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交野歴史健康ウォーク 144回



2015.3.14(土)  14名参加
行   程 : JR野崎駅 9時集合 @大東市立歴史民俗資料館 → 専応寺→
野崎観音
JR野崎駅 11時50分頃解散 徒歩約2km

案内 : 高尾 秀司氏(交野古文化同好会)  

 交野歴史健康ウオークは3月14日(土)午前9時、JR野崎駅前に集合。当日は早朝から生憎の降雨でしたが、元気な皆さん14名(会員13名)が参加され楽しく開催されました。

 先ず、高尾秀司氏の案内で野崎駅から大東市立歴史博物館へ向かって元気に出発しました。
 最初に案内頂いた「大東市立歴史民俗資料館」の笠井館長さんより、「今日は雨で地面が湿って滑りやすい状態で危険ですよ」とのことで、当初予定していた「堂山古墳」と「野崎城跡」めぐりは取りやめることになりました。

 笠井館長さんより、大東市の歴史と野崎観音、堂山古墳について映像を交えながら大変分かりやすく説明いただきました。また館内は大変広々として常設展示場は照明などにもいろいろと工夫され、大東市の歴史を時代別に分かりやすく展示されており、また市民の皆さんより集められた沢山の民具類に驚き感動しました。

 「今日は雨で堂山古墳などに行けなかったけれども、大東市の色々な歴史と史跡について詳しくお話しいただき、昔の懐かしい民具を沢山見たり、野崎観音にお参りして大変楽しいウォークでした」と言われたのが印象的でした。

 本稿を記載するにあたり、講師の高尾さんよりレジメを頂戴し、併せて「WEB」他、諸資料集を参照させて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 
 皆様、ご協力有難うございました。
参考/大東市ホームページ・野崎観音・大東市立歴史民俗資料館発行の資料・パンフ・現地説明板等
野崎観音慈眼寺 参道 記念撮影


 野ア参りは船で 大東市が企画
 元禄時代から300年以上続く伝統行事「野崎(のざき)まいり」が5月1〜8日、
大東市野崎2丁目の野崎観音(慈眼寺)である。市は船での野崎まいりを復活させようと、
昨年に引き続きツアーを企画。1〜3日限定で、参加者を募っている。

伝統を復活させようと、市は大阪水上バスと連携し、JR住道駅近くの寝屋川に
仮設桟橋を設置し、大阪市中央区の八軒家浜船着き場から水上バスを運航。
落語家桂出丸さんも乗船し、上方落語「野崎まいり」も楽しめる。
下記のPDFを開いて応募してください!
 
 江戸時代の観光として人気を博し、本市の伝統文化である野崎まいりは、
土手を歩く人と船に乗る人とが「ふり売り喧嘩」をしながら行く様が
落語で語られるように陸路と水路とがありました。
その後時代が流れ、鉄道の発達等により姿を消した水路での
野崎まいりが3日間限定で復活します。

天満橋の八軒家浜〜大東市の住道浜までの水上バス「アクアmini」の航行、
大東市観光ボランティアガイド「やまびこ」がご案内する陸路散策を
当時の野崎まいりの情景を思い浮かべながらお楽しみください。


野ア参り クルージング&
ウォーキングツアー PDF
 
河内名所図会    江戸期 享和元年(1801年) 
当日配布されたレジメ
大東市の紹介 
大東市のホームページより
東西7.5キロメートル、南北4.1キロメートルで、総面積は18.27平方キロメートル。
大阪府の東部、河内地方のほぼ中央に位置する人口およそ13万人の大東市。
東は豊かな自然が息づく「金剛生駒紀泉国定公園」を境に奈良県に、西は大阪市に接しています。
また、北は門真市、寝屋川市、四條畷市に南は東大阪市に、それぞれ接しています。
大阪市内及び京都府南部方面へは、JR学研都市線で結ばれ、道路も市の中央を南北に外環状線(国道170号)、東西を府道大阪生駒線が走り、交通の便にもたいへん恵まれたところです。
 古代から中世

