
船戸
岩船小学校の東側の道を北へ行くと府道久御山線と交差する。この交差点の下に大知川が流れてしる。
「船戸」は、川や海岸での渡し場を意味するのと、ほかに船戸の神、すなわち道祖神のことをいうことがある。森の船戸は渡し場でなく、道祖神のことである。
この南北の筋は地蔵筋に当たっている。村から出る旅人の安全を祈願した。また、村に残った家族の者が旅立った人が無事に帰ってきますようにと、あるいは日ごろの無病息災、家内安全を祈ったであろう。大知川という川があるところから、特に盆の供養や精霊流しをここでしたものと考えられる。
遠い昔の、ほのぼのとした習わしを思い起こさせる地名である。
官田
官田は律令体制下での天皇の供御田(くごでん)をいうのであって、宮内省管轄下の直営田で、大和、摂津、河内、山城に合計100町歩あった。供御とは貴人の食事をいうが、特に天皇の食事を指していう言葉である。米を主として、魚、鳥、野菜、果物などの副食物とがある。供御田は天皇の主食となる米を生産した水田である。
官田、現在の私部南2〜3丁目付近は、早朝には沢山の野鳥が見られるという。
中川辺
京阪電鉄交野線より西の低平な田んぼが並ぶ土地を、東から西へ「川辺」と呼んでいる。南は小久保川,西は天野川の堤(磐船街道)を境にしている。途中、
JR片町線、府道交野久御山線が東西に横断している。
天野川のはん濫原である。地形的に見てみると西から東へ低くなり、京阪電鉄交野線辺りが最低地になる。
天野川は、私市の畑ノ街道で谷が開ける。ここから北に広がった扇状地を形成する。
その場所が「川原」の地名が付く所である。それが終わった所に東から西へ小久保川が天野川に流入して来る。両河川のはん濫原として形成された土地である。
また、この土地は交野市内でも条里制の遺構がよく残っている所である。交野市立第四中学校ができたため景観は半減されたが、それでも
JR片町線の踏切辺りから東を眺めれば、田んぼの形態が整然とした長方形であることがよく分かる。
乙辺
東川辺、中川辺の北部、私部に近い辺りをいう。星田にも同じ「乙辺」がある。
「おちのべ(落野辺)」で、低く落ち込んでいる野の意味である。
「乙」には「おち」という音もあるから、「おちのべ」を「乙辺」と書いたのを、慣用音「おつ」にひかれて「おつのべ」と言うようになったのであろう。「おち」は「遠」で「遠野辺」すなわち遠く離れている野と解することもできる。
私市でも星田でも「おちのべ」は遠くにある。
高堤
交野市消防署のある付近から
JR片町線を越えて天野川橋までの堤防(国道168号線)の西側の土地である。天野川が私市の扇状地の上を流れ下るところから、洪水を防ぐために人工の堤防を築く。すると土砂は堤防の中にたい積する。河床が上がる。堤防を高くする。これを繰り返すうち天野川は河床がどんどん高くなって、天井川となる。川原の方から西を見れば、堤防がより高く望まれる。高堤とはこのような情景から生まれた言葉である。
この堤防の道を磐船街道と呼んでいる。古代、中世から大和と河内をつなぐ重要な道路であった。江戸時代に入ってであろう、この高堤に「はぜ」の木を植えた。はぜの並木道ができあがった。成長すれば蝋(ろう)が取れるところから、私市では「ろうの木」、なまって「ぞうの木」と言っている。村ではこの道を「蝋の道」と呼んで親しんできた。しかし、今では自動車交通のじゃまになって、一本また一本と切り倒されたり、枯れたりして無くなっていき、わずかに消防署の付近に残っているだけである 堤防と天野川までの間が幅約200 mある。
この間の天野川に近い方が一段高く、堤防に近い方が一段低い地形をなしている。これは天野川が西へ追いやられ、東側に小久保川や私市から流れ込む川が堤防のすぐ西側を流れていたようである。(今はこれらの河川はJR片町線の北と南で西へ直角に流れて天野川に流入している。)その間が州(す)となっていた。
