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交野歴史健康ウォーク  193回
倉治の環濠集落を探訪
交野ドーム~私部共同墓地~第二京阪国道~免除川~
有池遺跡~機物神社~ニ平川の洗濯場~環濠集落水路~
善通寺~光明院~交野市歴史民俗資料室見学

2022年6月11日(土) 午前9時 いきいきランド集合


案内人:青山 洋二氏(交野古文化同好会)

 日時 : 2022年6月11日(土) 午前9時 交野ドーム集合  参加者 23名

 行程 : 交野ドーム~いきいきランド広場(午前時集合) → 旧地名「有池」の北西隅 →
      機物神社の旧参道口 →旧鳥居 → 機物神社 → 機物神社 西の鳥居 → かご地跡の石碑 →
       二平川の洗場 → 善通寺 →環濠集落 → 光明院 → 加地邸 → 二月堂燈籠 →
      教育文化会館 → 歴史民俗資料展示室
     12時解散
 令和4年6月11日(土)、交野古文化同好会の歴史健康ウォーク「倉治の環濠集落を歩く」をテーマで、倉治周辺を探訪して来ました。青山洋二氏の案内で、いきいきランド広場を出発して、私部共同墓地~有池周辺・青山老人施設~機物神社~二平川の洗い場~善通寺~光明院~交野市歴史民俗資料室などをゆっくりと歩いて来ました。
 お陰様で、心配された天候も崩れず、まずまずのウォーク日和でした。皆さんと共々、奥野平次氏のお墓へお参りすることが出来、交野古文化同好会50周年記念行事などの報告をさせて頂きました。
 本当に良かったです。資料館では、水谷さんが民俗・歴史史料などの展示物を分かりやすく解説して下さり、皆さんも交野の歴史の素晴しさを納得されたようですね。有難うございました。

 講師の青山氏のご厚意で、案内されたレジメの順に従って、記載させて頂きます。
なお、写真撮影は、毛利信二様に大変お世話になりました。


当日のウォークマップ


機物神社で集合写真
 いきいきランド広場に集合・出発
 
村田会長の挨拶
 

交野ドームを出発! 

奥野平次氏のお墓
  奥野平次氏のお墓にお参りして、50周年記念事業の報告をさせていただきました。
 
 
 映画「つづり方兄妹」物語について 
  戦後、台湾から引き揚げて枚方校区東香里に住む野上丹治・洋子・房雄兄妹の作文は、昭和26年から32年頃までの学校や周囲のできごとなど、のびのびと書いた作文で、新聞・雑誌などに当選。なかでも房雄が2年生のとき作った『ぼくらの学校』はモスクワ国際児童つづり方コンクール1等賞を得た。そうしてこれらの文集が理論社から昭和33年4月に刊行。すぐれた作品集だったので、話題を呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。

 交野でも、交野小学校の近くで映画ロケがあり、大勢の人々が見学した。ふうちゃん(房雄)の野辺の送りのシーンでは先生役の津島恵子・香川京子さん、そしてふうちゃんの女友達の二木てるみさんを身近でみることが出来ました。ふうちゃん役は、頭師孝雄さん。
 
 
 
 
 【1】旧地名「有池」の北西隅
  機物神社をめざし、第二京阪道沿を北東に進み、青山3 丁目の老人ホーム青山の屋外駐車場南外周の古い道は、90°に 曲り南へ向うと私部墓地へ、東へ向うと神宮寺へ(今はどちらも第二京阪道が遮断)この古い道の中が旧地名の「有池」で第二京阪道築造前の有池遺跡発掘調査で、慶長元年(1596)に起こった伏見大地震の痕跡等が確認されました。秀吉の伏見の豪華な「指月城」も倒壊。今後の市内発掘調査に貴重な確認であった。
 
交野連山が間近かに見える
 
 
 
 
 
 
【2】機物神社の昔の参道口
 交野山頂から北へ下った所の白旗池は、古くから倉治の農業用水に役立っている。そこから渓流となって源氏の滝に流れ落ちて免除川となる。私部と倉治・幾野・郡津の間を縫って西の天野川に注ぐ。老人ホーム青山の北の免除川の橋を渡って、堤の坂を下る所が、昔の参道口で神社の南拝殿まで、約350m は少し斜に下って、今は第二京阪道へ接続道路の高い壁に、一部遮断されているが、なおも続いています。

免除川の堤防の上で解説・案内された。
 
 
 2012年7月2日、交野警察署オープン!
 
