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交野歴史健康ウォーク 第187回

東高野街道を歩く 星田~砂子橋
2019.11.9(土) JR星田駅 午前9時集合

行程 : JR星田駅(午前9時集合)→ 大正天皇行幸記念碑→ 六路の辻→ 六路の川と地蔵→
旧陸軍引込線跡→ 中村中尉鎮魂碑→一塁塚跡→墓之前橋と迎え地蔵→星田共同墓地→
上ノ山遺跡→ 上ノ山の辻→ 閲武駐蹕記念碑→ 本尊掛松跡→ 逢合橋→砂子橋
12時頃解散  5km徒歩


案内:青山 洋二氏(交野古文化同好会)
     
参加者 36名(会員26名)

 11月に入って絶好のウォーク日となった11月9日(土)、36名の元気な仲間が星田駅に集合。先ず、高尾部長の挨拶の後、案内役の青山洋二さんより行程の紹介を受けて、逢合橋に向かって元気にスタートしました。
 ウォークに先立ち10月17日の午後、高尾・青山さん村田の3人で東高野街道周辺を下見に歩きました。北星田の開発により一里塚周辺が激変している状況や案内する史跡の状況を確認して当日に備えました。
 絶好の散策日となった当日、案内の青山さんの所属されているグラウンドゴルフなどの仲間や友人が多く参加されいつもにも増して大盛況でした。当日は、私部の逢合橋付近で解散する予定でしたが、元気な方は当初の予定コースの星田~郡津迄歩かれました。

 ※レジメの作成や東高野街道筋の歴史的なデータ収集など青山洋二氏に大変お世話になりました。HPやWEB記事などを参考に掲載いたしました。記して感謝申し上げます。

 上ん山の辻にて記念撮影
 東高野街道を歩く=星田~砂子橋 マップ
 
交野歴史健康ウォーク レジメ 
 
 
 星田駅 集合・スタート

高尾部長の挨拶
 

案内の青山洋二さんから行程の紹介など

東高野街道をマップで紹介
大正天皇行幸記念碑
 大正3年(1914)11月16日(105年前)大阪一帯の「陸軍特別大演習」の際、大統師であった天皇の行幸記念で、演習二日目は河内平野でした。
 第一御野立所(行幸の際の屋外の休憩所)を記念し、昭和 3年(1928)11月建立。上ノ山の「閲武駐蹕記念碑」と同じ時に建てられたと思われる。大正天皇を悼み昭和天皇の即位に合わせて建てられたようです。
 
毎日新聞記事 我が町にも歴史あり 参照
 
毎日新聞  陸軍大演習の記事を報じている  参照
 
毎日新聞 大正天皇の陸軍大演習の模様を報じている  参照
六路(ろくろ)の辻
 大正天皇行幸記念碑前で、駅前南ロータリーから東へ一方通行の、府道交差点迄の約200mは、府道157号(星田停車場線)で最も短い府道です。この府道の北側-帯は、古い地名を「六路」と言います。六路の辻を基点に東高野街道、星日、寝屋、高田、私市、私部等へ六方向に分かれていく辻です。
 六路の辻の交通信号は交野市内で最初に(昭和39年)設置された。当時は交野市内でも有数の交通量があったところでもあり、また6つの辻が出会う難所でもあった。
 「六路」は、文字どおりの辻の集合体であろう。星田の駅前辺りが星田への出入口となっている。東高野街道によって交野方面や打上、四条畷方面、また、北へは大谷から寝屋へ、高田へ、そして、山根街道に沿って星田から私市、森へと四方に道路が通じている。

 この道路網と別に星田への出入口であったから、六道(ろくどう)の辻で、お地蔵さんを祭って悪霊の立ち入りを防いだり、旅の安全を祈願したといったことも行われた。六道とは仏教の世界説で、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの苦難に満ちた世界をいう。人間は仏菩薩を念ずることで、これらの世界に落ちるのを救われるという。平安時代中期以降、浄土教の発展とともに民衆の間にこの思想が広まったものである。
六路の川と六路の地蔵
 六路の交差点から北へ、枚方の高田へ向う道路の東側に、「六路の川」が星田大池から流れています。星田の北のはずれで、東高野街道沿の「星田共同墓地」の方へ向かって流れています。「地蔵さん川」とも云う。
 この川に立ったまま埋まっていたのが、「六路の地蔵」。り||の改修のたびに土中に埋まり、他へ移すことも考えられたが、腹痛が起こると云って、そのままにしてきた。
 
