誕生寺・御影堂前にて記念撮影
交野古文化同好会のバスツアー、終日ご案内いただいた真鍋成史様を始め役員の皆様、ご参加いただいた会員の皆様のご支援・ご協力のお陰で無事、事故もなく開催出来ましたことを心より感謝申し上げます。
今回のツアーは昨年の古文化同好会の総会の講演会で、真鍋成史様より「肩野物部氏と鉄・鉄器生産=岡山と交野の結びつき=」をお話いただき、早速現地へ赴き肩野物部氏の足跡を訪ねてみたいとのご要望が多く寄せられました。 このたび、その思いが叶いまして、真鍋成史さんの心のこもった素晴らしい案内で、交野と岡山の結びつき=鉄の歴史ロマン=、岡山の鉄生産に関わった地域、誕生寺、津山城跡、津山郷土博物館、中山神社周辺に足を運び、実際に目で見て皆さんと一緒に確認する機会を得ましたことを大変嬉しく思っています。 また、真鍋様には今回のツアーに先立ち、誕生寺、津山城跡、津山郷土博物館、中山神社に連絡を取ってもらい、ガイドや案内などを事前に手配頂いたお陰で、当日はスムーズに開催できました。重ねて御礼申し上げます。 交野を定刻8時に出発、参加者は当日までにキャンセルなど5名あり47名でした。車内では、真鍋さんの詳しい説明とたたら製鉄などのDVDを観ながら勉強。また、高尾さんからは、法然上人の逸話、讃岐の西念寺のお話を頂きました。 11時過ぎ法然上人生誕の誕生寺では寺務長さんより詳しい説明を受けた後、本殿で全員ご焼香、庭園を観た後、暖房と熱いお茶の用意をして頂いた食堂で昼食。12時半誕生寺を出発。午後1時20分、津山城を巡る頃になって、生憎、雪が舞い強風で寒い中でしたが、天守まで元気なボランティアさんの説明を聞きながら約50分間散策しました。続いて、津山郷土博物館で学芸員さんより、展示物の解説を丁寧にして頂きました。 最後の訪問先の中山神社に3時20分到着、宮司さんより説明を受けて境内を散策後、4時過ぎ一路交野へ向かって出発。途中、赤松SAで休憩、6時出発。宝塚辺りで7kmの渋滞もやり過ごしましたが、近畿自動車道への乗り換え付近で摂津方面での事故のため大渋滞、予定より30分遅れて7時30分過ぎ交野に無事到着。 なお、本日ご案内いた真鍋成史さんのことを簡単に御紹介させて頂きます。 真鍋成史さんは、皆さんもご存じの方も多いとは思いますが、現在は交野市教育委員会教育総務室に勤務されている。財団法人文化財事業団に在籍されていた頃、JR河内磐船駅周辺の発掘調査に20年間も従事され著作論文も多く、交野の鉄産業、特に鍛冶については水野正好先生を始め学会では高く評価されております。 著作論文としては「河内国・守部氏に関する基礎的考察ー古墳時代の鍛冶遺跡の実態解明に向けて」「製鉄炉に残された鉄さいからみた古代日本の鉄生産」「鍛冶関連遺跡」など多数あり、各地の研究機関や講演会などで発表されご活躍されています。 写真撮影は、高尾秀司様、綱分清美様にお願いしました。有難うございました。 皆様、ご協力有難うございました。
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真鍋成史氏のご好意で掲載させて頂きました。記して感謝申し上げます。 |
岡山県下の肩野物部氏について取り上げた研究は1970年代のことで、いずれもが製鉄集団と位置づけている(斉藤1975、八木1977、真弓1978)。その理由として、肩野物部氏の屋敷地のあった場所が、大宝2(702)年に美作国一宮である中山神社(津山市)となり、そこが平安時代初期に作られた『古今和歌集』「大歌所御歌一〇八二番」で「まがね吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」と詠まれた場所で、実際にこの神社周辺からは古墳時代から奈良時代にかけての製鉄遺跡が確認されたことによる。このほか、肩野物部氏との縁の深い岡山県下の社寺に関する考古学資料を交えた考察など興味深い論考もある(行田1993)。 この肩野物部氏とは、その名前が記すとおり河内国交野郡(現在の交野市・枚方市)に由来する氏族である。中でも、交野市私市には、肩野物部氏が物部氏の祖・饒速日尊と一緒に天下ったと伝える峰や、その時乗って来た天の岩樟船と伝える巨石が磐船神社のご神体として鎮座している。また、森遺跡においては、1986年に開始されたJR河内磐船駅前周辺の再開発、私部南遺跡においては2006年に開始された第2京阪道路建設に伴う発掘調査の結果、古墳時代の鉄器生産に関する遺構・遺物が確認され、いよいよ肩野物部氏と鉄器生産との関連が考古学を通して明らかにされつつある。 