大阪府警察では、現在の枚方警察署管内を分割し、府下65番目の警察署の開設に向け、本年4月に「交野警察署開設準備室」を設置しました。
開設準備室では、交野警察署の開設に当たっての人員・装備・システム等の整備、関係機関・団体等との連携、各種広報活動の実施など、様々な活動を行い、スムーズな開設に向けて全力で取り組んでいます。
交野警察署の位置や管轄区域
1 新警察署の位置
    交野市倉治一丁目40番1号  電話 072-891-1234
2 管轄区域
    交野市の全域、枚方市の東部
3 管轄境界線
   国道1号から府道枚方交野寝屋川線を経て、枚方市と交野市の行政境界線を結ぶ線

(大阪府警HPを参照)
 【3】昔の参道の鳥居跡
 昔は南に向って堂々と鳥居があったが、昭和48 年11 月8日に倉治小学校建設の杭打が行われ、その日を創立記念日として、現年4 月1 日開校しました。正門付近の南北通りと、交野警察署北の東西通り交差部から十数メートル北あたりに鳥居があったが、神社の西の鳥居として移設された。
 小学校グランド内の、南北約120m 縦断の昔の参道の姿は無いが、未来ある子供達が、元気よくかけまわっています。
 
 
 
倉治小学校の正門
 
【4】機物神社 
 機物神社は、この地に機織の技術を伝えた「漢人庄員」を氏神としていたが、平安時代以降は織姫(天棚機比売大神・栲機千々比売大神)を祭神とするようになった。はたもの村は大昔から、永く栄えた一族の住むところで、朝廷や一般の尊崇が篤かった。文明八年(1476)応仁の乱で、京の都は焼土となり、時の103 代後土御門天皇は勅使を遣わし、天下平安の祈願の奉幣があり、信長や光秀、秀吉、秀次と戦国武将達も当社に配慮した。 
 
 
 
 
 
中村宮司様より「機物神社の由緒」をお話いただきました。
 【5】機物神社・西の鳥居 
現在の当社の西側の参道(東側にも参道がある)が主な入口で、南向きにあった鳥居を移し、ここにあった鳥居は本殿前に移設された。西の鳥居に近づくと額にはめ込んだ様に、交野山頂の岩座が見える。三輪山の様に巨岩を拝む古い形式とみえる。
 また鳥居の中央と交野山の巨岩の方向が、おめでたい辰已(東南)の線上に結ばれている。素晴しい考えを秘めた先祖の配慮だといえるだろう。と奥野平次初代会長は記しています。 
 
 
 
 
 
 
 【6】かご池跡の石碑 
鳥居前府道を北500m 余の、関西スーパー北西角に「かご池跡」石碑がある。40 年程前迄は四角い池で、高い土手(水位上ると漏れる)柳並木は、青年達の溜り場だった。埋められてレストランになり、次に現在のスーパーとなる。石碑の(石つき唄)は嫁入りの祝宴や、共同作業で唄う労働唄。
 〽 わしの若いときゃ 津田までかよた 倉治かご池で 夜が明けたおもしろや
   おもしろのひょうたんや アー おあげおあげ(はやし)後略 
 府道久御山線に架かる橋が「荒神橋」で、下を「がらと川」が流れている。そこからすぐ左に見えるのが「外池」、橋を渡り右手に現在は、関西スーパーになっているが(その前はレストラン「フェスト」になっていた)が、ここに大きな「かご池」があった。
 近くで良質の粘土が採集できず、はがね(粘土のフィルムで池の側面を覆うこと)が施されず、水位が増すと、かごに入れた水のようによく水が漏れたためにこの名がついたという。
関西スーパーの北側、久御山線沿いにかご池跡石碑があり、「石つき唄」が彫られている。
 「わしの若いときゃ 津田までかよた 倉治かご池で夜が明けた 面白ひょうたんや おおあげおおあげ」
 この唄は昔、倉治の「若い衆」が晩、津田の女性の宅に遊びに行くことが楽しみやった。時間も遅くなって帰って、ここの堤に来たら交野山の頂きに朝日が上りかけていたという歌詞で、お嫁入りとか、新築祝いには、必ず出る祝歌であったそうです。
地名・倉治とは?