六路川
 星田大池を水源としてみどり池、「大分け」を経由して、星田小学校の裏手へと出て、「ろくろの辻」で土管の中に吸い込まれて住宅街の北へと流れ出て、JR線の下をくぐり、東高野街道沿いへと流れ、北星田の田圃を潤し、星田の惣墓から枚方市の茄子作へと流れている。
ろくろの辻で土管に吸い込まれて北へと流れでる
六路川の地蔵
歯痛の地蔵。廃仏毀釈によって捨てられていたのだろうか?昭和53年発掘

六路川
旧陸軍引込線跡
 隣の枚方では、明治27年の日清戦争の時から三度、三ヶ所に軍事施設が設けられた。三度目の香里火薬製造所は、昭和14年に現在の香里団地の広大地に設けられました。それに伴い、その年末より星田駅北沿の土地を陸軍用地に供出させられました。そこに星田駅から香里製作所迄の3.8kmに軍需品輸送・工員の通勤のため、昭和16年~23年に陸軍専用鉄道の引込線が敷かれたのです。
 星田駅から枚方の香里団地へ向かって一本の道路が弧を描いて延びています。この道路の一部と歩道は、星田駅から現在の香里団地付近にあった陸軍造兵廠香里製造所までの、約4キロの陸軍専用鉄道跡です。
 香里製造所は、陸軍が砲弾などに使用する火薬を製造していた日本有数の製造所で、列車は星田駅から工場への軍需品の輸送や工員の輸送に利用されていました。
 線路は戦争終結と同時に役割を終え、昭和23年、廃線となりました。
 この線路用地脇には民有地との境界を示す「陸軍用地」の石柱が立てられていました。
 
平成22年6月12日、星田周辺のかるた巡りの時に、古文化同好会員の綱分清美さんより2本の石碑を発見しましたと、紹介を受け大変驚きました。その時の様子です。

星田駅北裏の田圃の畔に 初めてお目にかかる「陸軍用地石碑10番」
会員の綱分さんがもう2年も前に発見されていました!
付近の区画整理の為現在はありません。

「陸軍用地石碑10番」
※陸軍造兵廠香里製造所
現在の香里ケ丘1丁目から12丁目までの範囲、140ヘクタール、230棟の建物、約5000人が働いていた。
宇治からの湿薬を乾燥させ、枚方製造所で作った砲弾に詰め、禁野火薬庫で貯蔵。
妙見山の煙突は、火薬を乾燥させる石炭を焚いたボイラーの煙突。
昭和14年に日中戦争の拡大に伴い、増大する火薬需要の製造場所「宇治火薬製造所香里工場として開設。昭和17年東京第二陸軍造兵廠香里製造所として独立。昭和20年終戦により操業停止。昭和30年日本住宅公団が住宅建設を計画、翌年建設が始まる。
※星田~香里軍用側線
現、片町線が明治31年4月12日、四条畷長尾間に関西鉄道として開設。
明治40年10月1日、国鉄に編入、関西本線の支線、片町線となる。
昭和16年9月21日、星田駅から旧陸軍香里火薬製造所へ通ずる陸軍専用鉄道(3845km)が開通し、軍需品の輸送や行員の通勤に利用された。
昭和19年10月、星田駅の待合所一部撤去、
昭和23年10月頃、撤去された。   (交野町史 Ⅱ)


用地買収については、昭和14年12月2日関係土地所有者が村役場に集められ、憲兵下士官が「土地を軍に返還せよ」と価格の記載のない書類に押印させ、買収した土地の境界に「陸軍用地」の標石が立てられた。  工廠駅は110mのプラットホームがあった。      (交野の戦争遺跡)
 
中村中尉鎮魂碑
 太平洋戦争終戦の1ケ月余前の昭和20年7月9日の昼、硫黄島から来襲の米軍戦闘機を迎撃に、伊丹飛行場を飛立った鹿児島出身23才の中村純一中尉の飛燕機|ま烈しく交戦も、星田の北の空中であえなく撃墜された。御遺体|ま村民が光林寺に安置して、後に村民によって、鎮魂碑建立。60年後、第二京阪道路建設現場から、飛燕機のエンジンや機関砲等発掘されて、現在いきいきランドで展示中。
中村少尉の鎮魂碑
陸軍中尉・中村純一戦地の地
 昭和20年7月9日、米軍機P51約50機が来襲、大阪上空で空中戦があり、鹿児島出身の中村純一中尉が操縦する戦闘機・飛燕が撃墜され、星田に墜落しました。
 中尉は、パラシュートで脱出しましたが、米軍機が翼でパラシュートのロープを切り、中尉は水田にしぶきを上げて墜死され、星田の村民が手厚く弔われた。

