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日時 : 2018年10月13日(土) 午前9時 京阪・交野市駅西口ロータリー前集合 参加者28名(会員22名) 行程 : 私部城跡〜光通寺〜無量光寺〜想善寺 11時10分頃解散 |
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2018年10/13(土)、天候 晴。京阪・交野市駅西口ロータリ前に午前9時集合。 立花会長の挨拶で始まり、本日の案内人・高尾部長よりウォークの行程など説明があり、早速私部城跡へと出発。 私部城跡〜光通寺〜無量光寺〜想善寺まで城跡や関連寺社について、沢山の写真や資料を用意していただきゆっくりとお話し頂き、色々な歴史があることがお分かり頂けたことと思います。 また、長年、私部城跡の遺跡保存にご協力いただいています地元の皆様のご協力とご厚意により、本郭まで案内して頂きました。心より感謝申し上げます。 このたび、10月1日付、私部城跡が新しく交野市の市指定文化財とし指定されました。6日(土)には、私部城跡周辺を歩く現地説明会が行われました。 来月11月17日(土)、私部城跡・市指定文化財記念講演会が、交野市役所別館3階中会議室で、13:30〜16:30まで開催されます。併せて、同日11:00〜13:00まで、「私部城跡現地説明会と別館前でテント市(交野ブランド)が開催予定です。 関連行事として、「私部城跡とその周辺ー市指定文化財記念ー」展が 2018年11月21日(水)〜2019年年2月3日(日)10:00〜17:00 交野市立教育文化会館(歴史民俗資料展示室)にて開催されます。 交野市教育委員会 主催「講演会」「現地説明会」「文化財記念展」にご期待ください。 ※高尾さんより当日に頂いたレジュメを参考にさせて頂きました。 記して感謝申し上げます。 |
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当日のウォークマップ |
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私部城跡二郭にて記念撮影 |
特報! 2018年10月1日、 私部城跡が新しく交野市の指定文化財になりました! |
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このたび、新規市指定文化財に伴い、現地説明会及び記念講演会が開催されます! | ||||
私部城跡 新規市指定文化財の概要説明資料(PDF) | ||||
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10月6日、新規指定史跡記念 私部城跡見学会が開催されました! |
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交野市観光協会会長のブログを参照ください! 10月6日の現地説明会の様子が詳しく紹介されています! |
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11月17日、 私部城跡 市指定文化財 記念講演会と現地説明会のご案内! |
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「私部城跡を見守ろう」 私部城跡〜光通寺〜無量光寺〜想善寺 講師:高尾秀司氏 |
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私部城跡 |
私部城跡の一部が 交野市の指定文化財に 平成30年10月1日付け、産経新聞掲載。交野市教育委員会では1日付で、戦国時代の平城、私部城跡(交野市私部六丁目)の一部を市文化財に指定。指定するのは、城跡の本郭の一部(本丸にあたる)と二郭(二の丸にあたる)2420平方メートルの遺構。土でつくられ、本郭と二郭が連なる連郭に築かれた平城の特徴が分かるという。 私部城は戦国時代に築かれた東西400m南北300mの平城で別名「交野城」とよばれた。戦国武将の織田信長が石山合戦の際に拠点にしたとされる。 発掘調査では、本郭部分から多くの瓦が出土しており、当時としては珍しい瓦葺きの建物が存在したとみられるという。 市教委の担当者は「府内の平城では、開発により残つていないケースが多いが、土でつくられた遺構がはつきりと分かる重要な例」としている。 |
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私部城の歴史 私部城は何時頃出来たか? 1568年{永禄11}織田配下となつた安見右近により完成したとみられる 1571年{元亀2}安見右近が奈良多聞城で切腹においこまれる。直後に私部城を攻める。城主不在の危機を乗り越える 1572年{元亀3}4月松永久秀が再び私部城を攻める。この時は織田方の柴田勝家、佐久間信盛等の援軍により撃退 1578年 (天正6)安見新七郎所で信長が休息する 1581年 (天正9)信長の馬揃えに取次者である安見新七郎が召集される。以後消息。 |