肩野物部氏伝承が岡山県と交野市と離れて分布しているのか、興味深いところである。私はこれまでに交野市内の発掘調査に並行して、津山市から岡山市北部(旧・建部町)にかけての製鉄遺跡や肩野物部伝承のフィールド調査を行い、論考を発表してきた(真鍋1994、1999)。 本日は、これら取り組みを土台として、古代における製鉄集団の成立と中世における彼らの変容の過程、そして交野市との関連について、今回のバスツアー参加の皆さんに少し紹介ができればと考えている。 まずは、津山市教育委員会などが発掘調査を行った製鉄遺跡や私がフィールド調査を行った津山市より以南の製鉄関連遺物の散布地について取り上げてみたい。 津山市には多数の古墳時代から奈良時代までの製鉄遺跡が見つかっている。同市周辺の製鉄遺跡のうち、金属学的調査を次の13遺跡で実施されている(大澤1991) 。 1.緑山遺跡(砂鉄系製錬滓/飛鳥時代)、2.東蔵坊遺跡(鉱石系製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、3.ビシャコ谷遺跡(砂鉄系製錬滓/飛鳥時代)、4.押入西遺跡(砂鉄系製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、5.狐塚遺跡(鉱石系製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、6.一貫西遺跡(砂鉄系製錬滓/飛鳥〜奈良時代)、7.別所谷遺跡(鉱石系製錬滓/奈良時代)、8.大畑遺跡(砂鉄・鉱石製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、9.小原遺跡(鉱石系製錬滓/飛鳥〜奈良時代)、10.アモウラ遺跡(砂鉄・鉱石製錬滓/古墳後〜飛鳥時代)、11.二宮遺跡(砂鉄系製錬滓/古墳末〜飛鳥時代)、12.大蔵池南製鉄遺跡(砂鉄系製錬滓/古墳後〜飛鳥時代)、13.美咲町小原地区矢引田(鉱石系製錬滓/奈良時代)。 これらの津山市及び美咲町の製鉄遺跡は岡山県の東部を流れる吉井川水系に属しているが、鉄鉱石・砂鉄をとも使っているところに特徴がある。この付近には鉄滓を副葬した古墳も多数あり、そのことからも製鉄集団が多くいたことが分かる。 次に誕生寺川流域は、岡山県中央部を流れる旭川水系に属しており、1995〜97年に誕生寺川流域での製鉄遺跡の分布調査を行った結果、これまで分かっていた美咲町井の野元たたら、岡山市(旧・建部町)豊楽寺大池以外に、新たに5地点で製鉄遺跡を確認し、合わせて採取した資料の分析調査を行った(大澤1999、平井1999)。 14.久米南町北庄地区秋宗(砂鉄系製錬滓/平安時代)、15.久米南町松地区荒神池(砂鉄系製錬滓/平安時代)、16.久米南町上ニケ地区金屎池(砂鉄系製錬滓/平安時代)、17.久米南町下籾地区金山池(砂鉄系製錬滓/平安時代後[一〇六三年])、18.岡山市川口地区大正池(砂鉄系製錬滓/鎌倉〜室町時代)、19.岡山市豊楽寺地区大池(砂鉄系製錬滓/奈良〜平安時代)。 新たに見つかった遺跡は、立地や採取した資料の形状からみて、平安時代から鎌倉時代にかけての製鉄遺跡である。これ以外の誕生寺川流域の製鉄炉は津山市の各遺跡よりも大型化している。津山市周辺の遺跡との違いは誕生寺川流域では製鉄原料には鉄鉱石でなく、すべて砂鉄に切り替わっていることや、金属鉄や滓も銑鉄が生成された時の組織を持つものが多く、原料の切り替えと炉形の改良により銑鉄生産がなされたことを示している。これらは平安時代以降の山陽側での製鉄遺跡の特長でもある。津山市あたりではあまり認められなかった「ノロ」「カナクソ」といった鉄滓の地名と一緒に中世以降になって現れる鍛冶屋や鋳物師に関する地名も、この誕生寺川流域には多く存在していることが特徴である(真鍋1999)。 また、この誕生寺川の支流にあたる片目川において、片目魚がいたことが誕生寺の宝物館で確認されているが、これは柳田国男氏によると、片目で孔を覗いている「たたら」製鉄との関連も指摘されており、興味深いものである。 では肩野物部伝承を見ていきたい。私は文献史料などを再調査し、先行研究(斉藤1975、真弓1978)と合わせて13箇所において、肩野物部伝承地の存在を確認した。主要なものを取り上げると、まずは中山神社である。『中山神社縁由』や『作陽誌』によれば、元は慶雲4(707)年に中山神社が創建される以前、肩野物部乙麿が大穴持神をこの地で祭祀し、彼自身は社地の東南に400メートルほど離れた場所で、大きな屋敷に住んでいた。