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第8回 交野歴史健康ウォーク

11/11、森地区・森遺跡、蛙石を訪ねる

  11/11(土)、第8回交野歴史健康ウォークが交野古文化同好会・平田会長の企画で開催されました。
 土曜日に「交野歴史健康ウォーク」として、次のように実施されますので、お一人でも多くの方の参加をお待ちしております。 (交野古文化同好会・平田会長

第8回(11/11) 旧地名と森遺跡、蛙石を訪ねる
   JR河内磐船駅→森遺跡→地蔵筋→城戸・蛙石→
森新池→天田神社→JR河内磐船駅

河内磐船駅北側
森遺跡は埋められ
新しい町並みが建設中
森南3丁目
大門酒造西側
イチョウが綺麗に紅葉
森南2丁目
城戸の石灯籠
蛙石と平田会長
城戸の石灯籠の西隣に
牛引き石
農閑期に牛を
訓練したと言う石
野井戸・森南2丁目
の田んぼの中に
森新池
排水して鯉の漁が
行われていた
小久保川
天田神社の境内を流れる
天田神社の鳥居
黄色の紅葉した
イチョウが綺麗

11/11、第8回の参加者は、交野市文化祭で交野古文化同好会・平田会長に勧められて新しく参加された3名を加え合計8名。 天候曇り。
 午前9時過ぎ、森地区を目指してJR河内磐船駅前をスタート。
 駅前で、平田会長より森遺跡の図面を前に河内磐船駅周辺の発掘された状況などを詳しく説明を受ける。
 現在、河内磐船駅の周辺は、新しい街づくりで、マンション、商店舗、住宅などが建築中である。
 この森遺跡は数年前から発掘され、古墳時代から7〜8世紀頃の遺跡・遺物が見つかり、また今年3月には、駅北側に建設中のマンションの土地から、森遺跡・三宅山荘園の跡(4世紀から5世紀中葉の水田の水路群や、5世紀後半〜6世紀前半の鍛冶炉跡、また、10〜13世紀の三宅山荘園跡と考えられる建物跡・遺物など)が確認された。
 また、森地区の権田、加賀田、地蔵筋などの小字名(旧地名)の説明を受けながら、駅北側から岩船小学校の前を右折して、地蔵筋を南に進む。
 JRの踏み切り前で、立ち止まり交野山を見る。田んぼの向こうに、交野高校が見えるが、あの土地に東車塚古墳が眠り、寺の山には寺古墳群が、右の尾根には、森古墳群が点在する。そして河内磐船駅周辺には森遺跡がある。この付近一帯は、古代から営々と人々の生活が育まれてきた素晴らしい場所なのだ。
 踏切を渡り、寺へと通じる道を左折、大門酒造の会社の前で、北城戸、西城戸、茶長などの地名の由来を聞く。 
 ここで路地を南に入ると左手に池、すぐ上の高台に黄色に紅葉したイチョウの木があり、しばらく行くと民家の軒下に、農閑期に牛を訓練したと言う牛引き石がある。三角形をした石の頂点の部分に綱を入れる穴が掘られている。
 京阪河内森駅から東へ、森に通じる道がかぎ型に合流する地点付近を城戸(きど)と言い、この角に大きな石灯籠があり、そのすぐ西隣に「蛙石」がある。由松とお種の伝説が残る。
 さらに南に路地を進むと、右手に田んぼが見え、もう今では珍らしくなった「野井戸」がひとつある。
 森新池では、池の水を排水して鯉の漁が行われていた。
 天田神社で、じっくりとお参りのお話を伺い、河内磐船駅へと帰った。
 森の町にも昔の歴史がしっかりと残され、今も息づいていることを確認できた、健康ウォークでした。

平田会長の軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
  次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
 


 森の小字名の由来言い伝え
  

蛙石の言い伝え  ふるさと交野を歩くひろい話(二)より

 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。伝説の石・蛙石
この夫婦は僅かな田畑を耕作して生計を建てていた。ところが、ある日庄屋さんがきて「由松さんよ、郡代からの命令だが、大和の国の郡山城の普請に出てくれんか。各村からも数名の呼び出しがあるので、明日是非郡代の処に出頭してほしい。」こんな命令があった。
 由松は親類や近所の人達にお種のことをお願いして郡代のところに行った。お種も由松さんを見送るために郡代のところに行ったところ、多くの人々が来ていた。郡代から大阪城に入ってそれから郡山へ出向いてくれとのことであった。 
時々夫から無事を知らせる便りが来た。「郡山城では石垣の石を各地から運搬している。もう3ヶ月もしたら工事も完了する。」と知らせてきた。
 その後、夫由松からの音信のない日が続いた。夫は元気で働いていてくれているとは信じているものの、音信がないのでさびしかった。3ヶ月も過ぎたのに夫は帰って来ない。他の村の人々は一人、二人と帰ってきたのに夫由松は帰って来ない。
 帰ってきた人達に由松の様子を尋ねたが誰も知らなかった。ところがある人の話に、城の石垣が崩れて数名の死傷者がでたということであった。
 お種さんは庄屋に行って由松の安否を聞くが、庄屋は郡山に問い合わせるとの返事だけであった。
 お種さんのことを村の人々が囁くようになった。お種さんは夫の帰るのを今か今かと待ったが夫の姿は見えなかった。村の人々が、淋しく夫の帰りを待つお種さんの気持ちを慰めては見ても、いよいよお種さんの悲しみは日増しにおおきくなり、涙のかわくことはなかった。
 そのうち、お種さんの行方はわからなくなった。関係先をも探したが不明であった。
 村の人達はお種さんの行方を探しているうちに、何時もお種さんが立っていた所に、大和から帰ってくる方の道を見るように蛙のような石があるのに気がついた。お種さんは由松さんの帰るのを待ちきれず石になったのではないか、誰が言うとはなしに世間の口に上った。



第8回 交野歴史健康ウォーク行程図

 

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