この土地を地元では「中の島」と呼んでいる。低い方は水の便が良いため水田となり、西側の高い面は畑地となった砂地であるから、さつまいも、大豆などはよく取れたのではないだろうか。現在は住宅地となって今までの地形はほとんど分からない。
市の西 市場跡であろう。「一の西」とも書く。東高野街道が金門、車司を過ぎて「市の西」に出る。この街道に面しており、しかも村の出外れであるから、「市(いち)」の立地には最適である。 市というと、この辺りは星田牧と言われた所である。平安時代から鎌倉時代を中心に、この牧場で飼育された牛馬の取引を中心とした市であったと思われる。
小奈邊
池田尾の西で、府道枚方富田林泉佐野線を挾んで、東が臨港製鉄の北半分、西が星田の墓地となる。池田尾と小奈邊の境が東高野街道になっている。
「小奈邊」とは「小鍋(こなべ)」からきているものと思われる。枚方市茄子作谷から東南の方向を望むと、東の高台を東高野街道が北から南へ通じている。臨港製鉄の北の部分と星田の墓地付近に谷が入り込み、その間に出っ張った台地の先端部がある。この状態がちょうど鍋を伏せたような形に見えるところから、「小さな鍋のような土地」といった地名が生まれてきたものと思われる。道路から西、星田墓地と交野変電所の辺りにその面影が残っている。
神出来(かんでら)
普通には、ちよっと読めない読み方をする地名である。最近、交差点の標識に掲げられたものだから、非常に珍しがられている。
「かんでら」という読み方は明治初年の「星田村絵図」あたりから出てくる。江戸時代は「かんで」と言っていたらしい。
「かんで」から推察すると、意味は「千田(かんでん)」から来ていると考えられる。古くは中川より西は星田牧と呼ばれた牛馬の飼育場であり、一部畑地を除けば、ほとんどが採草地、放牧地、荒地であった。水田は中川より東であった。当然、水の便が悪い場所で、神出来は江尻や可所よりも少し高く、中川の水も引きにくい。田にしたとしても天水に頼り、川水はあまり期待できなかったようである。そのような土地で「千田」と付けられ、これがなまって「かんでら」になり、漢字は難しい字を当ててしまったのではないだろうか。
別に星田の光林寺は古くから俗称として「神寺(かみでら)」と呼ばれ、この俗称が土地の小字として残っているという。江戸時代の絵図には、この小字を「上寺」の当て字で書かれている。「上寺」が「かんでら」と呼ばれ、いつしかこの難しい「神出来」になったと言われている
上ノ山(うえんやま)
東高野街道が郡津の茶屋を通って天野川を渡る。それから堤防沿いに来て私部で茄子作(なすづくり)との境を通って、西ノロから来た道(山根街道)と合流する所が「上ノ山」という。この地は台地になっていて、周囲より小高い。周りは竹やぶ雑木林や畑である。この台地を村人は「上人松(しょうにんまつ)」「お野立所」「上ノ山」とか言っている。
「上人松」と呼ばれているのは、東高野街道沿いに石地蔵が玉垣に囲まれて立っている一画があり、昔ここに一本大きな松の木があった。今は枯れて根株だけが残っているが、これも朽ち果てようとしている。この松を指していうのである。
言い伝えによると、後醍醐天皇の御代、元享元年(1321)12月15日夜、摂津国深江里に住む法明上人が山城国男山八幡宮の神託を夢に見て、同社殿に納められている融通念仏伝来の霊宝を授かった。その法灯を継ぐべく夢告によって12名の法弟と男山にもうでようとここまでやってきた。あたかも、北方より男山の宝霊を奉じた社人がやってきて、両者がこの上人松で出会った。
そこで、この松に開山大師感得十一尊曼荼羅(まんだら)をはじめ五軸の尊像を掛けて、その前で称名念仏をしたというのである。