<広報かたの6月号・地名に歴史ありを参照>
 倉治の名前の由来には、さまざまな説があります。「クラ」は岩や断崖、または倉庫や山の鞍部を指します。崖の下の扇状地に村があることや、蔵が立ち並ぶ地であったことから倉治とついたとも言われています。
 倉治では古墳時代後期の古墳群や山中に造られた寺院跡などが発見されており、また集落は現在でも江戸時代の古い町並みの面影を濃く残し、複雑に入り組む道は迷路のようです。


当日のウォークマップ
 府道久御山線に出て、倉治小学校の西で、浜の池地蔵(バイパス地蔵)にお参りする。交野山を背に良いお顔をしておられる。機物神社の前の信号を西に渡り、山根街道を少し西へ進み最初の辻を右へ曲がり、北へ行ったところに「二平川の洗場」
 ここの四辻に立って見える風景はいい。小川が流れ、石垣に板壁、白壁の家と昔懐かしい家並みである。少し歩くと、へっついさん(台所)の煙出しを備えた大屋根の家、茅葺の家、どっしりとした門構えなど、素晴らしい家々が並ぶ。

 「光明院」付近の四辻からは、前が見通せない。昔、ここに泥棒が入ったが、村から出るに出られず捕まったとか。
 時代を感じさせる、交野教育会館(交野市歴史民俗資料展示室)の玄関前で、開元寺の礎石に触れる。天平時代のものだという。いつまでも大事にしたいものだ。
 奈良の大仏建立に関わる歴史を今に伝えると言う、どう前大仏坂付近で、いろいろと歴史ロマンを教えて頂いた。
地名・東浦 旧倉治の集落一帯を東浦と呼びます。「浦」という字には畑という意味があります。「浦」は表裏の「裏」の意味も持っており、集落の東の裏手にある畑を指しています。
 他にも、この地名からは倉治が防衛機能を備えた環濠集落であった可能性が考えられます。環濠集落には「浦」「代」「口」のつく地名が多くみられ、倉治にも東浦を中心に「北代」「西口」などの地名が残されています。集落は北にがらと川、南は中川に挟まれており、中を通る道は狭く、カギの手に折れ曲がっていて、防衛に配慮した造りになっています。
 【7】二平川の洗場 
この近くに昔、に平さんのお屋敷があって、倉治の中を流れる中川の、ここの洗場を「二平川の洗場」と言って、50 年程別前迄使われた村の洗濯場でした。各家のお嫁さん達は午後集まり、洗濯しながら世間話など楽しんだ社交場でした。
 流れの向い側に洗濯物をたたいた、平たい石が五枚並んでいる。流末のところ、板をはめ込むと防火用水、夏は子供らの水遊びに利用されたようです。 
《二平川の洗場
 機物神社の北側の道を東から西へ、久御山線の信号を越し直ぐに20mばかり北へ進み、小川が流れる小路を西へ行くと、石橋があり、その東側に「二平川の洗場」がある。この洗場の西側にある家の屋号が「二平」といい、流れる小川が二平川という。
 「この洗場は、村の人々の語らいの場であり、コミュニケーションの場であった。家で親夫婦、年寄りが昼寝をしている間にそっと洗濯にくるのが二平川の洗場だった」
【8】善通寺
 
山号は東光山、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来立像。 15・16 世紀は、交野の郷士の活躍する時代で、善通寺の創建は郷土達であった。倉治の郷士、中角左内と加地高定は、出ロ村の光善寺で教導していた、浄土真宗中興の祖8 世の蓮如上人に帰依し、それぞれ「願心」「了念」の法名授り、この二人が倉治に一坊舎建立しようと、村人の協力を得て、文明十年(1478)坊舎を完成させ、善通寺と称した。正面の松が美しい。
 
 
【9】環濠集落 
この光明院あたりが、倉治集落の中心で、四角い「環濠集落」を形成していた。小字名も東浦・北代・西口と、四方の村との連絡口があります。 集落北のがらと川と、南の倉治中川に囲まれ、道路幅狭くかぎの手、三差路、曲った道は遠見遮断の、防御的配慮がされています。ある時、集落内に泥棒が入って、地元の青年達が追っかけて、簡単に捕まった。「逃げ去る道がわかりにくかった!」そうです。 
 