 2005年3月16日、交野市星田北8丁目の第二京阪国道作業地にて、飛行機の残骸が発掘された。調査の結果、発掘されたエンジンのマークから飛燕のもので、中村中尉が操縦されていたものであることが確認されました。
 なお、発掘された飛行機の出土品は、現在、いきいきランド交野のロビーに展示されています。
一里塚跡
 星田北の石仏から、北東へ行く約500mの区間、田畑の中の一本道があります。この街道の東側の古い地名は「四馬塚」であるが、あて字で「芝塚」は、旅人への距離の道じるべ「一里塚」がありました。街道の両側に五間四方盛土して、松等を植えて休息地にも供された。街道の側の古い地名は、「金門・車司」であつて「寝屋」の長者屋敷と鉢かつぎ姫」に思いを馳せます。


一里塚跡石碑


東高野街道の阿弥陀さん

北星田の区画開発の為、一里塚と阿弥陀さんは別途保管中です。
交野郷土史かるたに    「路傍には 東高野の一里塚」と詠まれています。

 一里塚は街道の一里(4㌔)ごとに土を盛り、上に木を植えて里程のしるしとした塚。道を挟んで向かい合わせに二つ、木はエノキや松が多い。一里塚の起こりは織田、豊臣の時代からつくられはじめたが、全国的には、徳川家康が秀忠(2代・1605-1623)に命じ、お江戸日本橋を起点とした主要街道に築かせてから広がった。JR星田駅から高架沿いを東に向い四辻を北に少し行くと小字名を街道の東を四馬塚(しばつか)、西を金門(かなど)という所がある。その田の中にあった。
 江戸中期ならびに元禄10年(1697)の星田絵図にはそれぞれ「一里塚」と書き、道の両側の盛土のうえに大きな松が一本ずつ画かれている。当時を偲べば、街道には里程の目標と旅人に木陰を与え、休憩するために一里ごとに土を盛って松などを植え、一里塚とか一里松といった。  今は舗装道路となり、毎朝の車通勤ラッシュの迂回道路として賑わっている。現在は古川柳にある「くたびれたやつが見つける 一里塚」となりつつある。
 平安時代、信仰のため旅をする人の通った東高野街道は京都鳥羽から河内に入り郡津、星田を経て高野山まで続いていた。そして一里ごとに目印として、木を植えて、お大師さんを祀ったのが一里塚です。太子堂、今は星田村中の半尺口に移転されています。 
 =一里塚の今昔=  平田政信さんのよもやま話
 
一里塚(金門・四馬塚)・東高野街道・中村中尉鎮魂碑
  戦闘機残骸発見・陸軍用地


   
   
 
=寝屋長者屋敷=    平田政信さんの「瓦版・よもやま便り」を参照

 弘安二年(1279)、河内の国、交野郡寝屋村に、寝屋備中守藤原実高と申す大長者があった。田畑1200余町(約12万㌃)、山林数知らず、屋敷の東西12丁(1丁は約109㍍)南北4丁で東西に大門があった。家造りの豪勢さは言語に絶していた。
 河内国讃良郡の長者屋敷という設定で描かれた絵巻を紹介します。
    (「粉河寺縁起」第3・5段 国宝 和歌山県 粉河寺所蔵)
 
    

   
       
   図1~4につなげてみると、館の表門から裏門までを描いた形になっていることがわかる。
 図1右側から、堀と橋、櫓門と板塀、広い空間に面して、厠、網代垣で囲われた倉、母屋、渡り廊下でつながれた離れ、倉、そしてまた板塀となる。裏門は単なる塀の切れ目として描かれている。