 この地で人々の活動が営まれるのは、今のところ縄文時代草創期のころであることが確認されています。縄文時代前期ごろには生駒山地のすぐ麓まで海水域が入り込み、湾(河内湾)となっていましたが、縄文時代中期以降、湾は次第に規模が縮小し、弥生時代には湾(河内湾)から湖(河内湖)へと変化していきます。そのころ市域の大半が水域に覆われていましたが、河内湾周辺であった中垣内や野崎、北条あたりに人々が住み着き、農耕を基盤とする集落が形成され始めます。

古墳時代には堂山古墳群を始め飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、その麓には当時朝鮮半島からやってきた渡来系の人々が活動をしていた痕跡が見いだされます。このころから次第に我が国の大きな歴史の流れの中に組み込まれていくようになり、西大寺の荘園であった河内国更占(讃良)郡須濱庄(現在の中垣内の須波麻神社周辺)のことが奈良時代の文献に登場し、当時の土地開発である条里制の名残は、現在でも中垣内から北条にかけて地名として残っています。

平安時代になると清少納言が「枕草子」のなかで勿入渕(ないりそのふち)と呼称しているように、湖は大きな池となっていました。このころ整備された東高野街道沿いには集落が出来、特に奈良へ向かう中垣内越の道と交差する寺川や中垣内辺りは交通の要衝として重要な地となり、「延喜式」には須波麻神社のことが記されています。

水とのかかわりでは古代より度々の水害に見舞われたことが文献に記されており、この地での生活が大変なものであったことがうかがい知ることが出来ます。しかし、ここには豊富な魚介や特産物の蓮など多くの自然の恵みがあり、今の赤井付近には当時の皇室の食料を調達するための供御領が置かれていました。また、平安時代の終わりごろまでには三箇、灰塚、氷野の集落が成立し、鎌倉時代になると北新町や御領、諸福などにも集落が形成され、低地への開発が進んだことを物語っています。

東高野街道が通るこの地は、戦略上重要な場所であるため度々戦乱の舞台として歴史に登場します。南北朝の戦いでは「四条畷の合戦」が知られ、戦国時代では三好長慶の居城となった飯盛城があります。このころになると、東に深野池、その西南に新開池と二つの池に範囲が確定し、深野池に浮かぶ島には飯盛城の支城である三箇城があり、城主の三箇殿は自らキリシタンとなりこの地に教会を建設するなど、その熱心な活動と三箇城のいきいきとした様子は、宣教師ルイス・フロイスによって遠くヨーロッパにまで伝えられていました。しかし、その城も今は跡形もなく消えてしまい、「幻の城」として人々のロマンを誘っています。
大東市立歴史民族資料館

大東市立歴史民族資料館の概要 ホームページ
場所    大東市立 歴史とスポーツふれあいセンター内 2階
開館時間    午前10時から午後8時まで
お問い合わせ    TEL 072-876-7011 FAX 072-876-7702

 2012.4.1、郷土の歴史、文化遺産等の対する市民の理解と認識を深め学術及び文化の発展の為、大東市立歴史民族資料館がオープンしました。

 元は、新町の総合文化センターにありましたが、野崎の四条小学校の廃校に伴いその跡にできた「来ぶらり四条」に移ってきました。

 大阪府の北東部に位置する大東市は、古代から現在に至るまで市域の大部分を湖や池、川へとその姿を変えてきました。

 そこで「大東市と水のかかわり」をテーマとして土の中から発掘された考古資料、古文書をはじめとする歴史資料、近年まで使われていた民具などの民俗資料を中心に大東市の歴史を紹介しています。
 大東市立歴史民族資料館  常設展示案内
 
笠井館長さんより詳しくご説明いただきました!
 
 
北新町遺跡  木製の戸口が出土 
取っ手の部分は板を削って彫り出している
 
 
 
 
 
 
飯盛城跡 模型
 
 
 
 

昔の民具類について
子供たちにもクイズ方式でわかりやすく展示されている
 
市民の皆さんより集められた民具類
 

懐かしいコタツや火鉢類など
 
 
 
 農機具類など
 
 
   
踏車
日本において江戸時代中期以降に普及した足踏み揚水機。
人が車の羽根の上に乗り、羽根の角を歩くことで車を回し、水を押し上げるからくりをいう。
 
 
 
 
 
