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第72回 交野歴史健康ウォーク

17年度文化祭テーマ
ふるさと交野を歩く「里の巻」
私部の町を訪ねる
初めて歩く町並みと寺と石仏

2005.9.10(土)  住吉神社→向井山地蔵→玉泉庵の楠の大木→北田家(代官屋敷)→
住吉神社のお旅所→出屋敷→輿部屋地蔵(北向地蔵)→私部城跡→市場橋→またべ地蔵→
光通寺→想善寺→無量光寺→札場の辻(札場橋)→住吉神社・きゅうせん藪(解散)


 9/10(土)午前9時、「つくね飯 食らって運ぶ 大鳥居」と交野カルタで詠われている住吉神社に元気なメンバー23名が集合。
 11月の文化祭のビデオ撮りを兼ねて、私部の町中を隈なく歩いた。

 いつものように定刻より早くから元気な皆さんが続々と集合された。これまで歴史ウォークなどで何度も私部周辺は歩いたが、今回のウォークは、17年度文化祭のテーマ「ふるさと交野を歩く・里の巻」の中、私部の町をゆっくりと散策しながらビデオ撮りするのが狙いだ。ということで、案内役に私部在住の吉岡さんにも加わって貰い、まだ歩いたことのない町並みなどを平田さんとお二人で案内頂いた。

 先ず住吉神社で、万延元年私部口山の鳥居谷から修羅に載せて村人総出で原材を運び大鳥居が建替えられたこと、境内に宮寺の現光寺があったこと、手洗いのくぼみ石、狛犬のチンチンのことなど説明を受けたあと、午前9時15分、住吉神社を元気にスタート。
 当日の写真撮影は準備不足による突然の電池切れで、星田の立花昇さんにお願いしました。大変お世話になり有難う御座いました。

私部の町中を歩くMAP

ミニガイド  住吉神社(住吉神社社誌より)
 神社の由来は明らかではないが、私部の集落の南の小高い丘の南側には東南の谷から出る北川と南川があり、この水は、村人を喜びと悲しみに二分した。そこで小高い丘の老松に神を求めて礼拝していたのが住吉神社の起こりであったと言われている。
 ご祭神は、住吉大明神。元禄5年(1692年)の私部村寺社改帳の抜書きによると、境内は、東西40間、南北41間、梁行き4尺5寸、桁行5尺、とち葺きと書かれてある。
 宝暦5年(1755年)にお宮を造立し、北田作兵衛氏が寄進されたご神体をあがめ、村内安全五穀豊穣を祈っている。お宮の西側から上がる参道の両側の石灯籠は願主奥田氏が宝暦4年(1754年)に寄進されている。
 また、大鳥居は、万延元年(1860年)に私部口山の鳥居谷から村中の人が修羅に原材を載せて引っ張って運び、造ったものである。
手洗いのくぼみ石 住吉神社の由来
住吉神社境内は、昔から子供たちの格好の遊び場でもあった。大鳥居をくぐって直ぐ右側に手洗いの自然石がある。手洗い石の上で子供達が草餅つき遊びをした、くぼみ石である。
大鳥居 住吉神社本殿前で
 住吉神社の北出口より馬場浦の町中を歩き市役所前に通じる道路を北へ、「向井山地蔵」に参拝。この近辺の道路でNTTのケーブル敷設工事中に「船を見た」という話が「ふるさと交野を歩く・ひろい話(三)に紹介されている。今の町の姿からはとても想像も出来ないが、交野市役所別館の東側には蓮田が広がり、また近くには住吉池という池もあったようで、私部城の南側の天険の要害となっていたようである。

 玉泉庵の楠の大木を見た後、北田家(代官屋敷)の立派な長屋門などを拝見、ゆっくりと大きな屋敷をぐるりと巡り、住吉神社のお旅所前と出る。
 お旅所とは?神輿を仮に奉安する場所のことで、人々はこの神の旅によって、神の威力、神霊の新たなよみがえりを願ったのであろう。私部住吉神社からお旅所までの渡御が行われています。(秋祭り) 年に一度神様が町にお出ましになり、民の安全を願われるそうだ。

 更に、静かな町並みを歩き出屋敷にでると、輿部屋地蔵(北向地蔵)が居られる。私部の西墓へ出て、帰って来ると迎えて頂くありがたい地蔵様である。今も、近隣の人々により大事におまつりされている。
 昔懐かしい板塀が続く細い路地を抜けると、交野郵便局の南側に出て東に行くとそこは、かって戦場の跡となった、私部城跡である。
 北側の繁る木立の台地が本郭(城)。その西に切通し(堀)があり、一段と高く矩形状の台地が伸びているのは、城の西の端(二郭字天守)である。屋敷(くるわ)がつながって出来ていた、平城(ひらじろ)の跡。道の南側には、藪や背の高い榎が見え、綺麗な土蔵の前に小さな池がある。これが堀跡の名残だと言われる。
 この辺りは、交野の古い時代を肌で感じ取ることが出来る所である。是非とも後世に残してもらいたい所である。故奥野平次さんが博物館にして残したいと言われていた所だそうである。参加者の中からも「是非とも残してもらいたいねえ」と声があがる。