 寝屋長者鉢かづき(初瀬)物語の舞台となっていく・・・。

 一里塚周辺で詳しく説明される
 
 
元禄10年星田村絵図(1697年) 一里塚が描かれている 
 
 天保14年絵図にも一里塚が描かれている
  街道の側の古い地名は、「金門・車司」であつて
「寝屋」の長者屋敷と鉢かつぎ姫」に思いを馳せます。
 
 いずれも御伽草子の鉢かづき姫にでてくる長者屋敷にかかわる地名である。堀之内は、隣接する寝屋村も堀の内となっていてここに堀に囲まれた長者の屋敷があったとされている。金門は、金で装飾したような立派な門があったとされている。車司は、長者の乗る牛車をひく人々やその牛を飼育する人が住んでいたところであるとされている。
 鉢かづきちゃんは、現在寝屋川市のマスコットキャラクターになっているが、寝屋川市にはこの原本の1つである「河内国交野郡寝屋長者鉢記(寝屋川市役所蔵本)」(1巻~7巻)が図書館で閲覧させている。この物語の長者は備中守藤原実高といって屋敷は、東西12町(1300m)、南北4町(440m)の広さがあり、幾百坪の建物や10数坪の土蔵が立ち並び近畿でも長者の頭と呼ばれていて、西側にたち川が流れていることを考えるとその規模からして長者屋敷はかなりの部分が北星田地区にあったと考えられる。なお、松会堂蔵版写本「寝屋長者鉢かづき」(万治2年―1698年)は、その頃は、屋敷の形は残っていたとされている。

 
 
 金門(かなかど)
 国鉄星田駅の東側、ガードをくぐると東北に伸びる昔の道がある。東高野街道である。この道と戦時中に香里の火薬庫があったときに星田駅から引込線が敷かれていたレール跡が道路になっている道との交差点まで、南側が金門、北側が車司である。
 堀之内辺りに寝屋の長者屋敷があって、東高野街道に面して出入口の門が建っていた。その門は木の門ではなく金(かね)の門であった。だぶん金箔(きんぱく)を張った(江戸時代の城門のような)りっぱな門であったろう。朝日、夕日が当たると照り輝いており、それはみごとな門であったろう。街道を往来する旅人を驚かしたに違いない。

 車司(くるもうじ)
 「くるもうじ」と読み、漢字の方は「車牛」と書くこともある。金門の北側でやはり東高野街道に面している。
 寝屋の長者が外に出るときは必ず車に乗って出かけられた。車といっても当時は牛車である。馬の場合もあったかもしれない。そうすると牛馬を飼育しておかなければならないし、牛舎も必要である。また、牛馬を飼育したり、引いて行く人も必要である。こういった牛馬やこれを管理したり飼育したりする人々が生活していた場所が、大門のすぐそばであった。金門に続いて車司が付けられるのもそういった意味があったのである。

 四馬塚(しばづか)
 金門の東側で、東高野街道に面している。「芝塚」のことだろう。一里塚のことである。街道を往来する旅人の道しるべと距離を示すために、街道の両側に5間四方の広さを盛土して、その上に松や雑木を植え、遠くからでも一里塚であることが分かるようにしていた。交野地方では星田の東高野街道沿いの「四馬塚」に松を植えた一里塚があったことを言い伝えている。
 
 北星田地区区画整理の為、周囲は一変している
 
 
 
 
 消え去る街道
東高野街道の名称は、明治15年に初めて使われた。大阪市内の他の高野街道と区別の為です。男山八幡宮から河内長野迄の50km余伸びます。交野市はほぼ西端に南北に通り、一部茄子作も含め約5kmです。住宅開発や工場建設等で既に無くなった所もあります。一里塚のあった区間の内中央部半分は、区画整理事業で拡幅計画され、両端部は取付位置変更によつて無くなってしまう計画です。 
 
 
 
北星田 土地区画整理事業 完成イメージ 
 

一里塚跡 付近に掲示されているのを参照しました。

墓之前橋と迎え地蔵
 星田の北はずれにある共同墓地の入□は、東高野街道に接します。六路の辻から流れてきた地蔵川に、街道の「墓之前橋」の石橋が明治37年7月と刻まれ、架かっている。この橋の横に7基並んだ石仏は、左端が新仏を迎え下さる「迎え地蔵」の地蔵菩薩で、二番目は弥陀の定印結ぶ阿弥陀如来坐像です。他の石仏は、昭和50年の改修工事で川床から上げられたものである。 
 
 「墓之前橋」の石橋が明治37年7月と刻まれている
(風化して僅かに読み取れます)
 
 
 
左端が新仏を迎え下さる「迎え地蔵」の地蔵菩薩で、
二番目は弥陀の定印結ぶ阿弥陀如来坐像です
 
星田共同墓地 
 共同墓地内かかりの「板碑形」の阿弥陀如来坐像石仏は、頂部三角形でその下に二条線が見られる。この板碑は死者を追善する卒塔婆で、室町後期~桃山頃のもの。右側に舟形光背を背負う六地蔵が並ぶ。少し奥に215年前に「神祖営趾之碑」建立に関わった平井貞豊公のお墓があります。この碑には大坂夏の陣で、平井家に宿営した家康の参謀と平井家当主の事蹟が詳しく刻まれています。 
 