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光通寺棟札 光通寺は室町時代から朝廷との深いつながりを持つていましたが、戦国時代になって私部城の敷地に取り込まれ、城の外側に突出して築かれる出郭として利用されたとかんがえられています。 恐らく、この出郭が築かれる時の出来事を指すと考えられる記事が光通寺の寛文4年〔1664〕の棟札に登場します。 「信長配下の安見右近」は義も道もなく法をそこない、光通寺の壁を破り仏閣を地におとした。 破壊を受けた光通寺ですが右近の死から4年後、朝廷女官の記した日記に、例年どうりの茶の記事が見えます。 |
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光通寺 宗派 臨済宗 本尊 聖観音菩薩立像 ヒノキ材 像高71,5cm 鎌倉時代の作 創建は室町時代の始め頃 京都東福寺末 開祖は「交野郷土史かるた」にあるように別峰和尚で後村上天皇に寵愛された方です。後村上天皇の勅願寺という説もあります。実際には別峰和尚はこの寺に来て暫くして亡くなられたようで、開創者は赤松氏といわれている。室町時代から戦国時代にかけて朝廷にお茶を献ずるなど力を持った寺であったようです。又この寺の石垣のなかに「石垣地蔵」とよばれる2体の石仏がみられます。石仏はかなり風化していて分かりづらいのですが、光線の具合で浮き上がって見えることがあるそうです。 この寺は戦国期に到って私部城の敷地に取り込まれ、城の外側に突き出して築かれる出郭として利用されたと考えられています。この頃の出来事を指すと考えられる記述が、光通寺の寛文四年(1664)の棟札に登場します。 すなわち、「信長配下の安見右近は、義も道もなく法をそこない、光通寺の壁を破り仏閣を地に堕とした。」そして右近が自刃に追い込まれたことにつき、「罰が下った、後世の人の戒めとなる」などと強い調子で非難しています。破壊を受けた光通寺ですが、右近の死から4年後、朝廷女官の記した日記に。例年通り朝廷へのお茶の献上の記事が見られることから、勅願寺としての位置は保たれていたと考えられます。朝廷との深いつながりをもつ光通寺にとって、私部城の敷地への接収は、右近による寺の破壊の記億として近世にいたってもなお忘却されず、これを棟札に書き残す事で,後世への思いをつたえています。(棟札の項、交野市教育委員会の記述)(注 勅願寺とは天皇の命令で建てた寺) |
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無量光寺の梵鐘 無量光寺には享保15年(1730)の梵鐘があり、ここに寺の初め頃から以後2百数十年もの歴史がきざまれています。 そのなかに,天正年間の信長の本願寺攻めの記載があります。「無量光寺、覚心はこの戦いの防禦に貢献し、結果和解となったが、当時私部に城を築き信長に属して戦っていた右近はこの覚心の所為を怒つて殺そうとした。これを人づてに知つた覚心は20年余り逃亡した。 この梵鐘は戦中の供出を免れ現存している。 |
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無量光寺 宗派は浄土真宗西本願寺 本尊は阿弥陀如来立像 平安時代末頃の作、木造で像高90cm余。 かつては住吉神社の西方に天台宗の尼寺として建立される。しかし嘉吉の乱(嘉吉元年「1441」播磨の領主、赤松満祐(みつすけ)が六代将軍足利義教(よしのり)を殺すという事件をいう)この時この寺に立ち寄った赤松軍を追った足利軍に焼かれたと云われる。明応3年(1494)足利に仕えた星野親忠はその晩年を私部で過ごす為この無量光寺の旧跡を再興し仏門に入った。そして子能末は父の後を継いで僧となり了道と号した。この頃本願寺中興の祖といわれる蓮如がこの地に布教に来られ、当時の僧、了道は教えを受けて、浄土真宗に転じた。 戦国時代、信長の石山本願寺攻め〔1570〜1580〕の時住職の三世覚心は本願寺に味方し、信長方にいた私部城の安見右近と戦った為、寺は焼かれ覚心は追われ20年余り帰れなかったといわれる、私部にやっと帰った覚心は現在の地に土地を求め寺の再建にのりだしたが完成したのはそれから170年余後であったといわれる。 {出展 交野市教育委員会、執筆片山長三氏} |
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想善寺 宗派は西山浄土宗 本尊 阿弥陀如来坐像 ヒノキの寄木作り 江戸時代の作 天正年間(1573〜1591)、惣善上人が一宇の堂を建て念仏生活をしたのが始まりといわれ、後にそれを想善寺と称した。その後寛政2年(1790)遍空上人時代、当地の領主畠山義紀公が大壇越(スポンサー)となり寛政5年秋に現在の伽藍に再建された。本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置し、その左右に仏高12cmの千体仏を祀っている。当地方では、子授け、安産の帯受け及び子供守りの地蔵として参詣する人が多い。 昭和44年の大雨で本堂の一部が崩れ落ちるという事件があった。多くの人の尽力で再建は出来たが、この時はからずも、天上裏から位牌と古文書が出てきた。この古文書はもと私部上河原にあった光蓮寺のものであったことが分かりました。 同時にこの寺は元禄時代より古い貞享年間(1684〜1685)には上河原にあったことが明らかになりました。この文書はその後私部住吉神社の神宮寺、現光寺に移り、明治の神仏分離で想善寺に移ってきたと考えられます。 (交野市教育委員会編、交野の神社と寺院より) |