しかしある時、老人の姿をした中山神とサイコロによる賭け(双六)を行った結果、屋敷地ともども取り上げられ、屋敷地を南方2キロメートルの嬉石神社(現存せず)に移転させることとなる。 その後、乙麿は自分の祀る大穴持神の神威が衰えることを妬んだため、家司や親族が死に絶えてしまいそうになったため、さらに人贄に代えて鹿を毎年2頭献ずることを約束して南部の弓削庄に移り住むこととなったと伝えている。 そのほか、周辺では大蔵池南製鉄遺跡のすぐそばに、肩野物部氏のものと伝える長者屋敷地や、遺跡の西方には善福寺という寺が現存し、肩野物部氏の妻の建立による尼寺であると伝えている。 それでは、次に乙麿が親族ともに移り住んだ弓削庄(誕生寺川流域)についてみていきたい。『作陽誌』などによれば乙麿が移り住んだこの流域には彼の屋敷跡があり、「内田屋敷」と呼ばれていた。乙麿はこのほか仏教寺を建立し、そこには肩野部塚と呼ばれる宝篋印塔も今も残っている。乙麿はある年鹿贄を怠ったため、再び祟りが起こった。それを鎮めるため志呂神社を建て中山神の眷属である猿神(シロゴロウ)を勧請し、久米南町の庖谷地区において鹿贄の祭りを行うようになったと伝える。 肩野物部氏は伝承のほかにも古文書にその名前が記載されており、実在が確認されている(写真1・2)。岡山県古文書集にみえる法然上人が生まれたとする誕生寺、そこにある鎌倉時代後期の阿弥陀如来立像の体内文書からはこの仏像を作ることに寄与した「かたのさたむね」や寛文10(1670)年に記された古文書に豊楽寺の末寺を建立した「肩野部忠元」の名前が見える。鎌倉・室町時代まで肩野物部氏が実在したことが確認できる。 それでは交野市において肩野物部氏であるが、冒頭に紹介したが、磐船神社とすぐ傍にある哮ケ峰に伝承が残されている。平安時代に記された『新撰姓氏録』によれば、その末裔である「物部肩野連」や「肩野連」が左京や右京に見え、すでに住まいを平安京に移していたことが分かる。また良棟宿禰系図に「肩野連」の中で3名が奈良から平安時代にかけて主鷹司の官人として補任されている(秋吉2004)。彼らは肩野物部氏の故地でもある天野川下流の枚方市禁野との関連もあったのかもしれない。 考古学からみた、肩野物部氏であるが、彼らの墓と有力視された古墳として、全長80mを超える大畑古墳を含む中期の車塚古墳群などがある。この古墳群に隣接し、森遺跡や私部南遺跡などにおいて古墳時代中期(5世紀代)に鍛冶操業が開始されている。 森遺跡は生駒山地の裾部、標高30〜50メートル付近に立地し、遺跡の範囲は500メートル四方に及ぶ。これまで調査してきた中で、鍛冶炉が確認されたか鍛冶関連遺物が多く出土した地点は、遺跡の西側に多く、東に行くほど希薄になる。特にJR河内磐船駅前から東側の範囲に集中している。駅付近が古墳時代の集落の西端にあたることから、縁辺部に鍛冶工房が作られたといえる。 私部南遺跡は、谷地形が4箇所で確認され、その谷と谷との間で古墳時代の生業の営まれた平坦面が検出された。古墳時代の集落の中心は遺跡の西側の平坦面4であり、落ち込み状遺構からは小型の鉄?が、周辺の遺構からも鉄滓や羽口片が出土している。しかし鍛冶関連遺構・遺物はそれよりも西側の平坦面1・3に多く、集落中心から外れた縁辺部に鍛冶工房が作られたようである。 操業はいずれの遺跡も飛鳥時代には続いていない。この原因として、やはり物部本宗家が蘇我氏に敗れたことにより、森遺跡一帯を含めた彼らの領地も没収されたためであろう。 津山市において大きな屋敷を持っていた肩野物部乙麿は、美咲町から岡山市にかけての誕生寺川流域に移り住んだ後も屋敷を構えそして社寺を自ら建てるだけの財力があった。また中世においても乙麿の末裔もなお仏像や寺を寄進するだけの有力者であり続けた。その背景には古墳時代以来の製鉄を生業とし、蓄財があったためと推定されよう。特に、今回、見て回わる中山神社や誕生寺などはその象徴ともいえる建造物ともいえよう。 これに対して交野市を見てみると、飛鳥時代に入ると、肩野物部氏は没落をし、そして平安時代までには都に住居を移している。 両地域に肩野物部氏が存在することは、すでに指摘した通り、やはり古墳時代における交野市域の鍛冶遺跡における鉄器生産のため、その原料を津山市側で調達したことを意味しよう。いずれにせよ、岡山県津山市周辺は交野市の歴史を考える上でも非常に興味深く、今後引き続き製鉄を中心とする発掘調査に関して注視しなければならない地域といえよう。 また、交野市私市にある磐船神社のご神体や哮ケ峰も我々交野市民にとってかけがえのない歴史遺産であり、後世に守り伝えていかなければならない。 