「板碑形」の阿弥陀如来坐像石仏は、頂部三角形でその下に二条線が見られる。
この板碑は死者を追善する卒塔婆で、室町後期~桃山頃のもの
 
 
 
 舟形光背を背負う六地蔵が並ぶ
 
河内相撲の大井川のお墓


平井貞豊公のお墓
 
215年前に「神祖営趾之碑」建立に関わった平井貞豊公のお墓があります。
この碑には大坂夏の陣で、平井家に宿営した家康の参謀と
平井家当主の事蹟が詳しく刻まれています。

 
  
石碑「神祖営趾之碑(徳川家康宿営之碑)」

大坂夏の陣から184年後の寛政11年(1799年)、市橋長勝の子孫、
市橋長昭は星田村を訪れ、神祖(家康)が、宿営したことの詳しい話を聞き、
長勝の功績を広く世間に知らせるため、石碑を建てることを思いつきました。
 このことを平井清貞の子孫、平井貞豊に命じ、建てられたのが神祖営趾之碑です。

  現在、平井家の北西裏には、家康が宿陣したことを記念する石碑が建っています。
 これは、大坂夏の陣から190年が経った文化3年(1806年)に、星田の領主市橋長昭と平井家当主の平井三郎右衛門貞豊が、計画して建立したものです。

 碑文を解読すると、家康が平井家に宿陣した様子が記されています。

 当時の領主市橋長勝は、家康から後方の防備をするようにと命じられますが、防備は家臣に任せ、自分は家康とともに戦場に出たいと申し出て許されます。天王寺・岡山合戦で、徳川方が真田信繁(幸村)に攻められ、大混乱に陥る中でも、長勝の部隊は静粛にして乱れることがなかったので、家康からたいそう賞されたと記され、家康亡き後、二代将軍の秀忠からも優遇され、石高の加増があったとも記されています。
 また、長昭の代になって石碑を建てることになった経緯や旗掛松のことも記され、後世の子孫に先祖の輝かしい業績を伝えたいとする思いが現れています。

 

 慶長20年(1615年)、家康は大坂夏の陣に赴く際、領主の市橋長勝が守りを固めていた星田村の庄屋、平井清貞の家に宿泊し、そこから出陣しました。このことは、徳川幕府の正史である「徳川実紀」にも記されています。
 家康が天下を治めた証といえば、慶長5年の関ヶ原の戦いに勝利したことや、慶長8年に、将軍となり幕府を開いたことが考えられますが、家康はこのときは改元(元号を変えること)をしていません。
 家康は、豊臣家が存在する限り、徳川家の天下が安泰とはいえないと考えたのでしょう。豊臣家を滅ぼした大坂夏の陣のあとすぐに、徳川の天下を宣言する意味で、元号を「慶長」から「元和」に改元しました。大坂夏の陣が、家康にとって特別な戦いだったことがうかがえます。
 また、「元和」とは「元和偃武(武をやめて和を始める)」を意味します。つまり、応仁の乱から150年近く続いた戦国時代が終わったことを国中に宣言したのです。


 大坂夏の陣から184年後の寛政11年(1799年)、市橋長勝の子孫、市橋長昭は星田村を訪れ、神祖(家康)が、宿営したことの詳しい話を聞き、長勝の功績を広く世間に知らせるため、石碑を建てることを思いつきました。
 このことを平井清貞の子孫、平井貞豊に命じ、建てられたのが神祖営趾之碑です。
 碑には、長勝が、家康を迎え入れるために、星田村の守りを固めたことで、村が大坂方(豊臣方)の焼き討ちを免れたことや、真田幸村の軍勢に、徳川軍の多くが動揺するなか、長勝の隊は乱れずに戦ったこと、長昭が碑を作るに至った経緯などが刻まれています。

家康ゆかりの地MAP

 街道と府道の交差点
  墓之前橋から北は、府道20号(枚方・富田林・泉佐野線で東高野街道のバイパス)と交わります。元の街道は東側の工場の敷地内に入って行ったのが、工場建設で無くなったのです。府道の西に「新仏道じるべ地蔵」があるが、元は東側の工場内で、元の街道の辻に立っていたのです。舟形の石に地蔵菩薩の立像は、美いヽ石仏です。  
 