 大東市立歴史民族資料館  常設展示案内
 
常設展示案内のパンフレットの表紙に
野ア参りの旅人同士の「ふり売り喧嘩」の様子が描かれている。


笠井館長から手振りよろしくご紹介されました!
 桂春団治の十八番、上方落語の「野崎参り」
「ふり売り喧嘩」
 江戸時代、天満橋のたもと、八軒屋船着場(現京阪電鉄天満橋駅付近)から屋形船で寝屋川を遡り、あるいは寝屋川の堤を陸路てくてくと、町人達はこぞって野崎観音に向かいました。

 陸路はほとんどが堤の上で、川を行く屋形船と平行していたため、屋形船の参拝客と徒歩の参拝客は、川を挟んでお互いを罵り合いながら勝ち負けを競っていたそうで、野崎参りは別名「悪口祭」とも呼ばれていました。

 道行く者と船で行く者との罵り合いは「ふり売りけんか」と呼ばれ、口喧嘩に勝った年は縁起の良い年になります。
但し、条件は喧嘩の途中で決して怒らないこと。

清八と喜六の掛け合いで笑わせる桂春団治の十八番、上方落語の「野崎参り」にも、「ふり売り喧嘩」を楽しみながら野崎観音へ向かう場面が出てきます。

「そら、あかんわ。
わい、静かにしてたら、口に虫が湧く性分やねん。」

「けったいな性分やなァ、お前は…。 あ、ほんなら、ちょどええわ。あの堤を歩いてる人と、喧嘩をせェ、喧嘩を!」

「そら、あかん。わい、喧嘩、きらいや。それに、第一、こっちは、舟に乗ってんねん。
むこから石でも投げよったら、お前、逃げるとこあれへん!」

「情けないなァ、お前は… 心配せんでもええ。野崎詣りの喧嘩はナ、なんぼ口でいいあいしても、手ェひとつ掛けん、というのが名物や。
ええか… ここで、いいあいするやろ。舟が住道へ着く、さきほどは失礼いたしました、これからは仲ようお詣りいたしまひょか、さァ、おいなはれや。
チャラカチャンチャン♪と、踊りながら行くんや。なァ、往く道だけの喧嘩や。
この喧嘩に、言い勝ちさえしたら、その年は運がええ、いうねん。運さだめの喧嘩、一番やったらんか!」

「あ、なるほど。運さだめの喧嘩か… そんなら、わいやったろ!」

罵声を浴びせあいながらも、お互い怒らず恨まず、ケロッと忘れて仲良くお参り。
大阪人気質は、今も昔も変わらないようですね。

 
 
 
 
 
 


笠井館長さんより詳しく解説いただきました
 堂山古墳の発掘調査と遺物について
詳しくは、 堂山古墳群史跡広場 PDF
 大阪平野を見下ろす大阪府大東市の堂山古墳群が本格的に発掘されたのも昭和47年。
 野崎といえば、江戸時代に流行した「野崎まいり」が有名だが、堂山古墳群と聞いてピンとくる人は、なかなかの考古学通かもしれない。

 国内2番目の大きさを誇る応神天皇陵(羽曳野市、全長425メートル)がある古(ふる)市(いち)古墳群から15キロ以上離れ、大東市一帯は古墳の空白地帯。しかし、50本近い刀剣や甲(かっ)冑(ちゅう)が埋葬当時のまま残っていた1号墳(5世紀初め、直径25メートル)は、ひときわ異彩を放ち、歴史の奥深さを感じさせる。

 大阪平野にかつて広がっていた河内湖を見下ろす1号墳は、交通の要衝を押さえた首長クラスの墓。この地域は、朝鮮半島からの渡来人も上陸した国際交流の玄関で、笠井敏光館長は「港の守りとして応神天皇陵の被葬者から重要視された人物の墓」と指摘する。

 発掘調査が行われたのは高度経済成長期。府営水道の配水池建設に先だって実施されたが、当時は市街化する住宅などへの給水施設の整備が急がれた。しかし、配水池の位置をずらすことで古墳群の保存が実現。笠井さんは「住民や研究者、行政の努力で保存に結びついた」と話す。