参考文献 秋吉正博2004「鷹戸の百済的伝統」『日本古代養鷹の研究』思文閣出版 行田裕美ほか1993「美作一宮中山神社の出土遺物をめぐって―特に軒平瓦を中心に―」 大澤正己1991「交野市森遺跡とその周辺遺跡出土の鍛冶関連遺物の金属学的調査」『森遺跡V』(交野市埋蔵文化財調査報告1990-T)交野市教育委員会 大澤正己1999「岡山県誕生寺川流域における製鉄関連遺物の金属学的調査」『古代交野と鉄T』(交野市埋蔵文化財調査報告1998-T)交野市教育委員会 奥野平次1994「思わんところで交野とのつながりが」『ふるさと交野を歩く ひろい話(三)』交野市教育委員会・財団法人交野市文化財事業団 斉藤孝1975「美作二宮高野神社門客人神立像――そのイコロジーを中心に」『美術史』美術史学会 平井昭司1999「岡山県誕生寺川流域から採取の鉄関連遺物の中性子放射化分析」『古代交野と鉄T』(交野市埋蔵文化財発掘調査報告1998-T) 真弓常忠1978「古代製鉄祭祀の神々」『日本古代祭祀の研究』学生社 真鍋成史1994「肩野物部と鉄・鉄器生産」『同志社大学考古学シリーズ 考古学と信仰』 真鍋成史1999「岡山県誕生寺川流域の製鉄関連遺物の調査」『古代交野と鉄T』(交野市埋蔵文化財発掘調査報告1998-T) 八木意知男1977「中山神社鎮座始末記」『美作女子大学研究紀要』第10号・『美作短期大学研究紀要』第22号 |
今回訪問した、中山神社はA、誕生寺はGの地点です。 |
車中では、たたら製鉄などのDVDが上映された |
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誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久4年法力坊蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である。 父は久米押領使漆間時国、母は秦氏という。漆間家の跡が今の誕生寺である。時国公夫婦には子供がなかったので観音さまに一心込めて子の授からんことを願い、やがて四月七日玉のような男の子(旧姓-勢至丸)を賜った。 しかし、1141年(保延七)の春、法然の実家の漆間家は突然、明石源内武者定明の夜襲を受けた。定明は稲岡庄の預所であったが、押領使時国の人望を妬みそれが夜討ちに及んだのである。九歳の勢至丸は小弓を以て敵将定明を射るなどし、右目を射られた定明は配下と共に引き上げたが、父時国公は再び起つことのできぬ重傷で臨終に際して勢至丸に仇として定明を追うこといましめ、「仏道を歩み、安らぎの世を求めよ。」と遺言されて、勢至丸は母の弟である菩提寺の住職、観覚得業上人のもとに引き取られることになったとされる。 誕生寺は中国三十三観音特別霊場であるとともに、法然上人(圓光大師)25霊場の第1番でもある。「法然上人誕生の地」として、岡山県の「史跡」に指定された境内には、誕生椋、無垢橋、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。 文化財としては、本堂[御影堂](重文)、山門(重文)、阿弥陀如来立像(県重文)、清涼寺様釈迦如来像(県重文)などがある。県指定重要無形民俗文化財として会式法要(二十五菩薩練供養)があり、法然上人のご両親を娑婆世界から西方浄土に お迎えするという行事。元禄13(1700)年から続いており、日本三代練供養の一つに数えられています。毎年4月第3日曜日に行われている。 |
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この誕生寺川の支流にあたる片目川において、片目魚がいたことが誕生寺の宝物館で確認されているが、 これは柳田国男氏によると、片目で孔を覗いている「たたら」製鉄との関連も指摘されており、興味深いものである。 |
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誕生寺・山門 国重要文化財 正徳6年(1716) |
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誕生寺の寺務長さんより詳しい説明を受けた |
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誕生寺 御影堂(本堂)元禄八年(1695)再建 国指定重要文化財 |