 
 府道の西に「新仏道じるべ地蔵」がある

上ノ山遺跡
東高野街道と第二京阪の交差部の西(コンビニの北側)で、弥生時代中期前半(約2200年前)に建てられた、独立棟持柱を持つ「大型堀立柱建物」の跡が、道路工事前の調査で見つかりました。平成17年3月の新聞では、「集落の中心施設で、弥生最古級の神殿跡?」と報道されて話題になりました。梁間4.5m、桁行8.6m、床面積39㎡(約12坪)です。 
 上の山遺跡(中心部)(交野、枚方南にまたがる) 独立棟持柱を持つた大型掘立柱建物跡見つかる
 弥生時代中期前半〔約2200年前)に建てられたもので平成17年3月の読売新聞では集落の中心施設で「弥生最古級の神殿跡?」と報道され話題になりました。その外、須恵器の大甕を据えた水場、馬蹄形かまど跡、弥生人の指跡が明瞭に残る土器、モミを押し付けた痕の残る土器、須恵器の窯あとではないかと思われる焼けた土痕などが検出されました。 
 
上の山遺跡(現地説明会資料より)
枚方市茄子作南町、交野市私部西5丁目所在)

 上の山遺跡(交野市私部西5丁目地先・枚方市茄子作南町地先)の発掘調査は、第二京阪道路(大阪北道路)の建設に伴い、国土交通省・日本道路公団の委託を受け、大阪府教育委員会の指導のもと、平成15年度から行われました。
 本遺跡は、天野川の西側にあたり、枚方丘陵から天野川に沿ってほぼ南北方向に細長く伸びる中位段丘(東西幅約100m)と、東西両側の谷に立地しており、これまでの調査で、旧石器時代から中世までの遺構や遺物が見つかっています。
                                
 今回の調査では、弥生時代中期前半(今から約2,200年前)の独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)をもつ大型掘立柱建物を1棟検出しました。建物は、遺跡が立地する段丘の最頂部(標高29.2m)にあたり、見晴らしがよく、周囲を一望できる高所に建てられています。


          

 建物の規模は、1間(4.45~4.60m)×5間(8.60m)です。建物の柱穴(柱を立てるために掘られた穴)は、楕円形もしくは隅丸長方形で、建物の外側から内側に向かって斜めに掘られており、柱を滑り込ませて立てたものと考えられます。側柱(がわばしら)の柱穴の深さは約0.3mですが、棟持柱の柱穴の深さは約0.9mもあります。
 独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物が、一般的な掘立柱建物や大型掘立柱建物と違う点は、建物の妻部(つまぶ)から離れた位置にある棟持柱で、大きく張り出した屋根を支えることです。このような建物構造や当時一般的には竪穴住居に住んでいたことなどから、独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物は、特殊な建物として、「祭殿」「集会所」などであったとする意見もあります。
  上の山遺跡の大型掘立柱建物は、ながめのよい場所に立地すること、独立棟持柱が建物の妻部から大きく離れた位置にあり、柱穴が大きくて深いことなどから、かなり高くて、立派な屋根構造を持つ、シンボリックな建物であったと考えられます。


 参考:上の山遺跡現地公開資料  財団法人 大阪府文化財センター

上の山遺跡4区前景(西から)
独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物跡(北から撮影)
 
上の山遺跡の発掘調査
 (枚方市茄子作南町、交野市私部西5丁目所在)
    上の山遺跡現地説明会風景
2005.3.2 朝日新聞朝刊記事参照
朝日新聞記事
 神殿か 大型建物跡発見

 大阪上の山遺跡「池上曽根」に類似

大阪府交野市と枚方市の市境に広がる上の山遺跡で、弥生時代中期前半(紀元前2世紀初め)の大型建物跡が見つかった。大阪府文化財センターが1日、発表した。同府の池上曽根遺跡で見つかり、復元された「神殿」とされる建物より小さいが構造はそっくりで、同様の大型建物では最古級になるという。
 建物跡は標高約29mの丘の上にあった。長さ約8.6m、幅約4.5mで、両端に大きく張り出した屋根を支える為の「独立棟持柱」の跡が見つかった。独立棟持柱のある大型建物は、集落の中心地で一般の住居とは離れて見つかることから、神殿や首長の居宅などの特別な建物とみられる。
 近畿地方で多く発見され、最も古いのは唐古・鍵遺跡(奈良県)の弥生中期初めのもの。上の山遺跡の建物はそれと同時か、少し遅れて建てられたらしい。床面積は池上曽根遺跡の「神殿」
(紀元前1世紀中頃)の約3分の1だが、形や構造はよく似ていた。
同センターは「集落が統合されて『クニ』が生れる過程で、集落の中心のシンボル的な建物も大型化していった。池上曽根遺跡との比較で、その変化がうかがえる貴重な発見」としている。

上の山遺跡とその周辺地図
 
 
 

