者の儀式にあたって特別に製作された可能性があります。

 また、二上山で産出する巨大な石材が高島の地まで搬入されたことから、鴨稲荷山古墳の被葬者は大和や河内の有力者と関係を持つて、継体大王(近江国高島郡三尾別業が生誕地と伝えられる。)と
も深い関わりがあつたと考えられています。

 平成20年から発掘の続いている天神畑・上御殿遺跡との関係も注目を集めているところです。上御殿遺跡からは平成25年に双環柄頭短剣鋳型が出土しています。
   被葬者はいったい誰なのか・・・?

 当時、この辺り一帯を支配し北陸から興った男大迹王(継体天皇)を強力にバックアップした氏族三尾氏の首長・・・というのが、有力説です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
白井先生より鴨稲荷山古墳前で詳しい説明を受けました。
 
 
鴨稲荷山古墳の白色凝灰岩製の家形石棺
 
 
 


 高島歴史民俗資料館内でも模型を前に更に説明を受け、
次から次への質問にも詳しく解説頂きました。
 
副葬品や遺物が展示されています。
 
鴨稲荷山古墳の豪華な副葬品の数々
 
覆屋のないころに鴨稲荷山古墳風景
 
 
継体天皇ゆかりの地 模型
 
石棺を曳くコロ ミニ体験模型
 
 
継体天皇関連遺跡をめぐる
 高島歴史民俗資料館〜天皇橋〜胞衣塚(えなづか)〜彦主人王陵墓参考地・
田中古墳群(36号墳)〜安産もたれ石〜三重生神社〜藤樹道の駅
 
 
 

高島歴史民俗資料館前からバスに乗車、白井先生の車の先導にて
継体天皇のゆかりの地をこれからめぐります。
 
 天 皇 橋
 鴨川を渡る橋が天王橋と呼ばれて、鴨稲荷山古墳の発見後、天皇橋と呼ばれているようです。
高欄には、鴨稲荷山古墳出土の飾大刀の施されていた直弧文があしらわれています。"直弧文"とは、古墳時代に用いられたわが国独特の文様です。直線と弧を組み合わせた複雑な文様で、石棺や刀装具、鏡、土器などに施されてました。呪術(じゅじゅつ)的な意味があると考えられています。
 
 
 車中より「胞衣塚(えなづか)」を見学
また、「だけ岳の霊木伝説」のお話をお聞きする。 
 
胞衣塚(えなづか)
 
胞衣塚(えなづか)
鴨稲荷山古墳の北、天皇橋(鴨川)を渡った辺りに、三尾里の集落があります。その南の外れに、平地に築かれた小さな円墳があります。

「胞衣(えな)塚」と呼ばれているそうです。

オホド王〈継体天皇〉がお生まれになられた際の"胞衣"を、ここに埋めたと言う伝承が残されているそうです。
古墳の上に生えている松は、「ごんでんの松」と呼ばれ、また胞衣塚のすぐ南を流れている川を「御殿川」、付近の小字名を「上御殿」・「下御殿」と言い、この辺りは、継体天皇にまつわる伝承で満ちあふれています。
 高島の三尾前山(岳山=だけやま)に     伝わる霊木伝説
 
三尾前山(岳山=だけやま)風景
 
長谷観音の古里

 長谷観音信仰で知られる長谷寺(奈良県桜井市)が先頃、高島市安曇川町三尾里に高さ3メートルの石碑を建立した。「此付近 大和国長谷寺本尊御衣木(みそぎ)流出歴渉地」と刻まれる。
 ▼あまり知られていないが高島は長谷寺の古里だ。

 「長谷寺縁起文」は長谷観音を刻んだ楠の霊木(御衣木)が、高島の三尾前山(岳(だけ)山)から流出したと記す▼縁起は伝説的な色彩に包まれ、霊木は志賀郡大津浦に69年、高市郡八木里に30余年、葛下郡当麻郷に50余年、城上郡長谷郷神河浦に39年とどまり、各地で祟(たた)りを起こした。720(養老4)年、徳道聖人が十一面観音像を造立し、長谷寺の起源となる▼大正時代に寺が土地を購入していたことが地籍調査で判明し、石碑建立につながった。寺関係者は「寺の歴史を古里の地に何らかの形で残すのが悲願だった」と安堵(あんど)の表情を浮かべた