少し北進して立派な土塀の見える辻にでる。こ兵衛さんの屋敷の土塀である。
 倉治の子守唄 
『こんや来るなら 高い塀をこして 千両椿をおらんように』 
歌詞の意味は少し複雑に聞こえるが、なんとなく哀愁を覚える。
【10】光明院
 山号は遍照山、融通念仏宗平野大念仏寺末。本尊は阿弥陀聖衆来迎図。正式には光明院摂取教寺という。17 世紀中頃は、知恩院末の浄土宗であったが、その後住職融典によって、18 世紀の始め頃、融通念仏宗に改宗しているが、融典の位牌に「当山中興」とあるから、浄土宗の前も融通念仏宗だった。
  境内には石仏多く、六体地蔵を収める、石造の厨子もある (河内西国三十三所観音霊場 第一番札所) 
 
 
 
 
《倉治の迷路・光明院付近
 
光明院
の境内には、沢山の石仏が祀られている。交野にたくさんある石仏の中でも美しい阿弥陀様の坐像がある。室町時代の作だという。
 平田副会長より、以前に光明院の宮参りのお話を伺ったことがある。
 『男は28日目、女は30日目に宮参りした。拝殿で神主の祝詞を頂いてから、ご神殿のぐるりを男は左、女は右から3回廻った。また、赤子が散髪が嫌いにならないように「金(けい)」を頭にかぶせてもらった。

 交野の古い村々の中で、倉治の光明院付近の道が特に分かりにくい。
 古い道は、T字型に結ばれていて、遠見遮断(辻から辻が曲がっていて見えない)になっているうえ、くねりが細かい道かと思って飛び込んだら家で閉ざされた袋小路であったりする。

 倉治の集落は、北のがらと川と南の倉治中川とに囲まれて密集した形態をしており、環濠集落ではないかという。道路も狭く、カギの手にいくつも分かれた防御的配慮がなされている。村から出る道は、北は津田道、春日道、西は郡津道、南は私部道、東は機物神社への参道である。(交野市史より)
【11】加地邸
 数年前は、ほとんど見かけない茅葺の古い大きな邸宅で、現在は金属性屋根となっている。江戸期作成の家系図によると初代は、第八代孝元天皇につながる名家です。子孫18 代は延暦五年(787)河内国の河内守となった。53 代高定は蓮如に帰依し、善通寺創建、70 代高正は江戸期未に倉治村の庄屋をつとめ、後に春日、倉治の連合戸長となった。近年では白旗池改修、金澤泰治氏らと近畿銀行前身の設立に参加した。
 
 【12】二月堂登籠
 正面に(御水取り)で有名な「二月堂」左面に「村中安全」裏面に「天保八年(1837)西歳春二月」と彫込められ、二月堂の講中によって建てられたもの。偶然にもこの燈籠が建てられた、天保八年二月は、(大塩平八郎の乱)が起った時であった。この騒動以前の天保元年から、近畿一帯の大地震、気候不順、大雨風等で飢饉となり、民は困窮する。 奉行所の元与力であった平八郎は、奉行に進言するも退けられ、ついに怒りは爆発した。 
【13】教育文化会館
 昭和4 年(1929)交野無尽金融株式会社の新社屋として建てられた、鉄筋コンクリート2 階(一部3 階)、中世城郭風の建物。昭和17 年(1942)交野町へ庁舎として、金澤泰治社長より寄贈される。 昭和45 年(1970)庁舎移動に伴い、教育文化会館と改名し、 文化的活動施設として利用。平成12 年(2000)「民具のへや」設ける。平成16 年(2004)市内の歴史紹介する「歴史民族資料展示室」を開設。 平成19 年(2007)国登録有形文化財に登録される。  
 
 【14】歴史民族俗資料展示室
 1 階の展示室(考古・文献資料)市内の発掘調査で出土した考古資料を時代別に展示。高札や古文書、土器や古瓦、古墳からの出土品等が、展示されています。
 2 階の展示室(民具)は、江戸末期から終戦直後の寄贈民具 ( 機織道具や農耕具等) が展示され、機織り部屋で、河内木綿の伝承教室が開いていて、教室の見学や綿繰り、綿打ち、糸紡ぎ体験もできますので、お問合わせ下さい。 ( 要予約) 
 
資料室のボランティア解説員の水谷さんより詳しく説明を頂きました。
 
 
 
 
 
 