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御影堂の宝珠 |
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本堂でご焼香の参拝 |
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食堂にて昼食 |
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素晴らしい大光背の阿弥陀如来座像 |
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誕生寺の七不思議 銀杏の大木が逆さに伸びたという。 法然上人15歳の旅立ちの時、那岐の菩提寺から杖にされた銀杏を地に 挿された所、根が逆さに伸び、枝は本来、根っ子であるといわれる。 |
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阿弥陀如来像 県指定重要文化財 鎌倉時代 快慶作 岡山県古文書集にみえる法然上人が生まれたとする誕生寺、 そこにある鎌倉時代後期の阿弥陀如来立像の体内文書からは この仏像を作ることに寄与した「かたのさたむね」の名前が確認できる |
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珍しい物では、八百屋お七の振袖が展示されている 元禄12年、江戸深川の回向院へ誕生寺御本尊出開帳の際、お七の遺族より 当山15代通誉上人にお七の位牌と共に手渡され供養を依頼したもの |
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津山城は、美作一国18万6,500石を領して入封した初代津山藩主・森忠政が、鶴山に築いた平山城です。 忠政は、慶長8年(1603)の入封当初は、美作国院庄に入りますが、領国支配拠点としての適地を探し求めた結果、美作中央部にあって古くから開けていた津山盆地のほぼ中心に位置する鶴山(つるやま)の地を選びました。 ここには、すでに嘉吉年間(1441〜44)、山名忠政が城を構えており、当時は山上に鶴山八幡宮、南の山腹に日蓮宗妙法院があり、西の山腹には八子(やご)町の集落がありましたが、これらを周辺に移転したうえで、翌慶長9年(1604)春、鶴山を「津山」と改め、築城に着手し、12年後の元和2年(1616)3月に一応の完成を見ました。 津山城は、自然地形を巧みにいかしながら、土木工事によってさらに要害堅固な城としました。鶴山の最高所に平地を広く取って本丸とし、これを取り囲むような形で山腹に二の丸・三の丸を階段状に廻らせ、山の大半を石垣で覆い、南を大手(表)、北を搦手(裏)としました。南・西・北の山麓(内山下)は総曲輪として、その外周を土塁・濠で固め、東側は直下を流れる宮川及び天然の断崖をそのまま防御線に取り込んでいます。さらには、南の吉井川とその支流である西の藺田川(いだがわ)を防備上の最前線として、その内側に城下町の主要部を形成しています。 天守曲輪は本丸の西端に寄せられていますが、これは、本丸東端に一段高く築かれた石垣とともに、宮川をはさんで鶴山の東方にある丹後山を意識した構えと思われます。 天守は五層で台の石垣も含めて高さ約26メートル。壁は漆喰塗りの白壁とし、屋根には破風をつけない塔のような(層塔型天守という)外観を有していました。その四周は石垣と櫓・塀で厳重に固められていました。 本丸には大小の櫓31棟・門15棟(天守曲輪含む)を連ね、内側の平坦面に約70の部屋を有する御殿を構えました。限られた敷地を有効に使うために、備中櫓や表鉄門などを御殿の一部にあてているのが特徴です。 二の丸には櫓12棟・門7棟、三の丸には櫓17棟・門11棟が並び、大手・搦手とも通路を複雑に折り曲げて、容易に本丸へは近づけない構えとなっています。 三の丸の南・西面下段には馬場が設けられています。なお、北の裏下門付近の厩濠(うまやぼり)・薬研濠(やげんぼり)は、嘉吉年間の山名氏築城時の遺構と伝えられています。 総曲輪外周の土塁上には、17棟の小櫓が並び、6箇所に宮川・京橋(大手)・二階町・田町・作事・北(搦手)の諸門があり、内部には藩の重要施設や重臣の屋敷が置かれていました。 |
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津山城・備中櫓前で記念撮影 |