 ▼長谷観音は平安時代以降、貴族から庶民に至るまで幅広い層の信仰を集めた。長谷観音に祈願し、貧しい男が富を手にする「わらしべ長者」の物語はよく知られている▼戦争、災害、病苦、貧困…人々を悩ます災厄は変わらない。神仏にすがり古(いにしえ)の人々が求めた安寧は、現代人にとっても切実な願いだ。何も知らなければ行き過ぎてしまう山々だが、霊木伝説に思いをはせ、心の中で手を合わせる。


    [京都新聞 2016年06月09日掲載]
 十一面大観音の伝説   
  WEB検索で次のよう記述がありましたので、参考に載せておきます。



『世の人々の救済の為大観音を造ろう。』
8世紀のはじめ、徳道が思い立ちどうしようかと道明に相談した。
『長谷の郷・神河浦と言うところに大楠がほったらかしになっているらしい。
その木で仏像をほったらどうだろうか。』
なんて、言ったとか。

早速出かけて行った徳道は地元の古老から驚くような話を聞く。
『この楠はもとは近江にあったそうです。』
高嶋郡、白蓮華谷(たかしまごおり、びゃくれんげたに)と言う処らしい。
現在の滋賀県高島市あたりだろうか。
ある年そこで雷鳴鳴り響き大雨が降り大洪水になった。
継体天皇の頃とも言われているので、6世紀初頭かもしれない。
その大洪水で大津浦(現在の大津市と推測)まで流された。
高島・大津間はかなりの距離だが、琵琶湖を南下するなら可能性はゼロではない。
そして、そこで70年間留まっていたと言う。
もちろんその理由にもっともらしい解説が付く。
『不思議な事にその木を使おうと、切り取った者には必ず祟りがあったようです。』
巨大な霊木とのイメージが出来上がっていたのだろう。
それに目を付けた者が八木の里まで曳いてきた。
ある女人が亡き両親と夫の為に仏像を造ろうとしたと言われているが、
『八木』が現在の橿原市だと考えれば、その道程は恐ろしく長くはないだろうか?
かなりの財力を持った者と考えられるが、普通には信じ難い。
その女人が亡くなったと言う事でそこに放置される事になる。
霊木である事を強調するためか、近郷での異変を伝えているようだ。

それから30年後(600年頃?)葛下郡の人が當麻の里まで曳いて行った。
しかし、間もなくその人も祟りで死んだ。
村の衆は木の祟りを恐れ長谷郷河浦に捨てた。
100年かけて長谷に辿り着いた訳だが、さらにそこで100年間風雨にさらされていた事になる。
千年の巨木は建築材となっても千年以上持つと言うが、野ざらしで200年。
さらに滋賀高島から奈良長谷までの移動である。
事実とすれば、徳道の思いは当然と考えられる。

『この木こそ御衣木(みそぎ=仏像彫刻の用材)に最もふさわしい』
それを譲り受けた。
『三宝の加護を持って、霊木自然に尊像となり給え』
714年に聖武天皇より観音像造立の勅旨が下た。なんと徳道は15年間祈リ続けたのだ。
 彦主人王陵墓参考地・田中古墳群(36号墳)
 田中古墳群からは、70基の古墳が確認されています。その中で最も大きい古墳が王塚古墳です。
王塚古墳は、継体天皇の父・彦主人王のお墓と伝えられています。現在、宮内庁が、管理する陵墓参考地になっています。直径58mの帆立貝式古墳であると考えられています。(円墳とする説もあります)
 築造時期は、5世紀代と推定され、彦主人王の活躍していた時代と一致します。
 
 
田中古墳群(36号墳)の案内板

田中36号墳 発掘調査現地説明資料は、こちらをご覧ください。

 
 
 
 
平成19年の発掘調査で横穴式石室が発見された
田中古墳群の
36号古墳
 
他の団体が見学中の36号墳 墳丘風景
 
平成19年の発掘中の36号墳
 田中古墳群は、従来木棺直葬墓が主体をしめると考えられることが多かった。しかし、平成19年度に実施された36号墳(発掘調査では、横穴式石室が検出され,横穴式石室墳が確実に存在することが判明した。

■田中36号墳の石室は、玄室平面形態がL字形を呈する点が特徴的である。とくに,奥壁北側が側壁よりも突出する点は,奥壁手前に埋葬空間を作りだすことを意図していると考えられる。西牧野古墳群の斉頼塚古墳の「石棚」と類似するものであり、九州的な要素として評価できる。
 