上ノ山の辻
天野川と東高野街道の間の一帯を、古い地名「上ノ山」と云います。逢合橋西南のこんもり台地は、「上ノ山の辻」で東高野街道と、北東から上ってくる山根街道が合流します。そこには私部村地蔵講中が、1725年建立の「上ノ山地蔵」が立っている。地蔵の側の二つの道標は、「大峰山道標」1855年建立と「大阪府道標」1904年(明治37)建立です。京や八幡、宇治、津田、星田停留所等への案内です。 
 
上ノ山(うえんやま)
大峰山供養塔は
   高さ1m90cm、幅35cm





 正面に「大峰山」
 右下に「宇治」、左下に「京八幡」
 その下に大きく「道」

 塔の右に「すぐ高野大坂道」
 安政元年(1854)3月建立

  願主 私部村徳右衛門

 付近は、綺麗な住宅地となり
 すっかり
 往時の面影がなくなってしまった。
大阪府の道標  明治37年1月建立
表面右に、「山根街道」 左に「東高野街道」 その下に「津田山城道」など


大正天皇の御野立所の記念碑
大正3年(1914)特別大演習の際、
駐蹕(ちゅうひつ)之所
大正天皇が大演習をご覧になるため
一時馬から下りられた所


地蔵尊
私部村地蔵講

享保10年(1725)乙巳3月24日
  
「うえん山」の辻 
第二京阪国道が完成し、168号線のバイパスが通り周囲は変わっている。  

 
逢合橋を渡りまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、100㍍ほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。 この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標があったが、今は南の玉垣の前に移動している。
 ここは、枚方市茄子作4丁目。うえん山の辻MAP
  ※茄子作(なすづくり)の地名の由来
 平安時代、交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)がかわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言うハプニングがあった。そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けた故事に由来する。

 南に進むと右に、玉垣があり地蔵様がおられる。ここは、上人松の伝説がある。明治30年ごろまで四方に枝を張った松があったが、今はその松はない。二代目と思しき松が玉垣の中に植えられている。

 すこし上ると、「うえん山」の辻に出る。ここは山根街道の分岐点で、高さ2mを越す安政2年の道標がある。他に享保の地蔵があり、大阪府の小さい道標に
「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。歴史上の名だたる人々が往来し、真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。
  
 
 
 閲武駐蹕記念碑
(えつぶちゅうひつきねんひ) 
 星田の第一御野立所「大正天皇行幸記念碑」から、上ノ山の第二御野立所「閲武駐蹕記念碑」のところへ移られて、天皇はここからも陸軍特別大演習の状況を統監された。この演習は明治25年から昭和11年迄(45年間)年1回行われ、両軍に分かれての大規模な模擬戦|ま、天皇が審判長を務められた。この少し前に日本は、第一次世界大戦に参戦したこともあり、白熱した演習となった。 
 
 

本尊掛松跡
 上ノ山の辻から北の左手に、玉垣の中に立派な地蔵と松の木が、「本尊掛松跡」。700年前の元亨元年、大念仏宗の中祖七世「法名上人」|よ、男山入幡神の霊夢を受け、深江から男山へ向かう途中、同じ霊夢を受け霊宝を届:すんと、八幡宮の一行とここで出合い、十一尊天得如来の画像を授かった。上人はこれを側の松に掛け念仏を唱えると感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの初まりです。 
 
元亨(げんこう)元年(1321)11月16日夜、融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)中興の祖法明(ほうみょう)上人が男山八幡神の霊夢をうけ、深江(大阪市)の草庵から男山へ向う途中ここで八幡宮の使者に出会い、11面尊天得如来(じゅういっそんてんとくにょらい)の画像を授かった。上人はこれを路傍の松に掛け、その前で称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を唱え感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの始まりであるとされている。やがて一夜の宿を乞うたのが犬井甚衛門(いぬいじんえもん)屋敷(茄子作北町)であったという。「本尊掛松」はこの画像を掛けたことに由来し、別名「ホトトギス松」とも言われるのは、ホトトギスの鳴き声を「ホンゾンカケタカ」と聞きなすためである。      1994年    枚方市教育委員会 

 本尊掛松遺跡
 
  玉垣の中に大きい地蔵様がおいでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳年(1845)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。ここ「上人松」にこんな伝説がある。

 後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗 に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。 両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。