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元気なボランティアさんの案内で場内を約50分間散策しました |
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森忠正公像 |
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津山城築場時に切りだされた石の一部、「忘れ去られた石」 |
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整然とした住宅街、城下町の風情を今も伝える! |
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最後に案内された、天守跡 寒風の中、皆さん元気に登られました! |
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天守からの見た備中櫓 |
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津山は、美作国府・国分寺や津山城が所在するなど、古代から近世まで一貫して、美作の政治・経済・文化の中心地として繁栄してきました。特に、1603年森忠政(もりただまさ)が美作18万石余に封ぜられ、まもなく津山城を築いてからは、城下町として独特の文化をはぐくんできました。当館は、このような郷土の文化財を収集・保管・研究し、その成果を広く一般に公開することを目的として設置された市立の歴史博物館です。常設展示は7つの大テーマにより、地質時代から現代までの歩みを通史的に展示しています。主な展示資料に1500万年前の奇獣パレオパラドキシアの骨格復元模型、古墳時代の美作を特徴づける陶棺(とうかん)の立体展示、縮尺150分の1による津山城の精密復元模型、大名駕籠(かご)などがあります。 ※津山郷土博物館のWEBを参照しました。 |
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学芸員さんより展示物の詳しい解説を聞きました |
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パレオパラドキシア骨格復元模型 |
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津山城複製模型 |
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江戸一目図屏風 複製 |
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主祭神は鏡作神・天糠戸神(あめのぬかどのかみ)・石凝姥神(いしこりどめのかみ) 『延喜式頭注』には大己貴命、『作陽誌』には吉備武彦命、『大日本史』『神祇志料』には吉備津彦命と記されている。他に金山彦命とする説もある。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』では、当社の祭神は猿神であるとされている。 社伝(『中山神社縁由』)では慶雲4年(707年)4月3日の創建としているが、実際には和銅6年(713年)、美作国が備前国から分立した時に吉備中山から勧請を受けて創建されたものとみられる。貞観6年(864年)に官社となった。『延喜式神名帳』では美作国唯一の名神大社に列し、美作国一宮として崇敬を受けた。 天文2年(1533年)、尼子晴久の美作攻めの際、境内に陣を置く敵を攻略するために火が放たれ、社殿が焼失した。美作平定後の永禄2年(1559年)、晴久自身によって再建された。明治4年に国幣中社に列格し、第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。 現存の社殿は永禄2年に尼子晴久によって再建されたときのもので、入母屋造妻入の他地方には例を見ない「中山造」と呼ばれる構造となっており、大正3年(1914年)に国の重要文化財に指定されている。 摂末社はかつては112社あったが、尼子晴久の美作攻略の際に焼失し、現在は5社のみが残る。 国司神社(大己貴神)、 御先神社(稲荷神)、 猿神社(猿多彦神)。12月に行われる御注連祭(おんしめまつり)は、鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)のときに当社を含め各地の社寺で行われた異国降伏祈願に由来するもので、かつては鉾祭・鉾立祭と呼んでいた。 文化財 重要文化財(国指定):本殿 中山造と呼ばれる構造で、永禄2年(1559年)尼子晴久による建造。大正3年(1914年)指定。 津山市指定重要文化財 :神門 津山城二の丸にあった四脚薬医門を明治初頭に移築したもの。昭和48年(1973年)指定。 |