安曇陵墓参考地の標識
 当初は、帆立貝式古墳で、周辺にある高塚4基の陪塚と共に宮内庁の所管となっております。「王塚」または「ウシ塚」と呼ばれ、地元では応神天皇の皇玄孫彦主人王の墳墓と伝承しています。
 伝承では、彦主人王は近江の国、北越5か国の刺史としておさめておられました。越前国坂中井の里より妃として迎えられた振媛さまは垂仁天皇の子孫あたられこの山崎の地で三つ子をご安産になりました。三ん王子の弟君彦太王は後に中興の名君第二六代継体天皇となられました。彦主人王は王子が五歳のときお亡くなりになりましたのでこの地に葬られたと伝えられています。当墳は大小七〇基の塚が散在する王塚田中古墳群の最大のものです。
      安曇陵墓参考地に関わる地名について

【高島市歴史散歩】     「安曇」の地名が語るもの

 高島市のアドの地名は、古くは奈良時代に作 られた『万葉集』に「足利」「阿戸」「阿渡」「足速」「吾跡」などと書かれて登場します。これらはいずれもアドと読まれていたと思われますが、現在の「安曇」という字がいつごろから使われたものなのかは明確ではありません。ただ現在の新旭町安井川には安曇川沿いに「安曇」という小字があり、聞き取りによる とこの「安曇」は安曇川をはさんだかなり大きな広がりをもった土地の名前であったともいわれています。


 「安曇」は一般的には「アヅミ」と読まれることが多く、それは、古代の部(職掌を分担する集団)の一つである海人部(あまべ)を統率する氏族の名称であると考えられています。海人部は、海辺に住んで漁をする人々の集団のことで、アヅミ氏も海や水にかかわりの深い氏族であったことが推測されます。

 「アヅミ」に関係する地名は全国に残っており、高島市の「安曇」のほかでは、有名な長野県の安曇野(安曇村)や、福岡県や鳥取県で古代の郷名とし て伝わる「阿(安)曇郷」、福島県の「安積郡」、石川県の「安津見」という村名などがあります。また高島市安曇川町青柳には「安名(あづめ)」という小字 があり、これも「アヅミ」関係地名の一つであるとも考えられています。

 これらの地名の中には、やはり「アヅミ」氏とのかかわりを伝えるものもあり、また川や海など水辺にかかわるものもあります。こうした各地に残る 「アヅミ」地名と、高島市の「安曇」との直接のかかわりは明確でありませんが、いずれもアヅミ氏または海や川など水辺にかかわる地名であることは推定でき ます。
 一説に、「アヅミ」の元の意味は海であり「アド」の名は「アヅミ」が転化したものといわれていることからも、「安曇」は川や水にかかわりの深い多くの意味を持つ地名であるということができるようです。

    出典:高島市発行「広報たかしま」 平成20年5月号
 
彦主人王塚古墳 参道
 
 
 
 彦主人王陵墓参考地の参道を歩き、説明を受けた後、
陵墓をぐるりと回って見学しました。
 
 
周囲には、陪塚や小古墳群が沢山あるようです。
 
 
 
 
安産もたれ石
 
 
 三尾神社旧跡にある「もたれ石」は、振媛が継体天皇を出産する時に
もたれたとされています。今も、安産祈願に妊婦さんが訪れると言われています。
 
 三尾神社旧跡
三尾神社は山崎命の創祀と云い伝えられます。
山崎命は代々神主として当社に仕え彦主人王に天成神道を教授されました。
彦主人王のお后振媛さまがここに産屋を営み、三皇子をお産みになられましたが、その末子にあたられる彦太王は、後に第26代継体天皇となられます。
当社には神代文字書「秀真伝」40巻と三尾大明神本土記が伝わりました。
お社は大正4年12月5日田中神社内の摂社・三尾神社として遷座してお祀りしています。
この旧跡には振媛さまがお産のときもたれられたと伝えられる「もたれ石」があり、今でも妊婦がこの石を手で撫でて自分の腹をさすって安産を願う慣わしです。
 
 
 
 み お うじんじゃ
三重生神社
二重生神社は、継体天皇の両親である彦主人王と振媛を祭神とする古社です。
毎年5月第3日曜日の大祭は、「うし祭」とも呼ばれています。