 同資料館は小学校の旧校舎を改装して4月にオープンし、開館時間は博物館では異例の午後8時までで、仕事帰りにも立ち寄れる。古墳群も、遊歩道などが整備されて同時にオープンした。決して派手さはないが、古墳群も資料館もキラリと光っていた。
     WEB産経ニュースより (文化財担当 小畑三秋) 
 大阪府の生駒山地北側に連なる飯盛山系と河内湾に挟まれた扇状地には、南北に細長い平地ながら後期旧石器時代から人が住み始め、弥生時代には集落規模も拡大し、生産活動や祭祀が行われていました。

 堂山古墳群はその飯盛山地の西方の尾根に築造された、8基からなる古墳群です。 この古墳群の所在する地域は、古くから「堂山」と呼ばれ、この古墳群の名称の由来となっています。また、この地には「金の鶏がこの山に埋まっていて正月の朝に鳴く」という伝承が残されています。

 堂山古墳群発見の契機となったのは、昭和44年に大阪府水道部大東浄水池の建設が予定されていたこの地において、地元住民によって遺物が発見されたことです。これを契機に、同年と昭和47年に大阪府教育委員会による発掘調査が行われ、1号墳から出土した甲冑や刀剣などが大阪府指定文化財に指定されました。

 その後、地元住民の要望を背景に、関係者が協議し、平成24年に大東市が史跡として指定し、大阪府広域水道企業団の協力を得て、大東市立堂山古墳群史跡広場が誕生しました。
 (大東市のホームページを参照)
 
昭和44年 発掘調査当時

埴輪が整然と並べられていた

埴輪は、平野から見られる西側はきれいに
並べられているが、山側の東側は疎らな状態

甲冑 刀剣類

甲冑

1号墳出土物 甲冑

鉄製 刀剣類

須恵器類

紡錘  勾玉 玉製品
浄土真宗  専応寺
 

山門
( じ ) (げん) 
野崎観音
 曹洞宗 福聚山(ふくじゅさん)  慈 眼 寺
創建 天平勝宝年間(749〜57) / 開基 行基
本尊 十一面観世音菩薩
河内西国三十三箇所特別客番

  福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)は、大東市にある寺院で通称野崎観音(のざきかんのん)として知られている。
すべてのものに感謝を捧げる参拝「野崎参り」で知られ、近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん1653−1725年)の「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」、近松半二(ちかまつ はんじ1728−1786年)のお染久松の心中を扱った新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)の「野崎村の段」、落語「のざきまいり」、東海林太郎(しょうじ たろう1898−1972年)のヒット曲「野崎小唄」など人形浄瑠璃、落語、歌謡曲などいろいろな分野の作品にたくさん登場している。境内には南條神社や修験道の開祖とされ通称役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれる役小角(えんのおづぬ伝634−706年)の像もあり、野崎観音に神仏習合や修験道など多様な宗教の歴史があったことを示している。

 本堂の隣には中興の祖といわれる摂津国の遊女で長者・江口の君を祀り、婦人病と子授けに御利益があるとされる江口堂や、一番から三十三番まである河内西国霊場すべてを拝むことができるという三十三所観音堂、釈迦の16人の弟子・十六羅漢(じゅうろくらかん)を祀る羅漢堂、「野崎小唄」の歌碑、お染・久松の「供養塚」などがある。

 慈眼寺は天平年間(749−757年)にインドから来朝した婆羅門僧正(バラモンそうじょう704−760年)が行基(ぎょうき668−749年)に「野崎は釈迦が仏法を説いたサルナートに似ている」と語り行基が十一面観音を刻んで安置したのが始まりと伝えられる。
 かつては大坂からつながる深野池があり、大坂・天満橋の八軒家船着場(はちけんやふなつきば)から野崎参りの屋形船が行き来していたようすが名曲「野崎小唄」に描かれている。


野崎小唄     YouTubeで東海林太郎の歌をお聴きください!