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津山市指定重要文化財 :神門 昭和48年(1973年)指定。 津山城二の丸にあった四脚薬医門を明治初頭に移築したもの。 |
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宮司さんより、中山神社の縁起など詳しく解説頂く |
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中山神社 本殿 |
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重要文化財(国指定):本殿 大正3年(1914年)指定。 中山造と呼ばれる構造で、永禄2年(1559年)尼子晴久による建造。 |
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立派な注連縄が張られた拝殿 |
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現在も、鍛金・冶工・採鉱等の守護神、 農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されています。 |
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今昔物語26巻にみえる「中山の猿」の霊を祀るとされ、現在、猿田彦神として祀られる。 牛馬の安産守護の神と信仰を受け、今も尚、ぬいぐるみの子猿を奉納する風習が残る。 |
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多くの願主によって奉納された、猿のぬいぐるみがある。 |
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推定樹齢 500年 | |
中山神社の鳥居前にそびえ立つ、高さ10.5m、樹齢推定800年のケヤキ |
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肩野物部氏の屋敷地のあった場所が、 大宝2(702)年に美作国一宮である中山神社(津山市)となり、 そこが平安時代初期に作られた『古今和歌集』「大歌所御歌一〇八二番」で 「まがね吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」と詠まれた場所で、 実際にこの神社周辺からは古墳時代から奈良時代にかけての製鉄遺跡が確認されたことによる。 |
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肩野物部伝承地の存在を確認した。主要なものを取り上げると、まずは中山神社である。 『中山神社縁由』や『作陽誌』によれば、元は慶雲4(707)年に中山神社が創建される以前、 肩野物部乙麿が大穴持神をこの地で祭祀し、彼自身は社地の東南に400メートルほど離れた場所で、 大きな屋敷に住んでいた。しかしある時、老人の姿をした中山神とサイコロによる賭け(双六)を行った結果、 屋敷地ともども取り上げられ、屋敷地を南方2キロメートルの嬉石神社(現存せず)に移転させることとなる。 その後、乙麿は自分の祀る大穴持神の神威が衰えることを妬んだため、 家司や親族が死に絶えてしまいそうになったため、さらに人贄に代えて鹿を毎年2頭献ずることを約束して 南部の弓削庄に移り住むこととなったと伝えている。 そのほか、周辺では大蔵池南製鉄遺跡のすぐそばに、肩野物部氏のものと伝える長者屋敷地や、 遺跡の西方には善福寺という寺が現存し、肩野物部氏の妻の建立による尼寺であると伝えている。 |
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次回は、新春恒例の初歩きは交野山へ登ります。 平成25年1月2日(水)、午前10時〜12時 集合は、いきいきランド噴水広場 石仏の道〜交野山〜機物神社神社で初詣です。 皆様、お誘いあわせの上、ご参加下さい! |
最後までご覧頂き有難う御座いました!