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私部城跡 私部城は別名「交野城」とも呼ばれる平城で、標高は22〜28mに位置している。遺跡の規模は東西約400m、南北約300mである。 城は、本郭および二郭のほか、三郭、四郭、出郭、その他曲輪で構成される連郭式の平城である。城の北側には百々川が流れ、南側は本丸池などの池が残り、堀として利用していたと考えられる。江戸時代に入ると、城の南側には家が建ち並び一部は郭内にも建築され、現在では郭部分は主に畑地、堀部分は水田として利用される。 本郭の上からみた形は、南北方向を軸とする一辺約60mの正方形である。築城は起伏のあった自然地形に盛土を行い造成している。 発掘調査の結果、本郭からは多量の瓦が出土し、瓦葺き建物が存在したと考えられる。本郭南端には二郭・三郭と連結するため自然地形を平坦に削り出し、通路を造成している。このほか、弥生時代中期の石器を製作していた竪穴住居2棟が確認され、交野市の弥生時代史を考える上でも重要な遺構が地下に保存されている。 二郭の上からみた形は、南北約110m、東西約50mの長方形である。二郭は北側部と南側部は東西に走る道路によって分断されている。 発掘調査の結果、高さ1m以上の盛土痕跡もあり、本郭同様に自然地形を利用しつつ土木工事を施して築城している。郭の上面からは井戸や土坑などの遺構のほか、周囲に瓦が散布している柱穴群も確認されている。二郭南端には本郭同様に平坦面が続き、本郭と繋がる。 以上のように、戦国時代の瓦葺き建物のほか、交野市では検出例が稀な弥生時代中期の竪穴住居など、重要な遺構が地下に良好に保存されている。 また、三郭といわれる東側で2200年も前に稲作が行われていたとみられる、石包丁が出土しております。 |
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右の台地が本郭 東方に交野山が望まれます 本郭の上からみた形は、南北方向を軸とする一辺約60mの正方形である。 築城は起伏のあった自然地形に盛土を行い造成している。 |
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右の台地が二郭、左側の台地が本郭 中央に切通 |
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二郭の上からみた形は、南北約110m、東西約50mの長方形である。二郭は北側部と南側部は東西に走る道路によって分断されている。 発掘調査の結果、高さ1m以上の盛土痕跡もあり、本郭同様に自然地形を利用しつつ土木工事を施して築城している。郭の上面からは井戸や土坑などの遺構のほか、周囲に瓦が散布している柱穴群も確認されている。二郭南端には本郭同様に平坦面が続き、本郭と繋がる。 |
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本郭の上からみた形は、南北方向を軸とする一辺約60mの正方形である。築城は起伏のあった自然地形に盛土を行い造成している。 発掘調査の結果、本郭からは多量の瓦が出土し、瓦葺き建物が存在したと考えられる。本郭南端には二郭・三郭と連結するため自然地形を平坦に削り出し、通路を造成している。 このほか、弥生時代中期の石器を製作していた竪穴住居2棟が確認され、交野市の弥生時代史を考える上でも重要な遺構が地下に保存されている。 |
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本郭内で弥生時代中期の石器を製作していた竪穴住居2棟が確認され、 交野市の弥生時代史を考える上でも重要な遺構が地下に保存されている。 |
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三郭といわれる東側で2200年も前に稲作が行われていた とみられる石包丁が出土しております。 |
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私部城跡の想像図(交野古文化同好会員) |
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私部城から関連するお寺巡りへ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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最後までご覧いただき有難うございました |