今中楓渓( いまなか ふうけい1883−1963年 ) 作詞
大村能章(おおむら のうしょう1893−1962年) 作曲

  野崎参りは 屋形船でまいろ 
  どこを向いても 菜の花ざかり 
  粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
  呼んでみようか 土手の人

  野崎参りは 屋形船でまいろ 
  お染久松 せつない恋に 
  残る紅梅 久作屋敷
  今もふらすか 春の雨

 野崎参りは 屋形船でまいろ
 音にきこえた 観音ござる 
 お願かけよか うたりょか滝に
 滝は白絹 法の水    


   (トラベルJPを参照)
  野崎参りは江戸時代の元禄年間(1688〜1704)から盛んになった。
野毎年5月1日から8日まで行われる無縁経法要に参詣して、
有縁無縁すべてのものに感謝のお経を捧げる。
期間中は全国各地から参詣者が集まり、
JR野崎駅から参道には 300軒もの露店が並び とても賑わう。
大阪からの野崎参りは船路と陸路があった。
船路は 大阪・天満の八軒屋浜から大川 寝屋川 谷田川を経て観音浜に着く

屋形船で行く人は 川岸の景色を眺め 川遊びをしながら船の旅を楽しんだ
川の土手を歩いて 野崎観音に向かう人たちと 船の人たちが、
お互いに 悪口を言い合う「ふり売り喧嘩」と言う風習があり、
面白おかしく伝えられ 落語「のざきまいり」の題材にもなっている。

浪速鉄道(現JR学研都市線)が明治28年(1895)に開通してからは、
河運は急激に衰退し、屋形船もいつしか姿を消しました。
 

江戸時代の観光として人気を博し、本市の伝統文化である野崎まいりは、土手を歩く人と船に
乗る人とが「ふり売り喧嘩」をしながら行く様が落語で語られるように陸路と水路とがありました。

その後時代が流れ、鉄道の発達等により姿を消した水路での野崎まいりが3日間限定で復活します。
天満橋の八軒家浜〜大東市の住道浜までの水上バス「アクアmini」の航行、大東市観光ボランティアガイド
「やまびこ」がご案内する陸路散策を当時の野崎まいりの情景を思い浮かべながらお楽しみください。


野ア参り クルージング&ウォーキングツアー PDF

水都大阪のホームページ  野崎まいり 
クルージング&ウォーキングツアー

お染久松の石碑
 野崎観音に因むエピソードで有名なのが、人形浄瑠璃や歌舞伎でおなじみの
近松半二作の「新版歌祭文・野崎村の段」「お染久松」の悲恋物語。
 
質屋・油屋の丁稚・久松は 油屋の娘・お染と恋仲になったが、その仲を裂かれ野崎村に帰された。
お染は 野崎参りにかこつけて野崎村の久松を訪ねる。しかし お染にはすでに縁談があって
結納も交わされており、久松にもお光と言う許嫁がいた。
彼をお染に譲った許婚のおみつは 泣く泣く堤に立ち尽くす。このままでは添い遂げることができないと
二人は心中を覚悟する。一方、お光は久松をお染に譲ろうと決心し
そっと涙を流して尼になると言う心中悲恋物語。

 江口の君(光相比丘尼)は淀川の対岸江口の里の長者で藤原時代の終り頃、重い病気にかかられ、
当山の観音様にお参りして病気を治されたとか…婦人病・子授けなんですね。

江口の君堂


きくなら 野崎のてらの そのむこう
江口の君の名のみ残れる。


本堂
 
本堂の軒下に沢山の【安産祈願の猫の張子絵馬】 が吊り下げられている
 

羅漢堂には十六羅漢像が安置されている。
十六羅漢とは長くこの世で正法を守り衆生を導く釈迦の16人の高弟。
江戸時代から河内地方に「野崎観音十六羅漢 うちの親父は働かん」と
子供たちが歌うユーモラスな遊び歌があった。
羅漢堂は昭和26年(1951)の山崩れで流失し、羅漢像も傷ついたが最近ようやく修復され、
仮の羅漢堂に安置されている。
十六羅漢の中心 釈迦如来像は 薬師堂に仮安置されている。

飯盛ハイキングへの入り口

鐘楼

大東市内が一望される、展望台
 今回の歴史ウォークは、JR野崎駅周辺の歴史と史跡を尋ねることが出来ました。
 高尾さん、本当にお世話になりました。感謝申し上げます。

 次回の歴史ウォークは、平成27年4月25日(土)、徳川家康陣跡周辺を巡ります。
 JR星田駅、午前9時集合。案内は、平田政信氏です。多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただきありがとうございました!

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