 「向井山地蔵」:右から板碑、続いて双体仏などの石仏が南面している。板碑は、二条線の下に深い船形光背を彫りくぼめ、その中に阿弥陀さまの坐像を浮き彫りしている。室町時代初期のもの。
 市役所から小学校への道路に沿って、用水路が流れており、この両側は土地が少し高くなっている。石仏のある辺りもなだらかな台地になっていて、「向井山」という地名が残っている。
 板碑というのは、死者の供養の為に路傍に建立するもので、身部の上部には弥陀の尊像等を刻み、その下部には建立者名や建立趣旨、願文等を刻む。死者と共に、残された自分たちにも弥陀の救いがありますようにと祈りをこめたものだろう。

重要文化財 北田家住宅  (江戸時代)
 昭和54年指定  交野市私部1丁目25−5

   
 地元では代官屋敷と呼ばれているこの住宅は、宝永から享保年間(1708〜1734)にかけて主屋が建てられている。建てられた当初は茅葺き屋根であったが、寛政8・9年(1796・7)に本瓦葺きに葺き替えられ、昭和59年からの保存修理工事で茅葺形銅板葺となった。
 間取りの最大の特色は上手の前面に突出した角屋をもつことで、その遺例は最古である。
 中でも立派な長屋門は、天保14年(1843)に建てられたもので、長さ55.9mもあり民家では日本一の長さである。
 そのほか、乾蔵(1722に建築)、北蔵(1785に建築)があり、北側と西側は土塀で囲われている。北方土塀が裏門を除いて59m、屋敷西方の土塀が33mあり合計92mである。
公開日 毎月第3火曜日(ただし、1・2・8・12月を除く)
      午前10時から午後3時        
北田家住宅長屋門

玉泉庵の楠の大木

北田家(代官屋敷)の長屋門

住吉神社のお旅所

出屋敷の輿部屋地蔵(北向地蔵)

私部城跡の堀跡

私部城跡石碑
 私部城跡の三郭の南側の角地付近から弥生遺物が出た。石器や弥生中期の壺が出土。ここから東に歩き山根道と交差する「百々川(どどがわ)」に架かる市場橋へと出る。この橋の上側に洗濯場があったそうです。その洗場の踏み石であったものが、住吉神社の木立の下に保存されていたが、今は何処へ行ったか?
 ここで、平田さんより、次の二つの伝説のお話を紹介された。

伝説
 「おとなしのどんどん」
  集慶殿(古い光通寺)の開祖別峰和尚が伊勢皇太神宮の神官と談義中、そばの小川の流れ落ちる水音がやかましいので、和尚が「やかましい」と言われた。すると、うるさく音をたてていた堰(どんどん)が静かになったという。
 「ならずの柿」
  別峰和尚がお話中、境内の熟れた柿の実が「ぽつん、ぽつん」と音を立てて落ちるので、「やかましい」と大声で叫ばれた。それ以来、この柿の木には実がならなかったという。

 
橋から北へと歩き直ぐに西へ、人一人しか通れない路地に出た。ここは室町時代以降、交野城の城主・安見氏も通ったであろう小道を歩く。途中、光通寺へと続く小路を行くと、「またべ地蔵」が祀られていた。


「百々川(どどがわ)」に架かる市場橋

歯痛、夜泣きにきいてくれはるまたべ地蔵
 光通寺へと歩き、「石垣地蔵」の由来を聞き、光通寺の西隣の梶さん宅の入り口に西を向いた丸彫りの足痛地蔵さんにお参りする。このお地蔵さんは足痛を治してくださるという。
 
 私部では、想善寺、光通寺、無量光寺がかたまっている。
光通寺の石垣は最近整備されたが、山門への上がり口と庫裏への上がり口との間の石垣の中央に、2つの石仏がおられる。これが「石垣地蔵」である。東側の石仏は、お薬師様、西側で一段低いところの石仏は、阿弥陀様。いずれも見つかりにくいが、朝方の太陽を受ける頃西側から眺めると、投影が素晴らしいと言う。

 光通寺から想善寺、無量光寺と訪ねた後、静かな佇まいを歩くと、自然と心が静まる。遠見遮断(とおみしゃだん)と言われる町角を通り、札場の辻(札場橋)から北田家住宅へと歩き、ぐるりと裏手の露地をくねくねと曲がりながら住吉神社へと帰り、本日のウォークの最後は空蝉(きゅうせん)藪に立ち寄りここで解散した。

私部の町をあちらこちらと、今まで歩いた道、また初めての道を案内して頂きました。
どうぞ、皆さんも機会がありましたら私部の町を歩いてみて下さい。
きっと満足されることでしょう。
平田さん、吉岡さん、私部の町を案内頂き、有難う御座いました。
 また、私部の皆様、当日は沢山で御宅の近くを歩きお騒がせしましたことを、お詫びするとともに感謝申し上げます。

光通寺の「石垣地蔵」

光通寺


↑ 想善寺の石仏群 →

想善寺

無量光寺
きゅうせん薮
 私部の産土の宮、住吉神社の境内の東にきゅうせん藪はある。
 元禄時代、境内に真言律宗、つまり宮寺の現光寺があった。庵梁行三間、桁行五間、わらぶき、前一間しころ付き瓦葺、ここに空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいた。空禅は中興の祖である。
 右奥の墓石がきゅうせん和尚の墓石で、正面に当寺中興空蝉寂超大和尚、背面に正徳二年(1712年)と記されている。歴代の社寺僧の墓で、大変厳かな場所である。
沢山の石塔と石仏が安置されている。



空蝉(きゅうせん)薮の墓地


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