以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。

 
逢合橋西通り府道の交差点 
 本尊掛松跡から北へ進むと、逢合橋から西へ向かうバス通り(府道148号木屋交野線)の交差点に出る。この道は昔の「交野街道」で現在の(府道18号枚方交野寝屋川線)が天野川の西手前で右に折れ、逢合橋を渡って来た。枚方丘陵の南は平坦で、守□方面から交野までの街道があった。その先東高野街道は、バイパスの中に約130m消えた後茄子作東町の新興住宅地の中を北へ伸びて行きます。  

 
 逢合橋の七夕歌碑
   
 彦星と 織女と 今夜逢はむ 天の川門に 波立つなゆめ
 
 交南高等小学校跡
 森小学校及び交野小学校の変遷を見ると、以下のようである。
 明治7年(1874)10月 森村に百四十番小学校創立、
 明治8年(1875)森小学校と改称
 明治18年(1885)交南小学校が天野川堤に建ち、森は第二分校となる。
 (星田、寝屋、打上、灯油、茄子作、山ノ上、村野、倉治、私部、森の10校を廃して、交南小学校を本校とし、第一分校星田、第二分校森、第三分校倉治、第四分校山ノ上、第五分校灯油、第一分教場を村野に設ける。)
 明治25年(1892)交野、磐船、星田、川越、水本、5ケ村組合で交南高等小学校創設。
 明治28年(1895)交野、磐船両村組合尋常小学校できる。
 昭和22年(1947)3月 教育基本法、学校教育法によって、六・三制義務教育となり、交野小学校、星田小学校、交野中学校できる。
 
 
 
                  
砂子橋   砂子坂
 (すだこばし)     (すだこざか)

「砂子坂」交差点

砂子坂(すだこざか)交差点風景
歩道橋から撮影しました

スタコ坂(砂子坂)に架かる橋 ☆砂子橋
国道168号線が生駒に向かって右折する交差点に「砂子坂」の標識があがっている。また、「スタコ」と横断歩道橋に書かれている。変わった地名である。
 
逢合橋の東、前川と草川・加賀田用水とが合流するところに架かっている橋を砂子橋といい、逢合橋に向って渡った左に水車があった。
 
私部の西、イズミヤ交野店の西、天野川の堤防の交差点に「スタコ坂」の標識が揚がっている。
 この位置は私部西ノ口から出てきた道(交野市青年の家、武道館の北側の道)が天野川の堤防(前川の堤防)に上がった所になる。そして、この道(山根街道)は逢合橋を通って、上ノ山で東高野街道と交わる


 
「スタコ」の意味であるが、一つには、前川が天野川に合流する地点であるので、昔は、はん濫もあったであろうし、また、土砂のたい積も甚だしかったであろう。とすると、洲(す)が発達する。いわゆる中州である。この中州が大きくなって冠水する心配もなくなると村人はこの洲の開墾を始める。初めは畑、後には田んぼということになるが、砂地であるため水もちが悪い。いわゆる洲田(すだ)である。陸稲(おかぼ)であれば良かったかもしれない「スタコ」の「コ」は接尾語と思われる。例えば「銭(ぜに)」を「ぜにこ」とかいう言い方がある。これと同じである。その洲田のある高台へ上る坂という意味である。

 二つ目は、「洲坂(すさか)」である。中州に上る坂道という意味でこれも的を得ていると考えられる。(現在、交通の要衝「スタコ坂」)
 三つ目は、「守(す)」、防御の意味である。西ノロの出入口に当たる。西の防御の必要から東高野街道からの出入りの守りとして天野川や前川があることは好都合であった。その位置か中州であったので「守田(すだ)」となったというのである。


 いずれにしろ、前川と天野川の合流点に発達した中州が開墾され、その中州への連絡道路に対する坂道であったということである。

ふるさと交野を歩く(ひろい話②)には、次の様に説明されている。
 このあたりから東や西に見える山は花崗岩質で風化し、砂は水に流され、堤を高くしながらどん詰まりに洲ができる。東の低い道から洲の高い処に上って行くのだから「洲さか」、「すだこ」である。
 北田騰造家の古地図を見ても、落合橋から下流を砂子坂といいそれが「すだこ」と変わっている。
原田英二氏所蔵の古記録に
 私部村樋数御改之帳 元禄5年□月2日 字「すだ子」栂の木伏樋長壱□□とある。
これらによって「すだ子」から「すたこ」になったことがわかる。
 最近になって、「スタコ」から「砂子坂」にかわった。 
 岩船街道道標
私部 砂子橋東南角の道標


岩船街道大和道
私部、倉治、津田道
岩船街道 枚方道

明治38年4月建之大阪府



初めて渡った「スタコ坂歩道橋」



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