国の登録有形文化財の交野市立教育文化会館
交野市立歴史民俗資料展示室(交野市立教育文化会館)
所在地 交野市倉治6丁目9番21号 電話(072)810-6667
交通機関 JR学研都市線「津田駅」下車 徒歩10分
京阪バス京阪交野市駅行き、 南倉治下車1分、又は香里園行き大仏町下車徒歩5分
開室日時 毎月水曜日~日曜日 10時~17時。ただし入室は16時30分まで。

       
  教育文化会館・・・交野無尽(近畿大阪銀行の前身)の昭和初期の建物

       
昭和4年(1929)に建てられる
    昭和17年 交野町へ庁舎として寄贈される
   昭和45年(1970) 庁舎移動に伴い、交野市立教育文化会館
       と改名し文化的な活動施設として利用される
   昭和16年(2004) 交野市歴史民俗資料展示室を開設する
   昭和19年(2007) 国・登録有形文化財に登録される


   

  金澤泰治・加地高貞・新庄武治郎・奥西源五郎と共に交野金融合資会社を大正三年八月に金沢泰治氏(当時27歳)の邸内に創立。同十二年一月株式組織に改め交野無盡金融株式会社と称し、金澤氏が取締役社長に推され、昭和十五年三月大阪産業無盡を合併し又府下枢要の地に八支店を設置し、一意庶民金融の使命達成に邁進す。
 創業以来、総契約高実に1億6千2百余萬円に社礎愈々強固内容益々充実今や全国無盡業界屈指の地位を占むるに至る。蓋し社長が30年に亘り終始一貫天賦の才略と不屈の信念とを以って日夜経営し而も徹底せる大家族主義に依り明朗、親和、渾然一体の活動を為せしに因る。
  今や時局下社長自ら率先府下優良四社と謀りて合併を敢行し光栄ある当社は茲に発展的解散を遂ぐ、乃ち、社長の発意に依り昭和17年11月3日、明治の佳節とし本店土地建物全部を其の発祥の地交野町に、金品を各種公共団体に寄付す、願う所は地方自治の向上と発展と銃後・士気の鼓舞に在り以て天業翼賛の微衷を表するのみ。解散に当り其沿革を略記す。  (南の端の碑文より)

                                創業者・金沢泰治氏の銅像 ↑



交野無尽 創業者・金沢泰治氏の銅像 ↑
 【15】堂前・大仏坂
 教育文化会館の南側に「金澤泰治社長銅像」があり、この会館を見守って下さいます。そこから少し南の府道交差点の付近を堂前(どうまえ・どろまえ)と呼びます。いつの頃か倉治の入り口に大仏を安置したお堂が建っていたようです。さらに南へ150m 程先の交差点から南町への、下り坂を大仏坂という。
私部からの参拝者がこの坂を上って来たためとも、東大寺の大仏を造る工人達がこの道を通ったとも言われています。 
《大仏坂・どうの前》
 倉治の教育文化会館前の道を南にとるとすぐ四辻に出る。下を倉治中川が流れている。この角を「どう前」と呼んでいる。ここを過ぎて、なお南へ行くと信号のついた四辻に出る。ここに京阪バスの「大仏町」のバス停がある。この交差点を南へ渡るとだらだらと下り坂になっている。この下り坂を「大仏坂」と呼んでいる。
 この地は、奈良の大仏建立に関わる歴史を伝えているのではないかと、故奥野平次氏は「ふるさと交野を歩く・ひろい話」の中で次のように書かれている。
 大仏様の大体の形が出来て、鋳型に銅を流し込もうとしたが、どうも上手くいかない。東大寺では困って、宇佐八幡宮の付近にいる技術者(渡来人)に来てもらった。その技術者のターミナルとなった所が、枚方市、中宮の百済寺と、私市の獅子窟寺である。
 どちらからも、交野市の傍示に上り、生駒市の傍示に通じる「大仏の道」を通って、東大寺に急いだのでした。奈良で大仏の仕事を終えた技術者がここの地区で鋳型に銅を流し込んだ仏様を作ったのでは、または、その技術者が住み着いたので大仏の地名がついたのではないかと。 

 故奥野平次氏が著された、「ふるさと交野を歩く(里の巻)(ひろい話)」の倉治編などをじっくりと味わうことが出来た楽しい歴史ウォークでした。 
最後までご覧いただき有難うございました

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