この時以来、この上人松があらたかな地となり、近傍の人々の信仰を集める場所となり、玉垣や地蔵様を立ててお祭りするようになった。
この上人松から少し道を南に上がり、私部への山根街道と分かれた東側に大正3年陸軍の特別大演習が行われた時の記念碑「閲武駐蹕(えつぶちゅうひつ)記念碑」が建っている。
逢合橋
(あいあいばし〉
スタコ坂から西へ行くと天野川に架かる橘がある。この橋が「逢合橋」である。この橋にまつわる伝説は「伝説之河内」に詳しい。毎年7月7日の七夕に逢う織姫と牽牛〈けんぎゅう)との天の川の逢瀬となる話である。
倉治の機物(はたもの)神社の御祭神が織姫に当たる天棚織比売大神(あめのたなばたひめのおおかみ)であり、牽牛は枚方市茄子作にある中山観音であるという。茄子作の中山観音と倉治の機物神社との中間を流れる川が天野川であり、そこに架かる橋でもって年に一度の逢瀬を楽しんだということで「逢合橋」の名が生まれた。
スタコ坂(砂子坂)
私部の西、スーパーニチイ交野店の西、天野川の堤防の交差点に「スタコ坂」の標識が揚がっている。
この位置は私部西ノ口から出てきた道(交野市青年の家、武道館の北側の道)が天野川の堤防(前川の堤防)に上がった所になる。そして、この道は逢合橋を通って、上ノ山で東高野街道と交わる。
「スタコ」の意味であるが、一つには、前川が天野川に合流する地点であるので、昔は、はん濫もあったであろうし、また、土砂のたい積も甚だしかったであろう。とすると、洲(す)が発達する。いわゆる中州である。この中州が大きくなって冠水する心配もなくなると村人はこの洲の開墾を始める。初めは畑、後には田んぼということになるが、砂地であるため水もちが悪い。いわゆる洲田(すだ)である。陸稲(おかぼ)であれば良かったかもしれない「スタコ」の「コ」は接尾語と思われる。例えば「銭(ぜに)」を「ぜにこ」とかいう言い方がある。これと同じである。その洲田のある高台へ上る坂という意味である。 二つ目は、「洲坂(すさか)」である。中州に上る坂道という意味でこれも的を得ていると考えられる。(現在、交通の要衝「スタコ坂」) 三つ目は、「守(す)」、防御の意味である。西ノロの出入口に当たる。西の防御の必要から東高野街道からの出入りの守りとして天野川や前川があることは好都合であった。その位置か中州であったので「守田(すだ)」となったというのである。
いずれにしろ、前川と天野川の合流点に発達した中州が開墾され、その中州への連絡道路に対する坂道であったということである。
向井田
私部の南川と北川とに挟まれた三角地帯で、現在の向井田一丁目と二丁目である。
地形的に見ると寺の方から西北へ段々下がりになっていて、その両端に北川と南川が流れ、私部の落合で合流する。北川の北、南川の南がいずれも向井田の土地よりも少しばかり高い。寺から段々に田から落ちていく水が最後に向井田に集まる。その集まった向井田の水は落合の辺りで川に吐き出される。よって、いつも向井田の田は湿田の状態にあった。
隣の土地や家を「向かいにある田、向かいにある家」とかいった言い方をする。向井田もこの言い方で私部から南東の方向、私部住吉神社付近を出城的な位置にある。(馬場裏という。)その背後の土地であったところから「向かいの土地」として付けられた地名であろう。
現在、向井田地区の第2京阪国道の予定地は青いフェンスが張り巡らされている。
国道工事事業者より第2京阪国道の標準横断図画が示された。
向井田1丁目附近の横断図は下記のようですが、現在の環境が守られるものになるのか心配されている。
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第2京阪国道標準横断図、向井田1丁目附近 |
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