 振媛が出産のおり、彦主人王の夢に三尾大明神のお告げがあったのだといいます。

  この度天より授かる子は天孫の大いなる迹をふむべき男子なり

そこで山崎社(三尾神社)の拝殿を産所とし彦人、彦杵、彦太の三子を安産されたといいます。
「三重生」の名の由来です。

 式内社である三重生神社には、彦主人王とその后振姫の二神が、つつましく寄り添うように祀られています。毎年5月第3日曜には、「三重生祭り」または「牛の祭り」と呼ばれる祭礼があり、古き良き時代を思わせる数々の神事が厳粛に執り行われます。
応神天皇の四世孫、彦主人王とその妃、振媛を祭神とする滋賀県高島市安曇川町常盤木の三重生神社。
 
 式内社 三重生神社

御祭神 彦主人王・振媛
境内社 足羽神社・気比神社・垂井神社
例祭日 四月二十九日

 縁起 彦主人王は、応神天皇の五世の孫にして、よく神道を修められ、三國の坂中井 から垂仁天皇七世の孫振媛を迎えて妃となさいました。当社はこの二神を奉祀 しています。
王は、余暇に山狩や河漁を楽しまれたと伝えられています。
振媛が三子をご出産になるとき、彦主人王の夢に三尾大明神のお告げがあり、 「この度天より授かる子は天孫の大いなる迹をふむべき男子なり」と。そこで 山崎社(三尾神社)の拝殿を産所として南天に祈られ、また、王も自ら北の仮 社で北極星にお祷りされたので、彦人、彦杵、彦太の三子を安産されました。

 故にこの社を三重生神社と呼ばれるようになり、今に安産の神として崇めら れる由縁です。
御子が五歳のとき、彦主人王が薨られたので振媛は彦杵と彦太をお連れにな って越前高向館にお帰りになり、養育されていましたが、十三年後、振媛も薨 られました。二柱とも二月十八日が御命日であり、明治維新までこの日を例祭 日としていました。薨 長男彦人王(天迹部皇子)は、この地で成長され勅史(刺史)となって北越五 ヶ國を治められました。三男彦太尊は、後の二十六代継体天皇(男大迹の天皇) となられました。

 勅使の詠まれた御歌(古来勅使参向の社)
    「近江なるうしの祭りのこととへば 如月なかば雪は降りつつ
       近江のやうしの祭りのこととへば 志らゆう花を雪とまかへて」

     −参道石碑−より
 
 
重生神社  参道
 
 【高島市歴史散歩】 16年ぶりに再現! 三重生「うしの祭り」

 安曇川町三重生神社の春の祭礼を俗に「うしの祭り」と呼んだのは、第26代継体天皇の父、彦主人王(ひこうしおう)が祭神であることに由来するとも、祭礼で実際に牛を引いたからだとも言い伝えられています。

 祭りは、かつての日程では4月1日、神事番(当屋)で配役の「籤取(くじとり)」に始まって、16日は「精進風呂(しょうじんぶろ)」、17日は「宵宮 (よみや)」で神御供(みごく)などが調えられ、その後神社へ「宵宮渡し」と「宵宮番」が行われます。そして、18日早朝は丑の刻(午前2時)の「宵山 起」があって、いよいよ「本祭り」に入ります。巳の刻(午前10時)から神事番で配役の「千鳥の杯」の後、祭列が組まれ、本社への「渡り」となります。

 途中御旅所の神事を経て、本殿の「神御供上げ」、拝殿前の「粽(ちまき)撒き」、「神牛神馬の宮巡り」が終わると、これで「引上げ」といって下向する。翌19日は神事番で神御供の氏子への配分をして、直会の「神御供栄(はや)し」を行って終了となります。

 配役では特に尸童(よりまし/神霊の依り憑いた童子)の午の守・丑の守が祭神の象徴として注意を引きます。

 現在は、本祭が5月第3日曜日に行われており、特に平成19年は継体天皇即位1500年の記念ということで、中止されていた本物の牛・馬が登場する「神牛神馬の宮巡り」が16年ぶりに神社や氏子の方々の熱意で再現されました。

 写真提供:三重生区
 出典:高島市役所発行「広報たかしま」平成19年4月
 三重生「うしの祭り」の様子は、こちらのブログをご覧ください!
 牛まつり風景
 
 牛まつり風景
 三重生神社前で、白井先生とお別れして、藤樹道の駅で30分休憩後
湖西線を走り京都東インターを通り、午後5時過ぎ交野へ無事帰着しました。







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